ここに毎回の課題を投稿してください。締め切りは授業週の金曜13時です。投稿に対してはコメントと点数をつけることでフィードバックします。コメントに対する意見、他の受講生の投稿への意見や情報提供なども歓迎します。これらについてもコメントと加点の対象になります。
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主尋問と反対尋問の平均発話量に大きな差がないことから、大野の立場やスタンスは一貫して受動的であると言える。一方、尋問者は情報提示を多く行っており、特定の回答を誘導する意図が垣間見える。CQが多いことから、尋問者が特定の情報を引き出すために会話をコントロールする意図を感じる。しかし、大野の曖昧な応答や記憶のなさが際立つため、CQの特性やメリットがうまく働かなかった事例だと思った。曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える。大野が受動的な立場を取っていたのは一貫した供述で尋問者からの信用を得るためではないか。反対尋問も揺るがず、心情を交え、説得的な発言ができることは信用に値すると思う。信用を手にしたら、自らの発言を信じてもらえるため、尋問者を逆に誘導することができる。そのため、基本的に信用できると決めつけることは良くないと思った。
どうして発話量に差がないと一貫して受動的と言えるのですか。尋問者と大野の発話量の比較に基づくのならまだわかります。大野のコントロールの意図がどうしてCQの多さからわかるのですか。それは彼が組み込まれていたコミュニケーションパターンからわかることだと、授業では言ったと思います。「曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える」、その根拠もよくわからないです。「尋問者からの信用を得るため」かどうかはわかりませんが、大野の受動的な立場によって、わずかながらですが彼の供述に一貫した部分があると評価されたことはあり得るでしょう。この程度で「一貫した供述だ」と評価する裁判所の思考は理解しかねますが。
4点差し上げます。
本講義を聞き、尋問におけるOQの後にするCQは尋問を受けている人に事後情報を提供してしまうため、注意しなくてはいけないと考えた。また、F22015さんと同じように、OQのみでは情報を得ることができずに終わってしまう取調べが存在すると知った。この危険性や取調べの方法を取調官に知ってもらうために、取調べのルールのようなものを冊子として調書作成を担当している人が見れるようにすると、取調官にその場で伝えることができると考えた。
大野供述の評価で、大野はやくざであるから親分のことは裏切らないだろう、不利益になる自白は正しいといえるだろうなどの先入観、経験則、能力論を無意識に信じていることが正しい事実を知るときに邪魔になってしまうと感じた。甲山事件でも知的能力的に作話ができないという能力論があったため、正岡君の証言が正しいかどうかが判断しにくくなっていたと感じる。経験則や能力論といった確率論には例外があり、その個人に対して語ることができないと改めて理解した。そのため、個人を語るためには、その個人が持っている特徴、内部基準に着目するべきだと考えた。また、それぞれの人物と時間経過ごとによる証言を変化を追った際に、不自然な発言や思い出し方を無視することが多くあるのではないかと思った。この違和感や不自然さを無視しないために、実体験を思い出したことを話すときのその人の特徴を提示することが心理的観点からできることであると考えた。この時に見られる特徴は繰り返されるところであるため、その人が話すことすべてを見なくてはいけない。また、繰り返される部分を特徴であるとするのならば、その人の仕草などの行動も特徴とされるのではないかと考えた。この行動を見るためには動画などの記録が必要となることと、作業量が多くなってしまうことと、実際に行動が繰り返されているかがわからないため、骨折り損になってしまう可能性があることなど多くのデメリットがある。行動に着目するのはあまり効果的でないと考えた。しかし、AIが繰り返している行動を抽出することができるようになれば、取り組んでみてもいいのではないだろうか。
