左端に描かれている男性は、フェルメール自身であったという説がある。
「ワイングラス(紳士とワインを飲む女)」(1658年~59年頃、ベルリン、国立美術館蔵)
「取り持ち女」(1656年頃、ドレスデン、国立古典絵画館蔵)
「マルタとマリアの家のキリスト」(1654年~55年頃、エディンバラ、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)
「ディアナとニンフたち」(1653年~54年頃、ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)
「二人のタヒチの女性」は、1899年にポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。タヒチ島在住でマンゴと花を手に持つトップレスの二人の女性を描いたものである。 女性たちは鑑賞者の方へ堂々と裸の身体を向けている。女性の胸を花や果物と一緒に描いており、明らかに鑑賞者を誘惑しているのがわかる。 しかし、彼女たちの視線はよくみると少しずれている。左の女性の首から下は強い光で照らされるが、身体に比べて表情は薄暗い。 「名状しがたい彼女たちの素朴さ」、同時に「恥じなく裸で動き回ることができる」とゴーギャンはタヒチの女性たちについて話している。
3億ドルで取引された最も高額な近代美術作品の一つ
ゴーギャンは、1891年に初めてタヒチへ旅行する。目的はプリミティブ・アートに影響を受けたフランス画家たちの疑似作品ではなく、純粋なプリミティブ・アートを創造するための「エデンの園」を見つけるためだった。
タヒチに到着すると、ゴーギャンが想像していたものではないことがわかった。タヒチは18世紀にフランスに植民地化されていて、少なくともヨーロッパの人々にもたらされた伝染病が原因で先住民の3分の2以上の人々は亡くなっており、原始的な文化はなくなっていた。 それにも関わらず、ゴーギャンは現地に滞在して多くのネイティブの女性たちを描いた。彼女たちはときにヌードであり、伝統的なタヒチ民族衣装を着たり、西洋風のドレスを身に着けていた。
ゴーギャンはマルティニーク島でゴッホと出会い、ゴッホと彼の弟テオはゴーギャンの作品を褒め称えた。ゴッホとゴーギャンは親友になりつつあった。
ゴーギャンとゴッホの関係は波乱に満ちたものだった。1888年にテオにそそのかれて、ゴーギャンとゴッホは9週間、アルルにあるゴッホの「黄色い家」で共同制作を行った。しかし、ゴッホによる耳切り事件の後、二人の関係は悪化した。結局、ゴーギャンは黄色い家を去ることにした。
その後、2人は二度と会うことはなかったが、関係は続いており、手紙のやり取りは続けた。 ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。
ゴーギャンの作品は、フォークアート(土地固有の文化から生まれたアート、実用的かつ装飾的)と日本の浮世絵の影響を受けながら、「クロワゾニスム」に向かっていった。
クロワゾニスムとは、批評家が、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴としたエミール・ベルナールの描き方に対して付けた名前。中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から由来している。
クロワゾニスムの代表的な作品は1889年の「黄色いキリスト」で、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。このような作品においてゴーギャンは、古典的遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則をほとんど無視している。
またのちに彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ「綜合主義」に向かっていく。
ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方の画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。(ポン=タヴァン派と呼ばれることになる)
この展示はまた後期印象派のリーダーとして新印象派のジョルジュ・スーラを引き立てるきっかけとなった。しかし、ゴーギャンはスーラの新印象派の点描画法を否定し、その年の後半にはピサロとの関係が決定的に亀裂が入ることになる。その後2人は敵対的な態度をとるようになった。
その夏、ゴーギャンは1886年の第8回印象派展で見たピサロやドガの絵画の方法で、ヌード画のパステルドローイングをいくつか制作している。おもに「ブルターニュの羊飼い」が代表的な作品。人物が従属的な役割を果たす風景画を描いた。「若いブルターニュの少年の水浴」は彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマである。はっきりと大胆で純粋な色使いや、その構図においてドガの影響を受けている。
1885年6月にゴーギャンは6歳の息子クロヴィスとともにパリへ戻る。 パリに戻って最初の年の間は、ゴーギャンはほとんど絵画制作をしなかった。ゴーギャンは1886年5月の「第8回印象派展」で19枚の絵画と木製レリーフを展示する。これらの作品の大半はルーアンやコペンハーゲン滞在時に制作した初期作品で、新作もあったが目新しい要素はほとんどなかった。唯一あるとすればこのときに展示された「水浴する女性」で、その後、作品に繰り返し現れるモチーフとなった。
1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚。その後10年で、彼女との間に五人の子どもをもうけた。 1879年 ゴーギャンは株取引で年間3万フランを稼いだ。しかし、1882年に株式市場が崩壊すると、その影響は美術市場にも及んだ。ピサロ、モネ、ルノワールなど印象派の作品を扱っていた画商のポール・デュラン=リュエルは特に美術市場崩壊の影響を受け、ゴーギャンをはじめ多くの画家から絵を購入するのをやめてしまった。ゴーギャンの収入は急減し、彼はフルタイムの画家になる計画を立て、ピサロやポール・セザンヌらと絵を描き始めた。
