ポール・ゴーギャンのお部屋です。
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ぐりりん
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「ヴォジラール市場」
ゴーギャンはカミーユ・ピサロと親交を築くようになり、日曜日にピサロのもとを訪れて、ピサロの指導のもと自身でも絵を描き始める。ピサロはゴーギャンにさまざまな画家を紹介した。
1881年や1882年に開催された印象派展でゴーギャンは作品を出品。この展覧会で「ヴォジラール市場」などの作品が展示された。当時、ゴーギャンの作品は酷評された。
「ヌードの習作」
1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚。その後10年で、彼女との間に五人の子どもをもうけた。
1879年 ゴーギャンは株取引で年間3万フランを稼いだ。しかし、1882年に株式市場が崩壊すると、その影響は美術市場にも及んだ。ピサロ、モネ、ルノワールなど印象派の作品を扱っていた画商のポール・デュラン=リュエルは特に美術市場崩壊の影響を受け、ゴーギャンをはじめ多くの画家から絵を購入するのをやめてしまった。ゴーギャンの収入は急減し、彼はフルタイムの画家になる計画を立て、ピサロやポール・セザンヌらと絵を描き始めた。
「水浴する女たち」
1885年6月にゴーギャンは6歳の息子クロヴィスとともにパリへ戻る。
パリに戻って最初の年の間は、ゴーギャンはほとんど絵画制作をしなかった。ゴーギャンは1886年5月の「第8回印象派展」で19枚の絵画と木製レリーフを展示する。これらの作品の大半はルーアンやコペンハーゲン滞在時に制作した初期作品で、新作もあったが目新しい要素はほとんどなかった。唯一あるとすればこのときに展示された「水浴する女性」で、その後、作品に繰り返し現れるモチーフとなった。
「ブルターニュの羊飼い」
ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方の画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。(ポン=タヴァン派と呼ばれることになる)
この展示はまた後期印象派のリーダーとして新印象派のジョルジュ・スーラを引き立てるきっかけとなった。しかし、ゴーギャンはスーラの新印象派の点描画法を否定し、その年の後半にはピサロとの関係が決定的に亀裂が入ることになる。その後2人は敵対的な態度をとるようになった。
その夏、ゴーギャンは1886年の第8回印象派展で見たピサロやドガの絵画の方法で、ヌード画のパステルドローイングをいくつか制作している。おもに「ブルターニュの羊飼い」が代表的な作品。人物が従属的な役割を果たす風景画を描いた。「若いブルターニュの少年の水浴」は彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマである。はっきりと大胆で純粋な色使いや、その構図においてドガの影響を受けている。
「黄色いキリスト」
ゴーギャンの作品は、フォークアート(土地固有の文化から生まれたアート、実用的かつ装飾的)と日本の浮世絵の影響を受けながら、「クロワゾニスム」に向かっていった。
クロワゾニスムとは、批評家が、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴としたエミール・ベルナールの描き方に対して付けた名前。中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から由来している。
クロワゾニスムの代表的な作品は1889年の「黄色いキリスト」で、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。このような作品においてゴーギャンは、古典的遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則をほとんど無視している。
またのちに彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ「綜合主義」に向かっていく。
「フィンセント・ファン・ゴッホの肖像」
ゴーギャンはマルティニーク島でゴッホと出会い、ゴッホと彼の弟テオはゴーギャンの作品を褒め称えた。ゴッホとゴーギャンは親友になりつつあった。
ゴーギャンとゴッホの関係は波乱に満ちたものだった。1888年にテオにそそのかれて、ゴーギャンとゴッホは9週間、アルルにあるゴッホの「黄色い家」で共同制作を行った。しかし、ゴッホによる耳切り事件の後、二人の関係は悪化した。結局、ゴーギャンは黄色い家を去ることにした。
その後、2人は二度と会うことはなかったが、関係は続いており、手紙のやり取りは続けた。
ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。
「いつ結婚するの」
3億ドルで取引された最も高額な近代美術作品の一つ
ゴーギャンは、1891年に初めてタヒチへ旅行する。目的はプリミティブ・アートに影響を受けたフランス画家たちの疑似作品ではなく、純粋なプリミティブ・アートを創造するための「エデンの園」を見つけるためだった。
タヒチに到着すると、ゴーギャンが想像していたものではないことがわかった。タヒチは18世紀にフランスに植民地化されていて、少なくともヨーロッパの人々にもたらされた伝染病が原因で先住民の3分の2以上の人々は亡くなっており、原始的な文化はなくなっていた。
それにも関わらず、ゴーギャンは現地に滞在して多くのネイティブの女性たちを描いた。彼女たちはときにヌードであり、伝統的なタヒチ民族衣装を着たり、西洋風のドレスを身に着けていた。
「二人のタヒチの女性」
「二人のタヒチの女性」は、1899年にポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。タヒチ島在住でマンゴと花を手に持つトップレスの二人の女性を描いたものである。
女性たちは鑑賞者の方へ堂々と裸の身体を向けている。女性の胸を花や果物と一緒に描いており、明らかに鑑賞者を誘惑しているのがわかる。
しかし、彼女たちの視線はよくみると少しずれている。左の女性の首から下は強い光で照らされるが、身体に比べて表情は薄暗い。
「名状しがたい彼女たちの素朴さ」、同時に「恥じなく裸で動き回ることができる」とゴーギャンはタヒチの女性たちについて話している。