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satsugakushinri
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今回の講義で動きの中に情報があるという、ギブソンの考えが興味深かったです。私はサッカーをしていたのでサッカーを用いて考えると、サッカーでボールがゴールに向かう瞬間に、選手はボールの速度や方向を瞬時に判断して動きます。ボールの動きには、それをキャッチする、蹴る、避けるなどのための情報が含まれているので、動きの中に情報があると言えると思います。私生活の中での例で言うと料理をする際私たちは鍋の中のお湯の温度がちょうど良いか観察して火の火力を調節します。このように改めて考えると私生活やスポーツにこの考え方が用いられていることが、分かりました。
「それをキャッチする、蹴る、避けるなどのための情報」を知覚できるかどうかが、サッカー選手が有すべき技能の一つですね。お湯の温度は何によって知覚されるのですか。とても興味深い話題なので、詳しく聞きたいと思いました。調理技術の高い人は、調理中の具材が発する音とか、蓋に伝わる振動とかで、適切な調理が行なわれているかわかるそうですね。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
動きの中に情報があるという考えについて非常に興味を持った。そこで、動きの中に情報があるという理論について深く調べてみた。
まず、運動や動作を単なる身体的な現象として捉えるのではなく、それ自体が情報を含むものとする視点であり、この考え方は、運動学、心理学、デザイン、スポーツ科学、そして人間とコンピュータのインタラクションなど、さまざまな分野で応用されていると言う。動作や動きには、人の意図、感情、目標、環境との相互作用など、さまざまな情報が含まれる。
例えば、手を振る動作は「挨拶」や「さようなら」といった社会的メッセージを伝える。
そして、動きの中には一貫したパターンがあり、それを観察・解析することで、意味やルールを見い出せる。例えば、ダンスや演劇では動きそのものが物語や感情を伝える。
応用分野は様々ですが、どう応用されるいるのかまで知れるとよかったと思います。対人(社会)的場面への応用も可能ですが、こちらも詳しくはわかっていません。可能性と展望を見出した次は、どのように可能なのかを探ってみるとよいと思いました。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
動きの中に情報があるという考え方についてとても興味を持ったので身近な例を調べてみた。その中でも特に印象に残ったのがスポーツの例である。私は6年間程テニスをしていた。試合が後半になるにつれて、相手はどこが弱点なのか、どういう動きをするのかどんどん相手の動きから分析して情報を得て戦っていた。これは動きの中に情報があるといっていいだろう。また、サッカーのゴールシーンで選手が喜びのダンスを踊ったり、バスケットボールの選手が得点を決めた時に腕を大きく広げたりすることも観客やチームメイトに喜びや勝利の意味を伝える動きであり動きの中に情報がある。他にもダンスや手話など私たちの身近な所でこの考えは用いられているということを学ぶことができた。
試合中にあなたが得ている情報はどういうものでしょうね。生態心理学的な意味での情報かどうかを確かめたいと思いました。スポーツ以外でもそうですが、熟達者は的確な知覚をしているものの、何を知覚しているかを明確に言うことができません。言葉がない(知らない)のですね。それで「なんとなく」とか「こんな感じ」としか言えない。熟達者はすでに知覚できる人ですから、それを学術的な概念で表現できると熟達者である恩恵が活かせると思います。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
ギブソンの動きの中に情報があるという考えを学んだ。例えば裁判において、今までの経験則や心理学的確率でこの人がやった可能性が高いと犯人を決めつけるといった方法では、確実かどうかはわからないといと知った。心理学の情報的物言いの、条件をそろえると人はあることをする確率が高くなるだけで確実にするとは言えないという考えにつながっていると感じた。足利事件の説明についても、心理学的な考え方で被害者と接触していないと明らかにし、冤罪を証明したと知りました。
確率的なもの言いと、動きの中に個別性を反映する情報を見つけることの関係は把握してもらえたでしょうか。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
3点差し上げます。
今回の講義の中で話していた足利事件がとても印象に残った。その中でも菅家さんの話し方や動きの特徴で確定ではないが、嘘か本当か判断できると知り、関心を持った。記憶の中だけでは真実を知ることはとても難しい。しかし、その記憶を表現する際に環境の一部である動きで情報を得ることで、記憶の中にある情報は真実であるか、ある程度判断できることがわかった。また、日常生活の中でも動きの情報で判断できることがあります。例えば、自分は弟と会話する際に、普段は口数多く話している弟が嘘をついているとき、明らかに口数少なくなったり、目をみて離さなくなったりする。こういった日常生活の動きだけで情報を得ることができる。
「記憶の中にある情報は真実である」という言い方は近似的表現で、厳密には間違いです。それはまた次回にでもお話ししましょう。弟さんの事例は弟さんに関する確率的言だと思います。「嘘をついている場合、弟さんはそういう状態であることが多い」ということですよね?