ゴーギャンはカミーユ・ピサロと親交を築くようになり、日曜日にピサロのもとを訪れて、ピサロの指導のもと自身でも絵を描き始める。ピサロはゴーギャンにさまざまな画家を紹介した。 1881年や1882年に開催された印象派展でゴーギャンは作品を出品。この展覧会で「ヴォジラール市場」などの作品が展示された。当時、ゴーギャンの作品は酷評された。
・「子どもの脳」は、1917年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。エディプス・コンプレックスが主題である。 ・「子どもの脳」というタイトルが少年期の心象風景の想起である。意識のバリアである半開きのカーテンの向こう側には半裸で目を閉じて日頃の権威はすっかり剥奪されている父親がいる。立派な口ひげも、今となっては滑稽で小道具でしかない。手前の金色の美しい書物には朱色の細ひもがはさまれている。 ・キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてよいだろう。
1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状建築の「形而上学的形態」(トリノにはきわめて特徴的な全く同じ長いアーケードの建物「ポルチコ」がたくさんあった)に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。(「形而上学」とは、世界の根本原因、物や人間の存在の理由や意味などについて物質ではなく理性的な思考で解決しようとする形式的な学問であり、哲学である)
1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソやギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。そのせいか、1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。
・デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。
・彼は、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。
・1909年の夏にイタリアへ戻り、ミラノで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。(1915年 彼は来たイタリアのフェッラーラに駐屯した。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したのではないかとも言われる)
・1910年始め、ミラノを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた 「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。
私(ぐりりん)個人としては、この構図に「不安定さ」と「愛情(ハート)」を感じている。
『ジャズ』は、切り紙絵を原画とする20点の挿絵と自筆のテキストを収めたマティスの挿絵本の集大成です。挿絵のテーマはサーカスと劇場に関わるもの、珊瑚礁、またハート型や単純化されたトルソといった抽象的な題材に分けられます。出版者テリアードに依頼された当初、マティスはサーカスを主題にした版画集を構想しましたが、完成までのあいだにタイトルはジャズに変更されました。版の制作についても、まず木版が試されましたが、最終的に切り紙絵のシャープな輪郭線を再現できる紙製のステンシル版が用いられ、あらゆる面で理想の書物が追究されました。
この本のなかで、マティスは次のように記しています。
「ジャズ―生き生きとして激しい色調のこれらのイメージは、サーカス、民話、そして旅の記憶が結晶化したものから派生している。私はこのページを、私の色彩とリズムの即興によって同時におこる効果を和らげるために書いている。それぞれのページは、音が鳴り響く場を形成し、それらの個性にあわせて支え、包み込み、守っている」。 (ポーラ美術館「紙片の宇宙」より)
1940年代初頭から中頃にかけて、マティスの容態は悪くなって筆を持って絵の制作はできなくなっていた。そうした環境でベッド上で手軽にできる制作として始めたのがカットアウト作品である。 本作「かたつむり」は晩年のマティス作品でも最も重要なものである。 「かたつむり」というタイトルが示すように、着色されたさまざまな色付きの図形が螺旋状に配置されている。マティスは最初にかたつむりを描いていたが、その後、色付きの紙を使って抽象的に表現することにした。 紙の配置は「補色関係」に注意を払っており、たとえば緑の隣に赤が置かれ、青の隣に黃が置かれている。マティスはこの作品を別名「色彩構成」と呼んでいた。
モロッコ人のおだやかなライフスタイルに影響を受けて制作した作品が「金魚」である。
1906年にマティスはアルジェリアへ旅行し、アフリカ・アートやプリミティビスムに影響を受ける。この頃からマティス作品は海外旅行で出会ったさまざまな外国文化を創作の源泉にするようになる。 また1906年4月にマティスは、11歳年下のパブロ・ピカソと出会う。その後、2人は終世の親友であり、またライバルとなった。 2人の作品の大きな違いとしては、マティスは「緑豊かな自然」を描くのに対して、ピカソが自然を描くことはなく、もっぱら「想像の世界」を探求していたことだろう。しかし、共通して描いた主題は女性で、描かれた女性は妻(または愛人)だった。
「赤い部屋」
1910年にミュンヘンでイスラム美術の大展覧会を鑑賞したあと、2ヶ月間イスラム美術を学ぶためスペインで過ごす。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジェに滞在して絵を描きながら画風を変化させていった。
