『唯識』を学ぶにあたって多くの人が最初に手に取る本と言えば、横山紘一著書の『唯識の思想』ではないでしょうか。
横山紘一と言えば仏教界における唯識学の第一人者である。
昭和を代表する仏教学者と言えばこの横山紘一と中村元が二大巨頭として有名だが、昨今の仏教界ではこの二人の仏教観が間違っていたのではと指摘する声があがってきている。
二人の仏教観に共通する過ち。
それは仏教の重要概念である「無我」の解釈である。
中村先生の無我解釈の誤りについては、こちらの
『間違いだらけの仏教の常識』
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16?page=1
レスNo.29 あたりから詳しく説明しております。
ここでは横山先生の唯識解釈の誤りについて詳しく説明していきます。
昭和の大先生方が陥った解釈の誤りの最大の原因に、仏教の重要概念である「空」の解釈問題があげられます。
龍樹が『中論』で顕した空理を中村先生が自身の著書『龍樹』で詳しく解説されております。龍樹が説いた空は「相依性縁起」だったとする先生の見解はお見事ではあるものの、それは空の持つ四大意義の第二義をひも解いたに過ぎません。『中論』の更に深層では第三義、第四義を龍樹は説いておりそれは仏教が中国に渡って天台智顗が「析空・体空・法空・非空」として詳しくひも解いております。
その内容についてはこちらで詳しく紹介しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
ネットで析空と体空の違いを調べてみてください。初議と第二義であるこの二空の違いですらまともに解説出来ている文献は見当たりません。
如何に昭和の大先生方が空理に暗かったかが分かるかと思います。
そういった昭和の学者さんの解釈で『唯識』を学ぶとこちらの動画解説のように、
【nTechチャンネル】量子力学で語る唯識
「宇宙は無い」といったおかしな事を胸を張って言いだします。
そのおかしな主張の根幹思想にあるのが横山先生の誤った唯識解釈です。
横山先生もそうですが、こういった主張をされる方々は概ね「客観の混同」に陥っております。
唯識では一人一宇宙を説きます。
これは人が認識している世界は自身の心が造りがしている事を言った言葉です。『華厳経』で説く、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
といった文句によるところです。
人の認識は、主観と客観とからなりますが、唯識ではその主観を見分と言い、客観を相分と言います。
この見分と相分とによって「実体」が立ち上がります。
「実体」とは、そのものの本当の姿。実質。正体のことで、認識の対象がもつ性質、状態、作用、関係などの根底に横たわってこれを根拠づけながら、同一性を保って自存するものを人間が言語によって定義づけした〝概念〟になります。
我々人間はこの「概念」で様々なモノを捉えております。
しかし、この人間が言葉で定義づけした概念によるところの「実体」は、そのモノの真実の姿を捉えた内容ではありません。
この概念は人間が勝手に考えて対象のモノにあてはめた言わば人間視点による勝手な人間解釈に過ぎず、対象のモノの本当の姿はそのモノがそのモノとなり得た因果で観ないと本当の姿は見えてはきません。
ですから仏教では、そういった人間の勝手な解釈を一旦リセットする為に「空」が説かれます。
「空の理論」の事を空理と言いますが、人間の客観を0リセットする事を析空と言い、主観を0リセットすることを体空と言います。この析空と体空の理論を覚る事で人は自身の主観と客観を機能停止させ脳内思考を空っぽにする事が出来ます。
人には必ず「先入観」という作用が働きます。
例えば暗闇でロープが道端に転がっていたとします。それを見て「蛇だ!」と勘違いして驚いたりします。これは「蛇は細長い生き物」という概念が既に脳内にあって、その概念が先行して働くことでロープであるにも関わらずそれを蛇だと誤認してしまう訳です。
人のこういった一連の動作の裏では五蘊という作用が働いております。
「色・受・想・行・識」という五つの働きが順に作用していく事で人の主観と客観が起こります。まず客観で対象を認識し主観でそれが何かを判別し、それに対してどう行動を起こすかといった一連の作用が識として記憶に蓄えられていきます。
その識の事を唯識では業(業識)と言いまして、この業が阿頼耶識という蔵に蓄えられていきます。
そういった業識や認識や意識といった八つの識からなる『唯識』の話はこちらで詳しく語っておりますの宜しかったらご覧ください。
唯識三十頌 その①
https://zawazawa.jp/bison/topic/19
ここではその『唯識』における客観について仏教学のお偉い学者さん達がこぞって陥っている重大な落とし穴について詳しくお話してまいります。
