『唯識三十頌』は、世親が顕した唯識の思想を要約した三十の偈頌で、玄奘が訳したもので大乗における各宗派の根底に流れる重要な概念となります。
小乗では煩悩は寂滅させるべき対象として扱われますが、大乗では「煩悩即菩提」と言いまして寂滅させるのではなく、転ずる対象として捉えます。
その煩悩即菩提の原理となるのがこの『唯識』の教えです。
阿頼耶識に眠る三因仏性を呼び覚ます事で、他の七識が転識し自身の悪しき宿業を転換ていきます。自身の今世での運命をより良き方向へと転換していく「宿命転換」の法理・法門です。
仏教は大乗と小乗とに大きく二分されます。なぜ二分されるかと言いますと段階法で仏教は説かれているからです。小乗があっての大乗なのです。仏の教えは人間の言葉の概念から離れたところにあります。その人間の概念から離れたところに、人間が入っていかなければ仏の説法は聞くことは出来ません。
仏が人間の認識に合わせて人間の言葉の世界に降りて来て人間の言葉で法を説く姿を応身の仏と言います。しかし、この応身の仏が説く内容は、人間の世界観の真理のお話です。物理や科学や医学と同じ次元の実体に即した真理です。
本当の仏の教えとは、そのような人間の実体の世界観(仮観)から離れた仏の世界観(空観)に入っていかないと実は聞けないんです。その仏の世界観で説法する仏の姿を報身の仏と言います。
大乗仏教を起こした龍樹はこの仏の空観に入る為の手法を空の理論(空理)として詳しく解き明かされました。それを受けて世親がその仏の空観と凡夫の仮観の構造を『唯識』として詳しく解き明かしていきます。
ですから小乗はその空観に入る為に、まずは人間の実在の世界観がどのようにして立ち上がっているのかを学ぶ基礎教育にあたります。「実在の世界」の構造がわからないと世界観を仮観から空観へと変えることは出来ません。
龍樹が難解な『般若経典』をひも解いて顕した「空の理論」に対して、『解深密経』『華厳経典』をもとにして世親が顕した『唯識』は「悟りの理論」と言われます。
我々凡夫の視点で見ている世界のことを仏教では「仮観」といい、仏の視点で視る世界を「空観」と言います。さらにその先に悟りの視点で観じる「中観」という世界観があります。真如と言う言葉を仏教ではよく耳にしますがこの悟りの世界観がその「真如の世界観」にあたります。
この「凡夫の世界観」と「仏の世界観」と「真如の世界観」の三つの世界観を「欲界・色界・無色界」の三界として仏教の世界観は形成されています。
人間の「凡夫の世界観」は、感覚器官から起こる前五識とそれを統合して意識として司る第六意識によって立ち上がります。目を閉じてみてみ下さい。一瞬でその世界は止滅します。消えて無くなった訳ではありません。再び目を開ければ元の世界がそこには存在します。存在はしているけど目を閉じたら一瞬で消えます。目を閉じたあなたの中では今世界は止滅してますが、隣で目を開けている人には世界は存在しています。
解りますか。
世界って人の心が立ち上げているんです。
その心を中心にして立ち上がる世界を詳しく解き明かしたのが『唯識』という大乗仏教の教えです。
仏教の世界観である三界の「欲界」は欲に支配された世界です。これは我々凡夫の世界観なのでイメージしやすい世界なのですが、色界や無色界というのがちょっとイメージしにくいかと思われます。
そこでウィキペディアで「色界」を調べてみますと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/色界
色界(しきかい、Skt:rūpa-dhātu)は三界の一つ。色天、色行天ともいう。欲望を離れた清浄な物質の世界。
「欲望を離れた清浄な物質の世界」←なんともいい加減な説明文である。
物質があるからそれに執着して欲が生まれるのです。その物質の世界に身ををいてなんで欲望から離れた正常な世界が形成されるのですか、、、、、。
誰がこんないい加減な文章を書いたんだ、、、、。
「ウィキペディア」ってこんなもんですよ。ウィキペディアで仏教を学んでもまともな仏教観は見に付きません。論書・注釈書等の専門書や専門のサイト、また学術論文等で学ぶかお寺の門を叩いてお坊さんからちゃんと仏教を学びましょう。
色界とは修行者が解脱によって「凡夫の世界観」を止滅させ意識を「仏の空観」に移行させた完全に肉体から解脱した世界です。五蘊皆空で前五識も第六意識も完全に止滅していますのでその世界観に「物質=実体」は存在し得ません。
この世界観に意識が入ると、対象の事物の実体は消滅し、変りにその事物の因果を観じ取っていきます。
これが阿頼耶識を因として起こる相依性縁起です。この縁起は心性の変化で起こる内縁の縁起となります。