1910年版「ダンス(Ⅱ)」は、1909年にロシアの富裕コレクターのセルゲイ・シチューキンからの依頼によって制作された装飾パネル作品である。 現在はロシア サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館が、所蔵している。 (写真は割愛する。)
写真は、アメリカ合衆国・フィラデルフィア郊外にあるバーンズ財団の壁画 「ダンスⅡ」。 コレクターであり、美術研究家であったバーンズはマティスと良好な関係を築いていた。 そして、1930年 マティスにより中央ギャラリーの壁画「ダンスⅡ」が完成した。
明るい青と緑の背景で踊る人物の表現は歓喜に溢れ、初期のフォーヴィスム作品を彷彿とさせる。弛緩し不定形な人物はマネキン人形のようで自らを支えきれない。人物の表情は曖昧で、スケッチ画のような構成になっている。 涼やかな青と緑の背景の上に、対照的な激しい暖かい色とリズミカルなダンスをするヌードという構図は、抑圧された感情の解放や快楽主義を鑑賞者に伝える。
マティス自身は自分の芸術についてこう語っている。 「われわれは、構想と手段を単純化することで晴朗さに向かっている。唯一の目標は、全体性だ。線を手段にして自分自身を表現することを学ぶ必要がある。おそらく学び直すということだ。造形芸術は、『ダンス』の大画面に使われた空の青、人体のピンク、丘の緑といった最も単純な手段によって、最も直接的な感動を掻き立てることができるだろう。」
1907年の作品《青いヌード》は、大きな批判を浴び、海外でも評判はよくなかった。
フォーヴィスム宣言のひとつといえるエポック的作品。 フォーヴィスムの運動は、マティスに何らキャリアアップのメリットを与えることがないまま1906年を境に衰退する。マティスの秀作の多くは1906年から1917年にかけて制作されており、当時マティスは、パリのモンパルナスの芸術家集団の1人として活動していた。
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。
ガンに冒され、無神論者だったマティスが無報酬で最後の力を振り絞って描いた壁画とステンドグラスは、マティス芸術の集大成。 1948年 制作開始、1951年 完成した際、マティスは81歳。 完成の3年後、マティスは生涯を閉じる。 生前、マティスは「制作している時だけは神を信じる」と言っていたという。
ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワの《 アルジェの女たち 》のオマージュ作品で、「A」から「O」までの合計15作品の連作
当時のピカソは50歳。 描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。 シュルレアリスム(超現実主義)と初期のフォーヴィスムが融合した作風といえる。 フォーヴィスム(仏: Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。 原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチが特徴。
シュルレアリスムによる作品 『ゲルニカ』(Guernica)は、ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画・タペストリーである。ドイツ空軍によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされる。 ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われる。
ピカソ新古典主義時代の代表作 ドミニク・アングルの「オダリスク」やルノワールのヌード絵画からはっきりと影響を受けていた。
【総合的キュビスム】(1912年~1918年) 文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。 こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。 "コラージュ"という言葉は20世紀初頭にジョルジュ・ブラックとパブロ・ピカソによって作られた造語である。
1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの恋愛関係が影響している。 恋人オリヴィエと旅行したスペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。 1905年 ピカソはアンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。
【アフリカ彫刻の時代】(1907-1909年) 作品右側の二人の女性の顔の造形にはアフリカ彫刻の影響が見られる。 この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。
【分析的キュビスム】(1909-1912年)は、ピカソがジョルジュ・ブラックとともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。 分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。 キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。
1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。 1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。
・「ばら色の時代」(1904年~1907年) 恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
