仏道の『阿頼耶識システム』

非空それは真如(無為)の世界

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『法介の『成仏烈伝』第四の矢』

レスNo.909 から977 まで

目を通して頂けますでしょうか。

その続きをこちらで語って参ります。

法介
作成: 2024/04/04 (木) 09:38:57
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1
法介 2024/04/04 (木) 09:46:27 修正

阿弥陀佛というのは、観法の対境として用いるお釈迦さまが顕された仏です。

それに対し日蓮大聖人が顕された十界曼荼羅は、〝正観〟の対境として顕された無為法です。

〝正観〟と言いますのは、日蓮大聖人が『本因妙抄』で、

文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり

と仰せの「直達正観」です。

2
法介 2024/04/04 (木) 10:11:12 修正

日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で次のように申されております。

今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり

語訳しますと次のようになります。

法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。の五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。

これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ、仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれるのである。

この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初信の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。

3
法介 2024/04/04 (木) 10:18:57 修正

妙法蓮華経の五字は、

五仏性、および五智の如来の種子だと。

如来とは無為であり、「如来の種子」とは

無為の法である事を意味します。

阿弥陀佛はお釈迦さまが顕された有為の仏です。

有為を対境としてもそこで観じ取れるのは有為の法でしかありません。

有為の法とは、此縁性縁起であり相依性縁起であり不二の法門です。

過去に仏との因縁が阿頼耶識にある仏道者は、対境の阿弥陀佛を因として自身の阿頼耶識に眠っている仏との因果を取り出す事が出来ます。

その取り出した仏との因果を因として縁起が起こり、覚りの縁起が起こります。

この仏との因果は、因位と果位とが同時に同体で備わる無漏の種子です。

これを因果俱時と言います

4
法介 2024/04/04 (木) 10:39:14 修正

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』ではその因果を次のように説明されております。

疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等」と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。 問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。

ここで着目して欲しいのが、

金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」

の御文です。

中でも最後の「縁了を具足す」という文句です。

全てのモノにはそれぞれに因果が備わっており、しかもその縁起は完了してそのモノに備わっていると。

要するに十如是の本末究竟等だと言われているのです。

犬にも石にも仏性が有るとは、こういう事を言うのです。

5
法介 2024/04/05 (金) 05:45:10 修正

縁起とは縁に依って起こるものです。

因が縁に依って果が生じる。

この縁起というモノの見方を外道の二辺見に対して〝中道〟と言います。

対象を「有る無し」の実体思想で捉える見方をお釈迦さまは、有ると見るを常見と言い、無いと見るを断見としてこのようなモノが有る状態と無い状態とで見る見方を外道の見解とされました。このような「有る無し」の二辺見は人間の感覚器官が縁となって見える現象(出来事=縁起)で、これは表層意識である第六意識での認識によって起こります。

対象を感覚器官が客観で捉え、捉えた情報を過去の記憶と照らし合わせて主観で思いめぐらしそれが何であるかを判断します。この一連の作用を仏教では五蘊(色・受・想・行・識)として説かれております。

この主観と客観による認識で我々人間は、対象を〝実体〟として見ます。

<人の認識>
 客観=相(対象の姿・形、外観)
 主観=性(それが何であるかを考える心の働き)
 実体=体(言語によって概念化された対象の呼び名)

7
法介 2024/04/05 (金) 06:08:43 修正

これに対し仏の見解は、表層の第六意識での認識ではなく、深層の第七末那識による認識となります。

人間の認識は八つの識層によって成り立っていると説くのが『唯識』です。

この唯識では人間の意識は我々が通常認識している表層意識と、認識する事無く深層で無意識滝に意識とは関係なく働いている深層意識とがあると説きます。

前者の意識を第六意識といい、後者を第七末那識と言います。

第六意識は感覚器官である前五識を対象として起こる意識で、第七末那識は、その更に深層にある第八阿頼耶識を対象として起こる意識です。

『唯識』については、こちらで詳しく解説しております。

唯識三十頌 その①

8
法介 2024/04/05 (金) 06:26:56 修正

仏の認識というのは、『般若心経』で「色即是空 空即是色」として説かれているのですが、その言葉の意味するところを更に掘り下げて理論的に明らかにしたのが無著・世親兄弟が大成した『唯識』です。