CQの危うい機能については、授業の早い時期から指摘しました。大野の事件はそれを再確認させてくれたと思います。手元に置いてあるかはわかりませんが、一応警察向けの注意事項的なものはできましたね。取調べの高度化への志向によって。本当にそうしないといけないと考えているかがわからないのが悲しいのですが。
能力論については正岡くんと同様、大野についても言及されましたが、正岡くんほど気をつけないといけないものだとは、私には感じられませんでした。ヤクザというものをよく知らないからかもしれません。
授業で聞いたことを整理してまとめてくれたのだと思います。ありがとうございます。
4点差し上げます。
大野の供述では「記憶がない」「そうかもしれない」といった曖昧な応答が頻出した。この曖昧さは、記憶の性質に起因している可能性がある。記憶は時間の経過や新たな情報の影響を受けやすく、供述の一貫性が必ずしも事実を反映しているとは限らない。また、尋問者から提示された情報を取り込む「ミスインフォメーション効果」によって、供述内容が変容した可能性もある。このような記憶の不確実性を考慮すると、大野の供述の信頼性を完全に担保するのは困難である。詳細な情報を提供することは高い認知負荷を伴うため、曖昧な応答によって負荷を軽減しようとした可能性がある。一方で、尋問者の情報に頼る形で供述が形成されている点は、供述の一貫性が尋問者の質問内容に依存していることを示唆している。供述者が暴力団の関係者であることを踏まえると、社会的なプレッシャーや自己保身が供述内容に影響を与えた可能性が高い。特に「命に代えても守るべき親分」の存在が供述にどのような影響を与えたかは重要な点である。組織の一員としての忠誠心と、個人としての自己保身という相反する動機の間で、供述内容が揺れ動いた可能性がある。事件を通して、供述形成のプロセスをコミュニケーション全体として捉える分析の重要性が示された。従来の「発問-応答」という枠組みを超えて供述の特性を分析することで、証言の信頼性評価や事実認定の新たな視点が得られることが分かった。
大野が体験を持っているという前提に立った考察になっていませんか。「神様」視点には立てないからどうするかが、ここ数回の授業でみなさんと一緒に考えたはずのことです。
「忠誠心」や「自己保身」によって説明するのは能力論であることはわかりますか。一つの解釈としてならわかりませんが、そういう解釈をすることと大野供述の信用性を判定することはまた別の課題です。
4点差し上げます。
今回の講義の量的分析において、私は単語数はいいアイデアだと感じた。文字数は私をわたしと書いてしまえば1文字から3文字になると先生が仰っていたことから、検察側の供述の受け取り方に一貫性が無くなってしまうと感じた。聞いている全員が同じ受け取り方をできるのは、単語数だと考えたからだ。しかし、単語数にもデメリットがあると考える。それは、回りくどい言い方をされた時である。例えば、これは間違っていますという内容をあえて、合っている訳では無いという風な言い方をされたらこれも単語数が増えてしまうのでは無いかと考えた。これを防ぐために、回りくどい言い方をされた時にはCQを使い、これはこう言いたいのか?といった確認を行うことで供述に改めて理解することができると考えた。
今までCQは誘導になるのでOQを活用すべきと学んできた。しかし曖昧な供述や記憶のなさは、尋問においてCQを増やす要因になっていると感じた。記憶のなさは本当に覚えていなければどうしようもないが、曖昧な供述に関しては尋問を繰り返すことで矛盾を見つけ、真実を細かく理解しようとする姿勢が大切だと感じた。
文字数と比較した場合の単語数の優位性は説明されていますが、別の指標と比較しても適切なのかについては触れられていませんね。あなたが指摘するデメリットは結構深刻で、同じことを二度言われたらどうするかという問題もあります。
CQを使用する正当化には失敗していると思いました。論理展開もよくわからないです。
4点差し上げます。
検察が犯人を無罪にしてしまうことを恐れているからこそ、できたパターンだと思った。
検察が犯人を無罪にすることを恐れているがゆえに、大野があいまいな回答をしても、検察がフォローを行ってしまい、周りには事件について語っているように見えてしまっていた。また、周りも山口被告が犯人だろうという思い込みがあり、信用できると判断してしまったのではないかと考えた。