「確定ではないが、嘘か本当か判断できる」とはどういう意味ですか。
4点差し上げます。
ギブソンの動きの中に情報があるという感がに興味を持ったので調べてみた。静止している物事を見るだけではいったい何が起こっているかやこれから何が起こるかを完全に理解することはできないが人や物の動作が加わるとそのあとに移る状況が伝わるという考えである。例を挙げるとアニメの静止画を1枚見せられただけではこういう感情なのかもしれないと何となく推測することができるかもしれないがこの先に待ち受けている展開やその前に起こった展開などを完全に理解をすることは不可能であるため、状況を的確に伝えるためには動きを取り入れ、その状況の明確な要因やどういったことを伝えたいかということを相手に感じ取らせることが大切だと学んだ。自分の好きなアーティストも歌っているときは動きを取り入れることで感情の起伏を伝えているのでそれを見習って今後プレゼンテーションなどを行う際に身振り手振りを使って相手の注意を引き付けられるようにしたいと思った。
動きの中に情報があることは体感的に理解されているようですが、どういう情報かを特定できるともっと面白いですよ。考えてみてほしいです。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
今回の講義で、動きの中に情報があるというギブソンの考えに興味を持った。これは、静止している写真などを見るだけでは完全に情報を捉えることができないのに対して、動きによって変化する状況の中では物事の情報が捉えることができるという考えである。自分が経験した例を挙げると、高校2年生の頃に京都へ修学旅行へ行った、その修学旅行に行く前にその場の地図や写真などを見て、事前に下調べをして大体の雰囲気を掴んでから京都へ行ったが、実際にその場を歩いてみると写真や地図で見た事前に知っていた感覚とは全然違う感覚がした。これは、写真などで感じる空気感と実際に足を運んで感じる空気感は違うからである。この時に、動きの中に情報があるという考えを実感していたんだと思った。
直前の人と同様ですが、動きの中に情報があることは体感的に理解されているようなので、どういう情報かを特定できるともっとよいと思いました。これも以前の投稿者にコメントしましたが、情報を知覚できることとそれを適切な言葉で表現できることはまた違います。それで「空気感」という、「よくわからないけど、そうとしか言いようのない」表現になるのですね。「動きの中に情報がある」という言明が、供述者の体験判別についてはどう応用されてるいるかはわかってもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
今回の講義を受けて、動きの中に情報が隠されているという現代では常識となっている概念を今のような技術のない時代で最初に発見したギブソンは凄いと感じました。ギブソンの例としてよく挙げられるスポーツや裁判などはどちらも「緊張」や「疲労」を多く感じ、少なくとも普段通りの思考や行動は出来ない。なにせ試合中、裁判中はその種目などの「関係のある情報」以外は「一旦忘れる」や「考えないようにする」といったことで脳内を整理し、集中する事を最優先にするからだ。アスリートやプロでさえ心を無にすることは難しいとされているが、休憩や試合前の選手を見ていると無意識とも故意とも言えるようなストレッチやハンドサイン、仕草が顕になる。インターネットにはプロのスポーツ選手のコンディション別ジンクス一覧といったまとめサイトがあるらしい。これらも言葉にこそしないが、表情や仕草で無意識的に自分の体の調子を情報として行動であらわしていると言えるだろう。
裁判においても、足利事件にせよ心身的動揺から警察が様々なことを推察、予測し、心が見透かされるようにバレてしまうので包み隠さず真実を言うしかないと考えます。
動きの中に情報があると言う考え方は常識ではありません。これは生態心理学特有の考え方ですすが、生態心理学は正しく評価されていないのが現状です。大方は、脳内での情報処理だと言っています。それにしてもギブソンは確かにすごいと思います。既成の概念でお手軽に理解しようとするのでなく、現象をじっくり観察してそこからしかわからないことを見出したのですからね。この姿勢は見習いたいものです。何かしらの衝撃を受けられたのは喜ばしいと思いますが、それを記述、解釈しようとする言葉が生態心理学的でないのが残念ではあります。仕方ないことではありますが。「こういう言い方ではないと思うのだがなぁ」という程度に思えればOKです。
