トピックのタイトル名変えたいなー
何にしよう、、、
良い感じで替え歌が出来た^^
今日か明日には、 優しいぼーさつさんが俺を留置場から引き取るさ でも、ブン屋に話が漏れちまうだろ! お偉い司祭様が来て、俺の釈放を頼んでくれる頃には、 知恵袋でKarさんとsanさんが大喜びしてるだろうよ!
いいんだ、俺は俺のやりたいようにやる 先の事なんざ、知ったこっちゃねえよ! 俺の人生さ 気の向くままに生きるぜ、 どこに向かうのか解らないけどな^^
グッバイ! ニコるん、 ぼーさつさんはコロナの女王さ またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で
zenさんは俺を見下ろして、地面につばを吐いた
「お前が何かしでかす度に、滅茶苦茶言われんだぞ!」
samジィは言ったそうだ
「あのクソ餓鬼、留置場でとっちめてやる!」
ヘッ、俺は俺のやりたいようにやる 先の事なんざ、知ったこっちゃねえよ! 俺の人生さ 気の向くままに生きるぜ、 どこに向かうのか解らないけどな^^
サイモン&ガーファンクルの『僕とフリオと校庭で』の替え歌です。
必ず音楽を再生して聞きながら読んでください
(雰囲気も大事なんです!)
『法介とニコるんが知恵袋で』 ぼーさつさんはパジャマのまま、 ベッドから転げ落ちるように 警察に駆けつけた samジィは俺の顔を見たとたん、 大声を出して拷問攻めさ
「それは犯罪だ、犯罪なんだぞ!」 「ぼーさつさんが見たこと、それは犯罪だぞ」
おし、準備完了。
えー、本日は晴天なり♪
日蓮大聖人は、紹介しました御文の最後で、このように言われております。
「身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。」
もはや秘すべき内容もない今の世です。
一人でも多くの人に、このご本尊に縁させてあげたいという慈悲の心で曼荼羅本尊を公開する行為が、謗法だとは私は思いません。
自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないご本尊なのですから。
ご本尊を写真に撮ってはいけないという教えも、
実はこういった秘められた実情があったのです。 https://syozou.blog.jp/archives/19133565.html
そういう時代の流れの中で出版された『三大秘法義』なのです。日蓮さんの時代は、宗門の教義を他宗が盗みとって自宗の教学に組み込むような行為が頻繁に行われていた時代です。既に宗旨が広く世間が知る事となった現代において「秘すべく内容」は、なくなった訳です。
在家が出家僧侶以上に教学を学ぶ時代が訪れたのです。
そういった時代の流れの中で、第五十九世堀日亨上人は、『富士宗学全集』全134巻から極力正系の資料を抄録した『富士宗学要集』全10巻を創価学会と共同出版された。
<参考文献> https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2022/01/05/000000 http://mikacolove.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
それは時代が変わったからです。
創価学会が世に出現し、日蓮仏法が、民衆に根差した仏教として一気に世間に広まって行きました。
その創価学会では、それまで出家僧しか知り得なかった宗旨を会員に「仏教教学」として徹底的に教えこみ、個々人の〝信心〟をより強固なものへと構築させていきました。
元々創価学会は、教職員の学会として立ち上がった組織でしたので「教える」事に関しては専門家です。難解な仏教の教えも、彼らの明晰な頭脳と信仰で培われた信心とで、宗門で教える教学をあっというまに上回っていきました。
宗門の僧侶達が学会教学を学ぶようなあり様にさえなっていったのです。
この『三大秘法義』の著者は、
日蓮正宗総本山・大石寺の第67世法主を務めた日顕上人猊下です。
では、どうして時の法主が
この「総の三諦の教相」を世間に向けて公開されたのか。
日蓮正宗の『三大秘法義』の315ページから316ページに「三三九諦の相」として次の説明文と共に掲載されております。
「空・仮・中の三諦が円融である故に、各々にさらに三諦を具える義が成立する。すなわち、空諦の空は泯有の意、空諦の仮は立空の意、空諦の中は泯立融法の意であり、仮諦の空は泯空の意、仮諦の仮は立有の意、仮諦の中は泯立融法の意である。また、中諦の空は双泯空有の意であり、中諦の仮は双立空有の意、中諦の中は双遮双容の意である。ここに、三三九諦の相がある。 この九諦につき、空諦泯法の意としましては、泯有の空、泯空の空、双泯空有の空がある。次に、仮諦立法の意としては、立空の仮、立有の仮、双立空有の仮となる。次に、中諦容法の意としては、空においての泯立融法の中、仮においての泯立融法の中、双遮双容の中となる。この空諦泯法、仮諦立法、中諦容法がそのまま円融であり、元の三諦と開合の関係において互融するのである」
なぜそうなったかと言いますと、この総の三諦の教相が世間に向けて公開されたからです。
「この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。」
と大聖人は大変強いお言葉で言いつけておられます。
にも関わらず、この総の三諦の教相は今日、このように世間一般の目にふれる事となっております。
この部分を分かりやすく現代語に訳しますと次のようになります。
