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satsugakushinri
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今回の講義でレスポンデントとオペラントについて学んだ。それら2つをわかりやすく一言でいうと、「レスポンデント」は、反応による「行動」のことで「オペラント」は、自発的な「行動」のことであるとわかった。「レスポンデント」を日常的な例で表すと熱いものを触ると、手を引っ込めるなど寒いところに行くと、体が震えるといったことが挙げられる。対して「オペラント」は、何かを提示して、その反応によって、無条件で行動するのではなく、自発的に自分から行動する「行動」のことだとわかった。個人的には「レスポンデント」は「レスポンス」に似ていて、「オペラント」は「オペレーション」に似ているので置き換えて解釈するのも大事だと感じた
学籍番号つけるの忘れました
学べてよかったです。
3点差し上げます。
今回の講義では、主にレスポンデント行動とオペラント行動という二つの行動について学び、また、人間の脳と体の関係について昔から多くの研究がされてきたということを知った。レスポンデント行動は、刺激と刺激を時間的に接近させて呈示することによって、その関係を学習させるレスポンデント条件付けにより形成される。そしてオペラント行動は、報酬や罰などの条件によって行動が変化するオペラント条件付けにより形成される。外部からの刺激が与えられるかどうによってどの行動が誘発されるかは異なり、外部からの刺激が与えられ、その刺激によって反射的に起こる反応がレスポンデント行動、刺激が与えられず、自発的に行動が誘発された際はオペラント行動と分けることができる。特にレスポンデント行動は、外部から刺激により行動が誘発されるため、その過程に関して、まるで行動がパターン化されているロボットと本質は似てるとも言えるだろう。しかし、人間がロボットような与えられた刺激にのみ応じる存在と言われれば違う。何故ならば、オペラント行動が存在し、過去の結果等から学び、環境に適応するような行動を学習し、自発的に行動が生じるためである。例えば、他人の本に落書きをして怒られた際に、人の本に落書きをしたら怒られるから落書きをやめる。これは過去の落書きをして怒られたと言う結果から学び、怒られないようにと落書きを行うのをやめるように自発的に行動している。このように、人の行動には頭で考えて行うものもあれば、熱いものを触った際に咄嗟に手を引っ込めるなどの頭で考える前に体が咄嗟に動く場合もある。人は頭と体の二つが交わることによって様々な行動をするようになり、これが今に至るまでに人の行動原理などを研究しようとした研究者たちによって難解なものであったということを知り、納得することができた。
なぜか多くの人がレスポンデント行動とオペラント行動について学んだと言っています。学ぶのはいいのですが、現在歴史的に思考しているわけなので、歴史的に考察してほしいんですよね。この方の投稿にはそれが少し垣間見えてよいと思いました。
6点差し上げます。
採点対象となる投稿は締め切りました。体調不良によりフィードバックが遅れています。すみません。
今回の講義では、人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。なぜ身体は環境とやり取りしているかという疑問に対して、身体と物との違う点を挙げていくとすると、身体は物と違う点として、ものはどう動くかは決まっているが、人を動かすにはどうするべきかは決まっていない。人を動かすには、言葉、言語が必要であるということがわかった。同時に言葉があるから、認知が存在するという前回の講義で学んだ、ビゴツキーの考えと結びつくことができた。ビゴツキーはギブソンができなかった言語の問題を解決した人であり、思考は言語、言語は認知の基盤であると表現しました。ですが、物と身体の違いとして、難しいのはコミュニケーションであります。