アンリ・マティスのお部屋です。
下の写真は、ニースにあるマティス美術館。
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ぐりりん
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「緑のすじのあるマティス婦人の肖像」
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。
「豪奢、静寂、逸楽」
フォーヴィスム宣言のひとつといえるエポック的作品。
フォーヴィスムの運動は、マティスに何らキャリアアップのメリットを与えることがないまま1906年を境に衰退する。マティスの秀作の多くは1906年から1917年にかけて制作されており、当時マティスは、パリのモンパルナスの芸術家集団の1人として活動していた。
「開いた窓」
「帽子の女」
「青いヌード」
1907年の作品《青いヌード》は、大きな批判を浴び、海外でも評判はよくなかった。
「ダンスⅠ」
明るい青と緑の背景で踊る人物の表現は歓喜に溢れ、初期のフォーヴィスム作品を彷彿とさせる。弛緩し不定形な人物はマネキン人形のようで自らを支えきれない。人物の表情は曖昧で、スケッチ画のような構成になっている。
涼やかな青と緑の背景の上に、対照的な激しい暖かい色とリズミカルなダンスをするヌードという構図は、抑圧された感情の解放や快楽主義を鑑賞者に伝える。
マティス自身は自分の芸術についてこう語っている。
「われわれは、構想と手段を単純化することで晴朗さに向かっている。唯一の目標は、全体性だ。線を手段にして自分自身を表現することを学ぶ必要がある。おそらく学び直すということだ。造形芸術は、『ダンス』の大画面に使われた空の青、人体のピンク、丘の緑といった最も単純な手段によって、最も直接的な感動を掻き立てることができるだろう。」
「ダンスⅡ」
1910年版「ダンス(Ⅱ)」は、1909年にロシアの富裕コレクターのセルゲイ・シチューキンからの依頼によって制作された装飾パネル作品である。
現在はロシア サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館が、所蔵している。
(写真は割愛する。)
写真は、アメリカ合衆国・フィラデルフィア郊外にあるバーンズ財団の壁画 「ダンスⅡ」。
コレクターであり、美術研究家であったバーンズはマティスと良好な関係を築いていた。
そして、1930年 マティスにより中央ギャラリーの壁画「ダンスⅡ」が完成した。
「音楽」
「赤い部屋」
1906年にマティスはアルジェリアへ旅行し、アフリカ・アートやプリミティビスムに影響を受ける。この頃からマティス作品は海外旅行で出会ったさまざまな外国文化を創作の源泉にするようになる。
また1906年4月にマティスは、11歳年下のパブロ・ピカソと出会う。その後、2人は終世の親友であり、またライバルとなった。
2人の作品の大きな違いとしては、マティスは「緑豊かな自然」を描くのに対して、ピカソが自然を描くことはなく、もっぱら「想像の世界」を探求していたことだろう。しかし、共通して描いた主題は女性で、描かれた女性は妻(または愛人)だった。
「モロッコ人」
1910年にミュンヘンでイスラム美術の大展覧会を鑑賞したあと、2ヶ月間イスラム美術を学ぶためスペインで過ごす。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジェに滞在して絵を描きながら画風を変化させていった。
「金魚」
モロッコ人のおだやかなライフスタイルに影響を受けて制作した作品が「金魚」である。
「かたつむり」
1940年代初頭から中頃にかけて、マティスの容態は悪くなって筆を持って絵の制作はできなくなっていた。そうした環境でベッド上で手軽にできる制作として始めたのがカットアウト作品である。
本作「かたつむり」は晩年のマティス作品でも最も重要なものである。
「かたつむり」というタイトルが示すように、着色されたさまざまな色付きの図形が螺旋状に配置されている。マティスは最初にかたつむりを描いていたが、その後、色付きの紙を使って抽象的に表現することにした。
紙の配置は「補色関係」に注意を払っており、たとえば緑の隣に赤が置かれ、青の隣に黃が置かれている。マティスはこの作品を別名「色彩構成」と呼んでいた。
「JAZZ」
『ジャズ』は、切り紙絵を原画とする20点の挿絵と自筆のテキストを収めたマティスの挿絵本の集大成です。挿絵のテーマはサーカスと劇場に関わるもの、珊瑚礁、またハート型や単純化されたトルソといった抽象的な題材に分けられます。出版者テリアードに依頼された当初、マティスはサーカスを主題にした版画集を構想しましたが、完成までのあいだにタイトルはジャズに変更されました。版の制作についても、まず木版が試されましたが、最終的に切り紙絵のシャープな輪郭線を再現できる紙製のステンシル版が用いられ、あらゆる面で理想の書物が追究されました。
この本のなかで、マティスは次のように記しています。
「ジャズ―生き生きとして激しい色調のこれらのイメージは、サーカス、民話、そして旅の記憶が結晶化したものから派生している。私はこのページを、私の色彩とリズムの即興によって同時におこる効果を和らげるために書いている。それぞれのページは、音が鳴り響く場を形成し、それらの個性にあわせて支え、包み込み、守っている」。
(ポーラ美術館「紙片の宇宙」より)
『マティスのロザリオ礼拝堂』(フランス、ヴォンス)その1
ガンに冒され、無神論者だったマティスが無報酬で最後の力を振り絞って描いた壁画とステンドグラスは、マティス芸術の集大成。
1948年 制作開始、1951年 完成した際、マティスは81歳。
完成の3年後、マティスは生涯を閉じる。
生前、マティスは「制作している時だけは神を信じる」と言っていたという。
『マティスのロザリオ礼拝堂』(フランス、ヴォンス)その2
『マティスのロザリオ礼拝堂』(フランス、ヴォンス)その3