コミュニケーションを見ることで、事件について語っているのが大野ではなく、検察であることに気が付けた。このことで、大野が証人として機能していないことを指摘できた。弁護士が大野の回答が信用できないものだと気が付けても、大野は責任を回避した回答をしていた。そのため、大野が事件について証言できていないということを証明することは難しかったと思う。分析により、大野よりも尋問者の方が発言していることや、CQが多いことを、証明できた。このことは、大野にコントロールされている状況から抜け出すことができる良いきっかけにもなった。このことから、被告人が犯人であるまたは、犯人ではないという思い込みや、検察がFAを恐れていることを忘れてはいけないと思った。
大野は検察側の証人ですから、証人として出した時点で、犯人(山口会長)の有罪性を示せない人物とはならないようにしますね、尋問の仕方によって。
最後の方、言わんとすることがよく分かりませんでした。「大野にコントロールされている状況から抜け出す」ことはできていないし、「検察がFAを恐れている」とはとこからそう言えるのですか。
4点差し上げます。
今回のような容疑者が暴力団という場合、無意識に能力論を唱えやすくなる。今までの講義の事件からも感じていたが、社会的スティグマが裁判の中にも数多く存在していることを知った。仮に様々なスティグマがなくなり、社会の捉え方が変化することは、裁判の判決にも大きく影響することだと感じた。
また最初は尋問者が大野を誘導し、有利な方向性にもっていっているかと考えていた。しかしQAの単位のどこを切るかによって、問答の全体像の見方が大きく変化することを学んだ。
大野のケースで該当する能力論は「ヤクザだから」ですが、それがどこでどういう問題を引き起こしていたかはわかってくれたでしょうか。大野が組み込まれたコミュニケーションの特質を理解してくれたようでよかったと思います。
この授業を履修している以上、正式な名称を使ったほうがいいです。「容疑者」ではなく「被疑者」です。「スティグマ」の用法、元々ゴフマンの用法とは違いませんか。「偏見」と言えば済むのではないかと思います。
3点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。引き続いて「リア充大爆発!」の問題提起を受けつけます。
「問題提起」の投稿期間は、12月20日(金)13時から12月25日(水)23時59分(26日に日付が変わる前まで)ですが、締切間際に投稿しても皆さんから意見がもらえないかもしれないので、お早めの投稿をお願いします。
「議論」の投稿する期間は、12月24日(火)0時(23日から日付が変わった時)からですので、しばらくお待ちください。
緊張や不安によって記憶が曖昧になったり変わってしまったりすることはあるのか?
緊張や不安を覚える対象を目撃者に限定して話をします。
緊張や不安のようなストレス反応は、逆に記憶の忘却率を低下させる可能性があります。
越智(2001)は「情動的ストレスを喚起させる刺激は、強固な記憶痕跡を形成するために、忘却率が低くなる」と仮説立てています。
目撃者は、事件当初は緊張や不安がある(少なくともリラックスはしていない)と思います。なので、曖昧になるよりも、むしろよく覚えているのではないでしょうか?
また、尋問という場面は緊張を伴うと思いますので、感情状態依存効果が働き、むしろ事件当時のことを思い出しやすいかもしれません。
引用
越智 啓太・相良 陽一郎(2001)「情動的ストレスが目撃者の記憶に及ぼす影響」犯罪心理学研究第39巻第2号.17-28.25ページ.
F22041さんへ
質問ありがとうございます。
4点差し上げます。
F22063さんへ
具体的な研究を挙げて回答しようとした点は評価できますが、もう少し研究結果を引用した方が誤解が生じにくいのではないかと思います。ストレスを感じた目撃者は、直後の記憶テストでは成績が悪いが、時間経過が経過してもその成績は維持されるというのが、この実験が示していることではないでしょうか。回答者の方が言うように、「忘却率が低い」というこの実験の結果から、「目撃者は、事件当初は緊張や不安がある(少なくともリラックスはしていない)と思います。なので、曖昧になるよりも、むしろよく覚えているのではないでしょうか」という結論は導けますか?
