『ゆゆしき仏教大学』 https://talk.jp/boards/psy/1732820422
『ゆゆしき仏教大学』のホワイト・ボードとして活用して行きます。
楽しく仏教を学べる空間をクリエートして参ります。
ちなみに日蓮大聖人は、
答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、『当体義抄』
南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ『曾谷入道殿許御書』
所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず『妙法曼陀羅供養事』
観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや『五人所破抄』
と述べられ、薬王菩薩が天台智顗に、観音菩薩が南岳大師へと欲界に生まれ出てたと述べられております。
客観性を以て証明出来ないこういった話を、仏教学の学者さん達は、絵空話や喩え話だと捉えますが、それは仏教を学術として研究なれておられる学者さん達の見解であって、仏教は学術ではありません。
信仰として説かれているのが仏教です。
信仰とは、仏が説かれた教えを信ずるといった信心で成り立つ世界です。
学者さん達の研究のように、客観性で成り立つ世界ではありません。
ここをはき違えている方も沢山居られます。
経典が存在しないから捏造だとか、『法華経』で説かれている話は非現実的で作り話だとか、言われて仏の教えを信じようとされません。
信仰の世界にあっては、説かれている教えが捏造されたものか、それとも仏が説かれた真実の教えなのかを見極める基準がちゃんと設定されております。
教学に疎い方は、ご存じないかと思いますが、仏典を制作するにあたってインドでは、仏典の結集というのが行われており、仏典は勝手に誰かが作ったりは出来ない事になっております。
お釈迦さまが亡くなられた後、教えを正しく伝える為に説法を整理して仏典の編集作業が行われました。これを結集といいます。釈迦が亡くなった翌年に、教団の長老たちが集まって開かれた第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われた事になっております。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われております。
これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられました。これを三蔵教といいます。
天台教学の「蔵教・通教・別教・円教」の四教の中の蔵教がこれにあたります。
この仏典結集の参加資格に阿羅漢果を習得していなければならないという厳しい条件が設定されておりました。
ウィキペディアの阿難の項をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿難
次のような内容が紹介されております。
出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。
こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという[3]。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。
阿羅漢果に達するって、どういう事だか分かりますか?
肉体から意識が解脱するという事です。
肉体から意識が解脱する事で、人間の意識から完全に離れます。
瞑想でいうところの色界禅定で、主観と客観を空じて意識として禅天に入る事をいいます。
その禅天に観音菩薩や弥勒菩薩や普賢菩薩に薬王菩薩といった天部の菩薩衆が居られます。
こういうお話は客観性で立証出来る内容ではありません。
信仰の世界のお話なんですね。
信じるか信じないかのお話です。
そもそも仏の教えって、人間の認識から離れておりますので、人間の認識で確認出来る世界観ではないんです。
ですから、大乗仏教では、『大乗起信論』で信じる事の意義が真っ先に説かれているんです。
それに対し、小乗仏教は実在の真理が説かれておりますので、人間の客観の世界観のお話なんです。
これを世俗の真理と申しまして、「世俗諦」といいます。
三蔵教の論蔵である『倶舎論』で説かれている内容がこの世俗の真理、即ち「世俗諦」です。
世俗とは世間一般の事をいい、科学や物理学といった学術レベルの真理がこれにあたります。
龍樹が解き明かした空の理論は、この世俗諦に対し、実在から離れた(解脱した)仏の世界観である空観へ意識として入って行く方法を詳しく解き明かした理論です。
これを勝義諦とも真諦ともいいます。
凡夫の実在の世界の真理=世俗諦(俗諦) 仏の非実在の世界の真理=勝義諦(真諦)
ちょっと休憩を挟みます。
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ちなみに日蓮大聖人は、
答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、『当体義抄』
南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ『曾谷入道殿許御書』
所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず『妙法曼陀羅供養事』
観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや『五人所破抄』
と述べられ、薬王菩薩が天台智顗に、観音菩薩が南岳大師へと欲界に生まれ出てたと述べられております。
客観性を以て証明出来ないこういった話を、仏教学の学者さん達は、絵空話や喩え話だと捉えますが、それは仏教を学術として研究なれておられる学者さん達の見解であって、仏教は学術ではありません。
信仰として説かれているのが仏教です。
信仰とは、仏が説かれた教えを信ずるといった信心で成り立つ世界です。
学者さん達の研究のように、客観性で成り立つ世界ではありません。
ここをはき違えている方も沢山居られます。
経典が存在しないから捏造だとか、『法華経』で説かれている話は非現実的で作り話だとか、言われて仏の教えを信じようとされません。
信仰の世界にあっては、説かれている教えが捏造されたものか、それとも仏が説かれた真実の教えなのかを見極める基準がちゃんと設定されております。
教学に疎い方は、ご存じないかと思いますが、仏典を制作するにあたってインドでは、仏典の結集というのが行われており、仏典は勝手に誰かが作ったりは出来ない事になっております。
お釈迦さまが亡くなられた後、教えを正しく伝える為に説法を整理して仏典の編集作業が行われました。これを結集といいます。釈迦が亡くなった翌年に、教団の長老たちが集まって開かれた第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われた事になっております。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われております。
これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられました。これを三蔵教といいます。
天台教学の「蔵教・通教・別教・円教」の四教の中の蔵教がこれにあたります。
この仏典結集の参加資格に阿羅漢果を習得していなければならないという厳しい条件が設定されておりました。
ウィキペディアの阿難の項をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿難
次のような内容が紹介されております。
出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。
こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという[3]。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。
阿羅漢果に達するって、どういう事だか分かりますか?
肉体から意識が解脱するという事です。
肉体から意識が解脱する事で、人間の意識から完全に離れます。
瞑想でいうところの色界禅定で、主観と客観を空じて意識として禅天に入る事をいいます。
その禅天に観音菩薩や弥勒菩薩や普賢菩薩に薬王菩薩といった天部の菩薩衆が居られます。
こういうお話は客観性で立証出来る内容ではありません。
信仰の世界のお話なんですね。
信じるか信じないかのお話です。
そもそも仏の教えって、人間の認識から離れておりますので、人間の認識で確認出来る世界観ではないんです。
ですから、大乗仏教では、『大乗起信論』で信じる事の意義が真っ先に説かれているんです。
それに対し、小乗仏教は実在の真理が説かれておりますので、人間の客観の世界観のお話なんです。
これを世俗の真理と申しまして、「世俗諦」といいます。
三蔵教の論蔵である『倶舎論』で説かれている内容がこの世俗の真理、即ち「世俗諦」です。
世俗とは世間一般の事をいい、科学や物理学といった学術レベルの真理がこれにあたります。
龍樹が解き明かした空の理論は、この世俗諦に対し、実在から離れた(解脱した)仏の世界観である空観へ意識として入って行く方法を詳しく解き明かした理論です。
これを勝義諦とも真諦ともいいます。
凡夫の実在の世界の真理=世俗諦(俗諦)
仏の非実在の世界の真理=勝義諦(真諦)
ちょっと休憩を挟みます。