1) 【 ポップちゃんねる「ぐりりん」( アート関連動画 )】 https://www.youtube.com/channel/UCrCAWeIfoZIXlWDffcEDiJQ?view_as=subscriber 2)【 アートペディア(Artpedia)】 https://www.artpedia.jp/ 3) 【 THE MET(メトロポリタン美術館)】 https://www.metmuseum.org/ 4) 【 MOMA(ニューヨーク近代美術館)】 https://www.moma.org/ 5) 【 Louvre (ルーヴル美術館)】 https://www.louvre.fr/jp
左端に描かれている男性は、フェルメール自身であったという説がある。
「ワイングラス(紳士とワインを飲む女)」(1658年~59年頃、ベルリン、国立美術館蔵)
「取り持ち女」(1656年頃、ドレスデン、国立古典絵画館蔵)
「マルタとマリアの家のキリスト」(1654年~55年頃、エディンバラ、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)
「ディアナとニンフたち」(1653年~54年頃、ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)
「二人のタヒチの女性」は、1899年にポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。タヒチ島在住でマンゴと花を手に持つトップレスの二人の女性を描いたものである。
女性たちは鑑賞者の方へ堂々と裸の身体を向けている。女性の胸を花や果物と一緒に描いており、明らかに鑑賞者を誘惑しているのがわかる。
しかし、彼女たちの視線はよくみると少しずれている。左の女性の首から下は強い光で照らされるが、身体に比べて表情は薄暗い。
「名状しがたい彼女たちの素朴さ」、同時に「恥じなく裸で動き回ることができる」とゴーギャンはタヒチの女性たちについて話している。
3億ドルで取引された最も高額な近代美術作品の一つ
ゴーギャンは、1891年に初めてタヒチへ旅行する。目的はプリミティブ・アートに影響を受けたフランス画家たちの疑似作品ではなく、純粋なプリミティブ・アートを創造するための「エデンの園」を見つけるためだった。
タヒチに到着すると、ゴーギャンが想像していたものではないことがわかった。タヒチは18世紀にフランスに植民地化されていて、少なくともヨーロッパの人々にもたらされた伝染病が原因で先住民の3分の2以上の人々は亡くなっており、原始的な文化はなくなっていた。
それにも関わらず、ゴーギャンは現地に滞在して多くのネイティブの女性たちを描いた。彼女たちはときにヌードであり、伝統的なタヒチ民族衣装を着たり、西洋風のドレスを身に着けていた。
ゴーギャンはマルティニーク島でゴッホと出会い、ゴッホと彼の弟テオはゴーギャンの作品を褒め称えた。ゴッホとゴーギャンは親友になりつつあった。
ゴーギャンとゴッホの関係は波乱に満ちたものだった。1888年にテオにそそのかれて、ゴーギャンとゴッホは9週間、アルルにあるゴッホの「黄色い家」で共同制作を行った。しかし、ゴッホによる耳切り事件の後、二人の関係は悪化した。結局、ゴーギャンは黄色い家を去ることにした。
その後、2人は二度と会うことはなかったが、関係は続いており、手紙のやり取りは続けた。
ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。
ゴーギャンの作品は、フォークアート(土地固有の文化から生まれたアート、実用的かつ装飾的)と日本の浮世絵の影響を受けながら、「クロワゾニスム」に向かっていった。
クロワゾニスムとは、批評家が、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴としたエミール・ベルナールの描き方に対して付けた名前。中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から由来している。
クロワゾニスムの代表的な作品は1889年の「黄色いキリスト」で、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。このような作品においてゴーギャンは、古典的遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則をほとんど無視している。
またのちに彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ「綜合主義」に向かっていく。
ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方の画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。(ポン=タヴァン派と呼ばれることになる)
この展示はまた後期印象派のリーダーとして新印象派のジョルジュ・スーラを引き立てるきっかけとなった。しかし、ゴーギャンはスーラの新印象派の点描画法を否定し、その年の後半にはピサロとの関係が決定的に亀裂が入ることになる。その後2人は敵対的な態度をとるようになった。
その夏、ゴーギャンは1886年の第8回印象派展で見たピサロやドガの絵画の方法で、ヌード画のパステルドローイングをいくつか制作している。おもに「ブルターニュの羊飼い」が代表的な作品。人物が従属的な役割を果たす風景画を描いた。「若いブルターニュの少年の水浴」は彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマである。はっきりと大胆で純粋な色使いや、その構図においてドガの影響を受けている。
1885年6月にゴーギャンは6歳の息子クロヴィスとともにパリへ戻る。
パリに戻って最初の年の間は、ゴーギャンはほとんど絵画制作をしなかった。ゴーギャンは1886年5月の「第8回印象派展」で19枚の絵画と木製レリーフを展示する。これらの作品の大半はルーアンやコペンハーゲン滞在時に制作した初期作品で、新作もあったが目新しい要素はほとんどなかった。唯一あるとすればこのときに展示された「水浴する女性」で、その後、作品に繰り返し現れるモチーフとなった。
1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚。その後10年で、彼女との間に五人の子どもをもうけた。