この『唯識』は、龍樹が先行して解き明かした空の理論である『中論』を前提として発展展開された法理です。龍樹が解き明かした我空(析空と体空を合わせた二空、人空とも言う)で仏の空観に入ることで人間の主観と客観による第六意識での認識から離れ、阿頼耶識を対象として起こる縁起で対象を捉えます。

唯識ではそれを三つの心(識)の性分として説きます。

人間の心は、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)。これは人の主観と客観とによって仮設された存在形態です。

仏の心は、依他起性(えたきしょう)。客観と主観を析空と体空の二空で機能停止させ、意識を第七末那識に持っていく事で対象を阿頼耶識を中心にすえた縁起で捉えます。縁起という他に依存しながら存在する形態です。

 ③ 覚りの心は、円成実性(えんじょうじつしょう)。捉え方が変わる事で対象の真実の姿が顕れてきます。唯識ではこれを「完成された存在形態」と言います。

9
法介 2024/04/05 (金) 06:57:50 修正

唯識で仏の認識が詳しく説き明かされますが、この唯識は龍樹の人空(析空と体空)をベースとして法空を覚る事で仏の真意を理解するに至ります。

空についてはこちらで詳しく解説しております。

「空」の理論

仏道 ~ その壱『空の巻』~

法空で末那識の根本自我を退治する事で意識が、人の認識である第六意識から仏の認識である第七末那識に変わります。

仏教の重要概念として中核を成す〝空〟は、その理論の難しさから四段階の理解に分かれます。それが析空・体空・法空・非空の四種の空理なのですが、最終段階の非空では、唯識で説かれる「仏の認識」を更に空じます。

その非空を詳しく解き明かしていったのが天台の智顗です。

10
法介 2024/04/05 (金) 08:59:46 修正

人の認識が主観と客観なのに対し、仏の認識は縁起です。因と縁に依って果が生じる縁起が、どのような依存関係で起きるのかを詳しく解き明かしたのが唯識です。

非空では、この仏の縁起での見方を空じる訳ですが、それがどういう事なのかをコインを例えて説明します。

コインの表の面を〝因〟として、裏の面を〝果〟とします。

因が時間の経緯の中でひっくり返って裏面の果が表面になりその姿が現れます。これが此縁性縁起(色即是空)です。

そして裏返った果を見る事でその裏側の因の在り方を再認識します。認識が変わる相夜性縁起がこれに当たります(空即是色)。

このコインの「表面の因」と「裏面の果」の両面をそれぞれ見る事でコインの全ての面を見る事が出来ます(色即是空 空即是色)。ただしそれにはコインをひっくり返すという作業が必要となります。片面づつでしか表に現れないからです。

人間の生死の関係はこのコインの裏と表の関係にあたります。表面が「生の側面」で裏面が「死の側面」です。死と言いましても肉体が死滅しただけで心(識)は存在し続けます。それが裏面の肉体を持たずに意識として存在し続ける状態です。肉体から解脱した仏がこの「死の側面」になります。死と言いましてもそれは肉体が死滅しているだけで意識は存在し続けております。

生きた状態でこの仏の側面に入ると世界は色界に変わります。人間の世界は自我によって肉体が生まれ、その肉体がある事で様々な欲が生じます。その一切の欲から離れたのが色界です。ここでは完全に肉体から解脱していて肉体が持つ五蘊の機能は完全に停止状態となります。(五蘊皆空

11
法介 2024/04/05 (金) 09:14:35 修正

人がこの生きた状態で色界に入る事を仏教では定静慮と言います。これは色界禅定という瞑想による修行法で意識として色界に入る事をいいます。(禅天)