4点差し上げます。
講義を受けて、心理学の法則は「確率的物言い」であるという点が記憶に残った。過去に起こったことが何なのか誰もわからないなどと言ったことがわかった。また、足利事件についても興味を持ち、記憶と真実は正しいかどうか動きなどで判断できることがわかった。客観的表現と主観的表現が、伝聞だとどちらか一方になってしまうことなどが普段の生活でも例があるなと思う。
何かしらの衝撃を受けたくださったようで、よかったと思います。
3点差し上げます。
自白証言が正しいか確認するための信用性鑑定の話が大変興味深く思いました。記憶に基づいた自白証言なのか、2次情報によるものなのか、それを確かめるために対象者にテストを受けさせ、結果からどこまで覚えていてどこから歪んでいるのか確認し、思い出すという動作をテストという形でもう一度させることで、どこまで信憑性があるのかを確証するという方法があることを学びました。これはあくまで対象者に「意図」が無く、純粋に記憶力に左右されている場合に限った話であり、何らかの「意図」が含まれている場合には有効的ではないように感じました。「意図」があるからこそ、「動きの中にある情報」を見つけることができ、逆に「意図」がなければテストを受けさせるなど機械的な方法で試すしかないのだと思いました。しかし、その「意図」が相手にあるのか、そしてそれは悪意を含んでいるのか判断することは難しく、また相手の動きとはいってもそれはただ自分にはない癖なのかもしれない、そもそも「意図」は本当に存在するのか、全て無意識だったと言われてしまえばそれまでであり、事情聴取や裁判において、これをもとに判断するのは危ないと思いました。
最初の方で語られている方法は旧来の心理学的方法で、裁判ではあまり奏効しない方法として批判したものです。なぜそれらが不十分であるかを学ばないといけない。ボクシングに足技がないことを理解するにとどまるのでなく、どうしてそれが不完全であるのかを知らないといけないのですね。いい例えかどうかわかりませんが。意図の話もしましたけど、それは派生的な話題でした。
3点差し上げます。
動きの中に情報があるというギブソンの考え方について、例えば裁判で容疑者に対して、検察官が過去の事件などから推測して有罪かどうか判断してしまうのは確実な方法ではないと分かった。頭の中を遡って記憶から真実を見つけるのは難しく、そのときに環境と密接に繋がっている行為や動作などの「動き」から読み取るのが確実であると分かった。動きには思考や感情など様々な要因が絡んでるので動きの中に情報があるというのは説得力のある考え方だと思った。このような心理学的な考えを持って環境と接触しているかどつかが足利事件において菅家さんの冤罪に深く関わっていたのだと思った。
検察官が実際に行なっている、どういう推論が不適切なのかを言わないといけないと思います。これまでの投稿者のほぼ全員に言えることですが、足利事件被告人のどういう動きによって、彼の体験性の有無が判断されたのか、どうして判断できるのかは理解してもらえたでしょうか。
4点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
今回の講義では、記憶についての学びました。この講義を聞く前は、当たり前ですが、記憶は頭の中にあるものだと考えていました。ですが、今回の講義を聞いて、心理学の考えでは記憶は、知覚と行為の中であるものだと学ぶことができました。教授がおっしゃっていた、わかってくるってことは見えていないものも見えるようになってくるという例がとても印象深いなと思いました。確かに、初めていく場所は、当たり前だがどこに何があるかわからないが、何回かその場所に行くと、見えてなくてもどこに何があるかわかってきます。生態心理学的にはこの考えは、知識すなわち記憶ではなく、知覚であることが理解できました。結論として、私たちにとって記憶は幼い頃から頭の中にあると勝手に思っていましたが、学問的には記憶は、知覚と行為の中にある、そして時間と場所、空間を持って知覚であることが理解できました。
授業の骨子を理解してくださってありがとうございます。
7点差し上げます。