越智(2001)ではなく、越智・相良(2001) ですね。
5点差し上げます。
子どもへの取り調べで、子どもが緊張しないような話し方や態度などの心理学的知見は何だと思いますか。
まず、取り調べの環境を整えることが重要になると考える。静かで明るい部屋を選び、必要以上に警察や取り調べの「威圧的な」雰囲気を感じさせないようにする。子どもが落ち着けるよう、壁には柔らかい色調の絵やポスターを飾る、または小さなぬいぐるみやクッションなど親しみやすいアイテムを置くと良い。質問の仕方では、誘導的な質問を避け、オープンエンド質問を優先する。たとえば、「あの時、本当は何があったの?」ではなく、「あの時、どんなことが起きたと思う?」と聞き、子どもの記憶を誘導せず自然に話を引き出す。また、途中で「そうなんだ」「それは大変だったね」と共感的な相づちを打つことで、話しやすい雰囲気を作る。最後に、子どもにプレッシャーを与えないことが肝心だ。「失敗しても大丈夫」「全部覚えていなくてもいいから、思い出せることだけ教えてね」といった励ましの言葉を随所に挟むことで、子どもが「正しいことを言わなければならない」といった重圧感から解放されることでスムーズに引き出すことができると考えた。
F22041さんへ
質問ありがとうございます。
4点差し上げます。
F22044さんへ
取調べ環境の整備については授業で言及したことだと思います。言及しておいてなんですが、これらは検察官との意見交換会で臨床心理学者によって示唆されたものを、森が引用しただけのものです。研究成果に基づいたものではありません。もしかすると効果が薄いかもしれません。あわせて専門家の経験に基づいた意見というのは、エビデンスの質としてはさほど評価されていないということに気をつけてください。
発問方法については、正確な記憶を採取するための方法ではあります。「子どもが緊張しないような話し方や態度」に該当するのは、グラウンドルールの方ですね、むしろ。
5点差し上げます。
「自分で問題提起して自分で回答する」もアリにしましょう。
目撃証言は裁判において重要な役割を果たしますが、記憶は再構築されやすく、誤りを含む可能性があります。心理学的知見に基づいて、証言の信頼性を高めるためにはどのような対策が必要だと思いますか?
証言をできるだけ早期に収集することが重要だ。記憶は時間と共に曖昧になりやすく、事件直後に証言を得ることで、鮮明な記憶に基づいた情報を収集できる。証言を得る際には、誘導的な質問を避けるべきで、質問が証言者に特定の答えを促すことがないよう、オープンエンドな質問を使用することで、証言者の記憶に忠実な情報を引き出す必要がある。また、証言者が他の目撃者やメディアから影響を受けないよう、証言を得る際に視覚的な手がかりを提供しないことも大切で録画など記録として振り返れる媒体が対策になると考える。
F22044さんへ
質問ありがとうございます。
4点差し上げます。
F22044さんへ
授業で言及した内容ですが、根拠となる資料を挙げた方がいいように思えます。法と心理学会目撃ガイドライン作成委員会(2005)「目撃供述・識別手続に関するガイドライン」(現代人文社)なんかがいいと思います。
4点差し上げます。
みなさん、おめでとうございます。今学期もあと少しですが、どうかよろしくお願いいたします。
年末までの投稿(と授業中の発言)で単位取得条件を満たした人が6人います。そのうちの二人はS評価に達しているので、これからどれだけ投稿しても成績はSです。
最終レポートに進める条件は「平常の投稿(と授業中の発言)で30点以上獲得」です。これにも注意してください。
AならばB、BならばAの「ならば」を証明するにあたって、記憶は証拠になるのかどうかが問われるところである。例えば、現行犯逮捕は刃物を持っていたり沢山の人が目撃している状態で犯人かが確定している場合に行われる。しかし、似ている人がいた場合は記憶が歪んでしまう恐れがある。記憶を信用してはいけない、とまではいかないが信用できる自信はどこから来ているのだろうかと疑問に思った。人が事件の様子を目撃し、録画をしていても合成の可能性があることも考えられる。記憶の証拠はどのように行うべきか、様々な試行が必要であると考えられる。
