パブロ・ピカソのお部屋です。
下の写真は、スペイン マラガのピカソ美術館です。
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ぐりりん
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「初聖体拝領」
1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。
1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。
「人生」
・「青の時代」(1901年~1904年)
19歳のとき、親友の自殺にショックを受け、鬱屈した心象を、プロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。
現在、「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
「ラ・セレスティーナ」
「盲人の食事」
「サルタバンクの家族」
・「ばら色の時代」(1904年~1907年)
恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
「パイプを持つ少年」
1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの恋愛関係が影響している。
恋人オリヴィエと旅行したスペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。
1905年 ピカソはアンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。
「アビニョンの娘たち」
【アフリカ彫刻の時代】(1907-1909年)
作品右側の二人の女性の顔の造形にはアフリカ彫刻の影響が見られる。
この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。
「マンドリンを持つ少女」
【分析的キュビスム】(1909-1912年)は、ピカソがジョルジュ・ブラックとともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。
分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。
キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。
「藤張りの椅子のある静物」
【総合的キュビスム】(1912年~1918年)
文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。
こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。
"コラージュ"という言葉は20世紀初頭にジョルジュ・ブラックとパブロ・ピカソによって作られた造語である。
「母と子」
ピカソ新古典主義時代の代表作
ドミニク・アングルの「オダリスク」やルノワールのヌード絵画からはっきりと影響を受けていた。
「ゲルニカ」
シュルレアリスムによる作品
『ゲルニカ』(Guernica)は、ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画・タペストリーである。ドイツ空軍によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされる。
ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われる。
「夢」
当時のピカソは50歳。
描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。
シュルレアリスム(超現実主義)と初期のフォーヴィスムが融合した作風といえる。
フォーヴィスム(仏: Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。
原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチが特徴。
「泣く女」
モデルとなっているのは愛人のドラ・マールである。ドラ・マールは1936年にピカソと出会い、プロ写真家として生活していた。彼女はピカソが1937年に制作した《ゲルニカ》に唯一立ち会い、ピカソの制作に協力した写真家だった。彼女との関係は1944年まで続いた。
ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。
「私にとってドラはいつも『泣いている女』でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」
そして「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作されたスペイン市民戦争におけるドイツ軍による空爆図「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿、特に死んだ子どもを抱いて泣く女を基盤にして描いたのが「泣く女」である。ドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。
「アルジェの女たち」(バージョン0)
ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワの《 アルジェの女たち 》のオマージュ作品で、「A」から「O」までの合計15作品の連作
「シカゴ・ピカソ」