① 四禅天(定静慮)
https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅

定静慮に対して生静慮という用語がありまして、こちらは六道輪廻から解脱して転生でこの色界に生まれ出る事をいいます。

転生先としての色界は四つに分かれており初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の四禅天から成ります。

② 四禅天(生静慮)
https://ja.wikipedia.org/wiki/色界

①と②は同じ四つの禅天ですが、その内容は全く異なりまます。混同されがちですが、色界は禅定としての禅天転生としての禅天があるという事です。

この色界を空じて無色界へ入る空(意識の指向性)が非空です。

12
法介 2024/04/05 (金) 09:53:08 修正

無色界へ意識として入る事は出来ません。

〝覚り〟として入るのです。

その意識の指向性が応身如来・報身如来・法身如来といった究極の覚りの世界観です。

如来とは言い換えれば、無為(縁起から離れた)という事です。

無為の姿(相)と無為の心(性)と無為の体(体)によって顕れるのが、

応身如来・報身如来・法身如来の無為(人間の理解を遥かに超越した)の不思議解脱です。

13
法介 2024/04/05 (金) 18:26:09 修正

人の認識では、主観(性)と客観(相)によって対象のモノが実体(体)として認識されます。

<凡夫の世界観>
 客観 ---(相)
 主観 ---(性)
 実体 ---(体)

我達が見ている世界は、この相・性・体によって立ち上がって見える世界観です。(凡夫の仮観)

では仏はどうかと言いますと、仏の相は32相だと仏典には記されております。また仏の心は唯識で説かれるところの三性の依他起性でしょう。では仏の体はと言いますと、応身・報身・法身の三身になるかと思います。

応身は人間の認識に沿って現れる実在の仏。

報身は心を中心に顕れる肉体から解脱した仏。(観音菩薩・阿弥陀佛)

法身は〝法〟そのものとしての仏。(大日法身)

この仏をお釈迦さまが観法の対境として顕されたのが32相の仏です。

14
法介 2024/04/05 (金) 18:36:53 修正

仏の事を無我と言いますが、初期仏教では無我を「自分という存在が無い事」だと勘違いしておりました。しかし、そういった無我解釈ですと無我の仏がどうして説法をするのかという矛盾が生じます。語るという行為は〝自分〟が存在しなければ成り立たない行為です。ましてや衆生を救いたいと思うのも自我の働き以外の何物でもありません。

無我とは「自身にとらわれた心が無い」という意味です。

それに対して自我とは、「自分に執着した心」を言います。

自分が自我の意識で思っている自分は、本当の自分ではありません。それは自分が勝手に思い込んでいる妄想分別に過ぎません。自我(自分への執着)を無くした意識、それが無我です。

本当の自分は自身の阿頼耶識に眠っております。過去の自身の行い(業)によって今の自分があるのです。それを覚る為には意識を第六意識から末那識にスイッチする必要があります。末那識は意識です。その意識を自分に執着した意識から自分にとらわれない意識へと転ずる事で、菩薩の無分別の境涯に到達します。

15
法介 2024/04/05 (金) 20:12:26 修正

自分への執着が無くなると今まで見えていなかったものが見えてきます。

それは相手の心です。

「こんな事言ったら相手はどう思うだろうか」とか、

「あの人どんなに辛い思いをしているのだろう」といった

相手を想う心です。

それが自分と他者を分別しない無分別の心です。

「犬と自分が無分別」で無情を感じるのも良いかと思いますが、

(※ ↑禅宗の方が良く言われるんです)

まずは相手の気持ちに寄り添う心を持ちましょう。

相手をトンチで言い負かして悦に浸るのではなく、

(※ ↑禅宗の方が良くやられているんです)

「なるほどこの人はこんな風に考えるんだ」と

相手の考えを理解し尊重できる思考を身に着けましょう。

そんなこと言うけど日蓮さんだって他宗を片っ端から否定されてたじゃないですかって?