また、もがく様子にも手足のパターンやリズムがあると聞き、人間のクセは意図的に治すことはできないのだと感じた。7つの顔をもつ女と呼ばれた福田和子の逃亡生活では、福田自身が人と一緒にいることが好きなことから偽名を使ってまで居酒屋に通って人と交流していたとの情報があった。手足のパターンやリズムだけではなく、福田自身の特性は罪がバレる危険性があっても隠すことはできないと考えられる。
問う者-問われる者の言動や行動特徴を第三者視点から掴み取ることにより、問われる者の証言の真偽が得られるのではないかと考えた。
「AならばB」のAは「記憶の有(無)」、Bは「語り」です。あなたの立論は、「Aがわかっている」という前提に立脚しています。そもそも裁判の現場では、成り立たない立論です。通常の記憶実験の話としてならわかりますが。
「癖」というのは近似的理解としてはよろしいです。また「手足のパターン」というのは比喩であって、「その人らしさを特定する挙動」が言いたかったことです。
最後の一文は確かにその通りですが、その前の話とどうつながっているのでしょう。
4点差し上げます。
記憶研究の成果をそのまま供述鑑定に応用することはできない。記憶研究は、記銘・保持・検索という情報処理の条件を厳密に制御する一方で、供述鑑定では検索結果のみから記銘の中身を推測しなければならないという構造的な限界がある。さらに、記憶研究が確率的法則を基盤とするのに対し、供述鑑定は個別性を重視するため、一般的な記憶の法則は直接的な証拠にはなり得ない。
一方で、スキーマアプローチは供述の個別性を評価する上で有効である。供述者特有の「文体」や「反復的なパターン」をスキーマとして捉えることにより、供述が単なる記憶の再現ではなく、供述場面での相互作用の産物であることを明確にする。この視点は、尋問者と供述者の力動的関係を浮き彫りにし、供述の信頼性を精緻に評価する方法として有用である。
また、供述者が「応答責任」を負うという考え方は、供述の正確性や一貫性を評価するために重要である。しかし、尋問者もまた供述者のスキーマやコミュニケーション特性を理解し、それに基づいて適切な質問を行う責任を負う。両者の責任が適切に果たされることで、公平かつ信頼性のある供述評価が可能となる。
記憶研究と供述鑑定の間には埋め難いギャップがあるが、スキーマアプローチのような手法を取り入れることで、その限界を補うことができる。心理学の知見は供述鑑定において慎重かつ限定的に応用されるべきであり、供述評価の新たな方法論として発展させる余地がある。
ほぼ正確な授業内容の理解だと思いました。難しい話をよく消化してくれたと思います。その上でと、さらなる議論を望むのはやめますが、授業で習ったことをそのまま受け取るのではなく、批判的に(建設的に)受け取ってくださいね。まあ、今回の話についてはそこまで要求できない。
「尋問者もまた供述者のスキーマやコミュニケーション特性を理解し、それに基づいて適切な質問を行う責任」まで負わせるのは無理だと思います。理想ではありますが。それより、事後的な供述分析を証拠として裁判所に認めてもらいたいものです。
12点差し上げます。
記憶研究では、記銘-保持-検索という情報処理の中で、研究者は体験の有無と内容を知ったうえで、検索させたり、検索結果を議論したりしている。しかし供述となると、検索結果は示されているものの、それが本当に体験したことなのかということは尋問者はわからない。なので、私は検索のさせ方が非常に重要だと感じた。検索のさせ方によっては、供述者の記憶に変容が生じたり、必要な情報を得ることができなかったり、マイナス面での影響が出る可能性がある。だからこそ尋問者は、供述者に余計な情報を与えずに尋問し、影響を与えないことが求められる。検索のさせ方を気を付けることで、より正確な供述をさせることができるのではないか。
反復される挙動が全ての人で同じときに同じように現れるわけではないため、全体的に見る必要があると感じた。
質問なのですが、もし体を使った挙動に何か情報があった場合、どのように分析するのですか?それとも、供述者の体の動きには何も情報がなく、関係ないものなのでしょうか?
