『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』ではその因果を次のように説明されております。
疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等」と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。 問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
ここで着目して欲しいのが、
金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」
の御文です。
中でも最後の「縁了を具足す」という文句です。
全てのモノにはそれぞれに因果が備わっており、しかもその縁起は完了してそのモノに備わっていると。
要するに十如是の本末究竟等だと言われているのです。
犬にも石にも仏性が有るとは、こういう事を言うのです。
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