この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのである。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来である。また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土を鏡に映る像にたとえる。四土も一土である。三身もその体は一仏である。法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂光の仏というのである。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのである。他の三土の仏は夢中の権仏である。
以上述べたことは、三世の諸仏が同じ語をもって勘文した総の教相であるから、人の言葉を入れる余地もなく、会通会釈も必要ない。もしこの仏説に違うならば、三世の諸仏に背きたてまつる大罪の人であり、天魔外道である。
なんとなれば、このような人々は永く仏法に背くからである。この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。もし秘蔵することなく、みだりにこれを披露するならば、仏法の奥義を証することなく、現当の二世に冥加を蒙ることがないであろう。万一誹謗する人が出てくるならば、三世の諸仏に背くことになるから、謗ずる者も披露した者も、二人ともどもに悪道に堕ちるということを知っているゆえに、みだりに見せることを戒めるのである。
ゆえに心ある者はよくよくこれを秘蔵して、深く妙法の理を証し、三世の諸仏の御本意にかない、二聖・二天・十羅刹女等の擁護を受け、滞りなく上上品の寂光世界に往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。
『三世諸仏総勘文教相廃立』では、次のような文章へ続きます。
永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍し心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず。
図の左側の仮諦・空諦・中諦の三諦が総の三諦となります。三諦の各々が更に「仮・空・中」を具えているので〝総〟の三諦と大聖人は言われている訳です。
ここで日蓮大聖人が言われております「総の三諦」と言いますのは、こちらに示されている三諦となります。
『三世諸仏総勘文教相廃立』に次のようにあります。
此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり
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和尚の最新作
>> 11の「始成の三身」は別教の三種三観の相>> 8となります。(華厳経)
『法華経』に至って明かされる「五百塵点劫の法門」である「久成の三身」が如何なる法門であるかをこちらで詳しくお話しておりますので宜しかったらご覧くださいませ。
無為法(一念三千の法門) https://zawazawa.jp/bison/topic/25
色界に禅定で入る「定静慮」と転生で生まれいずる「生静慮」の二種があることは既にお話したかと思います。
間違いだらけの仏教の常識 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
定静慮で色界禅定で色界に入り、次に無色界禅定で無色界へ入る「九次第定」は無余涅槃を得る為に行う瞑想です。無余涅槃ですので六道から離れて無色界へ転生(生まれいずる)します。無色界では肉体は伴わないので正真正銘の「無色」です(生静慮)。
日蓮大聖人の『撰時抄』に次のような下りがあります。
阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし
「無色界に生れて」と書かれております。
これは阿私陀仙人が生静慮で無色界に転生した為、悉達太子(釈迦の出家前の名前)が成道して説法する坐につらなることができなかった事を嘆いたという説明をされている御文になります。
>> 12の「始成の三身」では肉体は空じているものの、実際に肉体は備わっております。ですから「無始無終」の法身であってもこの場合の法身は「色界」です。
それに対して三身が「無始無終」である久遠実成の仏(本仏)は、元から肉体を備えてはありません。ですから久遠釈迦は「無色界」となります。
まず「始成の三身」から説明します。
お釈迦さまはインドに生れ出て来ましたので「有始」です。そしてマッラ国のクシナガルに向かう途中に沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下で亡くなります。なので「有終」となって「有始有終」---(応身)
これは欲界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
インドに生れ出て(有始)菩提樹の下で覚りを開かれたお釈迦さまは五蘊を空じて空観に入ります。空観では肉体から解脱しておりますので「無終」となって「有始無終」---(報身)
これは色界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
