・「青の時代」(1901年~1904年) 19歳のとき、親友の自殺にショックを受け、鬱屈した心象を、プロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。 現在、「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
モデルとなっているのは愛人のドラ・マールである。ドラ・マールは1936年にピカソと出会い、プロ写真家として生活していた。彼女はピカソが1937年に制作した《ゲルニカ》に唯一立ち会い、ピカソの制作に協力した写真家だった。彼女との関係は1944年まで続いた。
ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。
「私にとってドラはいつも『泣いている女』でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」
そして「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作されたスペイン市民戦争におけるドイツ軍による空爆図「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿、特に死んだ子どもを抱いて泣く女を基盤にして描いたのが「泣く女」である。ドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。
「シカゴ・ピカソ」
この作品は、同じスペイン人であるコロンブスへのオマージュである。 ダリはこの時代、ローマ・カトリック教会の神秘主義へ関心を高めていた時期であり、そのため、新大陸にキリスト教と真の教会をもたらすコロンブスの姿を自分と重ねている。なおダリ自身は、絵の中においてコロンブスの後方にいる十字架をもってひざまずく僧侶の姿として描かれているという。
一見すると、三羽の白鳥が水辺に佇んでいる絵画だが、水面に反映した白鳥の姿は象に見える。
主題はローマの詩人オウィディウスの『転身物語』である。 作品の左側で湖を見つめるのがナルシス、そのナルシスの右に同じような形態で三本の指に挟まれた卵が偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれている。その卵からはナルシスの生まれ変わりの水仙が殻を破り、花を咲かせている。
1936年から始まるスペイン内乱の不安を察知してダリが描いた作品。この絵画を描いてから6ヶ月後に実際に内乱が勃発。そしてダリは「潜在意識には予言力がある」と気付いたという。 ほかに予言力を発揮した有名な作品に「新人類の誕生を見つめる地政学の子供」(1943年)がある。
ダリの初期の代表作。 溶けて柔らかくなった時計が描かれた「記憶の固執」。ダリ自身のアイデンティティをよく表現していると言われる。 ダリには、ゆっくりと溶けていくカマンベールチーズと彼自身を同一視しているところが見られる。 「溶けていく」という動作は、「衰える」「崩壊する」「柔らかくなる」などネガティブな状態を象徴している。ダリが柔らかいものが嫌いな理由の1つに、ダリには「性的不安」があったためといわれている。
ダリの初期の代表作。 中央に描かれている下を向いて目を閉じた顔はダリの横顔である。この横顔はダリの故郷カタルーニャのポルトリガトの海岸にあるゴツゴツした自然岩である。 ダリは自画像と岩を同一視して描いている。ダリはポルトリガト海岸に点在する不思議な岩からインスピレーションを得て、作品を制作していた。 (既にダブル・イメージ表現が見られる)
ダリのアカデミックな絵画技術の高さを示した敬虔な作品である。これを描いた当時のダリは22歳で、マドリードの美術学校を卒業したばかりだった。
ダリが6歳の時の作品。 この絵はダリの印象派時代の代表作の1つである。
・ダリは「偏執狂的批判的方法 (Paranoiac Critic)」と称し、超現実主義において「ダブル・イメージ表現」という技法を創出したことで知られている。 これは、簡単にいえば 「あるイメージが他のイメージにダブって見えるという表現方法」である。 参考作品:「水面に象を映す白鳥」(1937年) 「ナルシスの変貌」 (1937年) ・絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していた。著述、映画、彫刻、写真などさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。アメリカでは大衆文化のスターとなり『Time』誌の表紙にもなった。
ベラ・ローゼンフェルド・シャガール(1895年12月15日-1944年9月2日)はユダヤ系ベラルーシの著述家。マルク・シャガールの最初の妻。1917年の『白襟のベラ』をはじめ、多くのシャガールの作品のモデルになっている。 ナチスドイツがフランスに侵入すると1939年に南フランスへ避難。その後、二人はアメリカのニューヨークへ亡命。しかしベラはウイルス感染にかかる。戦時中であったこともあり薬が不足し、ベラは治療を受けることができず、1944年にアメリカで死去。 気落ちしたシャガールは数ヶ月間制作を停止する。絵を再開するとシャガールはベラの記憶を留める絵画を描き始めた。 1945年にナチスの強制収容所で進行していたホロコーストの報道を聞いて、ベラは数百万のユダヤ人犠牲者とともにシャガールの心の中にとどまることになった。
描かれている男性はシャガール本人、女性は1908年にサンクトペテルブルグで会ったシャガールの最愛の妻ベラ・ローゼンフェルドである。この作品はベラと結婚する数週間前に制作されている。