教授が実際に講義で喋っていた、「今日はこんなに沢山の人が来てくれて嬉しい 」というのに対し、生徒は「 先生の授業はおもしろいからですね」と言われて、皮肉で行っているのか、本当に言っているのか、可能性として4パタンあり、人はどれが正解なのか明確にわからない。コミュニケーションは、お互いを推測して、うまく行っているかを実感しないといけない。このようなことは、今まで考えたことのない視点でした。この話を聞いて、今日学んだ社会構成主義のように、我々人間は言語に左右されているということが実感することができました。同時に人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。
身体と環境がやりとりしていることの理由を探ると、どうして身体と物の違いに行き着くのですか。ヒト-モノ関係とヒト-ヒト関係の差異に触れた内容であるというのはわかります。
3点差し上げます。
今回の講義ではこれまでの講義の内容を振り返るような形で認知科学がどのような変遷を辿ったかを見直すことができた。学問の歴史における変化とは突然どこからともなく出てくるわけではなく、従来の考え方や当時の状況に影響を受けて「考え方Aと考え方Bを組み合わせるとこんなことも説明できるのではないか」「近年発展してきた技術Cを組み込めば今までできなかったことができるのではないか」「考え方Dはこう変えれば現実に即したものになるのではないか」というように広がっていくのだろうということの再確認の機会にもなった。
講義中に出てきた話では特に人間同士の関わりが人間と人間以外のものとの関わりと異なるという話が面白いと感じた。確かに、コミュニケーションというものは同じ状況だからといって必ずしも同じ結果になるとは限らないし、物理的な作用と違って嘘やすれ違いという可能性が出てくる。ここまでで出てきたそれぞれの考え方では、嘘(考えていることと異なる行動をする)はどのように扱うのか気になった。おそらく行動主義などでは想定していないのではないかというところまでは自力で考えてみたが、これ以上はどのように調べるべきか思いつかなかった。
考えの組み合わせが新しいものを生み出すと言ったような話をしたかどうか、記憶が定かではありません。モノというのは物理的な法則によって動きますが、ヒトは情報によって動きます。モノとモノの関わりは物理法則に依拠しますが、ヒトとモノ、ヒトとヒトのま関わりは情報によって制御されます。ワトソン流の行動主義は、全部物理法則でいけると思っていたのかもしれません。ただしパブロフの条件づけの解釈をどうするかによりますが。
5点差し上げます。
今回の講義は今まで振り返りの授業で、今までやってきた授業を改めて学び直しより一層知識を深めることができた。その中でも特に身体性認知について興味を持った。身体性認知についてネットで調べてみると、手に温かいコーヒーをもっているときと、冷たいコーヒーを持っているときでは向き合っている人への印象評価が変わる。ホットコーヒーを持つと「この人は温かい人だ」と認識するそうだ。他にも、「赤いユニフォームを着ると攻撃的になる」「黒いユニフォームを着ると競技中のペナルティが多い(=暴力的になる)」など視覚や触覚は心理に密接に関係していると知って納得する部分もあったが一方で納得できない部分もあった。この前サッカーの試合を見に行った時、赤いユニフォームを着ているチームを2チーム見た。1つの赤いユニフォームを着ているチームはすごく攻撃的でずっと攻め続けていたが、もう1つの赤いチームは守備が堅く、攻めよりも守りというチームだった。見ている側の視点として赤いユニフォームを着ているチームが強く見えることはあるが、着ている色が赤だと自分が攻撃的になるというのは感じたことがない。どのような根拠なのだろうか。
身体性認知の話は今回詳しくしていませんね。身体によって環境に関わるという点を押さえて欲しかったのが、今回の授業の狙いでした。
3点差し上げます。
今回の講義で人間のコミュニケーションの話が興味深く感じた。コミュニケーション同じ言葉を使っても、受け手の背景や感情、文脈によって解釈が変わることがあり、意図的な嘘や無意識的なすれ違いも加わることで、結果が大きく異なることもある。だからこそ、昔の人は言葉を使わずとも身振りなどの視覚的表現や、儀式を行って感情などを共有しているのかなと思った。自分たちは相手の意図や感情を理解しようとする姿勢が必要だと改めて感じた。
