1979年にユーリー連立政権は、スペインのロドリゴ・パルティダ政権と交渉し経済連携協定、共同事業計画、技術提供などを立て続けに締結し準備作業を進めた。1981年に10年後の国家統合を見据えてアリカンテ条約を結び、地中海連邦を成立させた。各国の政権はそのままに、上位組織として統一政権を設立し統一大統領が地中海連邦の元首となり、初代統一大統領にはベネディクト・ララサバルが就任した。ただ、多民族を抱えていることに配慮して統一大統領府への全面的な政治権限意向は見送られ、ユーリーとロドリゴによる連立政権が両国間の調整役となり政治を執り行うこととなった。翌年のモナコ協定による越境規制の廃止、ザグレブ議定書による統治機構の再編などを締結し、一国二制度体制から一国化を推し進めていった。1984年にスペインの構成領(二等国)であったガリシアとカタルーニャをシャホヴィニツィアやスペインと同じような連邦構成国(一等国)へと昇格させるよう連邦評議会へ議題として提出され、ガリシアとカタルーニャは共和国として一等国への昇格を果たした。翌年にはシャホヴィニツィアの二等国であるボスニアも連邦評議会へ議題を提出したものの、賛成するスペイン首相や統一大統領などの勢力を押し切ってシャホヴィニツィア首相のボフスラフ・シマーチェクと与党勢力が反対し否決させた。これに対してボスニア世論は反シャホヴィニツィアの様相を強めるようになり、1985年にサラエボで開かれた統一憲法改正記念式典中に反シャホヴィニツィアを掲げる武装勢力による銃乱射事件が発生し、ボフスラフや統一大統領など重鎮、民間人などが多数犠牲となった(サラエボ銃乱射事件)。警備部隊は武装勢力を逮捕し、ボスニアにて裁判を開いた。裁判はシャホヴィニツィア側の圧力もあり全員死刑を決定し、死刑のためシャホヴィニツィア政府へ引き渡すようにボスニア自治政府へと要求し、ボスニアは引き渡しに応じざるを得なかった。ボスニアの弱腰に対して各地で暴動が発生し、暴動鎮圧を名目にシャホヴィニツィア政府は軍を独断で派遣した。統一政府はシャホヴィニツィアに対して軍の撤退を再三要請したがシャホヴィニツィア首相ザハリアーシュは強硬姿勢を崩さなかった。独断での軍派遣に反発する形でボスニアの暴動はさらに拡大し、民族問題へと発展した(ボスニア暴動)。
ボスニア暴動に始り、セルビア人が蜂起し派遣された部隊の一部が離反するなど軍の士気は崩壊しシャホヴィニツィア方面軍は再起不能に陥った。