シャガールがロシアから前衛芸術の中心地パリへ移った直後に描かれた作品。 パリという近代的な世界に身を置いている伝統的なユダヤ文化で育ったシャガールの複雑な心性を表現している。 この頃は、シャガールがキュビスムに影響を受け始めた時期でもある。そのためシャガールの身体や室内などはキュビスムや抽象絵画に影響を受けた幾何学的な形態で描かれている。しかし、キャンバスの絵は対照的に具象であり、ファンジックな優しいタッチで描かれている。 つまり、パリという現実世界と故郷ロシアのノスタルジックな世界の狭間が並列化していることが分かる。 なお、シャガールの左手の指は7本あるが、7は1887年7月7日に生まれたシャガールにとって大きな意味があるようだ。
夢のような農村風景を都会的なキュビスムで描いている。
宙を舞うアクロバティックな人物像を描くシャガールに、サーカスをテーマに版画(リトグラフ)を制作するよう依頼したのは画商ヴォラールであり、その目に狂いがなかったことを本作品は明らかにしている。 ピエロ、曲芸師、動物たちが躍動する夢幻の空間は、まさにシャガールの描く世界そのものであり、シャガールはサーカスの登場人物に自らの姿を重ね、サーカスの舞台に自己の人生を見ていたのであった。(『シャガール 私の物語』図録、2008)
シャガールすべての作品において、鑑賞者の注目を集めた大きな要素は色使いである。シャガールの色は生き生きしている。 彫刻的であり、ダイナミズムに溢れ、彼の作品を目の当たりにするとボリュームを感じるものである。ありのままの自然を写し取る自然主義的な色使いではなく、「運動」「面」「リズム」などの印象を鑑賞者に与えた。
ピカソはシャガールについて次の様に話している。 「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後のモダニストだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった」
・(メタモルフォーゼⅠは割愛するが・・・) 「メタモルフォーゼⅠ」では「一方向への変化」が描かれていたのに対して、「メタモルフォーゼⅡ」では「無限に続く循環」が描かれている。 ・縦 20cm 横幅 4m近くある作品。 エッシャーの知識と技術の集大成。 ・以降の作品には、1969年の遺作 「蛇」にいたるまで「無限に続く連鎖への偏愛」が強く見られる。
・エッシャー自身の内面イメージを表現したもので、エッシャーの透視法の最も基本的な作品であるといわれる。 ・風景画と静物画の融合が斬新
・風景画の最高傑作といわれる『カストロバルバ』 ・緻密で写実的な風景版画である
・アルハンブラ宮殿への旅行のあと、繰り返し模様の作品に挑戦しはじめた。ライオンに似た動物やこうもりで埋め尽くされた織物を作製して展覧会を開いたが、不成功に終わる。一度は繰り返し模様の作品製作を断念した。 ・1934年 2回目のアルハンブラ宮殿訪問をはたした。旅行後 結晶学者であった兄から『結晶学時報』を読んでみるように勧められ、平面を同じ図形で埋める方法(平面充填)を研究した。 ・エッシャー自身は自分の絵に何か寓意がこめられていると思われることを嫌っている。「自分は芸術は進歩するものではない、前の時代の画家が残してくれたものからスタートするものではない、作家が原点から出発して作品を作っていくのだと思っていた。」と語っている。作品が同時代のどの様な流れにも分類されないのは、そのような態度にも関係しているのかもしれない。 ・「粘り強く一つの分野に取り組む職人」であった。
・マウリッツ・エッシャーは1898年6月17日、オランダのフリースラント州レーワルデンに生まれた。彼は病弱な子どもで、絵を描くことは得意だった。しかし、一般的な学科成績は良くなかったという。 ・1918年にエッシャーは、ハールレムにあるハールレム建築装飾美術学校に通う。そこでエッシャーはドローイング(素描・デッサン)やウッドカット(木版画)を学ぶ。真面目に建築学を勉強したものの、成績があまりよくなかったため、装飾芸術の方向へ転校する。 ・1922年、エッシャーがイタリアやスペインを旅行しているときに人生の転機が訪れた。特にアルハンブラ宮殿の石の壁や天井に、パターン化され繰り返し描かれているシンメトリー構造の幾何学装飾美術は、後のエッシャー作品に強烈な影響を与えることになった。 ・エッシャーは、「幾何学性グラフィック・アートの巨匠」とも呼ばれる。
アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた この絵は、ゴッホが弟テオに説明した内容によれば、「日本の少女、この場合は田舎の娘だが、12-14歳位」だそうである。ゴッホは、この絵で、日本美術の単純性と緊張感を表そうとした。 いかにも不幸そうな少女ではあるが、この視覚の強さは、ゴッホの驚嘆すべき力であるし、ゴッホ自身を地獄の底から救い上げる情熱でもある。
ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師の紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。 ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。 この時代の代表作は「星月夜」である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあらわれるようになった。
ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている
アルル時代 (1888年2月~1889年5月) 南フランス アルルにいた頃。画家たちの共同生活をしようと「黄色い家」を借りたが、実際に来てくれたのはゴーギャンだけだった。 ゴッホの孤独が痛切に表れている絵である。一人暮らしの部屋にある、余分なもうひとつの椅子は、どれほどゴーギャンを待ちわびていたかが表れている。 気乗りもせずにやって来たゴーギャンとの共同生活は、悲劇に終わる。 ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの「黄色い家」で集団で制作するというものだった。 なお、この頃にゴッホは「ひまわり」シリーズの絵を描いている。これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。
ゴッホが弟と一緒に住んでいたアパルトマンのそばに、タンギー爺さんのお店があった。そこは前衛画家たちの溜まり場でもあった。 この店で、みんなは他の画家の作品を見ることができたので、自然と様式や技法などの意見交換の場にもなっていった。 そこで生まれる同志的な雰囲気は、コミューンを夢見ていたゴッホの憧れと一致するところがあった。
1886年3月~1888年2月 (パリ時代)弟テオを頼ってパリに出てきた。印象派や日本の浮世絵に影響を受ける。
聖書右ページは「イザヤ書」 閉じた本はエミール・ゾラ「生きる喜び」の書き込み
生涯で比較的安定していた時期の作品。農民の生活を畑の土とともに感じられるような絵を描きたいというゴッホは、この作品で、わざと粗削りな筆使いで描いた。 885年の春には、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれ始める。テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で「ジャガイモを食べる人々」や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。
ゴッホは、アルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめた。 しかし同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめた。 1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。
1881年12月~1883年9月 ハーグ時代 本格的に画業を始める。 マウフェに師事していた時代。
エッテン時代 農民を題材に絵画を描き始めた頃の作品。
日本を代表する文芸評論家であった小林秀雄は、『ゴッホの手紙』の中でゴッホと近代絵画に対する評論を展開している。
「『罪と罰』についてII」発表と前後して、小林はたまたま訪れたゴッホ展で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける。以後、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。
『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。
アメリカのアートシーンでは抽象表現主義が全盛でした。 抽象表現主義は壮大で崇高な絵画表現を目指していたので、消費文化をアートに持ってくることなどはありえなかったのです。 しかし1950年代末 一部の作家が既製品のがらくたなどから作品を作るようになり、抽象表現主義者をはじめ多くのモダニストに反発するような動きがみられる様になりました。そこには従来の「アートの価値観」を破壊するパワーがあったのです。
アンディ・ウォーホルは分かり易いモチーフを逆手にとって、軽薄なモチーフを再構築しポップアートとして大ブームを巻き起こしました。
ブームが起こりアートに巨大なビジネスが発生したこと自体がポップアートの正体なのかもしれません。
・1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。 にも関わらず、**キリコは形而上絵画時代の様な成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた。 1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという**。 しかし、キリコが贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だとも言われる。
・この絵が描かれたのは1917年の第一次世界大戦時で、キリコが戦場から病院へ移された頃に描かれたころ。「不安を与えるミューズたち」や、「出発の憂鬱」と同じく、戦争に対する不安感を表現していると思われます。
・キリコはこのような、「互いに何の関連もないオブジェを並列させるスタイル」を「形而上絵画」と呼んだ。このキリコの作風はシュルレアリスムの先駆的作品の1つであり、のちにブルトンや、マグリット、ダリをはじめ多くのシュルレアリストに多大な影響を与えた。