空観に入って『法華経』を説くお釈迦さまは迹門で「三千塵点劫」を明かして自身の生命が過去より今日まで続いていることを説き明かします(無始)。そして本門で「五百塵点劫」を明かして生命の永遠(無終)を説き明かして「無始無終」となります。---(法身)
真如の世界では時間という概念が生じませんので変化が起こりません。なので生じることも滅することもない「無始無終」です。
日蓮大聖人が『一代五時鶏図』の中で次のような図を示されておられます。
┌応身──有始有終 始成の三身┼報身──有始無終┬─真言の大日等 └法身──無始無終┘
┌応身┐ 久成の三身┼報身┼無始無終 └法身┘
『法華経』本門に至って「五百塵点劫の法門」が説かれることで仏と全く縁が無かった衆生も救われていくのですが、それがどうして可能なのかを今から噛み砕いてお話して参ります。
『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
この欲界・色界・無色界を三界として観ているのが三種三観にあたります。
別教で説かれている「別相三観」です。
<凡夫の三観>(仮観) 客観 主観 実体
<仏の三身 >(空観) 応身 報身 法身
<如来の三身>(中観) 応身如来 報身如来 法身如来
『観無量寿経』に九品往生として説かれております三三九品の意味するところです。
詳しくはこちらの8から14の項をご参照ください。 https://butudou.livedoor.blog/
では、三千塵点劫の釈迦はどうでしょう。
阿頼耶識に蓄えられた〝業〟としての仏種なのでここでは縁起は起こりません。
「縁」がないとこの仏種は発芽しません。
ではその縁とはなんでしょう。
他ならぬ『法華経』です。
法華経を読誦することでそれが縁となって阿頼耶識の仏種が他の七識を転識させます(七転識)。
ここでは「色」に相当する要因は関係しません。
前五識は識です。六根ならば目や口や鼻などの感覚器官が「色」に相当しますが転識するのは五識と第六意識と第七末那識の七つの「識」です。
「色」が存在しない世界なのでこれを「無色界」と言います。
(無色界にはまた他の意味も含まれております。後程ご説明します)
菩提樹の下ではじめて覚りを開いたお釈迦さまの事を「始成正覚の仏」と言います。
しかし『法華経』の迹門で自身は今世ではじめて成道したのではなく、既に三千塵点劫の昔において成道していた事を明かします。
この「始成正覚の釈迦」と「三千塵点劫の釈迦」の違いってなんでしょう。
始成正覚の釈迦には肉体が備わっております。三千塵点劫の釈迦には肉体はありません。阿頼耶識に記憶として留められた仏です。
肉体を持った釈迦は五蘊は空じて空観に入っておりますので色(肉体)をともなった状態で世界を観ます。その世界観が色界です。阿頼耶識を因として縁起が起こりますので対象のモノ(色)がそのモノと成り得た因果が観えてきます。
三千塵点劫と言うのは、三周の説法の『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏の時代の「結縁」のお話です。この三千塵点劫の因縁が明かされて迹門の「理の一念三千」が解き明かされます。
「理の一念三千」とは天台智顗が詳しく説き明かした凡夫が仏の覚りを得る為の円融三諦の理論です。
三周の説法で声聞の弟子達が覚ったのはこの理としての一念三千の法門です。
日蓮大聖人は『開目抄』で、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」
と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が示されます。
この「仏と如来の違い」は、『法華経』で説かれている三五の法門を学ばないと理解には至りません。
三五の法門とは、日蓮大聖人が『兄弟抄』の中で、
「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」
と言われました大変重要な御法門です。
法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は申されております。また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。
「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」
今、『法華経』と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。
日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てておられますが、日蓮大聖人は御書の中で〝久遠元初〟という用語は一度たりとも使われておられません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは〝三千塵点劫〟と〝五百塵点劫〟の二つの法門であると明確に述べられておられます。
この非空を覚れない人は仏と如来を同一視します。
龍樹が『中論』の第22章「如来の考察」でその違いを述べております。
2.仏と如来の違い https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
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いいんだ、俺は俺のやりたいようにやる
先の事なんざ、知ったこっちゃねえよ!