「検索のさせ方」とは発問方法を含みますね。また司法面接でやったグラウンドルールも該当するでしょう。「知らないことは知らない」と言ってよいということであれば、許自自白や虚偽証言の可能性は低下します。これまでの復習です。
「反復される挙動」のことを「スキーマ」と呼んだのですが、これに個人特異性があることと、全体を見る必要があることがどうつながるかよくわかりません。説明として言葉が足らないと思います。
「体を使った挙動」とは動作みたいなことを言っていますか。動作の水準でスキーマが顕在化していると見えた場合、その独自性をなんとかして表現します。身体の動きに情報がないなどとは断定できないです。
6点差し上げます。
一般法則に基づいて主張することは例外の線である可能性を消しきれておらず、確率的法則が決定的法則になることはない。現実の複雑性や条件の違い、未知の要因などの影響を受け、例外となることがある。一般法則を用いるためには、傾向や確率が高いことを示し、全体的な傾向として主張する姿勢が大切であると考えられる。心理学はカウンセリングなどの個人と向き合う際には例外の人にも寄り添える研究方法があるが、心理学を別の分野に活用するとなると、AならばB、BならばAのように確定しなければならない。そのため、例外の人には適さず、活用することが出来ないのだと感じた。また、多種多様な意見や考えがあるため、それらを集約して決定付けることも困難だと思った。
また、記憶は確実性や信頼性に欠ける曖昧で移り変わっていくものだと思う。自らの記憶に自信を持ちすぎることは良くないと考える。記憶力が良い人と悪い人には他者からの影響を受けやすいか受けにくいかなど心理的影響も関係しているのかが気になった。
確率的言明にまつわる困難については、度々お話ししている通りです。「多種多様な意見や考え」とはなんですか? 解釈であれば多種多様になりますが、解釈に陥らない道を探してきました。あるいは、個人差のことを言っていますか? 記憶の脆さについては、司法面接他で繰り返し見てきた通りです。
「カウンセリングなどの個人と向き合う際には例外の人にも寄り添える研究方法がある」とのことですが、カウンセリングにどんな研究方法があるというのでしょう? 教えてほしいです。そういうものがあるのに、どうしてみんな質問紙をするんでしょうね? 「AならばB」みたいな法則的記述は臨床心理学でもしますし、臨床以外の分野でもそうしないこともあります。ただ、なんとなくわかった気になった解釈みたいなものが多く、体験の有無を判別するような確かなことは言えるのだろうか。
6点差し上げます。
供述にて重要とされているところは供述者がその出来事について話すことができる、つまり記憶しているかどうかという点であり、その記憶までの供述者と検察のやり取りについては裁判においてはあまり注目がされていない。その中で一般性について言及したところで例外が存在するため、いくら考えても答えがなく、供述者の特性も部分部分でしかわからないため、本人が供述しているということが優先されてしまい意味がない。しかし、供述者と検察のやり取りから供述者の個別の特性を分析し、鑑定することで会話の流れの中から「らしさ」を見つけ出し、不自然な点を見つけ出すことができる。実際の裁判の中で裁判官がこの一連の不自然さを見つけ出すことが一番いいが、裁判官の立場では話を聞くことに集中しているため、やり取りなどは覚えておらず供述のみを見てしまうことが多いと考えられる。心理師が裁判の外から冷静に分析し、供述者の個別性を見つけ出していくことが、大切であり、必要なことであると感じた。
話せることと記憶していることは同一視できません。この一文不要だと思います。供述者と検察のやりとりとは関係なくないですか。またこのやりとりと一般性の話がどうつながっているのか、よくわからないです。「しかし」までの文章がよく理解できず、したがってこの「しかし」と言われても、なぜ逆接として示しているのかもよくわからないです。裁判官が供述分析を証拠として参照してくれるといいなぁという展望の部分はわかりました。
推敲をした方がいいです。いいことを思いついても、伝わらないともったいないです。
4点差し上げます。
一般的にはこうだとされていることに対し、外れている場合には例外に含まれると決めつける前に、その人らしさとして考えることによって、その人の行動や思考などの人物像と捉えられることができると思った。たくさん話すから体験があるわけではないとあるように、言葉の量やストーリー性の深さによって明確性が決められるわけでもないし、信用性が確定付けられるわけではない。また、同様の出来事を体験したとしてもそれぞれ異なる反応が見られるように、スキーマにも個人ごとに差がある。その差がどのようにして形成されたものなのかを考える必要があると思う。しかし、過去に起きた出来事の記憶に対し、新たな出来事や情報が重なることでスキーマも変わることがあると思う。AならばB、BならばAという結果ではなく、どちらかが示された場合に、一方に対しどの程度の信憑性がもてるのかが大事だと考える。
