法介
259e67dbae
2023/08/09 (水) 08:44:14
そもそも仏教学の学者さんは、仏教を学術的に研究されておられる学者さん達です。学術なので皆が納得しうる客観性に軸をおいた論証となります。ここで言う客観性が何を指すか分かりますか。
文献が残っているかとか、経典のどこにその言葉が示されているかといった誰もが納得しうる根拠です。しかし仏教ではこの「言葉」から離れる事をまず教えられます。なぜならこの「言葉」という概念によって様々な「実体」が立ち上がって見えてくるからです。
初期仏典で説かれた「無我」ですが、自我意識(第六意識)を形成する元となる五蘊の働きを完全に止滅させる事で「無我」の境地に入ります。自分という者が存在しないとか言ってるのではありません。五蘊の働きを空じることで自我意識(第六意識)が働かない境地へ禅定で入る事を説いているのです。
普通の人には五蘊は当たり前の事として働いています。
だって自分の頬を思いっきりつねってみて下さい。
「痛くな~い! ぜんぜん痛くな~いですよ!」って人居られますか?
通報 ...