ヒト-ヒトのかかわりが、ヒト-モノとどう違うのかを押さえていただくのが、今回の授業の目的の一つでした。なお、ヒト-ヒト関係において、完全な意図の共有というのはあり得ません。これも授業で述べたことの一つです。コミュニケーションの中で互いの発話の意味がどう変わっていくかについて話しましたね。
3点差し上げます。
今回の講義で、人間の情報処理の仕組みについて考えることが初期の認知心理学につながっていると学んだ。人間は体でなく脳で行動しているのであって、体などのほかの部分は考え方にとってはただの外部装置に過ぎないという考えを学んだ。物事の知覚については猫の実験において、能動的に動くことのできた猫は自分から物事を知覚することができたが、その猫に受動的についていくことしかできなかった猫は、物事を知覚できずに成長してしまったことに興味を持ちました。
情報処理の考えがどう位置づけられているかをとらえることが、今回の授業において肝要です。個々の学説だけをみるのでなく、全体を俯瞰してみることが大切です。大変なんですけれどね。
3点差し上げます。
今回の講義を受け、認知科学について前回の講義で「理解した」と思い込んでいましたがそれは間違いでした。認知科学は宗教に関係するものを除き、人間の本能的な行動、無意識的な行動に理由や根拠を示す学間であり、国籍や言語に関係しないということを今回の講義で学びました。例えば、ヒトとイヌ、ヒトとネコのように言葉を交わせないペットと主人という関係とヒトとヒトの関係では全くと言って良いほど関係が違う。ヒトと動物ではコミュニケーションを取る事ができず、主従関係を結ぶ他ありませんが、ヒトとヒトでは言葉を介して意思疎通を行うことができる点で決定的に違ってきます。この話を聞いている中で私の脳裏に「奴隷」という2文字が浮かびました。やはり高校の歴史の授業で学んだことは回り回って自分の糧になると改めて学びました。
そういう話をしたかどうか、記憶が定かではありません。いろいろ考えてみることは大切ですが、一応授業の主旨は把握していただきたいと思います。まあ、わかりにくい授業ですけれど。
3点差し上げます。
今回の講義を受けて学んだことは、今までの授業で学んできた情報の処理や保存の仕方、覚えていられる時間などの講義を思い返した。特に興味が湧いたのは人間は脳みそで物事を動かしているため、体が暖かいと判断すると脳では暖かい気持ちになり身体が冷たいと脳は冷めていくということを知り、頭を冷やしてくるというような言葉は実際に頭を冷やすことで脳みそを冷静にするといった事柄から行われているため、この言葉の本当の意味を知りました。別の話でいえば闘牛が赤に対して突進するように人間にも色による感情の表れが出るということを知りました。ブルーな気持ちになるが寂しいことを表していたり、ピンクは恋愛を想起させる色であることにも説明が着くようになりました。
脳で物事を動かしているという話は私が最も嫌いな学説ですので、そういう話をする場合は、それがどういう意味で間違っているのかとか、なぜそういう間違った方向で考えてしまうのか、ということを話していると思います。
3点差し上げます。
精神や心をどう扱うか?というトピックの中で、ある人にとって別の人の身体は環境そのものであると学び、確かにその通りだと思いました。不変で直接的に人間に与えられる自然環境もありますが、人間の活動によって形成される社会環境では、人間に限らず、あらゆる生物は自然環境の中で相互に関係しあい、全体としてのバランスのとれた生態系の中で生きています。良い影響を受けるのか悪い影響を受けるのか、自分を取り巻く環境(人間)次第で人生は大きく変わります。物ではなく人を動かす時(物理的ではなく精神的に)、必ずこうすればこうなる、という事はなく人が人を動かすのは言葉の力によるものであり、だからこそ面白いと思いました。発せられる「言葉」にはその人の個性が色濃く表れ、ひとつの内容でもその人が選んで発する言葉から、人間性や傾向など多くの事を読み取ることができます。例えば「嬉しいです」の一言でも本心からなのか皮肉なのか分からず、お互いが推測しながら動き、会話が上手くいっているのか意識しているというお話を聞いて、無意識に腹の探り合いをしていることに気づきました。人によって言葉の受け止め方は違うためトラブルになることもありますが、人間同士だからこそできる話し合いの重要性を改めて感じました。
