深夜の土夏市街、その夜の闇の中、月明かりの影を縫うようにフードを被り黒いウィンドブレーカーを着た人影が疾る。
連続殺人をはじめとした連日の騒ぎから表通りでも流石に人通りは少ない。
(……だろうな、生徒に出ないように言ったし、自分でも外出は控える)
人影の正体、黒瀬正峰はなるべく暗いところを目立たぬように音を立てずに走りながら物思いにふける。
しかし、今の黒瀬は教師である“私”(黒瀬)ではなく、裏の世界に足を踏み入れた“俺”(黒瀬)だ。
だから殺人鬼やサーヴァントや魔術師の闊歩する夜の闇を駆ける必要があった。
(クロセー、子蜘蛛の仕込み終わったよ)
キャスターからの念話に足を止める。
念話こそ覚え使えるようになったが、集中せずに使えるほど黒瀬は器用ではなかった。
(分かった、先に戻っていてくれ。此方も罠とカメラの設置を終えたら戻る)
(はいはーい、冷蔵庫のコーラでも飲んで待ってる……)
(キャスター?)
キャスターからの気の抜けた返答が途絶える。
緊張感を持って問い掛ける黒瀬。
(クロセ、ライダーがそっちの方に向かった。ライダーのマスターに捕捉されたかもしれない。私も向かうから今すぐ戻って)
キャスターの言葉に周囲を見渡すが、人影も使い魔の気配もしない。
だが、こと魔術に関してはキャスターの方が比べ物にならないほど優れており、熟達している。
だから、黒瀬はその言葉に従う事とした。
(分かった。最短距離で戻る)
最短距離、即ち道を使わず屋根や塀の上を駆け抜けようとした黒瀬の目に見覚えのある姿が写った。
「……軽井沢?」
どこかふらふらと熱に浮かされたように動く自身の生徒の姿を見掛けた黒瀬はフードを外し、声を掛けた。
「軽井沢、どうしたこんな夜中にコンビニにでも行くのか?」
「あ……先生」
黒瀬の顔を見て、どこか怯えるような様子の軽井沢。
「説教臭い事は言いたくないがこんなご時世だ。私が送るから帰りなさい」
努めて冷静にいつも通りの“私”で、しかしすぐ“俺”を出せるように警戒は怠らずに話す。
「先生……」
「なんだ?」
軽井沢の目には涙が浮かんでいる。恐怖?いや……
「ごめんね」
軽井沢の声を聞いて、嫌な予感がした。
それは何度かの修羅場を潜り抜けた勘であり、血がもたらす虫の知らせ。
瞬時に身構えた黒瀬の目に月の光に反射して光る銀色。
黒瀬は刃物だと瞬時に認識していた。
おそらくは何者かに操られている。と瞬時に判断した黒瀬は右腕或いは腹を狙った軽井沢の一撃を利き腕ではない左腕で受けると決めた。
動きは全くの素人だ。深く行っても骨で止まる。血を見れば正気に戻るだろう。
そして、刃を腕で受けた瞬間。
するり、と言わんばかりにまるで豆腐でも切るように刃、包丁は黒瀬の左腕を切り落とした。
「……っ!」
声は出なかった。
ただ、反射的に立ったままの姿勢で軽井沢の鳩尾を蹴り飛ばしていた。
遅れて痛みが来る。奥歯を噛み締め痛みに耐えると短刀でウィンドブレーカーを裂き、右手で縛り上げ応急的に血を止める。
綺麗に斬れた。急げばくっつくだろう、多分。問題はどう学園で誤魔化すか、だ!
それにしてもあの包丁、なんらかの呪物、概念兵装か!
ぐるぐると頭の中を色んな考えが順序を巡って争い会う。ああ!それよりも今は軽井沢だ。