1945年にLCRがプーラを解放し、フリストフォルがシャホヴィニツィア立憲王国の建国を宣言し連合国側に鞍替えした。世界大戦が終わるとフリストフォルは東側諸国の支援の下で社会主義国の建国を目指し、反対するヴァリシー政権とその支持者の粛清を強行した。さらにイグナーツ5世に退位を迫ったが、これを拒否するイグナーツ5世は近衛師団と共に反乱を起こしたが公宮での籠城戦の最中でイグナーツ5世は崩御し反乱は失敗した(イグナーツの反乱)。シャホヴィニツィア最後の君主の崩御により、王家は滅亡しフリストフォルは立憲王国を解体しシャホヴィニツィア社会主義共和国の建国を宣言した。企業の国有化、集団農業など社会主義的な政策を推し進めて国力増強を図った。またいくつもの国家共同事業が進められ発電所や工場、ダムなどが建設された。一次大戦後に失った領土の回復のため、1951年にボスニアへと侵攻するも全土を掌握するには至らず年内にボスニアから撤退した。
LCRの一部はフリストフォルの強権的な姿勢を非難し、プーラから離れカルロヴァツに抵抗の拠点を置いた。カルロヴァツは反逆者の収容区があり、離脱した勢力はひそかに接触を図りつつ支持者を集めた。1955年に自由連合軍(英:Free Coalition Forces)を結成しフリストフォル政権に対抗した(反共抗争)。
1963年に賃金引上げに対するデモ運動がヴェリカ・ゴリツァを行進した。デモ行進に学生や労働者達が参加し規模を徐々に拡大、更に賃金引上げに収まらず民主化を求める運動へと変容した。政権は警察や軍を動員してデモ行進を妨害、一部が暴徒化し紛争が発生(ヴェリカ・ゴリツァの惨劇)。政府はヴェリカ・ゴリツァに非常事態宣言を発布したが混乱は収まらず、地方報道局がヴェリカ・ゴリツァの惨劇を報道し政府への不信感はより深まることとなりこの情勢に乗じて自由連合軍は支持を集めてプーラを占拠、政府機能を掌握した。自由連合軍は民主党や共産党、軍上層部と交渉してフリストフォルらを逮捕して、共産党と民主党の連立政権のイリュリクム臨時政府を樹立、自由連合軍と軍は各地の混乱収束に努めた。
フリストフォルの後任には穏健派のチムール・レオーノフが共産党書記長として任命され、評議会に承認された。チムールと評議会の決定に基づきフリストフォルと軍指導者ら8人は裁判にかけられた。イグナーツ5世の殺害やヴェリカ・ゴリツァの惨劇などの犯罪により死刑判決を言い渡され、死刑はその日のうちに執行された。チムール政権は1963年中に国民総選挙を実施し、民主党と自由連合軍の合併により誕生し国民の支持を受けた民主・自由党が単独政権を成立させた。民主・自由党党首であるヴコール・ムズィカンツキーが書記長へと就任し、社会主義の終焉と共にシャホヴィニツィア連邦の成立を宣言した。