他人もまた環境である、しかし特殊な環境であるというのが生態心理学の主張です。どういう意味で特殊なのかも掴むべきところです。コミュニケーションの話に触れられているので、いくらかわかってもらえたのかと思います。
4点差し上げます。
これまでの授業で習得した情報の処理や保存方法、覚え持てる期間などに関する講義を振り返り、特に興味を持ったのは、人間が脳によって物事を操作し、体が暖かいと感じると脳が暖かいと感じ、体が冷たいと判断すると脳も冷たくなるということを知ったことです。言葉によって「頭を冷やす」という表現が、実際に脳を冷静にするために行われていることを理解しました。
少し前の投稿に似ている内容に思えます。そこでも言ったと思いますが、こういう話をした記憶がありません。
2点差し上げます。
今回の講義を受けて、身体は環境に存在することを学びました。人が机を動かしたり、飲み物を飲むためにペットボトルなどの容器を持ちあげるなどの人の動作により環境に働きかけることや、環境中の出来事や物を知覚、認識することで、身体が環境にさらに変化をもたらす。これに加えて、人が人に力を加えても、物のように確定した動きはせず、勝手に動いて次にどのような行動をするのかが確定しない。だが、言語を使ってコミュニケーションをとれば、次にどのような行動をとるのか予測がつくが確定はできない。これについて私は、人と動物ならどうなるか気になって調べてみた。動物は人が発する言語がわからないが、ある程度長いこと人とコミュニケーションをとれば、言語がわからなくてもジェスチャーや言葉の発音などで、動物の行動にも予測がつくがこれも確実な情報にはならない。このようなことを知って、人は物のほかにも、言語やジェスチャーを使って人や動物を動かして環境に働きかけていることを学びました。
ヒト-モノ関係とヒト-ヒト関係の差異を掴んでもらえたのはありがたいと思いました。ヒトと動物のかかわりは面白い話題です。動物はモノではありませんが、ヒトとは違います(最大の違いは多分言語)。剣道の練習の一環として、飼い犬が手を出す直前にその手を制止する訓練をしている高段者がいました。
5点差し上げます。
今回の講義を通して、皮肉と本気について興味が沸いた。深く調べてみると「本気でやっている過激な主張」と「ネタでやってるトンデモ」の区別が難しいことを示す。ということがわかった。ユーモアの明白な表出が無い限り、誰かが本気だと誤解しない形の過激主義または原理主義のパロディを作るのは不可能である。ということだと理解することができた。また能動性について、自ら動くことに加えて、自分以外の外部へという考え方であり「自ら外部の環境に働きかける力」と言える。このことから能動的な人はいつもと違うことをしてみる実験や試行錯誤を楽しむ人であり、その場の何かを自分から変えてみようとする人である。 能動的な人は行動をし、行動によって機会を得て、その機会によって自らを変える人だとわかった。これから習慣、行動を意識して自分から積極的に行動して、新しい発見を探していきたいと感じた。
皮肉をどういう材料として提示したかを押さえていただきたいです。皮肉それ自体にこだわることは、授業の目的とは一致しません。また「能動性」という言葉の意味も、どういう意味で使用されていたかを確認してほしいところです。
2点差し上げます。
今回の講義で、人間と人間との関わりと人間と人間以外のものとの関わりは異なるという話に興味を持ちました。この話を聞いて、言葉が通じる通じないの差だと思ったが、異国の人とコミュニケーションをとるときに人間同士でも言語が通じないことがある。しかし、言語が通じない人間と言語が通じない犬だったら対応が大きく変化すると考えると理解することができました。また、頑張れば言語同士で意思疎通ができる人間と、最初からどう頑張ろうと言語同士では意思疎通ができない動物などの生き物を、人間は人間以下の生物と考えているのではないかと考えました。