1879年 ゴーギャンは株取引で年間3万フランを稼いだ。しかし、1882年に株式市場が崩壊すると、その影響は美術市場にも及んだ。ピサロ、モネ、ルノワールなど印象派の作品を扱っていた画商のポール・デュラン=リュエルは特に美術市場崩壊の影響を受け、ゴーギャンをはじめ多くの画家から絵を購入するのをやめてしまった。ゴーギャンの収入は急減し、彼はフルタイムの画家になる計画を立て、ピサロやポール・セザンヌらと絵を描き始めた。
ゴーギャンはカミーユ・ピサロと親交を築くようになり、日曜日にピサロのもとを訪れて、ピサロの指導のもと自身でも絵を描き始める。ピサロはゴーギャンにさまざまな画家を紹介した。
1881年や1882年に開催された印象派展でゴーギャンは作品を出品。この展覧会で「ヴォジラール市場」などの作品が展示された。当時、ゴーギャンの作品は酷評された。
・「子どもの脳」は、1917年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。エディプス・コンプレックスが主題である。
・「子どもの脳」というタイトルが少年期の心象風景の想起である。意識のバリアである半開きのカーテンの向こう側には半裸で目を閉じて日頃の権威はすっかり剥奪されている父親がいる。立派な口ひげも、今となっては滑稽で小道具でしかない。手前の金色の美しい書物には朱色の細ひもがはさまれている。
・キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてよいだろう。
1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状建築の「形而上学的形態」(トリノにはきわめて特徴的な全く同じ長いアーケードの建物「ポルチコ」がたくさんあった)に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。(「形而上学」とは、世界の根本原因、物や人間の存在の理由や意味などについて物質ではなく理性的な思考で解決しようとする形式的な学問であり、哲学である)
1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソやギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。そのせいか、1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。
・デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。
・彼は、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。
・1909年の夏にイタリアへ戻り、ミラノで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。(1915年 彼は来たイタリアのフェッラーラに駐屯した。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したのではないかとも言われる)
・1910年始め、ミラノを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた
「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。
私(ぐりりん)個人としては、この構図に「不安定さ」と「愛情(ハート)」を感じている。
『ジャズ』は、切り紙絵を原画とする20点の挿絵と自筆のテキストを収めたマティスの挿絵本の集大成です。挿絵のテーマはサーカスと劇場に関わるもの、珊瑚礁、またハート型や単純化されたトルソといった抽象的な題材に分けられます。出版者テリアードに依頼された当初、マティスはサーカスを主題にした版画集を構想しましたが、完成までのあいだにタイトルはジャズに変更されました。版の制作についても、まず木版が試されましたが、最終的に切り紙絵のシャープな輪郭線を再現できる紙製のステンシル版が用いられ、あらゆる面で理想の書物が追究されました。
この本のなかで、マティスは次のように記しています。
「ジャズ―生き生きとして激しい色調のこれらのイメージは、サーカス、民話、そして旅の記憶が結晶化したものから派生している。私はこのページを、私の色彩とリズムの即興によって同時におこる効果を和らげるために書いている。それぞれのページは、音が鳴り響く場を形成し、それらの個性にあわせて支え、包み込み、守っている」。
(ポーラ美術館「紙片の宇宙」より)
1940年代初頭から中頃にかけて、マティスの容態は悪くなって筆を持って絵の制作はできなくなっていた。そうした環境でベッド上で手軽にできる制作として始めたのがカットアウト作品である。
本作「かたつむり」は晩年のマティス作品でも最も重要なものである。
「かたつむり」というタイトルが示すように、着色されたさまざまな色付きの図形が螺旋状に配置されている。マティスは最初にかたつむりを描いていたが、その後、色付きの紙を使って抽象的に表現することにした。
紙の配置は「補色関係」に注意を払っており、たとえば緑の隣に赤が置かれ、青の隣に黃が置かれている。マティスはこの作品を別名「色彩構成」と呼んでいた。
モロッコ人のおだやかなライフスタイルに影響を受けて制作した作品が「金魚」である。
1906年にマティスはアルジェリアへ旅行し、アフリカ・アートやプリミティビスムに影響を受ける。この頃からマティス作品は海外旅行で出会ったさまざまな外国文化を創作の源泉にするようになる。
また1906年4月にマティスは、11歳年下のパブロ・ピカソと出会う。その後、2人は終世の親友であり、またライバルとなった。
2人の作品の大きな違いとしては、マティスは「緑豊かな自然」を描くのに対して、ピカソが自然を描くことはなく、もっぱら「想像の世界」を探求していたことだろう。しかし、共通して描いた主題は女性で、描かれた女性は妻(または愛人)だった。
「赤い部屋」
