仏の事を無我と言いますが、初期仏教では無我を「自分という存在が無い事」だと勘違いしておりました。しかし、そういった無我解釈ですと無我の仏がどうして説法をするのかという矛盾が生じます。語るという行為は〝自分〟が存在しなければ成り立たない行為です。ましてや衆生を救いたいと思うのも自我の働き以外の何物でもありません。
無我とは「自身にとらわれた心が無い」という意味です。
それに対して自我とは、「自分に執着した心」を言います。
自分が自我の意識で思っている自分は、本当の自分ではありません。それは自分が勝手に思い込んでいる妄想分別に過ぎません。自我(自分への執着)を無くした意識、それが無我です。
本当の自分は自身の阿頼耶識に眠っております。過去の自身の行い(業)によって今の自分があるのです。それを覚る為には意識を第六意識から末那識にスイッチする必要があります。末那識は意識です。その意識を自分に執着した意識から自分にとらわれない意識へと転ずる事で、菩薩の無分別の境涯に到達します。
通報 ...