わからない言語であっても言語であることはわかったり、わからないながら何か意味あることを言っているのだと思えるのはどうしてでしょうね。この問題に入っていくと、ヒト-ヒト関係についてもっとよく理解できたと思いますが、おしかったです。
5点差し上げます。
今回の講義を受けて、身体と環境の関係についてが一番気になった。少し調べてみると、創造的な思考における環境と身体の相互作用を取り扱う、古くから創造性の研究では、どのような心的メカニズムから創造性やひらめきが発露するのかという問題に取り組んできた。しかし、それら先行研究では、創造性や洞察の源を人間の知能や脳に求めるものが多く、環境へ目を向けたものはそれらに比べて少なかった。しかし、昨今の身体性認知科学の立場では、人間の知的な振る舞いを心的処理だけでなく、環境にもガイドされたものとして説明する研究が見られる。このことは知覚心理学や推論研究などでも実験的検討が行われており、洞察や創造的なアイデアの発見といった一見卓越した知能によって生み出されるように見える現象も,身体性認知科学の立場から説明できる可能性がある。本研究では創造的なアイデア生成課題のパフォーマンスが、環境と身体によって左右されることを心理学実験によって示した。と言う論文を見つけた。この研究では被験者の身体と与えられたオブジェクトとの関係によって異なることを示していた。授業で学んだことにプラスしてさらに深い部分まで知ることができた。
全てを脳に帰属させる見解から身体性認知への移行が語られていてよかったです。あなたの知ることのできたことをもう少し詳しく知りたかったです。身体性認知の考え方の優れている点について。
5点差し上げます。
今回の講義では、これまでの講義を振り返るような内容であった。また、今回の講義で認知心理学について振り返りつつも、新たに深掘りしていく形となった。今回の講義を受けて個人的に気になったのは、身体と認知の関係性についてだ。人は身体で感じることと、目で見るという行為が認知に影響するというものである。手に暖かい珈琲を持っている時と、冷たい珈琲を持っている時では向き合っている人への印象評価が変わったり、柔らかいソファーに座っているときに、一緒に座っている人が優しそうに見えたりなどである。身体が受け取る情報は、人の認知と深く結びついており、それがもたらす結果は人によって良いものであったり悪いものであったりする。このような身体と認知の関係によって起きる情報の処理の仕方について理解して、他者に説明できるようになれば、特定のシュチュエーションにおいて、その原因や理由をしっかりと言語化することが可能になる。さすれば、日常的に私自身は特定の他者へ抱く数多の印象についても、しっかりとした理由付けを行うことができれば、あまり好印象でない人に対して、新しい視点でその人を受け止めることができ、関係性の改善にも繋がるのではないかと思えた。
あなたの挙げる事例が身体性認知の研究かどうか、それとも脳で情報が総合されているといった類の研究なのか判然としませんが、身体を抜きに認知が考えられないという傾向が高まってきているのは事実だと思います。
次回は投稿期限に間に合いますように。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
人間が放射光を目を通して物を認知するのは分かったが、それをどのように脳で処理するのかが気になったので調べてみました。そうすると、高度なメカニズムが存在してることがわかりました。大きく分けて距離の認識メカニズムと形の認識のメカニズムの2つのメカニズムに分けることができました。