内縁と言うからには外縁もありまして、蔵教の『阿含経典』で詳しく解き明かされた順観型の十二因縁が外縁の縁起となります。縁起といいましてもこのように二種の縁起があります。
蔵教=「此縁性縁起」相(色相)を中心として起こる縁起 ---(外縁=順観)
通教=「相依性縁起」性(心性)を中心として起こる縁起 ---(内縁=逆観)
この二つの縁起を『般若心経』では有名な次の文句で顕しております。
此縁性縁起=「色即是空」
相依性縁起=「空即是色」
実体は〝相〟の側面(客観)と〝性〟の側面(主観)の二つの側面(主観と客観)から立ち上がります。
色相=客観認識
心性=主観認識
主観と客観=実体
これが我々凡夫の世界観です。(仮観)
この世界観(仮観)を『唯識』では遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)と言います。
前五識と第六意識によって立ち上がってくる世界観です。
この前五識と第六意識とで立ち上がる世界観を『華厳経』では、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
と説かれておりまして、凡夫の心(第六意識)で立ち上がる世界(欲界)と仏の心で立ち上がる世界(色界)と真如の心で立ち上がる世界(無色界)は唯(ただ)心の一法より起こります。
『無量義経』には、
「無相・不相の一法より無量義を出生す」
とありまして、これを日蓮大聖人は、
無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う
と『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で申されておられます。
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」
とは、「生じる」とか「滅する」といった相が無いという意味で、蔵教で説かれた此縁性縁起がこれにあたります。テーブルは天板と脚とに分解したらテーブルという物体は消えて無くなります。しかし天板と脚とに分解したでけであってそのものが消滅した訳ではありません。再び組み立てれば元のテーブルという物体が顕れます。これは生じた訳ではありません。元々あったものが仮和合して姿を変えただけで何も滅していないし生じてもおりません。
このような縁起(此縁性縁起)で対象を捉えると「相」というモノの見方が縁起というモノの観方へと変わっていきます。これがここで言う「無相」の意味です。
この無相という視点に立って世界を観たのが「仏の空観」です。
それを『唯識』では、依他起性(えたきしょう)と言います。
(※無相の視点=実体を空じた世界観「色即是空 空即是色」)
次に、
「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云う」
についてお話します。
二乗とは声聞と縁覚の境涯を指して言った言葉です。
蔵教の声聞は九次第定で寂滅の「無余涅槃」を目指し、六道輪廻から解脱して天上界へ〝転生〟します。
通教の縁覚は「空」を覚って仏の空観(色界)に入り天界で「有余涅槃」を覚ります。
この二つの涅槃の相から離れた不相が『唯識』で説く円成実性(えんじょうじっしょう)となります。。
真理を得る為には逆観の縁起(相依性縁起)を起こすことが大事です。
そこで円教の立場からこの『唯識』を見る為に日蓮大聖人の言葉をもって世親の三性説を紹介しましたが、天台智顗はどのように『唯識』を語っている(釈している)か、紹介したいと思います。
『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1102より
六識はこれ分別識。七識はこれ智障の波浪識。八識はこれ真常識。智識はこれ縁修。八識はもしは顕るれば、七識はすなわち滅す。八識は真修と名づく。任運に体は融じて常寂なり。而も、摂大乗論にいわく、「七識はこれ執見心。八識はこれ無記の無没識」と。あにこれ真修というを得んや。またいま明かすところの六識は、すなわちこれ不思議の解脱なり。
あに六識・七識が滅して己りて、八識の真修を不思議の解脱となすことあらんや。所以はいかん。鴦掘経にいわく、「いわゆるかの眼根は諸如来においては常に具足して滅修することなく、了了に文明に見る。ないし意根もまたまたかくのごとし」と。
法華経に明かす父母所生の六根の清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。あに六識が滅して別に真の縁修あることあらんや。ゆえに経にいわく、「佛は、一切衆生は畢竟して寂滅なり、すなわち大涅槃もまた滅すべからず、一切衆生もまた滅すべからざるを知る」と。すなわちこれ六識は滅すべからず。
