ファン・ゴッホのお部屋です。
下は、アムステルダムにあるゴッホ美術館。
ゴッホとゴーギャンは、仲良しでした。
ゴッホは寂しがり屋で同年代の友達に共同生活しようという手紙を、書きまくりました。
しかし誰も相手にしてくれません。
ただ一人 かわいそうに思ったゴーギャンだけが、アルルまでやって来てくれたのです。
ゴッホは喜びました。
寝ても醒めてもゴーギャンの事が、頭を離れません。
やがてゴッホの暴走はひどくなり、何かというと自分の耳を切り落とそうとします。
さすがのゴーギャンも2ヶ月ほどでうんざりして帰ってしまいました。
その後、ゴッホは一人 アルルで泣き濡れて暮らしましたとさ。
日本を代表する文芸評論家であった小林秀雄は、『ゴッホの手紙』の中でゴッホと近代絵画に対する評論を展開している。
「『罪と罰』についてII」発表と前後して、小林はたまたま訪れたゴッホ展で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける。以後、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。
『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。
「静物(キャベツ、木靴など)」
エッテン時代
農民を題材に絵画を描き始めた頃の作品。
「編み物をする女性」
1881年12月~1883年9月
ハーグ時代
本格的に画業を始める。
マウフェに師事していた時代。
「悲しみ」
ゴッホは、アルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめた。
しかし同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめた。
1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。
「ジャガイモを植える農夫」
「ジャガイモを食べる人たち」
生涯で比較的安定していた時期の作品。農民の生活を畑の土とともに感じられるような絵を描きたいというゴッホは、この作品で、わざと粗削りな筆使いで描いた。
885年の春には、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれ始める。テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で「ジャガイモを食べる人々」や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。
「聖書のある静物」
聖書右ページは「イザヤ書」
閉じた本はエミール・ゾラ「生きる喜び」の書き込み
「火のついたタバコをくわえた骸骨」
「日本趣味(広重)」
1886年3月~1888年2月 (パリ時代)弟テオを頼ってパリに出てきた。印象派や日本の浮世絵に影響を受ける。
「日本趣味(花魁、溪斎英泉)」
「画家の自画像」
「タンギー爺さん」
ゴッホが弟と一緒に住んでいたアパルトマンのそばに、タンギー爺さんのお店があった。そこは前衛画家たちの溜まり場でもあった。
この店で、みんなは他の画家の作品を見ることができたので、自然と様式や技法などの意見交換の場にもなっていった。
そこで生まれる同志的な雰囲気は、コミューンを夢見ていたゴッホの憧れと一致するところがあった。
「イタリアの女(アゴスティーン・セガトーリの肖像)」
「アルルのゴッホの部屋」
アルル時代 (1888年2月~1889年5月)
南フランス アルルにいた頃。画家たちの共同生活をしようと「黄色い家」を借りたが、実際に来てくれたのはゴーギャンだけだった。
ゴッホの孤独が痛切に表れている絵である。一人暮らしの部屋にある、余分なもうひとつの椅子は、どれほどゴーギャンを待ちわびていたかが表れている。
気乗りもせずにやって来たゴーギャンとの共同生活は、悲劇に終わる。
ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの「黄色い家」で集団で制作するというものだった。
なお、この頃にゴッホは「ひまわり」シリーズの絵を描いている。これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。
「アルルのはね橋」
「夜のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」
ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている
「夕方のカフェテラス (アルルのフォラン広場)」
「パイプをくわえ耳に包帯をした自画像」
「星月夜」
ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師の紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。
ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。
この時代の代表作は「星月夜」である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあらわれるようになった。
「ひまわり」
「ひまわり」
「ラ・ムスメ」
アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた
この絵は、ゴッホが弟テオに説明した内容によれば、「日本の少女、この場合は田舎の娘だが、12-14歳位」だそうである。ゴッホは、この絵で、日本美術の単純性と緊張感を表そうとした。
いかにも不幸そうな少女ではあるが、この視覚の強さは、ゴッホの驚嘆すべき力であるし、ゴッホ自身を地獄の底から救い上げる情熱でもある。
「糸杉のある道(夜の星空、荷車、通行人)」