仏教は言葉の概念から離れて、主観に意識を持っていき、更にその凡夫の主観を空じる事で「仏の空観」に意識として入って行きます。空はその「空観」に入る為の理論として説かれた教えです。
「析空」や「体空」は凡夫の「主観と客観」から起こる縁起で『般若心経』で説かれている「色即是空」と「空即是色」がそれを言い現わしております。この主観と客観という二観でモノを見ることで正しく対象となるモノを認識出来ます。この二観でのモノの見方を「中観」といいます。
<凡夫の〝観〟としての空・仮・中>
客観「色即是空」--- 此縁性縁起(仮観)
主観「空即是色」--- 相依性縁起(空観)
中観「色即是空 空即是色」 (中観)
この凡夫の〝観〟に対し仏の〝諦〟という言葉が仏教では用いられます。〝あきらかにする〟と言った意味での〝諦〟です。実は『般若心経』の「色即是空 空即是色」という文句はこの凡夫の三観を言ったもので、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三種の不不が「仏の三諦」を示しております。先に説明しました「不生不滅」も「不垢不浄」も五蘊が働かない肉体から解脱して意識として存在している仏の「此縁性縁起」と「相依性縁起」のお話です。
<仏の〝諦〟としての空・仮・中>
仮諦「不生不滅」--- 析空による縁起(応身の釈迦)
空諦「不垢不浄」--- 体空による縁起(報身の釈迦)
中諦「不増不減」--- 法空による縁起(法身の釈迦)
その三種の不不の最後の「不増不減」(増えることも減ることもない)の意味するところを今からお話致します。
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