俺の人生さ
気の向くままに生きるぜ、
どこに向かうのか解らないけどな^^
グッバイ! ニコるん、
ぼーさつさんはコロナの女王さ
またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で
またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で
グッバイ! ニコるん、
ぼーさつさんはコロナの女王さ
またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で
またいつか会おう、ボクとニコるんと知恵袋で
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「お前が何かしでかす度に、滅茶苦茶言われんだぞ!」
samジィは言ったそうだ
「あのクソ餓鬼、留置場でとっちめてやる!」
ヘッ、俺は俺のやりたいようにやる
先の事なんざ、知ったこっちゃねえよ!
俺の人生さ
気の向くままに生きるぜ、
どこに向かうのか解らないけどな^^
サイモン&ガーファンクルの『僕とフリオと校庭で』の替え歌です。
必ず音楽を再生して聞きながら読んでください
(雰囲気も大事なんです!)
『法介とニコるんが知恵袋で』
ぼーさつさんはパジャマのまま、
ベッドから転げ落ちるように
警察に駆けつけた
samジィは俺の顔を見たとたん、
大声を出して拷問攻めさ
「それは犯罪だ、犯罪なんだぞ!」
「ぼーさつさんが見たこと、それは犯罪だぞ」
おし、準備完了。
えー、本日は晴天なり♪
日蓮大聖人は、紹介しました御文の最後で、このように言われております。
「身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。」
もはや秘すべき内容もない今の世です。
一人でも多くの人に、このご本尊に縁させてあげたいという慈悲の心で曼荼羅本尊を公開する行為が、謗法だとは私は思いません。
自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないご本尊なのですから。
ご本尊を写真に撮ってはいけないという教えも、
実はこういった秘められた実情があったのです。
https://syozou.blog.jp/archives/19133565.html
そういう時代の流れの中で出版された『三大秘法義』なのです。日蓮さんの時代は、宗門の教義を他宗が盗みとって自宗の教学に組み込むような行為が頻繁に行われていた時代です。既に宗旨が広く世間が知る事となった現代において「秘すべく内容」は、なくなった訳です。
在家が出家僧侶以上に教学を学ぶ時代が訪れたのです。
そういった時代の流れの中で、第五十九世堀日亨上人は、『富士宗学全集』全134巻から極力正系の資料を抄録した『富士宗学要集』全10巻を創価学会と共同出版された。
<参考文献>
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2022/01/05/000000
http://mikacolove.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
それは時代が変わったからです。
創価学会が世に出現し、日蓮仏法が、民衆に根差した仏教として一気に世間に広まって行きました。
その創価学会では、それまで出家僧しか知り得なかった宗旨を会員に「仏教教学」として徹底的に教えこみ、個々人の〝信心〟をより強固なものへと構築させていきました。
元々創価学会は、教職員の学会として立ち上がった組織でしたので「教える」事に関しては専門家です。難解な仏教の教えも、彼らの明晰な頭脳と信仰で培われた信心とで、宗門で教える教学をあっというまに上回っていきました。
宗門の僧侶達が学会教学を学ぶようなあり様にさえなっていったのです。
この『三大秘法義』の著者は、
日蓮正宗総本山・大石寺の第67世法主を務めた日顕上人猊下です。
では、どうして時の法主が
この「総の三諦の教相」を世間に向けて公開されたのか。
日蓮正宗の『三大秘法義』の315ページから316ページに「三三九諦の相」として次の説明文と共に掲載されております。
「空・仮・中の三諦が円融である故に、各々にさらに三諦を具える義が成立する。すなわち、空諦の空は泯有の意、空諦の仮は立空の意、空諦の中は泯立融法の意であり、仮諦の空は泯空の意、仮諦の仮は立有の意、仮諦の中は泯立融法の意である。また、中諦の空は双泯空有の意であり、中諦の仮は双立空有の意、中諦の中は双遮双容の意である。ここに、三三九諦の相がある。
この九諦につき、空諦泯法の意としましては、泯有の空、泯空の空、双泯空有の空がある。次に、仮諦立法の意としては、立空の仮、立有の仮、双立空有の仮となる。次に、中諦容法の意としては、空においての泯立融法の中、仮においての泯立融法の中、双遮双容の中となる。この空諦泯法、仮諦立法、中諦容法がそのまま円融であり、元の三諦と開合の関係において互融するのである」
なぜそうなったかと言いますと、この総の三諦の教相が世間に向けて公開されたからです。
「この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。」
と大聖人は大変強いお言葉で言いつけておられます。
にも関わらず、この総の三諦の教相は今日、このように世間一般の目にふれる事となっております。
