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ジョルジョ・キリコの部屋

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ジョルジョ・キリコのお部屋です。

ぐりりん
作成: 2019/05/09 (木) 15:20:18
最終更新: 2019/05/09 (木) 16:47:31
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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:23:46

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:27:33

「神託の謎」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 15:29:37 >> 2

・デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。

・彼は、フリードリヒ・ニーチェアルチュール・ショーペンハウアーオットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学アーノルド・ベックリンマックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。

・1909年の夏にイタリアへ戻り、ミラノで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。(1915年 彼は来たイタリアのフェッラーラに駐屯した。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したのではないかとも言われる)

・1910年始め、ミラノを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた
「秋の午後の謎」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:29:33 修正

「秋の午後の謎」
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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:34:02 >> 3

「時間の謎」
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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:36:04

「赤い塔」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 15:32:26 >> 5

1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状建築の「形而上学的形態」(トリノにはきわめて特徴的な全く同じ長いアーケードの建物「ポルチコ」がたくさんあった)に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。(「形而上学」とは、世界の根本原因、物や人間の存在の理由や意味などについて物質ではなく理性的な思考で解決しようとする形式的な学問であり、哲学である)

1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。そのせいか、1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:41:12

「愛の詩」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 05:22:58 修正 >> 6

・ニューヨーク近代美術館が所蔵。キリコ作品の中で最も有名なものの1つであり、形而上絵画の代表的作品

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ぐりりん 2019/05/10 (金) 05:24:44 >> 6

・キリコはこのような、「互いに何の関連もないオブジェを並列させるスタイル」形而上絵画と呼んだ。このキリコの作風はシュルレアリスムの先駆的作品の1つであり、のちにブルトンや、マグリット、ダリをはじめ多くのシュルレアリストに多大な影響を与えた。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:43:17

「通りの神秘と憂鬱」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 05:22:10 修正 >> 7

・作品は輪を回して走っている少女と影を通してのみ存在が分かる彫像の二人の出会いを表現しています。少女は右の暗い建物の後ろから差し込む光源の方向へ輪を回しながら走っており、左の建物のアーケードは対照的に明るく照らしだされています。
地平線まで伸びる黄色に光り輝く道は、光と闇の2つの建物を分離する。少女はひたすらグルグルグルグルと輪を回転させながら、怪しげな影の向こうにある方向へ不安げに進みます。
この作品は第一次世界大戦が始まった直後の1914年に描かれたものであり、またキリコが従軍する前年に描かれたもので、戦争に対する不安が反映されているように見えます**。少女はキリコ自身、大きな彫像の影は戦争や死を暗喩していると思われます。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:45:32

「ヘクトルとアンドロマケ」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 05:26:42 >> 8

・この絵が描かれたのは1917年の第一次世界大戦時で、キリコが戦場から病院へ移された頃に描かれたころ。「不安を与えるミューズたち」や、「出発の憂鬱」と同じく、戦争に対する不安感を表現していると思われます。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:47:10

「子供の脳」
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 15:34:39 >> 9

「子どもの脳」は、1917年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。エディプス・コンプレックスが主題である。
・「子どもの脳」というタイトルが少年期の心象風景の想起である。意識のバリアである半開きのカーテンの向こう側には半裸で目を閉じて日頃の権威はすっかり剥奪されている父親がいる。立派な口ひげも、今となっては滑稽で小道具でしかない。手前の金色の美しい書物には朱色の細ひもがはさまれている。
・キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてよいだろう。

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ぐりりん 2019/05/09 (木) 15:49:06

キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作
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ぐりりん 2019/05/10 (金) 05:31:05 修正 >> 10

・1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。
 にも関わらず、**キリコは形而上絵画時代の様な成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた
1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、
実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという**。
しかし、キリコが贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だとも言われる。