三月に入ろうかと言う時分。まだ少しばかり肌寒さが残り、ジャンパーの上から風を感じる。その名に違わず義務的な六年間を終え、あと少し経てば、また新しい三年間を迎えようと言う時期だった。
私は宛もなく、見慣れた道を進む。共に歩むのは、夕焼けに歪に引き伸ばされた己の影だけだ。
なんだか、ひどく静かだった。世界中から誰も彼もいなくなって、自分だけが取り残されたような感覚。きっとそれは錯覚だったけれど。私は、どれだけ歩んでも此処から何処にも辿り着けないのだと言う確信だけはあった。
「――――――」
母の最期の言葉を思い出す。頭の奥の方がズキリ、と痛んで、思考を停止させる。歩みだけは、一定のまま。
別離の予兆はあった。母は、元より身体の弱い人だったし、私を産んでからはずっと悪化の一途を辿っていたと聞いている。
そう。聞いている、だけだ。私と母の関係性は、いつだって何処か他人事で。すれ違う事すらも、満足に出来た試しがない。全て終わってしまった今になっても、それは変わりなく。
母との別れは、悲しい。月並みな言葉だけれど、それが一番端的で、自分の感情を言葉にするのには適していた。
けれど、寂しくはない。母が居た時から、ずっと私は独りだったのだから。何も変わっていない。変わる事も出来ない。孤独には、既に慣れきってしまった。或いは、共に歩む影と同じように、其処に有るのが当たり前で、もう何の感慨も抱けなくなっただけかも知れなかった。
感情は、老衰するように緩やかに死地に向かい、歩みはあくまで淀みなく。
そうして暫く進み続けると、小さな公園に行き遭う。別に、目的地という訳では無い。元より、目的のない歩みだったのだから、当然だ。それでも其処に踏み入ったのは、せめて何処か辿り着くところがあるのだと、自分を騙したかったからだろう。
「…………」
公園の有り様もまた、私にとって代わり映えする所は無かった。失望は無い。希望なんて、最初から抱いてはいないのだから。
けれど、一つだけ。何となしに、錆び付いたブランコに向けた目の端に、不意に留まるものがあった。
寂れて人気の無い公園だというのに、一本だけ植えられた小さな桜の木。辛うじて桜の色に染まってはいるが、まだ満開には程遠く、如何にも見栄えしない。そのすぐ傍に、しゃがみ込むように、うずくまるようにする人影がある。
小さな背中だ。そう感じたのは、何も距離のせいだけではあるまい。私はゆっくりと、その背中へと歩みを進める。
すぐ後ろまで辿り着いて、まじまじとその背中を眺める。ぶかぶかの制服に身を包んだ少年だった。年齢は、私とそう変わらないように見える。学生なのはまず間違いないとして、ひとつ上、と言ったところか。
男の子は、成長期に合わせて大きめの制服を買う、なんて話を何処かで聞いたけれど。この時期になってもこの有り様では、未だ成長には乏しいのだろう。
襟元からちらりと除く首筋はやたらに生白くて、およそ生気という物を感じさせない。すぐそこに居ると言うのに、吹けば何処かに消えてしまいそうな、希薄な存在感。幽霊でも見ているのだろうか、なんて突拍子も無い事を考えてしまう。柳の木の下じゃあるまいし。
「何を、しているんですか」
そんな風に声を掛けたのは、思えば全くもって私らしくも無い。きっと、くだらない感傷に浸っていたせいだろう。突然飛び込んできた見慣れないものに、少しだけ触れてみたくなったのだ。
「猫が―――」
とだけ。その人は、顔も上げずにぽつりと声に出して、その先は続けなかった。そして、その必要も無かった。
一歩進んで見下ろした、桜の木の根本。浅く掘られた穴の中に、眠るように横たわる斑模様の子猫。触れずとも分かる。其処にはもう、生命の熱は残っていない。
おおよその見当はついた。この辺りで命を落としたこの子猫を見つけた少年は、お節介にも供養の為にと穴を掘って、今まさに埋めてやる所だったのだろう。少年の手は土に塗れて、爪の中まで黒く染まっている。
馬鹿馬鹿しい、と思った。
態々こんな事をしなくても、お役所なり何処かに電話してやれば良かったのだ。いや、そんな事をせずとも、往来の真ん中でも無し、見て見ぬふりで放っておけば良い。ましてやこんな所に勝手に穴を掘って、却って迷惑ですらある。そんなものは、自己満足でしか無いだろう。
思う事は色々あったけれど。私には、そのどれも口に出す事は出来なかった。
子猫を見下ろす彼の無表情が、私には何故だか、今にも泣き出しそうに見えたから。唇を噛み締めて、何かを堪えているように見えたから。
「ばかですね、お兄さんは」
辛うじて溢れた憎まれ口は、何故だか酷く震えていて。此方の方が、よっぽど泣きそうな声だった。
返す声色は、そんな声よりずっと穏やかに。
「そうだね。俺は、馬鹿だ」
そう言って、その人はようやく顔を上げた。
苦笑いみたいなその笑顔を見て、綺麗な人だ、なんて。柄にも無いことを思ったのは、夕日に目が眩んだせいだろう。