まず最初にこの落とし穴の重要なキーワードをお伝えしておきます。
それは唯識は人の認識についてのお話だという事です。
「人の認識において」なんです。
実際のところ、世界は人の認識だけでは出来ておりません。
最近、よく量子力学の話と唯識を結びつけて>> 2で紹介しました動画のような説を主張される方々がおられますが、量子力学というのは人の認識作用を力学に取り入れた学識になります。しかしモノの存在は、人の認識から離れて実在しております。
モノの存在は人の認識があって始めてその存在が認められます。
例えば誰も居ない宇宙空間を漂う石があったとします。しかし誰からもその存在を認識されないその石の存在は人の世界においては存在しません。
しかし実際のところは、その石は実在しております。
人の世界とは人間の認識における世界観です。仏教(天台教学)ではこの人間の世界観を仮観と言います。人間の認識の世界観では存在しない石ですが、その石は人間の認識とは全く関係ない世界で実在しております。
何が言いたいのかと言いますと、人間の認識だけが世界の全てでは無いという事です。
世界はあらゆるモノで形成されております。我々人間もそのモノの中の一部です。
まず大前提としてこの「世界はモノから出来ている」があります。その次に「人間が認識する世界」があります。その関係を構図として顕すと次のようになります。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
人が認識している世界は②の「主観と客観」からなる世界観です。それに対し宇宙を漂う石は①のモノの世界の方に実在しております。①の方は実在の世界です。この実在の世界を客体として②の人間が主体となった世界が立ち上がります。
その人間の世界は、主観と客観といった二つの観が一つの世界となって「人間の世界観」が形成されます。では、その人間の主観と客観とで①の実在の世界の全てを観じ取れているかと言えば、決してそうではありません。
人間はコウモリ程に音を繊細に聞き取れませんし、犬のような優れた嗅覚も持ち合わせません。視力にしても人間よりももっと優れた視力を持つ動物は幾らでもいます。例えば宇宙空間までも見えるといったあり得ない視力を持った生き物が居たとしたら、その生物の世界観では宇宙を漂う石の存在も認識されることでしょう。
わたしが見ている世界は、「わたし」の五蘊によって造られた世界です。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
それが②のわたしの主観と客観で立ち上がって見えている世界です。
しかし、その世界が世界の全てではありません。
またその世界は「わたし」による勝手な決めつけてで出来ている世界でもあります。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
②は人間の認識(主観と客観)で立ち上がる世界でこれを〝実体〟と言います。
それに対し①は人間の認識とは関係なく〝実在〟している世界。
この実体と実在について詳しくお話して参ります。
仏教では仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる初歩の仏道修行者の境涯を声聞と言います。仏の境涯は、肉体から解脱した存在です。肉体が持つ五蘊という働きによって我々人間は②の「実体の世界」の中で生きています。
仏はその肉体から解脱する事で実体の世界が消滅し①の実在の世界を観ます。肉体はありませんので「見る」のではなく「観る」になります。『般若心経』を説く観音さまが音を「聞く」のではなく音を「観る」と書くのも同じ意味です。
仏には五蘊は働いておりません。
五蘊皆空といって五蘊の働きが全て停止しているのです。
②の人間の認識(主観と客観)から離れる訳です。
人間の認識(主観と客観)から離れて①のモノのあり様を「因果」で観るのです。
我々人間は対象となる①を主観と客観とで認識します。
〝客観〟でまず対象の姿・形を捉え自身の認識として受け止めます。(色→受)
次にそれが何なのかを〝主観〟で考えます。(想)
考えて次にそれをどうするかといった行動が起こります。(行)
そして最後に一連の内容が脳に記憶されます。(識)
これが色・受・想・行・識といった人間の五蘊の働きです。
仏はこの人間の五蘊という認識作用を用いません。
「五蘊皆空」と言いまして五蘊の働きを全て空じます。
〝空じる〟とは空っぽにするという意味です。
②を空じて①の人間の認識から離れた〝客観的〟に存在する対象を観ます。
五蘊を空しているので「見る」事は出来ません。
「観る」のです。
何を観るのかと言いますと、そのモノがそのモノと成り得た〝因果〟を観るのです。
ここでちょっと考えて頂きたいのですが、>> 2のような「人が認識するまでモノは存在しなし」といった主張に対して次のようなケースを考えてみましょう。