無為とは、人為的な要因が全く働かないという意味です。
人の考えや行動は主観と客観という二つの観によって起こります。
しかし、この主観と客観という観は凡夫の迷いの一念でしかありません。一念とは今一瞬の心を指して言います。凡夫の心は真理に暗い迷いの心です。なので無明です。この無明の迷いの心を因として外縁起の此縁性縁起で客観が起こり、内縁起の相依性縁起で主観が起こります。
この二種の縁起を空じる事で主観と客観が止滅し表層の第六意識から深層の第七末那識に意識が移行することで肉体(感覚器官)から解脱した仏の空観に入っていきます。
この二種の縁起を空じる事を人空と言います。
人空では、析空で客観を空じ、体空で主観を空じます。
更に法空で末那識に潜む根本自我を退治して平等性智を得ます。
平等性智とは、根本自我を退治した菩薩の智慧の事です。析空で客観を空じる事で成所作智を得ますがこれは声聞の智慧にあたります。体空で主観を空じて得る妙観察智は縁覚の智慧です。
析空(客観を空じる)=声聞の智慧 ---(成所作智)
体空(主観を空じる)=縁覚の智慧 ---(妙観察智)
法空(自我を空じる)=菩薩の智慧 ---(平等性智)
無為法は非空で仏の空観を空じて入る真如の世界における仏の智慧にあたります。
声聞の智慧が働く人は、此縁性縁起が薫習されておりますので物事を見た目で判断しません。そのモノがそのモノと成りえた因果で対象を捉えます。
縁覚の智慧が働く人は、相依性縁起が薫習されておりますので決めつけや勝手な思い込みで対象を観ません。相手の話をまず理解し相手の立場で物事を考える事が出来ます。
菩薩の智慧が働く人は、自我で「分別する心」から自我に捕らわれずに物事を「平等に見る心」へ意識が変わります。
この三つの智慧を得る事で開かれる智慧が『法華経』で明かされる〝仏の智慧〟です。
声聞の智慧、縁覚の智慧、菩薩の智慧の三つの智慧の事を「三乗の智慧」と言います。
お釈迦さまは『法華経』で、一乗の仏の教えを三乗に個別に開いて説き顕したことを明かします。これを「開三顕一」と言います。三乗の智慧を三智といい仏の智慧を一切智と言い、四つを合わせて四智とも言います。
一切智として「開三顕一」で開かれる仏の智慧の事を大円鏡智と言います。
三乗の智慧が縁起で起こるのに対し、この仏の智慧にあっては縁起は起こりません。
ここで起こるのは〝円融〟です。
縁起と円融の違いは、縁起が因と縁と果がそれぞれ個別に成り立っている要素が仮に和合して起こる現象(出来事)なのに対し、円融は因と縁と果が同時に同体で一体となって起こります。
『法華経』の方便品でお釈迦さまが仏の究極の覚りとして舎利弗に告げられた「十如是」がそれにあたります。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十の如是からなる十如是は、十の要素が縁起として順に起こるのではなく全てが等しく同時に同体で備わっており、この十如是で開かれる仮観・空観・中観の三つの世界観が円かに溶け合う事で円融します。
仮観・空観・中観とは、
仮観=凡夫の世界観
空観=仏の世界観
中観=真如の世界観
の三種の三観の事でして天台教学では、これを「三種三観」と言います。
因縁によって生じた、生滅・変化してやまない現実のありさまを有為といいます。
対して人間の全ての概念から向け出た「真如の世界」にあっては、時間も空間も存在しませんので生滅も変化も起こりません。この真如の世界を無為と言います。
三種の三観の世界観は、初期仏教で言うところの欲界・色界・無色界の三界にあたります。
仮観=凡夫の世界観 ---(欲界)
空観=仏の世界観 ---(色界)
中観=真如の世界観 ---(無色界)
凡夫や仏の世界観は縁起で起こりますので有為です。
その有為の凡夫や仏の意識から離れたところにあるのが無為の真如の世界(無色界)となります。
初期大乗仏教経典に『十地経』というのがありまして、後に『華厳経』に「十地品」として組み込まれ伝承されております。
内容は、菩薩の修行位階が十段階に分け説かれており、龍樹はこの『十地経』を註釈して『十住毘婆沙論』を著したりもしております。
その『十地経』に伝わる経句で、
「三界に属するもの、おおよそ(この一切)は、ただ心のみである。」(DBhS 49.10)
とありまして菩薩が覚る境地として「三界唯心」の一文が示されております。
また『十地経』よりもさらに古い原典で初期仏典の『般舟三昧経』でも、
「一切世界が心のみである」
と「三界唯心」が示されております。
この『般舟三昧経』で示され、『華厳経』の「十地品」に伝承された「三界唯心」を智顗が詳しく解き明かしたのが天台の「円融三観」となります。
