次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が実体に即した真理なのに対し、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。心である「性」を因として起こる縁起です。
綺麗だとか汚いって誰が決めるでしょう?
それは個人の主観の問題です。
大好きな人と過ごす時間はあっという間に過ぎますが、大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。同じ一時間であっても長く感じたり短くかんじたりします。
リンゴを「美味しい!」と好んで食べる人も居れば、「こんなのまずくて食えない!」といって食べない人も居られます。
坂道を上から見下ろせば「下り坂」ですが、下に居る人達から見たら「上り坂」です。
見る人、味わう人、感じる人が変わればその対象のモノの有り方もまた異なってきます。そういった相互関係によって生じる縁起を「相依性縁起」と言います。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした内容で空の更に踏み入った深い理解です。
「空」をモノの状態と思い込んでいる上座部の人達は「主体は有りません!」といい、禅宗の人達は「実体は有りません!」と激しく主張されます。「空」をモノの状態の「有る」とか「無い」といった形容詞として理解している訳ですが、このような空の理解は「析空」の特徴の一つでもあります。
そういった〝状態〟としてのモノのあり様を捉える客観認識法(実在法)とは違って、相依性で起こる縁起は、モノのあり様ではなく、それを見ている人物の心のあり様を中心として起こる心の変化、即ち主観として起こる縁起となります。この「相依性縁起」は体感を空じる「空」なので「体空」といいます。
此縁性縁起=析空(客観)
相依性縁起=体空(主観)
龍樹は『中論』の中で、実はもう一つ大事な縁起を解き明かしております。しかしその内容を読み取れなかったのが昭和の仏教学界の権威と称されたかの中村 元大先生です。
中村先生は龍樹の「空理」をこの2種の縁起までしか読み取れなかった為、龍樹を二諦論者と誤った見解を世に弘めてしまいました。