「教え」と「解釈」は違うんです。

教えというのは数学みたいに正しい答えがあるんです。(真理)

しかし「解釈」は、境涯によって異なって来ます。(四悉檀)

日蓮さんは仏の「教え」を法四依をもとにして正されていたに過ぎません。

それをしなければ仏教で説く真理が、人の数だけある事になってしまいます。

お釈迦さまが説かれた究極の真理は一念三千という無為の法、ただ一つなんです。

その一つの究極の法を説く為に三乗の教えをその下地として説かれております。

16
法介 2024/04/08 (月) 07:31:12 修正

仏が覚りえたただ一つの真理を衆生に知らしめんが為に仏は世に出現します。

それを「一大事の因縁」と言います。

よく大変な出来事を〝一大事〟と言いますが、実はここからきているんです。『法華経』の方便品第二の中に次のようなくだりがあります。

諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。

【現代語訳】
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。

仏はこの四つの仏知見を〝因〟として世に出現します。

これを開示悟入四仏知見と言います。

仏が覚りえた究極の真理を衆生に対して三乗にいて説きし、その内容をらせてその境地へらせる事を一大事として起を起こして仏は世に出現します。

17
法介 2024/04/08 (月) 07:49:50 修正

更に方便品第二では次のように続きます。

仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。

【現代語訳】
仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし

舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。

【現代語訳】
舎利弗よ、われも今、またかくの如し。諸の衆生に、種種の欲と深く心に著する所とあることを知りて、その本性に随って、種種の因縁と譬喩と言辞と方便力 ①とをもっての故に、しかも、ために法を説くなり。舎利弗よ、かくの如き(①のこと)は、皆、一仏乗の一切種智を得せしめんがための故なり

舎利弗よ、十方世界の中には、なお二乗すらなし。何に況や、三あらんや。舎利弗よ、諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。謂う所は、劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁との、かくの如きなり。 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう

お解かりでしょうか、声聞、縁覚。菩薩の三乗に開いて説いた教えは、一乗の仏の覚りを衆生に悟らせる為に用いた方便であるとお釈迦さまは言われております。

18
法介 2024/04/08 (月) 08:12:46 修正

『法華経』の譬諭品第三にも次のような御文があります。

初説三乗。引導衆生。然後但以大乗。而度脱之。何以故。如来。有無量智慧。力無所畏。諸法之蔵。能与一切衆生。大乗之法。但不尽能受。舎利弗。以是因縁。当知諸仏。方便力故。於一仏乗。分別三説。

【現代語訳】
初め三乗を説きて衆生を引導し、しかして後、但、大乗のみをもって、これを度脱するなり。何をもっての故なりや。如来には無量の智慧・力・無所畏の諸法の蔵有りて、能く一切衆生に大乗の法を与うるに、但し、尽くは受くること能わざればなり。舎利弗よ、この因縁をもって、当に知るべし、諸仏は方便力の故に、一仏乗において、分別して三と説きたもうなり。

雖復教詔。 而不信受。於諸欲染。貪著深故。 以是方便。為説三乘。令諸衆生。 知三界苦。開示演説。出世間道。

【現代語訳】
また教え詔すと雖も、しかも信受せず、諸の欲染において、貪著すること深きが故なり。ここをもって方便して、ために三乗を説きて、諸の衆生をして、三界の苦を知らしめ、出世間の道を、開示し演説するなり。

これらの文章から開示悟入とは、「三乗に開いて教えを示し、悟らせ一仏乗に入らせる」ということが読み取れます。

法華経が開三顕一と言われる所以です。

19
法介 2024/04/08 (月) 08:46:39

「一大事の因縁」について、日蓮大聖人は『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で次のように説明されておられます。