またこの経にいわく、「解脱とはすなわち諸法なり」と。あにすなわちこれ六識と十八界の一切法ならざらんや。もし爾らば、あに、ただ八識に約して不思議の解脱を明かすを得んや。
これは智顗が『維摩経玄疏』の中で述べられている言葉です。ここで智顗は次の三種の解脱を示しております。
一に真性解脱
二に実慧解脱
三に方便解脱
この「三種解脱」の説明が『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1105からP.1115にかけてなされてます。
10ページ分を要約して紹介します。
まず「方便解脱」について。---(前五識・第六意識の転識)
十二因縁で言えば過去・現在の三枝は、これ煩悩道。過去・現在の二枝は、これ業道。現在・未来の七枝は、これ苦道なり。いま十二因縁に三道を明かして三種の解脱を弁じ、思議・不思議の不同を分別せん。
もしは通教には、苦道は即ち是れ真性と説くといえども、すなわちこれ偏真の法性の理、煩悩即空と説くも、空は実慧にあらず。業道即空と明かすといえども、空は方便にあらず。ゆえに三種は不思議の解脱にあらざるなり。
ここで言っている「方便解脱」は、凡夫の前五識・第六意識から起こる「客観と主観」による無明(迷い)からの解脱です。これは『般若心経』で説かれる「色即是空 空即是色」による解脱です。
<凡夫の世界観> ---(方便の解脱)
仮=「色即是空」順観の十二因縁
空=「空即是色」逆観の十二因縁
中=「色即是空 空即是色」
先に紹介しました凡夫の仮観における三つの真理を不思議の解脱にあらず「方便の解脱」として説き明かしております。三つの真理とは、
客観における真理「色即是空」--- (相)
主観における真理「空即是色」--- (性)
実体の真理「色即是空 空即是色」--- (体)
で、この凡夫の世界観における「相・性・体」の真理が仮観における三つの真理、即ち「三諦」となります。
次に「実慧解脱」について。---(第七意識の転識)
もしは別教には、苦道は即ち是真性のの大涅槃にあらずと説きて、而も真性の涅槃の理あり。もしは生死の苦道は滅して、まさに真性を顕し、常住の涅槃を得て、煩悩道は即ち是れ実慧にあらざるを明かす。煩悩を断じて尽くさば、実慧はまさに円かに、業道は即ち是れ方便にあらざるを明かす。業を断じて別に方便を起こして物を化す。これすなわち十二因縁に三道は滅し、三種の解脱を得。真常の三種の解脱を弁ずといえども、なおこれ思議の相なり。
煩悩を断じ尽くし、生死の苦道も滅した常住の涅槃を得た境地が実慧解脱と智顗は申しております。そしてもともとの業を断じて「別に方便を起こして物を化す」とありますが、これは阿頼耶識の自身の過去世の悪しき業を断じ尽くすことでそれまで濁っていた第七末那識がクリアーな状態へと変わります。
智顗の弟子であった章安大師(灌頂)が智顗の『法華経』注釈をまとめた『法華文句』の中で、
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」
と釈した「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」がこれにあたります。また『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1108では、この三種の解脱を唯識の三識にあてはめて説明されております。その部分を紹介致します。
三識に類通せば、一つに、破陀那識はすなわち六識。二つに、阿陀那識はすなわち七識。三つに、阿黎耶識はすなわち八識なり。真性の解脱はすなわち阿黎耶識、実慧の解脱はすなわち七識、方便の解脱はすなわち六識。
(※阿陀那識=末那識、阿黎耶識=阿頼耶識の意)
更に段をまたいで七識について次のように申しております。
問うていわく。摂大乗論師(無著)は、七識はこれ執見の心と説く。なんぞこれ実慧の解脱というを得んや。
答えていわく。迷を転じて解を成ず。もしは迷執を離れて、いずこにか別して実慧の解あらん。ゆえに知る、七識は非迷非解、迷解を説くを得る解のゆえに、即ち是れ実慧の解脱なり。
これをもって天台及び日蓮教学では第七末那識を仏の意識と考えます。
更に『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1110(維摩経玄疏)では、この三種解脱を三身に類通させて説明されております。類通とは「共通のものとして類別する」といった意味になります。