距離の認識のメカニズムは、距離を判断する際に、人間の視覚は「奥行き手がかり」と呼ばれる情報を利用しています。例えば、両眼視差という左右の目に映るわずかに異なる画像の差を脳が処理して奥行きを感じ取り、近くの物体ほど左右の視差が大きく、遠くの物体は視差が小さくなるため、脳はこの視差を手がかりにして距離を判断します。他にも、調節という水晶体が厚みを変えることでピントを合わせる機能と輻輳という目が近い物体に焦点を合わせるとき、両目が内側に寄る現象を使って、距離感をより明確にしています。
形の認識のメカニズムは輪郭とエッジの認識やテクスチャ勾配、視覚補完と過去学習によって出来ていて、輪郭やエッジはを形を認識するための第一歩で
目は明暗の違いに敏感で、物体の周囲のエッジを検出し、それをもとに形を把握します。テクスチャ勾配は、物体の表面にある模様や質感の変化も形を認識する手がかりです。テクスチャが密集している部分が遠く、広がっている部分が近くにあると判断することで、物体の形状をより立体的に把握できます。視覚補完と過去の学習は脳は、過去に見た物の形状情報やパターンをもとに、目の前の物体を認識する補完機能を持っています。また、たとえ見たことのない新しい形状の物であっても、類似の特徴をもつ物と比較することで、形の認識が可能になります。
人間は、複数の視覚手がかりを組み合わせて物体の距離と形を正確に認識しています。これらの手がかりを脳が高速に処理することで、日常生活の中で自然に周囲の距離感や物の形を理解することができるのです。視覚は単に「見る」だけでなく、膨大な情報処理と記憶の補完によって成立している、非常に高度なシステムであることが分かりました。
調べてみたのはとてもえらいです。しかし考える方向は残念ながらそっちじゃないのですよ。「放射光が脳で処理される」という考え方をとらないのが生態心理学で、その生態心理学の話を中心に授業を行ないました。あなたが説明してくれた学説全て、生態心理学がとらない考え方です。その学説を紹介してくれてもよかったのですが、授業のテーマである生態心理学と関連づけてほしかったです。何について論じることが授業と関連あるのか、ないのかを見極めると学習に無駄がないと思います。
4点差し上げます。
今回の講義で理解した点として、認知において表象主義 計算主義 身体の不在の考えは生態心理学において必要ないものであり、人間は、放射光を通して物の認知を確認できることがわかった。また、我々人間は、行為の可能性をアフォーダンスをしている。例えば、椅子であれば、座るということをaffordしてくれているから、椅子は座る物だと認知できる。我々人間はそのものには、どういう行為が可能なのかや意味のあるものをピックアップすることが出来ているということが理解できた。また、人によって見えるものは違い、包囲光配列という配列を検出できるかという技能を持っているかで見え方は異なり、我々がモノを見るのは技能の問題とも言えるのであるということがわかった。今回の講義で大切だと思った点として、生態心理学においてアフォーダンスは環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報だということを捉えることができた。
「放射光を通して物の認知を確認できる」のではないのです。包囲光ですね。そのあとでちゃんと「包囲光配列」と言っています。話が一貫しなくなりますね。
3点差し上げます。
今回の講義を受けて、ゲシュタルト心理学が面白いなと思った。パターンこそが対象をきてめるってのが難しいけどしっくりくるなと思った。自分たちの認知についてのカギはパターンではないかなと思った。
ゲシュタルト心理学の身近な例を調べてみた。たとえば、人は音楽を耳にしたとき、それをひとつひとつの音符の集まりとして捉えるのではなく、ひとつのまとまりをもった楽曲として捉えます。樹木を目にしたときも、1枚1枚の葉っぱの集まりだと捉えるのではなく、樹木全体をひとつの植物として認識します。同じように、果物が描かれた絵を見たときにも、それが線や点の集合だと捉えることはしないでしょう。全体的な枠組みで見て捉えて、「りんご」や「みかん」などと認知します。などが出てきた。様々な場面で色々なパターンによってできてるんだなとわかった。