1) 【 ポップちゃんねる「ぐりりん」( アート関連動画 )】 https://www.youtube.com/channel/UCrCAWeIfoZIXlWDffcEDiJQ?view_as=subscriber 2)【 アートペディア(Artpedia)】 https://www.artpedia.jp/ 3) 【 THE MET(メトロポリタン美術館)】 https://www.metmuseum.org/ 4) 【 MOMA(ニューヨーク近代美術館)】 https://www.moma.org/ 5) 【 Louvre (ルーヴル美術館)】 https://www.louvre.fr/jp
・「青の時代」(1901年~1904年)
19歳のとき、親友の自殺にショックを受け、鬱屈した心象を、プロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。
現在、「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
モデルとなっているのは愛人のドラ・マールである。ドラ・マールは1936年にピカソと出会い、プロ写真家として生活していた。彼女はピカソが1937年に制作した《ゲルニカ》に唯一立ち会い、ピカソの制作に協力した写真家だった。彼女との関係は1944年まで続いた。
ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。
「私にとってドラはいつも『泣いている女』でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」
そして「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作されたスペイン市民戦争におけるドイツ軍による空爆図「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿、特に死んだ子どもを抱いて泣く女を基盤にして描いたのが「泣く女」である。ドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。
「シカゴ・ピカソ」
この作品は、同じスペイン人であるコロンブスへのオマージュである。
ダリはこの時代、ローマ・カトリック教会の神秘主義へ関心を高めていた時期であり、そのため、新大陸にキリスト教と真の教会をもたらすコロンブスの姿を自分と重ねている。なおダリ自身は、絵の中においてコロンブスの後方にいる十字架をもってひざまずく僧侶の姿として描かれているという。
一見すると、三羽の白鳥が水辺に佇んでいる絵画だが、水面に反映した白鳥の姿は象に見える。
主題はローマの詩人オウィディウスの『転身物語』である。
作品の左側で湖を見つめるのがナルシス、そのナルシスの右に同じような形態で三本の指に挟まれた卵が偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれている。その卵からはナルシスの生まれ変わりの水仙が殻を破り、花を咲かせている。
1936年から始まるスペイン内乱の不安を察知してダリが描いた作品。この絵画を描いてから6ヶ月後に実際に内乱が勃発。そしてダリは「潜在意識には予言力がある」と気付いたという。
ほかに予言力を発揮した有名な作品に「新人類の誕生を見つめる地政学の子供」(1943年)がある。
ダリの初期の代表作。
溶けて柔らかくなった時計が描かれた「記憶の固執」。ダリ自身のアイデンティティをよく表現していると言われる。
ダリには、ゆっくりと溶けていくカマンベールチーズと彼自身を同一視しているところが見られる。
「溶けていく」という動作は、「衰える」「崩壊する」「柔らかくなる」などネガティブな状態を象徴している。ダリが柔らかいものが嫌いな理由の1つに、ダリには「性的不安」があったためといわれている。
ダリの初期の代表作。
中央に描かれている下を向いて目を閉じた顔はダリの横顔である。この横顔はダリの故郷カタルーニャのポルトリガトの海岸にあるゴツゴツした自然岩である。
ダリは自画像と岩を同一視して描いている。ダリはポルトリガト海岸に点在する不思議な岩からインスピレーションを得て、作品を制作していた。
(既にダブル・イメージ表現が見られる)
ダリのアカデミックな絵画技術の高さを示した敬虔な作品である。これを描いた当時のダリは22歳で、マドリードの美術学校を卒業したばかりだった。
ダリが6歳の時の作品。
この絵はダリの印象派時代の代表作の1つである。
・ダリは「偏執狂的批判的方法 (Paranoiac Critic)」と称し、超現実主義において「ダブル・イメージ表現」という技法を創出したことで知られている。
これは、簡単にいえば 「あるイメージが他のイメージにダブって見えるという表現方法」である。
参考作品:「水面に象を映す白鳥」(1937年)
「ナルシスの変貌」 (1937年)
・絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していた。著述、映画、彫刻、写真などさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。アメリカでは大衆文化のスターとなり『Time』誌の表紙にもなった。
ベラ・ローゼンフェルド・シャガール(1895年12月15日-1944年9月2日)はユダヤ系ベラルーシの著述家。マルク・シャガールの最初の妻。1917年の『白襟のベラ』をはじめ、多くのシャガールの作品のモデルになっている。
ナチスドイツがフランスに侵入すると1939年に南フランスへ避難。その後、二人はアメリカのニューヨークへ亡命。しかしベラはウイルス感染にかかる。戦時中であったこともあり薬が不足し、ベラは治療を受けることができず、1944年にアメリカで死去。
気落ちしたシャガールは数ヶ月間制作を停止する。絵を再開するとシャガールはベラの記憶を留める絵画を描き始めた。