お釈迦さまが『法華経』で説かれた「十如是」という無為の法を「円融三観」の一念三千の法門として解き明かしたのです。
無為と似た言葉で、無漏という仏教用語があります。
『唯識』では無漏の種子とか言いますが、この無漏とは迷いが無く不浄なものが尽きているといった意味です。
一念三千の〝一念〟とは今一瞬の心を指して言うのですが、凡夫は自身のどこを探しても迷いの心しかありません。真理に疎いのが凡夫ですから凡夫の心は〝無明〟なのです。
縁起というのは人為的に起こる(心が縁じて起こる)もので、凡夫の心を因として起こる限りそれは有漏であり不浄なものが完全に尽きているとは言えません。
たとえそれが阿頼耶識を因として起こる末那識であったとしても(阿頼耶識縁起)です。
禅宗などでは「はっ!」とした無意識で起こる気づきを仏の悟りのように教えられているようですが、無意識は末那識で起こる深層意識ですが、それに気づく意識は表層の第六意識ですし、因となっているのも自身の凡夫の阿頼耶識に過ぎません。
この深層の第七末那識と表層の第六意識の二つの意識で対象を捉えることを「片眼仏、片眼凡夫」などとも言ったりしますが、ここでの意識は凡夫の自身の阿頼耶識を因として起こる出来事(縁起)なのでこれは有為です。
>> 1のところで三乗の智慧を覚っている(理解している)人の話をしました。
これは正聞熏習と言いまして、正しい教えを繰り返し聴聞することで自身の阿頼耶識にその教えが知識として染み込んで行くことをいいます。
このような教えとして学ぶ「正聞熏習」は知識として蓄えられて行く種子で、これを有漏の種子と『唯識』ではいいます。
そしてこの有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけで無漏の種子とは成り得ないと『成唯識論』では説かれております。
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず」
今日では、三乗の智慧は、
蔵教=倶舎論 ---(声聞の智慧)
通教=中論 ---(縁覚の智慧)
別教=唯識論 ---(菩薩の智慧)
として我々は知識として学び得る事が出来ます。しかしそういった教えをいくら学んでも、それは有漏の種子を積み重ねているだけで無漏の種子、即ち仏性とは成り得ないというのです。
分かりやすく言いますと、
泳ぎ方をいくら教科書を読んで学んだと言っても、だからといっていきなり海に飛び込んで泳げるものではありませんよね。
泳ぎ方を教科書で学ぶ事は知識です。
しかし、実際に訓練しなければ泳ぐ事は出来ません。
無漏種子というのは、仏のもとで気の遠くなる程の長い歴劫修行を積み上げて熏習される種子なんです。
仏と全く縁が無い凡夫がどんなに正聞熏習しても無漏の種子とは成り得ません。
ですから法相宗では「五姓各別」が説かれているのです。
最終的に阿弥陀さまにお願いしましょうといった他力本願です。
しかし、それは『法華経』が説かれるまでは阿弥陀さまが責任もって浄土へ導きますといったもので、『法華経』が説かれると阿弥陀佛は期限切れの仏となります。
もともと阿弥陀佛は、お釈迦さまが化身となった姿で、そのお釈迦さまが法華経を説き、衆生がその教えを理解するに至れば阿弥陀さまのお役は必要なくなるからです。
阿弥陀佛は他受用報身なのに対し法華経では自受用報身が説かれます。
他力に頼らなくても、自らに覚りの果徳を受け用いる事が出来るのです。
『法華経』で説かれる無為の法門(一念三千の法門)を朝夕に実践する事で、声聞・縁覚・菩薩といった三乗が仏のもとで積み上げてきた歴劫修行の因果を自身の〝経験値〟として阿頼耶識に無漏種子として熏習されます。
それは知識ではなく、〝経験値〟です。
そのことを日蓮さんんは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の中で次のように仰せです。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
南無妙法蓮華経とは無為法なんです。
それがどのような無為の法なのかを説明しているのが「十如是」です。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮>
阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空>
阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中>
阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。