その「但空」について、少々お話しさせて頂きます。
その前に、とある掲示板で禅宗の方が大変おもしろい事を言っておりましたのでご紹介いたします。わたしがその禅宗の禅さんに、
「五蘊を空じている人がどうして画面の文字が読み取れるんですか?」
と尋ねましたら、
「それは画面を認識してるからに決まっているでしょう!」
と言われまして、
「認識という作用が五蘊の働きなのですが、、、。」と突っ込みますと、
今度は、
「そもそも五蘊は空なんだから、実体なんて生じもしなければ滅しもしません!」
とこれまたおかしな事を言ってこられます。
そもそも「五蘊は空なんだから」とは、一体彼は五蘊をなんだと思っておられるのやら、、、、。
五蘊は人間が外の情報を五感で感知し、それを意識が経験値として脳に記憶し「概念」として構築していく働きを言います。その五蘊がもとから「空っぽ」だと禅さんは言いわれます。
それは人間には「概念」は存在しないと言っているのと同じ事になります。
人間はさまざまなモノを概念化する事で、様々なモノを「実体」として認識します。
目の前のテーブル、コップ、パソコンといったモノを我々は概念によってテーブル、コップ、パソコンとして認識している訳です。
五蘊を「空じる」という事は、まず目を閉じてみて下さい。テーブル、コップ、パソコンは消えましたよね。これは眼識の働きを停止させたからモノの「色相」、即ち姿かたちが消滅した訳です。これを眼識を空じるといいます。同じように鼻識や舌識、耳識、身識を空じていくと人間の意識の働きは止滅していきます。これが色界禅定と言いまして、禅天に意識として入って行く瞑想法です。この禅定という瞑想を行う事で人間の五蘊の働きを完全に停止させる事が出来ます。
この瞑想をしない限り通常、人間はこの五蘊が働いてその働きによってモノを「実体」として認識します。