この部分を分かりやすく現代語に訳しますと次のようになります。
この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのである。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来である。また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土を鏡に映る像にたとえる。四土も一土である。三身もその体は一仏である。法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂光の仏というのである。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのである。他の三土の仏は夢中の権仏である。
以上述べたことは、三世の諸仏が同じ語をもって勘文した総の教相であるから、人の言葉を入れる余地もなく、会通会釈も必要ない。もしこの仏説に違うならば、三世の諸仏に背きたてまつる大罪の人であり、天魔外道である。
なんとなれば、このような人々は永く仏法に背くからである。この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。もし秘蔵することなく、みだりにこれを披露するならば、仏法の奥義を証することなく、現当の二世に冥加を蒙ることがないであろう。万一誹謗する人が出てくるならば、三世の諸仏に背くことになるから、謗ずる者も披露した者も、二人ともどもに悪道に堕ちるということを知っているゆえに、みだりに見せることを戒めるのである。
ゆえに心ある者はよくよくこれを秘蔵して、深く妙法の理を証し、三世の諸仏の御本意にかない、二聖・二天・十羅刹女等の擁護を受け、滞りなく上上品の寂光世界に往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。
『三世諸仏総勘文教相廃立』では、次のような文章へ続きます。
永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍し心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず。
図の左側の仮諦・空諦・中諦の三諦が総の三諦となります。三諦の各々が更に「仮・空・中」を具えているので〝総〟の三諦と大聖人は言われている訳です。
ここで日蓮大聖人が言われております「総の三諦」と言いますのは、こちらに示されている三諦となります。
『三世諸仏総勘文教相廃立』に次のようにあります。
此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり
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>> 11の「始成の三身」は別教の三種三観の相>> 8となります。(華厳経)
『法華経』に至って明かされる「五百塵点劫の法門」である「久成の三身」が如何なる法門であるかをこちらで詳しくお話しておりますので宜しかったらご覧くださいませ。
無為法(一念三千の法門)
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色界に禅定で入る「定静慮」と転生で生まれいずる「生静慮」の二種があることは既にお話したかと思います。
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定静慮で色界禅定で色界に入り、次に無色界禅定で無色界へ入る「九次第定」は無余涅槃を得る為に行う瞑想です。無余涅槃ですので六道から離れて無色界へ転生(生まれいずる)します。無色界では肉体は伴わないので正真正銘の「無色」です(生静慮)。
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阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし
「無色界に生れて」と書かれております。
これは阿私陀仙人が生静慮で無色界に転生した為、悉達太子(釈迦の出家前の名前)が成道して説法する坐につらなることができなかった事を嘆いたという説明をされている御文になります。
>> 12の「始成の三身」では肉体は空じているものの、実際に肉体は備わっております。ですから「無始無終」の法身であってもこの場合の法身は「色界」です。
それに対して三身が「無始無終」である久遠実成の仏(本仏)は、元から肉体を備えてはありません。ですから久遠釈迦は「無色界」となります。
まず「始成の三身」から説明します。
お釈迦さまはインドに生れ出て来ましたので「有始」です。そしてマッラ国のクシナガルに向かう途中に沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下で亡くなります。なので「有終」となって「有始有終」---(応身)
これは欲界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
インドに生れ出て(有始)菩提樹の下で覚りを開かれたお釈迦さまは五蘊を空じて空観に入ります。空観では肉体から解脱しておりますので「無終」となって「有始無終」---(報身)