此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり

我が身が妙法蓮華経の五字だと信じて妙法を唱えれば、仏知見が開かれ即座に仏の覚りの境地に入る事が出来ると仰せです。凡夫は仏程に覚ってはおりませんので九界の凡夫です。凡夫はどこまでいっても迷いの一念の中にあります。しかし、妙法を唱える事で仏の仏界が開かれて南無妙法蓮華経の七文字の宝塔へと入ります。

20
法介 2024/04/08 (月) 08:52:04 修正

また、『御義口伝』では「一大事因縁」を次のように説明されておられます。

又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです

応身として現れたお釈迦様が、報身の一念三千の法門を説いて衆生を仏界(法身)へと入らせるといった悟りの面で空・仮・中が開かれて、体(如是体)を中心に十如是が展開され中諦の一念三千が応身・報身・法身として凡夫の一身に顕れて三身即一身の本仏となります

また、『一念三千法門』ではこのように申されております。

百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり

色相の真理が顕れた世界が仮諦の一念三千(応身如来)で、それによって起こる心の変化が空諦の一念三千(報身如来)で、それを以て何かしらを覚る境地を中諦の一念三千(法身如来)であると。

仏〟と言うのは人間が言葉で定義づけした概念す。

如来〟とはその仏という概念から完全に離れた存在です。これを空の理念では〝非空〟と言います

>> 9←ここで言っている空の四義の中の最も難解な空の理解となります。

21
法介 2024/04/08 (月) 09:21:20 修正

『法華経』の方便品第二の中でお釈迦さまは、仏が覚った究極の真理の法を『十如是』として舎利弗に伝えます。

要略して「開三顕一」を説かれる訳ですが、これを「略開三顕一」と言います。

この「略開三顕一」で示された「十如是」こそが、仏の究極の覚り、即ち無為法です

この「十如是」には、仏の覚りの因位と果位とが本末究竟等として収まっております。

本末究竟等とは、因位と果位とが同時に同体で収まっているという事です。

人知を超えた真如の世界では、縁起が起こらないので因と果が同時に同体で存在します。

どこに存在しているのかと言いますと、

他ならぬ阿頼耶識でしょう。

人類の全ての行いが〝業〟として蓄えられる処が蔵としての阿頼耶識です。

その阿頼耶識では意識は働きません。

22
法介 2024/04/08 (月) 10:03:50 修正

どのように仏の覚りの因と果が阿頼耶識に収まっているのかを説いているのが方便品第二の『十如是』の文言です。

如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等

実はこの『十如是』、密教で説かれております。

密教と言えば真言密教を頭に浮かべる事かと思いますが、

真言密教とは本来、「真理の言葉を密教として説いた」という意味です。

この十如是の意味するところに真理の言葉(真言)が隠されております。

その言葉が『法華経』の本門で文の底に密教という教えで説かれております。

これを「文底秘沈」と言います

23
法介 2024/04/08 (月) 10:33:03 修正

まず文上ではどのように説かれているのか。

それが方便品第二の後半から授学無学人記品第九にわたって三乗に対して説かれた「広開三顕一」の三周の説法です。

こちらで詳しく解説しておりますのでご覧ください。

三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥

三周の説法を説かれた後、お釈迦さまは真如の世界を開く為に国土を整えます。

それが見宝塔品第十一で説かれる、「三変土田」です。

こちらで詳しく語っておりますのでご覧ください。

虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦

24
法介 2024/04/09 (火) 08:13:04 修正

三変土田で国土を常寂光土に変え、虚空絵の説法が始まります。

この虚空絵の会座こそが、実は「真如の世界観」を顕しております。

真如の世界とは常寂光土であり、法身・般若・解脱の三徳をそなえた如来が住む国土です。

法身とは仏が覚りえた究極の真理(仏の智慧)、般若とはその真理を覚る智慧(三乗の智慧)、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態(肉体からの解脱)をいいます。

今回のお話はここまでとして、次のお話でその真如の世界観について詳しくお話して参ります。

無為法

お付き合い頂きましてありがとうございました。