「例外に含まれると決めつける前に」ではなく、「例外に含まれると決めつけるだけでなく」と言った方がいいかもしれないです。あるいは一般-例外という物言いとは違う思考なので、考え方が根本的に違うことを明示した方がいいかもしれませんね。スキーマには個人差(個性)がありますが、その差がどうして形成されるのかは別に問わなくていいと思います。少なくとも、供述の真偽判別においては。足利事件の動作主交代と動作主連続の話をしていますか? よくわからないですけれども。「スキーマも変わることがある」とはどういう根拠に基づいていますか。
推敲を推奨します。理由は直前の人と同じです。
4点差し上げます。
私は記憶研究は供述鑑定において、証言の信頼性を判断するために役立つとおもった。たとえば、目撃証言が誤っていることがあるのは、記憶が時間とともに変わるということだ。人は事件後に他の人からの情報を聞いたり、質問の仕方によって記憶が歪んだりすることがある。また、強いストレスや恐怖が記憶に影響を与えるということをこれまで学んできた。そのため証言がどれくらい合っていて、どれくらい間違っている可能性があるかを判断することができるから応用できるのではないかと思った。
記憶研究は、供述者の体験の有無を前提にできるとしたら、役に立つと思います。「犯人を見ていることは疑わなくてよい」という場合などです。しかし確率的言明であることの困難は消えませんが。今回の発言の意図はなんでしょうか。記憶研究の有効性をある程度は認めるべきという主張でしょうか。記憶研究の限界を指摘し、代替案を提示した授業回でしたので、あなたの発言の意図が知りたいと思いました。重要なことを言っているかもしれない。でもこれではよくわからず、もったいないです。
4点差し上げます。
(講義を体調不良で休んでしまったため、動画を視聴させていただきました。)
本来心理学は一般的、平均値をだすことが主である。しかしそれが裁判心理学では通用しないことを繰り返し知るごとに、心理学の無力さのようなものを感じた。その反面、その無力さを受け入れ、スキーマとして個別性を概念化した点に面白さを感じた。また、このスキーマ論もどこの場面で同じ事柄が繰り返されたかが見つけることに困難さが生じるため、今後更に発達した方法が出るのかが楽しみである。
感想としては嬉しい内容です。
3点差し上げます。
心理学法則は一般性、確率論である。裁判ではある特定の個人について知る必要がある。そのため、従来の記憶研究は供述鑑定には応用することが難しいと理解した。
心理学法則は裁判の証言の信頼性を確立するために参考にする程度ならば使うことができると考える。心理学法則は確率論であり、当てはまらないわけではないため、可能性を考えるときには役に立つのではないだろうか。個人について強く言うことは例外があるため難しいと思うが、考慮したり判断に迷ったりする場合には役に立つと考えた。しかし、この考えは裁判という責任が伴う場面では通用しないのかもしれない。結局、裁判という場面では個別性を追求するべきなのだと思う。スキーマ論のように場面で繰り返されたパターンを見つけ出すことが必要だと考えた。
また、個別性を追求する心理学は裁判以外に医療場面などでも役に立つのだろうか。今の私では具体的な想像することができなかったが、個別性を追求することはほかの場面でも役立つ可能性があるといえると考えた。
確率的言明であるというだけでなく、前提を必要とする点も制約として受容しないといけないと思います。「AならばB」の「Aである」が前提ですが、ここを疑わなくてよい場合は、心理学法則も有効でしょう。確率的言明という限界はなおもありますが。
個別性が必要だと感じてくれたことは嬉しいです。しかし、個別性に踏み込むと、裁判所は「自分達の領分に入ってきた」と嫌がる向きもあります。心理学法則を出せば確率的言明と言い、個別性をスキーマで示せば領域侵犯と言う。裁判所にはなんと言ってやればいいと思いますか。
個別性は医療でも注目すべきですね。治療法の有効性も確率的言明によって担保されています。「G2i問題」と呼ばれ、一部で注目されていることを最近知りました。G2i とはGeneral to individual のことです。カッコつけた呼び方ですね。我々の方が指摘したのは早いです。