三身の法身に類通せば、一つに、法身佛。二つに、報身佛。三つに、応身佛。なり。真性の解脱は即ち是れ法身の毘盧遮那佛。性浄の法身なり。実慧の解脱は即ち是れ報身の盧遮那佛。浄満の法身なり。方便の解脱は即ち是れ応身の釈迦牟尼佛。応化の法身なり。
ここでまず着目て欲しいのが、三種が三つとも〝法身〟と記されている点です。ここでは法身の中の三身、即ち三身如来と三種解脱とを類通させておられる訳です。また、真性を「毘盧遮那佛」とし実慧を「盧遮那佛」としている点も見逃せません。
仏教学の多くの学者さん達は、この毘盧遮那佛と盧遮那佛を同じ仏だと適当なことを申したりしますが、この二仏は明らかに意味が異なります。
毘盧遮那佛=法身
盧遮那佛=報身
釈迦牟尼佛=応身
といった仏の三身となります。仏の三身と言いましてもここでは、「三身の法身に類通せば」と申しておられますので「法」としての「如来の三身」を意味しております。
そして『維摩経玄疏』の解説は三種を涅槃に類通させ、真性の解脱を性浄の涅槃とし、実慧の涅槃を円浄の涅槃とし、方便の解脱を方便浄の涅槃とします。その意味するところは、>> 16の内容を組して考えますと、
性浄の涅槃 =八識による解脱
円浄の涅槃 =七識による解脱
方便浄の涅槃=六識による解脱
となる訳ですが、これに>> 18の内容を組しますと次のような類通となります。
性浄の涅槃 =八識による解脱 ---(法身如来)
円浄の涅槃 =七識による解脱 ---(報身如来)
方便浄の涅槃=六識による解脱 ---(応身如来)
ここまでの内容に対し『維摩経玄疏』では、問者の突っ込みが入ります。
その内容は次のようなものです。
問うていわく。もしは三種の解脱を明かして三種の般若に類通せば、なんぞまた三種の解脱を用って三種の涅槃に類通するを得んや。般若はこれ因の名、涅槃はこれ果の称、これすなわち因と果と混乱の過ちならん。
問者の言い分では、三種の解脱を仏の智慧(般若)に類通するならば、とありますのでその通りやってみましょう。真如の「法」が〝法身〟なのに対し、仏の「智慧」は〝報身〟です。その仏の智慧として説かれたのが『法華経』です。ではその『法華経』を般若(仏の智慧)として三種の解脱と類通させますと面白い結果が得られます。
<仏の智慧(法華経)の三身>
真性の解脱=法身 ---(妙法蓮華経=中)
実慧の解脱=報身 ---( 寿量品 =空)
方便の解脱=応身 ---( 方便品 =仮)
十如是の仮諦・空諦・中諦の三編読みです。
この場合、仏の智慧である般若は覚りに至る為の「因」にあたります。ですから問者は因位にある般若と果位にある涅槃が類通すると混同して乱立するではないかと突っ込んでいる訳ですね。因と果がそのまま=で類通するのはおかしな事だと。
それに対して智顗は次のように答えています。
答えていわく。別義に、経論にはときにこの説を作すものあり。円通了義の経なる般若と涅槃とは、並びに因果に通ず。ゆえに智度論(大智度論)にいわく、「もしは如法の観佛と般若と涅槃とは、これ三則一相、それ実に異なりあることなし」と。また涅槃の三徳は不縦不横、あに般若は果に至らずというを得んや。
又、次のようにも答えております。
三種涅槃に類通せば、一つに、法身。二つに、般若。三つに、解脱なり。真性の解脱は即ち法身。実慧の解脱は即ち摩訶般若。方便の解脱は即ち解脱なり。ゆえに涅槃経にいわく、「諸佛菩薩は、調伏するところの衆生の処に随うを、名づけて解脱となす」と。もしは煩悩を断じて生死を離るるを解脱となさば、二乗となんぞ異ならん。いま明かさく、大乗には、解脱して五道に生じてその身を示現す。自ずらすでに無縛なれば能く他縛を解す。この三徳は不縦不横にして三目のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大涅槃を成ず。三種の解脱と、三道、三識、三佛性、三般若、三種菩提、三大乗、三佛、三涅槃、三宝も、またかくのごとし。みな不縦不横にして世の伊字のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大解脱と名づく。すなわちこれ、大涅槃の百句の解脱、法華には一切の解脱を明かせるなり。
上記の内容を日蓮大聖人がどのように釈(解釈)しておられるかを次にご紹介致します。
その前に
麦や鹿野園の「空=仮=中」の三諦の理解はあの池田大作大先生の三諦論と全く同じ解釈となります。
池田先生の三諦論
https://syozou.blog.jp/archives/23428790.html
これはたんなる科学のお話です(実体に即した真理=析空)。
唯識三十頌 その② へ続く
https://zawazawa.jp/bison/topic/20