調べてるうちに面白い記事を見つけた。ゲシュタルト心理学は経営学にも生かせると書いてあった、人材育成に活用できるらしい。こんなところでも活用できるのかとびっくりした
面白いと思うことは大切です。ゲシュタルト心理学は生態心理学の前身の一つであるので面白いと感じたのはとてもいいセンスだと思いますが、生態心理学が授業のテーマだったわけですから生態心理学との関連で論じるとなおよかったと思います。
4点差し上げます。
今回の講義でゲシュタルト心理学に興味を持った。ゲシュタルト心理学にはたくさんの法則があり、身近な例が気になったので調べてみると映画やアニメーションでは、静止した画像が速い速度で連続して表示されることで、動いているように見える。例えば、映画のコマが毎秒24フレームで切り替わることで、動いているかのような感覚を得るのは「動きの知覚」の一例でる。や白黒のイラストで、白い部分と黒い部分が明確に区別される場合、白い部分は「図」として認識され、黒い部分は背景(地)として認識される。たとえば、有名な「顔とキャンドル」の画像では、白と黒の部分が異なる図として認識される(見る人によって、顔とキャンドルのどちらを「図」と見るかが変わ
る)。など普段自然に私たちがしてしまっているようなこともゲシュタルト心理学が関係していて認知心理学は知れば知るほど面白いなと感じた。また、芸術によくゲシュタルト心理学が視覚的な認識の仕組みを理解する上で重要な指針となると知り、様々な場面で使用されている用途の多さに驚いた。
あなたもゲシュタルト心理学に興味を持ったのですね。前の人のコメントに同じです。
4点差し上げます。
今回の講義で、人が野球のボールを補給するときや、道の幅を通路だと認識する感覚において、物理的な絶対値はなく、自分の体の大きさなどから算出されるタウという感覚を学んだ。
人が物の重さや長さや形状を知覚するためには、自分の体の一部として動かすことでわかることができると知りました。
そのことから、人が物を認知し、知覚するためには、能動的に動かす必要があると知った。
我々の認知は物理量ではなく、対象(環境)と身体の相関関係から算出されるπ数(パイ数)という値に基づいているのですね。タウはその一つです。アクティブタッチのことも記憶に残してもらえてよかったです。
5点差し上げます。
今回の講義ではゲシュタルト心理学について特に理解が深まりました。ゲシュタルト心理学で有名な若い女性と老婆の2つの見え方がある騙し絵がありますが、すぐに若い女性と老婆の2つの見え方に気づく人間もいますが、片方に目が集中してしまいもう片方を中々見つけられない人間もいます。何故個人差があるのか調べたところ、一般には自分が興味をもっている対象ほど見えやすいと考えられており、人間はものごとをありのままには見ていないという事が分かりました。何かを見た時、見えたものがそこにあることを信じて疑わず、私たちの意識が感知しいるイメージは、脳が立体感などの復元や補正を行い、さまざまな個人の解釈を盛り込んだ加工済み画像であることを知りました。外にある光の刺激を頭の中でコピーするように写しをとり、分析することで認識していると講義中に学びましたが、その分析の個人差で同じものを見た人間でも違いが生じるのだと思いました。
ゲシュタルト心理学ですね。先の人に同じです。
4点差し上げます。
今回の講義で、壁と壁の幅によって通路か通路でないかを認識するという話が印象に残りました。人間は、肩幅の約1.3倍をきると通路と認知できなくなることから、肩幅に差がある大人と子供では通路と感じる場所に違いが生じるという話を聞きました。このこと以外にも大人と子供には認識の違いが多いと考えました。大人と子供では、身長や体重、人生の経験も違うため見えている世界が違い、認識も違います。例えば、50メートルは大人には短い距離に感じるのに対して子供には長い距離に感じます。これは、身長や経験の違いによって起こる認識の差だと考えました。
なかなかいいところを捉えていると思いました。「遠い/近い」という距離の認知が身体のサイズと相関しているというところです。まさに生態心理学的な思考です。「経験」はまた別に考える必要がありますけれど。
6点差し上げます。