これは色界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
空観に入って『法華経』を説くお釈迦さまは迹門で「三千塵点劫」を明かして自身の生命が過去より今日まで続いていることを説き明かします(無始)。そして本門で「五百塵点劫」を明かして生命の永遠(無終)を説き明かして「無始無終」となります。---(法身)
真如の世界では時間という概念が生じませんので変化が起こりません。なので生じることも滅することもない「無始無終」です。
日蓮大聖人が『一代五時鶏図』の中で次のような図を示されておられます。
┌応身──有始有終
始成の三身┼報身──有始無終┬─真言の大日等
└法身──無始無終┘
┌応身┐
久成の三身┼報身┼無始無終
└法身┘
『法華経』本門に至って「五百塵点劫の法門」が説かれることで仏と全く縁が無かった衆生も救われていくのですが、それがどうして可能なのかを今から噛み砕いてお話して参ります。
『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
この欲界・色界・無色界を三界として観ているのが三種三観にあたります。
別教で説かれている「別相三観」です。
<凡夫の三観>(仮観)
客観
主観
実体
<仏の三身 >(空観)
応身
報身
法身
<如来の三身>(中観)
応身如来
報身如来
法身如来
『観無量寿経』に九品往生として説かれております三三九品の意味するところです。
詳しくはこちらの8から14の項をご参照ください。
https://butudou.livedoor.blog/
では、三千塵点劫の釈迦はどうでしょう。
阿頼耶識に蓄えられた〝業〟としての仏種なのでここでは縁起は起こりません。
「縁」がないとこの仏種は発芽しません。
ではその縁とはなんでしょう。
他ならぬ『法華経』です。
法華経を読誦することでそれが縁となって阿頼耶識の仏種が他の七識を転識させます(七転識)。
ここでは「色」に相当する要因は関係しません。
前五識は識です。六根ならば目や口や鼻などの感覚器官が「色」に相当しますが転識するのは五識と第六意識と第七末那識の七つの「識」です。
「色」が存在しない世界なのでこれを「無色界」と言います。
(無色界にはまた他の意味も含まれております。後程ご説明します)
菩提樹の下ではじめて覚りを開いたお釈迦さまの事を「始成正覚の仏」と言います。
しかし『法華経』の迹門で自身は今世ではじめて成道したのではなく、既に三千塵点劫の昔において成道していた事を明かします。
この「始成正覚の釈迦」と「三千塵点劫の釈迦」の違いってなんでしょう。
始成正覚の釈迦には肉体が備わっております。三千塵点劫の釈迦には肉体はありません。阿頼耶識に記憶として留められた仏です。
肉体を持った釈迦は五蘊は空じて空観に入っておりますので色(肉体)をともなった状態で世界を観ます。その世界観が色界です。阿頼耶識を因として縁起が起こりますので対象のモノ(色)がそのモノと成り得た因果が観えてきます。
三千塵点劫と言うのは、三周の説法の『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏の時代の「結縁」のお話です。この三千塵点劫の因縁が明かされて迹門の「理の一念三千」が解き明かされます。
「理の一念三千」とは天台智顗が詳しく説き明かした凡夫が仏の覚りを得る為の円融三諦の理論です。
三周の説法で声聞の弟子達が覚ったのはこの理としての一念三千の法門です。
日蓮大聖人は『開目抄』で、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」
と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が示されます。
この「仏と如来の違い」は、『法華経』で説かれている三五の法門を学ばないと理解には至りません。
三五の法門とは、日蓮大聖人が『兄弟抄』の中で、
「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」
と言われました大変重要な御法門です。
法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は申されております。また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。
「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」
今、『法華経』と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。
日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てておられますが、日蓮大聖人は御書の中で〝久遠元初〟という用語は一度たりとも使われておられません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは〝三千塵点劫〟と〝五百塵点劫〟の二つの法門であると明確に述べられておられます。
この非空を覚れない人は仏と如来を同一視します。
龍樹が『中論』の第22章「如来の考察」でその違いを述べております。
2.仏と如来の違い
https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html