1910年にミュンヘンでイスラム美術の大展覧会を鑑賞したあと、2ヶ月間イスラム美術を学ぶためスペインで過ごす。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジェに滞在して絵を描きながら画風を変化させていった。
1910年版「ダンス(Ⅱ)」は、1909年にロシアの富裕コレクターのセルゲイ・シチューキンからの依頼によって制作された装飾パネル作品である。
現在はロシア サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館が、所蔵している。
(写真は割愛する。)
写真は、アメリカ合衆国・フィラデルフィア郊外にあるバーンズ財団の壁画 「ダンスⅡ」。
コレクターであり、美術研究家であったバーンズはマティスと良好な関係を築いていた。
そして、1930年 マティスにより中央ギャラリーの壁画「ダンスⅡ」が完成した。
明るい青と緑の背景で踊る人物の表現は歓喜に溢れ、初期のフォーヴィスム作品を彷彿とさせる。弛緩し不定形な人物はマネキン人形のようで自らを支えきれない。人物の表情は曖昧で、スケッチ画のような構成になっている。
涼やかな青と緑の背景の上に、対照的な激しい暖かい色とリズミカルなダンスをするヌードという構図は、抑圧された感情の解放や快楽主義を鑑賞者に伝える。
マティス自身は自分の芸術についてこう語っている。
「われわれは、構想と手段を単純化することで晴朗さに向かっている。唯一の目標は、全体性だ。線を手段にして自分自身を表現することを学ぶ必要がある。おそらく学び直すということだ。造形芸術は、『ダンス』の大画面に使われた空の青、人体のピンク、丘の緑といった最も単純な手段によって、最も直接的な感動を掻き立てることができるだろう。」
1907年の作品《青いヌード》は、大きな批判を浴び、海外でも評判はよくなかった。
フォーヴィスム宣言のひとつといえるエポック的作品。
フォーヴィスムの運動は、マティスに何らキャリアアップのメリットを与えることがないまま1906年を境に衰退する。マティスの秀作の多くは1906年から1917年にかけて制作されており、当時マティスは、パリのモンパルナスの芸術家集団の1人として活動していた。
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。
ガンに冒され、無神論者だったマティスが無報酬で最後の力を振り絞って描いた壁画とステンドグラスは、マティス芸術の集大成。
1948年 制作開始、1951年 完成した際、マティスは81歳。
完成の3年後、マティスは生涯を閉じる。
生前、マティスは「制作している時だけは神を信じる」と言っていたという。
ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワの《 アルジェの女たち 》のオマージュ作品で、「A」から「O」までの合計15作品の連作
当時のピカソは50歳。
描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。
シュルレアリスム(超現実主義)と初期のフォーヴィスムが融合した作風といえる。
フォーヴィスム(仏: Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。
原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチが特徴。
シュルレアリスムによる作品
『ゲルニカ』(Guernica)は、ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画・タペストリーである。ドイツ空軍によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされる。
ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われる。
ピカソ新古典主義時代の代表作
ドミニク・アングルの「オダリスク」やルノワールのヌード絵画からはっきりと影響を受けていた。
【総合的キュビスム】(1912年~1918年)
文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。
こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。
"コラージュ"という言葉は20世紀初頭にジョルジュ・ブラックとパブロ・ピカソによって作られた造語である。
1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの恋愛関係が影響している。
恋人オリヴィエと旅行したスペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。
1905年 ピカソはアンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。
【アフリカ彫刻の時代】(1907-1909年)
作品右側の二人の女性の顔の造形にはアフリカ彫刻の影響が見られる。
この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。
【分析的キュビスム】(1909-1912年)は、ピカソがジョルジュ・ブラックとともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。
分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。
キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。
1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。
1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。
・「ばら色の時代」(1904年~1907年)
恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。