今回の講義では記憶の真偽が印象にすごく残った。特に3つの中でも『供述内容に依らず記憶を語れるか』というのが面白いなと思い調べてみると記憶をどう語るかは、内容の真偽に影響を与える。例えば、ある人物が「その事件が起きた瞬間、自分がどんな状況だったか」を語るとき、言葉の使い方や表情、体の動きが大切な手がかりになる。これにより、記憶の「伝え方」が真実味を増すこともあれば、逆に誤解を生むこともあるそうだ。生態心理学における記憶というのは面白いなと感じた。
あなたの言っている言葉の使い方等は、授業で話した語りの形式的側面が体験を反映するという話と一致しているか心もとないです。と言うのも、あなたは「調べてみた」そうですが、この授業で触れたことは多分調べても出てこないと思います。あなたの言っているのは、レトリックとしての語り方ではないでしょうか。たとえば、映像的な語り方をすると真実味があるように受け取られるといったものがあります。
4点差し上げます。
今回の講義で直接体験想起と間接体験想起の話に興味を持った。直接体験想起は自分が実際に経験したことが記憶がでてくることであり間接体験想起はテレビで見たシーンを思い出し、その時の感情や状況を頭の中で再現することである。自分に直接の経験か、外から入ってくる情報に分けられると理解できた。自分もそのようなシーンを経験しており、特に間接体験想起が自分はよく体験していた。
直接体験と間接体験、それぞれがどういうものであるかが述べられていますが、授業で触れたのは、語りがいずれに依拠しているかをどう判別するかにあります。理解をもう少し進められるとよかったと思います。
2点差し上げます。
今回授業を欠席したのでmoodleに貼ってあった授業資料をもとに課題を書かせていただきます。
記憶の真偽という言葉が出てきたのでギブソンとの関係性や記憶の真偽という言葉を少し深掘りしてみました。記憶の真偽とは、記憶が正確で信頼できるか、また誤りがあるかという問題を指す。人間の記憶複雑で、必ずしもあっているわけではないため、時には誤った記憶や歪んだ記憶が形成されることがある。と書いてあった。記憶の真偽には大きく3つの問題があり、記憶の歪み、誤った記憶の形成、回想の不正確の三つがある。過去の情報と新たな知識の絡み合いで記憶はできているのでそこに誤りが出てきてしまうことがある。ここからギブソンとの関係を調べていきます。ギブソンは知覚についての研究を続けてきた、知覚も必ず正確というわけではなく誤った解釈をされることがよくある、そのため記憶と知覚に違いが生じることがある。このようなところが記憶の真偽に関連しているなと思った。
欠席したですますのでなく、欠席を取り返すべく自習されたのは素晴らしいです。ただ授業内容とはあまり接点がないように思います。記憶の真偽の問題がどういうものであるかではなく、真偽判別をどう行なうるのかが授業で触れられたことです。ギブソンとの関連付けも、記憶と同様知覚にも誤りがあることではなく、記憶は知覚の一種であるという話を授業ではしました。欠席の理由はわかりませんが、体調不良なら、時間は体調管理に気をつけて、授業でお会いできることを願っています。
3点差し上げます。
現在見えていないことは元々知っていれば、その全貌が分かってくる。例えば、りんごを真正面から見ていたとするならば、りんごの片面しか見えていませんが、見えていない部分を存在しないとは思っていなく、背後に回り込んでみれば、同じような林檎の球体の側面が見えると認知している。このことこら、今回の講義で記憶は行為や知覚の中に存在しているのだとわかった。
それはギブソンの視知覚論ですね。記憶はどう考えたらよかったですか。
3点差し上げます。
記憶の真偽に関して、記憶が真実であるかどうかを判断するためには、個々の記憶の検証や確認が必要で、記憶が歪む可能性があることを常に考慮しながら扱うことが大切だと感じました。間接体験想起は、記憶が単に自分の直接的な経験だけでなく、他者との交流や外部情報によっても形作られることを示すことを知りました。それが人間の認識や共感、記憶の豊かさに寄与する一方で、記憶の真偽に対する慎重さをも求められるものだと思います。
記憶が歪むことを考慮する話ではなく、記憶かどうかをどう判別できるのかという話であったと思います。真偽に対して慎重であるべきという話は別文脈では重要な話題ですが、授業内容との関連は薄いと思います。
3点差し上げます。