1945年にナチスの強制収容所で進行していたホロコーストの報道を聞いて、ベラは数百万のユダヤ人犠牲者とともにシャガールの心の中にとどまることになった。
描かれている男性はシャガール本人、女性は1908年にサンクトペテルブルグで会ったシャガールの最愛の妻ベラ・ローゼンフェルドである。この作品はベラと結婚する数週間前に制作されている。
シャガールがロシアから前衛芸術の中心地パリへ移った直後に描かれた作品。
パリという近代的な世界に身を置いている伝統的なユダヤ文化で育ったシャガールの複雑な心性を表現している。
この頃は、シャガールがキュビスムに影響を受け始めた時期でもある。そのためシャガールの身体や室内などはキュビスムや抽象絵画に影響を受けた幾何学的な形態で描かれている。しかし、キャンバスの絵は対照的に具象であり、ファンジックな優しいタッチで描かれている。
つまり、パリという現実世界と故郷ロシアのノスタルジックな世界の狭間が並列化していることが分かる。
なお、シャガールの左手の指は7本あるが、7は1887年7月7日に生まれたシャガールにとって大きな意味があるようだ。
夢のような農村風景を都会的なキュビスムで描いている。
宙を舞うアクロバティックな人物像を描くシャガールに、サーカスをテーマに版画(リトグラフ)を制作するよう依頼したのは画商ヴォラールであり、その目に狂いがなかったことを本作品は明らかにしている。
ピエロ、曲芸師、動物たちが躍動する夢幻の空間は、まさにシャガールの描く世界そのものであり、シャガールはサーカスの登場人物に自らの姿を重ね、サーカスの舞台に自己の人生を見ていたのであった。(『シャガール 私の物語』図録、2008)
シャガールすべての作品において、鑑賞者の注目を集めた大きな要素は色使いである。シャガールの色は生き生きしている。
彫刻的であり、ダイナミズムに溢れ、彼の作品を目の当たりにするとボリュームを感じるものである。ありのままの自然を写し取る自然主義的な色使いではなく、「運動」「面」「リズム」などの印象を鑑賞者に与えた。
ピカソはシャガールについて次の様に話している。
「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後のモダニストだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった」
・(メタモルフォーゼⅠは割愛するが・・・)
「メタモルフォーゼⅠ」では「一方向への変化」が描かれていたのに対して、「メタモルフォーゼⅡ」では「無限に続く循環」が描かれている。
・縦 20cm 横幅 4m近くある作品。
エッシャーの知識と技術の集大成。
・以降の作品には、1969年の遺作 「蛇」にいたるまで「無限に続く連鎖への偏愛」が強く見られる。
・エッシャー自身の内面イメージを表現したもので、エッシャーの透視法の最も基本的な作品であるといわれる。
・風景画と静物画の融合が斬新
・風景画の最高傑作といわれる『カストロバルバ』
・緻密で写実的な風景版画である
・アルハンブラ宮殿への旅行のあと、繰り返し模様の作品に挑戦しはじめた。ライオンに似た動物やこうもりで埋め尽くされた織物を作製して展覧会を開いたが、不成功に終わる。一度は繰り返し模様の作品製作を断念した。
・1934年 2回目のアルハンブラ宮殿訪問をはたした。旅行後 結晶学者であった兄から『結晶学時報』を読んでみるように勧められ、平面を同じ図形で埋める方法(平面充填)を研究した。
・エッシャー自身は自分の絵に何か寓意がこめられていると思われることを嫌っている。「自分は芸術は進歩するものではない、前の時代の画家が残してくれたものからスタートするものではない、作家が原点から出発して作品を作っていくのだと思っていた。」と語っている。作品が同時代のどの様な流れにも分類されないのは、そのような態度にも関係しているのかもしれない。
・「粘り強く一つの分野に取り組む職人」であった。
・マウリッツ・エッシャーは1898年6月17日、オランダのフリースラント州レーワルデンに生まれた。彼は病弱な子どもで、絵を描くことは得意だった。しかし、一般的な学科成績は良くなかったという。
・1918年にエッシャーは、ハールレムにあるハールレム建築装飾美術学校に通う。そこでエッシャーはドローイング(素描・デッサン)やウッドカット(木版画)を学ぶ。真面目に建築学を勉強したものの、成績があまりよくなかったため、装飾芸術の方向へ転校する。
・1922年、エッシャーがイタリアやスペインを旅行しているときに人生の転機が訪れた。特にアルハンブラ宮殿の石の壁や天井に、パターン化され繰り返し描かれているシンメトリー構造の幾何学装飾美術は、後のエッシャー作品に強烈な影響を与えることになった。
・エッシャーは、「幾何学性グラフィック・アートの巨匠」とも呼ばれる。
アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた
この絵は、ゴッホが弟テオに説明した内容によれば、「日本の少女、この場合は田舎の娘だが、12-14歳位」だそうである。ゴッホは、この絵で、日本美術の単純性と緊張感を表そうとした。
いかにも不幸そうな少女ではあるが、この視覚の強さは、ゴッホの驚嘆すべき力であるし、ゴッホ自身を地獄の底から救い上げる情熱でもある。
ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師の紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。
ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。
この時代の代表作は「星月夜」である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあらわれるようになった。
ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている
アルル時代 (1888年2月~1889年5月)
南フランス アルルにいた頃。画家たちの共同生活をしようと「黄色い家」を借りたが、実際に来てくれたのはゴーギャンだけだった。
ゴッホの孤独が痛切に表れている絵である。一人暮らしの部屋にある、余分なもうひとつの椅子は、どれほどゴーギャンを待ちわびていたかが表れている。
気乗りもせずにやって来たゴーギャンとの共同生活は、悲劇に終わる。
ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの「黄色い家」で集団で制作するというものだった。
なお、この頃にゴッホは「ひまわり」シリーズの絵を描いている。これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。
ゴッホが弟と一緒に住んでいたアパルトマンのそばに、タンギー爺さんのお店があった。そこは前衛画家たちの溜まり場でもあった。
この店で、みんなは他の画家の作品を見ることができたので、自然と様式や技法などの意見交換の場にもなっていった。
そこで生まれる同志的な雰囲気は、コミューンを夢見ていたゴッホの憧れと一致するところがあった。
1886年3月~1888年2月 (パリ時代)弟テオを頼ってパリに出てきた。印象派や日本の浮世絵に影響を受ける。
聖書右ページは「イザヤ書」
閉じた本はエミール・ゾラ「生きる喜び」の書き込み
生涯で比較的安定していた時期の作品。農民の生活を畑の土とともに感じられるような絵を描きたいというゴッホは、この作品で、わざと粗削りな筆使いで描いた。
885年の春には、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれ始める。テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で「ジャガイモを食べる人々」や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。
ゴッホは、アルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめた。
しかし同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめた。
1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。
1881年12月~1883年9月
ハーグ時代
本格的に画業を始める。
マウフェに師事していた時代。
エッテン時代
農民を題材に絵画を描き始めた頃の作品。
日本を代表する文芸評論家であった小林秀雄は、『ゴッホの手紙』の中でゴッホと近代絵画に対する評論を展開している。
「『罪と罰』についてII」発表と前後して、小林はたまたま訪れたゴッホ展で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける。以後、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。
『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。
アメリカのアートシーンでは抽象表現主義が全盛でした。
抽象表現主義は壮大で崇高な絵画表現を目指していたので、消費文化をアートに持ってくることなどはありえなかったのです。
しかし1950年代末 一部の作家が既製品のがらくたなどから作品を作るようになり、抽象表現主義者をはじめ多くのモダニストに反発するような動きがみられる様になりました。そこには従来の「アートの価値観」を破壊するパワーがあったのです。
アンディ・ウォーホルは分かり易いモチーフを逆手にとって、軽薄なモチーフを再構築しポップアートとして大ブームを巻き起こしました。
ブームが起こりアートに巨大なビジネスが発生したこと自体がポップアートの正体なのかもしれません。
・1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。
にも関わらず、**キリコは形而上絵画時代の様な成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた。
1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという**。
しかし、キリコが贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だとも言われる。
・この絵が描かれたのは1917年の第一次世界大戦時で、キリコが戦場から病院へ移された頃に描かれたころ。「不安を与えるミューズたち」や、「出発の憂鬱」と同じく、戦争に対する不安感を表現していると思われます。
・キリコはこのような、「互いに何の関連もないオブジェを並列させるスタイル」を「形而上絵画」と呼んだ。このキリコの作風はシュルレアリスムの先駆的作品の1つであり、のちにブルトンや、マグリット、ダリをはじめ多くのシュルレアリストに多大な影響を与えた。