仏教のお話

無量義経:説法品第二 / 11

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ダルマ太郎 2024/06/06 (木) 16:40:25

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無量義は一法より生ず
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経:無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす。
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論:仏教の経典は、山ほどあります。キリスト教の聖書やイスラム教のコーランに比べると膨大です。なぜ、そのように多くの経典があるのでしょう? それは、人々の根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量だから教義もまた無量です。つまり、対機説法だから多くの教義があるわけです。よって、多くの経典がつくられました。人々を救おうとするから、そのような結果になったのでしょう。

教義は無量でも、無量の教義は一つの真理より生じるといいます。一つの真理をもとにして、無量の教えを展開するのです。その一つの真理とは無相です。この無相とは、相が無く、相にはならず、相にならずして、相がないことを実相といいます。相とは、ラクシャナー lakṣaṇā の訳で、意味は、特徴・形です。この場合は、特徴の意味ですので、無相とは「特徴が無い」ということです。一つの真理とは、特徴が無いということです。

特徴とは、他と比べることによって成り立ちます。大きいというのは、それよりも小さいものがなければ成り立たず、長いというのは、それよりも短いものがなければ成り立ちません。そのもの自体では、大きいとか小さいとか、長いとか短いという特徴をみることはできません。つまり、因縁によって特徴はあります。
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経:菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽けらくを受けしむ。

論:一切の事象には特徴がありません。特徴が無いので、執着の対象はありません。よって、菩薩は、無執着によって教えを説くのです。とらわれが無いので自由自在に教えを説くことができます。相手が男だとか女だとか、大人だとか子供だとか、金持ちだとか貧乏だとかを観ることが無く、ただ真理を知らないために迷い、悩み、苦しんでいることを観て、真理を学習できるように関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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論:無量義の行をまとめると、まず菩薩は、真理においても現象においても、空であり涅槃であると学ぶことが大事です。あらゆるものには実体は無く、因縁によって現象を作りませんので、大きいとか小さいという特徴はありません。生じる・滅する、とどまる・動く、進む・退くという特徴もありません。一切の特徴はないので執着の対象はありません。二つに分けてみるのではなく、すべては一つであることを観察することが必要です。

しかし、人々は、分けて認識しますから、自分の感情に従って人やものと関り、区別や差別を作ります。一つ一つの特徴をみて、欲しいものには近づこうとし、欲しくないものとは離れようとします。欲しくても手に入らないことは多いし、欲しくなくても離れられないことは多々ありますから、そのことで苦が生じます。真理を知らなければ、分別することは続きますので苦はずっと続きます。

そういう人々を救うために、さらに事象の観察をすれば、事象は真理によって生じ、維持し、変異し、滅することが分かります。瞬瞬に変化しています。個の変化は、真理によって有るのです。悪も善も同じです。教えを受けて理解する能力(根)、性格、欲求も変化しています。当然ながら、機根・性格・欲求も瞬瞬に生住異滅しています。よって、根性欲は無量であり、人それぞれで根性欲は異なりますから無数無量です。相手に合わせて説法をしようとすれば、説法は無量であり、説法が無量なので教義もまた無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。その真理は無相です。つまり、特徴が無いことです。特徴が無いので、説法者は一切に執着することなく相手と関わります。そのような関わりの中で生じる慈悲は本物です。人々の苦を抜き、人々を安楽へと導きます。
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無量義は一法より生ず
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