6点差し上げます。
採点対象となる投稿は締め切りました。ありがとうございました。
個人を見る研究がないのは、森先生が行っている研究のように、1人を分析するのに何十年もかかることや、その労力が莫大なことが要因だろう。
個人特有の語りはその個人を入念に分析しないと表れないし、他の人に同じ方法が使えるとも限らない。一般化の出来ない研究は他の人が応用しずらいので、その需要が理解されにくいのではないだろうか。1人の対象にそこまでの時間をかけていられないこともある。臨床の場では一人一人に与えられた時間があるし、司法の場でも公判までという時間制限がある。
労力と時間という観点から、個人についての研究は、重要であれど広まっていかない。
個人を観察し、その語りやコミュニケーションを研究していくには、時間をかけることが許される環境作りが必要になると考える。
何度も取り調べを受け想起を繰り返すと、個人内と個人間の平準化によって直接体験と伝聞体験の形式の差異が薄くなっていく。個人間という観点は、特に子どもの取り調べに大きく関係していると感じた。子どもは、大人の言うことやその反応に影響を受けやすいことが分かっている。取り調べという場で、大人とのコミュニケーションと想起を繰り返せば容易に直接体験と伝聞体験の形式差異がなくなってしまうだろう。このことからも、取り調べは1回で済ませるという考え方が重要になる。
検察官は語り手が直接体験をしたという1種の期待をしていると考えられる。
そうなると、期待効果が働き、取り調べを受ける人の語り口は直接体験に近くなるのだろうか
ナビゲーション実験の分析に時間がかかっているのは、ひとえに私の都合によるもので、単純に分析が難しいからということではありません。これだけに専念できるならば、幾分早く分析は完了するかと思います。しかしながら、他の分析、たとえば量的データを採取して推測統計を使用するような分析に比べると格段に時間がかかるのは事実です。個人を分析すること自体が妥当だという合意が取れておらず、大半の心理学者は平均値と分散で語りたがります。裁判官も、個別の分析は自分たちの専任事項だと考えている。こういう構造的問題が、個別性の分析へのニーズが起きにくい原因ではないかと思っています。あなたが言われる「環境づくり」として時間的余裕はもちろん入りますが、このような学会の問題と裁判所の問題によって「環境」ができづらくなっている。せめて学会の問題はなんとかすべきと思いますが、個別性へのアプローチはたいてい「解釈」とみなされることが多いのです。臨床のケースレポートみたいな。「あなたの感想ですよね」みたいな反応が多いのです。これにどう抵抗するかが、スキーマアプローチの発想だったのです。
平準化という観点でも、取調べ回数を少なくという提言は支持されますね。検察の期待効果は否定できないと思いますが、期待効果があると直接体験語りに近くなってしまうというのであれば、我々が開発した方法は全く使えなくなりますね。体験の有無だけが語り口に反映されるという前提ですから。
8点差し上げます。
本実験は、実体験と伝聞体験の違いが想起の形式に反映されることを明らかにした画期的な研究である。特に、実体験に基づく語りは「交代語り」による不安定さや対象の多面的な形容が特徴的であり、反復される過程で安定性が向上していく一方で、伝聞体験に基づく語りは「連続語り」を中心に、初めから安定していることが示された。これにより、想起の形式を通じて体験の質を判別可能であることが証明された。また、従来の法的判断で重視されてきた「一貫性のある供述=信用に足る」という見解に対し、実体験にこそ変遷や不安定さが見られるという新たな視点を提供した点は、供述分析や法的評価に重要な示唆を与える。今回の研究は、想起発達過程における微視的な変化の重要性を強調し、実体験と伝聞体験の区別が個人の語りやコミュニケーションの形式から捉えられることを示した。
授業で伝えたかったことの要約としては適切です。
5点差し上げます。
今回の実験では大学を実験の場としていたが、例えばよく行くスーパーと行ったことのないスーパーでも同じ結果が出るのだろうか。スーパーは大抵同じ構成で肉魚・菓子類パン類などが分かりやすく置いてある。そしてよく行くスーパーもたまに陳列配置を変更していたりなど大学よりも変化が少しある環境である。置いてある商品の名前やコーナーを見て買い物をするという点を踏まえると、実際に話す際口から出てくるワードが増えそうだなと感じた。
スーパーでもいいと思いますが、別にスーパーでなくてもいいとも言えます。理由がないからです。どうしてスーパーにこだわりますか。そこが知りたいです。
4点差し上げます。