シャホヴィニツィア方面軍が再起不能となり部隊が散り散りになると略奪行為や反乱が相次ぎ、バルカン情勢は更に悪化した。ザハリアーシュはザグレブにいたところを統一政府側に残留した第5師団に捕らえられその場で処刑された。ボスニア地域を完全に失陥し無政状態化すると、第5師団はザトゥーリン臨時政権を組織して敗走する部隊や親政権の武装勢力を吸収しクロアチア地域の治安維持に努めた。スペイン政府は旧シャホヴィニツィア領に在留するスペイン人などの避難を優先し軍民問わず徴用して避難船団(移民船団とも呼ばれた)を組織したが、海賊化した海軍や武装勢力の襲撃に会うこともあり損害は無視できなかった。対象にならなかった人々も紛争地域から逃れるべく船団の寄港するドゥブロヴニクやスプリト、プーラへと殺到した。
ザトゥーリン臨時政権は1985年末までクロアチア地域で優勢を守り続けたものの、部隊の消耗と頻発するゲリラの襲撃に耐えられず戦線を後退させクロアチア圏での影響力を保てなくなり1986年に崩壊した。以降旧シャホヴィニツィアにて強い影響力を持つ勢力はいなくなり多数の軍閥などが「連邦の正統な後継者」を自称して群雄割拠する状態となった。スペイン領でも民族運動が本格化しカタルーニャ共和国が連邦からの離脱を問う国民投票を統一評議会を通さずに行い87%が賛成した。独立を阻止すべく軍を派兵したがバルカン領や各地の民族運動への対応のため十分な部隊を動員できず、阻止したがカタルーニャ軍との散発的な戦闘は続いた。ガリシア、ナバラなどはカタルーニャに続く形で独立宣言を行うが、いずれも連邦軍の介入を招き戦争を拡大させた。
1982年にスロベニアのトールミンにてマンフレード・メアッツァが君主守護騎士団を設立し、シャホヴィニツィアに王権を再興すべく活動を開始した。ただ行動が過激すぎた故にスロベニア当局に暗殺者を差し向けられ殺されかけると、態度を改めてトールミンから辺境のイェセニツェへ本部を移動した。内戦勃発以降、民族浄化などに心を痛めた彼はいち早く正統かつ強力な政府を立ち上げ、内戦を終わらせるべく血縁者の捜索を行ったものの、イグナーツ5世以降血筋は途絶えており王政復古を断念した。諦めかけていたマンフレードはたまたま立ち寄った酒場にて、スペインで領主を輩出していたアステシア家のヴァイオレットと出会った。シャホヴィニツィア家が仕えていたハプスブルク家の分家たるスペイン=ハプスブルク家の血筋であるアステシア家に生涯をささげることを誓ったマンフレードは、ヴァイオレットのスペインへの帰還を支援することとなった。