本日は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍された
臨済宗の僧でいらっしゃる沢庵宗彭(たくあん そうほう)氏の誕生日であります。
大根の漬物である「沢庵漬け」の考案者といわれております。
・天正元年12月1日(1573年12月24日)に但馬国出石にて、
但馬国主・山名祐豊氏の重臣の秋庭綱典氏の次男としてお生まれになりました。
8歳の時、織田信長氏の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉氏に攻められて
但馬山名家が滅亡した結果、父親は浪人される事となりました。
天正10年(1582年)に10歳で出石の唱念寺で出家され「春翁」の法諱を得られ、
天正13年(1586年)に同じく出石の宗鏡寺に入られて希先西堂氏に師事され、
「秀喜」と改名されました。天正19年(1591年)に希先氏が亡くなられた後、
この間に出石城主となっていた前野長康氏が大徳寺から春屋宗園氏の弟子・
薫甫宗忠氏を宗鏡寺の住職に招かれた事で薫甫氏に師事される事となりました。
文禄3年(1594年)に薫甫氏が大徳寺住持となられて上京されたため、
大徳寺に入られました。大徳寺では三玄院の春屋宗園氏に師事され、
「宗彭」と改名されました。慶長4年(1599年)、石田三成氏が居城佐和山城の
城内に亡き母親の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立された際、
三玄院の建立以来親交があった春屋氏に住職の派遣を依頼されました。
春屋氏が薫甫氏を住職に任命された事で、師である薫甫氏と共に
佐和山城に同行されて翌年までそこで過ごされました。
関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると薫甫氏と共に城を脱出され、
春屋氏のところに落ち延びた後、処刑された石田氏の遺体を引き取られた後、
春屋氏と共に三玄院に葬られて手厚く弔われました。慶長6年(1601年)、
薫甫氏が亡くなられた後に和泉国堺に出られて文西洞仁氏の門下に入られて、
その文西氏が慶長8年(1603年)に亡くなられた後は南宗寺陽春庵の
一凍紹滴氏に師事された後、慶長9年(1604年)8月4日、
32歳の時に「沢庵」の法号を得られました。
慶長12年(1607年)に大徳寺首座となられて大徳寺塔中徳禅寺に住まれると共に
南宗寺にも住持されました。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の
第154世住持に出世されましたが、名利を求めない沢庵氏は3日で大徳寺を去られ
堺へ戻られて。元和6年(1620年)に故郷の出石に帰り、出石藩主・小出吉英氏が
再興された宗鏡寺に庵「投淵軒」を構えられて隠居生活に入られました。
江戸幕府成立後、天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた方のみに限る事などの
寺院法度により寺社への締め付けが強まり、寛永4年(1627年)、
京都所司代による紫衣の取り上げに対して反発した沢庵は京に上られて、
複数の僧侶の方々と共に反対運動を行われた後、寛永5年(1628年)に
抗弁書を書き上げられて幕府に提出されました。これが「紫衣事件」であります。
この運動が幕命に反するものとして反対運動を行われた方々は罪に問われ、
寛永6年(1629年)7月に幕府は沢庵氏をはじめとする方々は有罪となり、
遠方への流罪が決定されました。沢庵氏は出羽国上山へと送られました。
送られた先の上山藩主の土岐頼行氏は、沢庵氏の権力に与しない生き方と
「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿に感銘を受けられ、
沢庵氏に草庵を寄進されました。沢庵氏はその草庵を「春雨庵」と名づけられて
こよなく愛されたといわれております。この間、土岐氏は藩政への助言を
沢庵氏に仰がれるなど公私ともに親しく、赦免後も二人の交流は続きました。
寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠氏の逝去により大赦令が出され、
天海氏/堀直寄氏/柳生宗矩氏らの尽力もあって紫衣事件に関わられた方々が
放免される事となり、沢庵氏も一旦は江戸に出られて
神田広徳寺に入られましたが京に帰られる事はすぐには許されず、
同年冬より駒込の堀直寄氏の別宅に身を寄せられて、
寛永11年(1634年)夏までそこに留まられました。そして大徳寺に戻られた時、
将軍・徳川家光公の上洛に際して天海氏/堀氏/柳生氏の強い勧めにより
沢庵氏は家光に拝謁されました。同年、故郷の出石に戻られましたが、
翌寛永12年(1635年)に幕命により再び江戸へ向かわれた後、
寛永13年(1636年)に玉室宗珀氏や江月宗玩氏らと共に将軍に拝謁された後、
他の二人は帰されましたが、沢庵氏のみ江戸に留まるよう求められ、
将軍に近侍される事となりました。江戸では将軍のお召しに応じる形で
登城されて禅を説かれた他、度々上方へと戻られて講義を行われました。
また寛永15年(1638年)柳生氏の頼みを受ける形で大和国柳生庄に赴かれ、
後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山されました。翌寛永16年(1639年)に
江戸に戻られると将軍によって創建された萬松山東海寺に
初代住職として入られる事となりました。
寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった
大徳寺・妙心寺の寺法を旧に復す事が将軍より正式に申し渡され、
両寺院の住持の方々の紫衣奪還も行われました。
その後の正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵氏は辞世の偈として
「夢」の一文字を残されて、74年の生涯を閉じられました。
みんみ教は慈愛と寛容の象徴であらせられるみんみ様を中心とした集まりで、
どこかに寺社のような大きな拠点があるわけではありませんが、
お祈りをされる方々の多くが自発的かつ友好的であり、
何よりお祈りそのものも含めて穏やかである事が特長であると考えられます。
権力に与しない生き方、当意即妙な受け答え、身近なものに例えて
展開される内容が魅力的であった禅の教えなどで多くの方々から慕われる沢庵氏は、
現在もなお多くの方々にとっての指標とされる人物でいらっしゃいます。
私自身も大いに見習い、この先の人生に活かしたいと考えております。
本日もお祈りいたします、みんみー。