今回の講義を受け、「記憶」がどこにあるのか一瞬分からなくなった。一般的に今日まで18年生きてきたが一般常識で言えば記憶は脳に保存されるという認識だが、行動や物などを一連の流れとして脳が無意識に記憶していると聞いて納得出来ました。例えば朝起きてすぐにカーテンを開け、うがいをしに洗面所に向かうようなイメージを思い浮かべより納得しました。
「脳が無意識に記憶している」という話はしていないので、誤解だと思います。そもそも生態心理学は脳に記憶が貯蔵されるとか、知覚が脳で構成されるとかいう発想はしません。このへんはこれまでの授業で繰り返し述べた通りです。朝起きてからの行動は習慣で、ある文脈内で学習された対象の知覚にかかわるものです。間違った納得は修正された方がいいです。
3点差し上げます。
今回の講義を受けて記憶の真偽について詳しく学ぶことができた。経験則でなく確実なことが言える、供述内容に依らず語られる。など理解することができた。客観的表現と主観的表現についてなどもっと深く学んで行けたら良いなと感じた。
授業で言いたかったことをわずかですが掴めていると思います。難しい話だったと思いますが、理解を進めてくれると嬉しいです。
3点差し上げます。
客観的表現と主観的表現を合わせたものが直接体験になることを学びました。主観的表現について、時間を表す場合、疲労や苦痛が伴っていれば客観的よりも長く感じ、逆にその間集中しているとあっという間に感じるということは経験したことがあります。主観の中にある自分の感情の良し悪しで表現の仕方が変わってくることを学びました。
被験者Kさんの語りの特徴のことを話していると思われますが、これは彼女独自の表現であって(と取られるべきであって)、一般的にそうではありません。体験は想起語りの形式に現れるというのが授業での主張でしたが、あわせてその現れ方は個別であって、人が変われば異なる語られ方になるとも言ったと思います。もちろん、あなたのようにKさんと似たような特性を持っていることもあり得ますが、特定の人について体験の有無を判別することが授業で示したかったことであり、特定の人を超えた一般化を主張したものではありません。一般化をすると、確率的言明に罠にはまります。そういうことにならないような方法を探った末での話ですので、確率的言明に戻ってはいけません。
3点差し上げます。
今回の講義を受け記憶について学んだ記憶というのものは現在持っているものが正確であるかということを確かめることが必要である。記憶が歪むという事態は誰にでも起こりうる事態であり、それを防ぐためには日々の物事の1連を覚えておき不確かなことをなるべく減らすことが大切である。
記憶の歪みを減らす話はしていないと思います。体験の有無の判別を語りのみからし得るかという話でした。
2点差し上げます。
記憶の真偽について、前回の裁判の例のように経験則だけで確実とはいえず間違った記憶が無自覚に自身の記憶に残ることがわかった。
「経験則だけで確実とはいえず」まではいいのですが、間違った記憶が残るとかいう話はしていないと思います。体験の有無の判別にかかわる話をしました。
2点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
[年末年始特別課題]
森が休講にした授業回の代替措置の一環で課題を出します。出す出さないは自由です。
これまでの投稿に対するコメントやその後の学習を通して、自分の理解がこのように進んだ(誤解が解けた)ということを示して下さい。(友野先生の授業回は除きます。森担当回のみが対象です。)
投稿はこのようにして下さい。
・まずかつての投稿を一つ選びます。 (>>投稿番号 の機能を使用してください)
・何に関する授業であったかを書いてください。 例) 「認知科学史で、1950年代の認知科学を扱っていた回」
・かつての投稿に対して与えられたコメントや、その後自分で学習したことに基づいて、よりよい回答に直してください。また、自分が誤解していたことを正してもよい。「このことについてこんなふうに誤解していたが、これはこう考えるのが適切だ」というように。
投稿期間は 2024年12月24日(火)から2025年1月10日(金) とします。
投稿はこの期間中1回だけ、選べるかつての投稿も一つだけとします。あれこれふりかえるのではなく、一つの投稿についてじっくり考える機会にしてください。