16世紀にボジヴォイ・シュテフカがシサクの戦いにて功績を上げ、その功績から皇帝からホジヴォイへクロアチア伯の称号を与えられ、同地はクロアチア辺境伯領として成立した。クロアチア辺境伯は異教徒に対する防波堤としての役割を果たし更に略奪で荒廃した地区の再建を行っていった。その中で、各地に城塞都市が築かれプーラに公宮を置いた。バニャ・ルカの戦いにて異民族を撃退、ボスニアへと進出して領域を拡大しホジヴォイは教皇から戴冠を受けてシャホヴィニツィア王を名乗り、シャホヴィニツィア王国を建国した。依然としてイスラム勢力の脅威にさらされ続ける南方は軍政国境地帯としてキリスト教圏の防波堤としての役割を果たし続けた。
18世紀にはイスラム勢力のヨーロッパ進出はなくなり軍政国境地帯は王国へと編入され、城塞は次々と解体された。長らく王国の中心地にあったプーラはイグナーツ・ヴィクトラ(イグナーツ3世)の国策の下で大規模な都市改造が行われた結果、城壁が解体され環状道路が整備された。道路の整備などによりプーラ市街地は拡大し農村部からの人口流入により文化が発展していった。
世界大戦では歴史的な関係から中央同盟国側で参加し、セルビアを攻撃したものの1918年に敗戦。ザグレブ条約によりボスニアの一部を喪失したものの国体は維持された。戦争を主導したとしてイグナーツ4世が断頭台で公開処刑され、生後6か月のレオシュがイグナーツ5世として即位し成人するまでの間、ドイツ系のエアハルト・ヨアヒム・ローゼンシュティールが摂政となり政治を執り行うこととなった。しかしドイツ系を優遇する政策が多く、1924年に不満を募らせた王国軍第2師団が反乱を起こしプーラへと進軍する事態が発生し、鎮圧のため動いた軍がプーラを包囲すると混乱は全土へと拡大した(大反乱時代)。
混乱の収束のため軍を増強せざるを得ず、反乱は鎮圧されたものの軍の発言権が大きくなり政権は軍の意見を無視できなくなった。エアハルトは摂政を辞することを余儀なくされ近衛師団の推薦するヴァシリー・カリャーギンが1932年に摂政に就任した。元軍人のヴァリシーは大シャホヴィニツィア主義を提唱し軍備増強と工業化を推し進めた。体制に反対する人物に対しては治安維持法などを制定して逮捕するなど強権的な政策が目立つようになる。
1939年に世界大戦へと参加し大シャホヴィニツィア主義実現のためセルビアやバルカン半島南部へと侵攻した。初戦では優位に戦いを進め1940年にベオグラードを陥落させセルビア全土を、アルバニア北部まで領土を拡大させるもフリストフォル・セレズニョフ率いる共産ゲリラやセルビア人ゲリラとの散発的な戦闘により拡大は鈍化し徐々に劣勢となった。1943年にフリストフォルが中心となり正統な権利評議会(英:Legitimate Council of Rights)を結成し、セルビアやアルバニアを解放する連合国軍と協力してシャホヴィニツィア軍などと戦った。1945年にはプーラを解放し公宮を包囲し降伏を迫りイグナーツ5世は流血を避けるためにこれに同意し近衛師団と共に降伏した。イグナーツ5世降伏以降も各地で軍の抵抗が続いたが、6月末までには王国は無条件降伏した。