実はこの「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不からなる文句の意味するところ、おそらくその仏の深意を読み取った学者は未だ一人として居られないかと思われます。もし居られましたら教えて頂きたい。
経典というのは境涯で読み取るものなんですけど、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる「声聞」という境涯は、実体を形成する「言葉」にしきりに執着してやむことがありません。その良い例がここでの禅さんのこういった発言です。
「照見五蘊皆空」は、「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下しますがそれを現代語訳しますと「 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。」となります。つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われています。対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)とならなければなりません。中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのです。
経典を文法的にしか読まれておられません。仏が云わんとされている奥深いその深意を全く読み取る気概の欠片も感じられません。ただただ文法のお遊びを楽しんでいるとしか思えない、、、。
お釈迦様は涅槃に入られる直前に『涅槃経』を説かれますが、その中の四依品では、釈迦亡き後、仏の法を正しく習得していく術として大事な四項目が「法四依」として示されております。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
この仏が遺言として残された大事な指針を無視して真実の仏の教えの習得はあり得ません。その第一項の依義不依語(義に依りて語に依らざれ)の意味するところは、言葉に捉われるのでは無く、その意味するところを深く考えていきなさいという教訓です。やれパーリだのサンスクリットだのと原典こそがお釈迦様の深意だとか声だかに叫んでおられる方々がおられますが、そういうのを愚の骨頂と言うのです。
仏教が何たるかを全く解っておられない、、、、、。
ここで示されている不不からなる三つの言葉は、実は大変重要な意味を含んでおります。まず最初の「不生不滅」、すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。
「生じることも滅することもない」、だから仏とは永遠不滅なんだと単純でおバカな発想に走った愚かな仏道修行者がどれだけ続出したことか、、、、。
良く「空」を説明するのに、「車をパーツに分解したら車の姿は無くなります」とか、「テーブルの脚を外したら天板と棒になってテーブルは消滅します」とか言いますよね。様々な構成要素が因縁仮和合し仮の姿として存在している(仮設)と説く縁起の法門です。それを科学的学術論証で言うならば、水は科学分解して水素と酸素になったらその液体としての姿を消し、気体として目には見えない存在として空気中に漂う。しかし再び結合すれば水となり氷点下まで冷やしたら今度は氷と成って個体化する。「この物質のあり様を〝空〟と言う」と成ります。
しかしこれは「空」の初歩的な理解でして、こういった細かく細分化してそのモノの本質に迫る見方を「析空」といいます。時間の流れの中でモノの状態の変化をつぶさに観察する事で証明される物質の時間にともなう変化を捉えた科学や物理でいうところの学術論証です。(実体に即した真理)
これを仏教では『阿含経典』の中で「此縁性縁起」として解き明かされております。「此れある時、彼有り」といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。その此縁性縁起にあっては、モノは構成要素が集まったり分離することでそのあり様を変化させるがその構成要素が減ったり生じたりしている訳では無く、因縁仮和合しているに過ぎません。
もう一度言います。
「生じたり滅したり」している訳ではありません。