委員長 ad57d402ef
天使
通報 ...
投稿するにはメンバーである必要があります。
俺はただならぬ恨みを多方面で買いまくってるからいつか刺されるかもしれないと思いながら喧嘩界運営してるけど、生きてるって実感するぜ…。
しかし多様性肯定派に「人殺し」を容認するのかどうか問うのは卓見ですわ。
さすがおにぎり、いやおむすび先生と呼ばせていただきたい。
ポーヤン。舐めたこと言ってると全身の皮膚めくるよ^_^
>> 162脅迫ですね?通報します。
>> 144
ベラベラと五月蝿い。
ただ事実を並べただけか?
俺を除く奴らに読んでもらえるといいな。
思考停止ってなんだよ。普通に考えたら自分の発言に示された内容だけは例外的に認めていると考えるでしょ。
てか、それ以外の考え方ができないとでも思ってるの?
別に、しようと思えばいくらでも曲解できるぞ??書いてねえだけ。
本当に手を挙げてブチ切れてくるのなんて発言者の頓智でしかねえよ。矛盾を盾にした特殊すぎるケース。そうなったら「理不尽だ」って言うだろ?理不尽なことなんだよ。
てか俺は最初に言ったよな。多様性は認めてないって。誰もこの意味わかんねーか?
俺は最初から矛盾してることがわかりきってるような言葉は言わねえんだよ。
ただ、それを言ってる奴がいたところで意図くらいわかるわって話な。
>> 147
そうか。
>> 144
わかりやすくしてもらってありがとうございます。
秋も深まりを見せ、木々の紅葉があちらこちらに見られますね。
「倫理の具現化」と「倫理そのもの」は違うのかもなと思いながら、読んでおりました。
>> 154
また途中の発言で「多様性」が正義という前提で話をするのは、おかしいという指摘はその通りだと思います。
しかし、倫理と倫理の具現化は切って離されるものなのでしょうか?
「わたしはあなたの個性を受け入れません、それがわたしの個性です。」
「しかし、他の誰かはあなたを認めるかもしれません、それがその人の個性です。」
上記の意見が到達点であると人々が認めるところであるならば、なぜ差別は許されないのでしょうか。1人が誰かを差別したことに対して、その個性(価値観)をポリコレ棒を使って大勢で叩く。大勢は非差別の仮面を被り、しかしながら、別の場では「上記のような意見には賛成だ」と言う。
それが欺瞞だと否定したい訳ではありません。このとき、人々は自分が受け入れることができる価値観のみのことを上の「太字の個性」として意味を自分の都合のいいように捉えているのではないかということなのです。
それともこの例における差別では、「差別した者に対しては大勢でポリコレ棒を使って叩いても良い」という個性が認められるべきなのでしょうか。
またこの倫理そのものと倫理の具現化を分けて考えるというのは、どうにも「本音と建て前をわきまえろ」というのに似ている気がします。
実は本音で差別していても、表では出すなというのが「多様性を認めあう社会」に必要なのでしょうか。
具現化された倫理は純粋な倫理と切り離すことが可能だよ。
倫理とは、人と人のつながりが作る輪の中に自然発生する内発的な習慣・・・とでも捉えればオーケー。
人間が2人以上いる限り、その輪の中には必ず倫理が自然発生する。これは避けようのない現象だ。
「差別は絶対ダメだ!」と思ってる人もいれば「基本的にダメだけど仕方ない場合もある」と思ってる人もいる。
それに対して、具現化された倫理というのは例えば法律や宗教です。「元は倫理だったモノ」と言えば分かりやすいかな。
おむすびマンの発言:>> 146にもあるように、これらは具現化する過程で画一化されたものです。なので性質としては習慣と呼ぶには相応しくない。本音と建前という側面もあるけど、どちらかと言えば「許すという行為の主体は何なのか?」って話ですね。
倫理の具現化を継続し、ポリコレを追求し続けた先に辿り着くのはユートピアです。人と人のつながりが作る輪の中において「〇〇はダメなことだよね」などの認識を人々が相互的に確認しあう社会です。
逆に、ポリコレとか具現化とかを全部取っ払った後に残る「純然たる多様性」ってのはめちゃくちゃ無機質だよ。
「多様性を認めない個性を認めろ」みたいな感じで、純然たる多様性をひたすら追求し続けた先に辿り着くのは究極の個人主義なわけだけど、ろくなもんじゃないと言い切れる。
例えば「人を殺しちゃダメだよ、法律で決まってるから」なんて理屈は通用しなくなる。
『人を殺すかどうか、法を守るかどうかは、その人の個性』
『法を犯したら処罰されるが、罰を受け入れるか逃げ延びるかは、その人の個性』
こんなことになる。
この2つは似ているようで違う。
問題提起に則った結論を出すなら『ポリコレは支持するが、お前の個性を認める筋合いはねぇよ』って感じ。
俺そもそも天使の問題提起の内容読んだの詠み人に言われた後だからね。
トップに記載されてるじゃねーか。
これがテーマだって記載されてるよな?
着眼点が枝葉末節とか知らねえよ。問題提起のアンカーも一応くっついてるけど、テーマみれば中身がわかるようもうちょい工夫しとけよ。
鬼の首でも取ったつもりかよ。詠み人っていつもそうだよな。崇め奉られすぎて自分がいつも正しいと思ってるんじゃねーの。喧嘩王とか気持ち悪い称号名乗るくらいだし。ああきもいきもい。
深いテーマで話すんだったら最初からトップに分かるように書いておけ。だったら俺とてつまらないなんて言わねーよ
>> 113
さて、そろそろ「神の回答」と投下してしまおうかな。
質問は2つだな。
①多様性を認めるべきだという人間が「多様性を認めない個性」は認めないと言う。
これは矛盾でしょうか。
②その時、醜悪なツラした不届き者に「多様性を認めない個性を認めろよw」と反論を受けた場合、
私達喧嘩師がすべき反論はどういうものがあるでしょうか。
~①の回答~
矛盾してるかしてないかで言うと「矛盾してません」。
一番いい意見を言っているのが、地味に>> 120ここです。
理由は、多様性を認める事は全ての個性を認めることではないからです。
こういう時は、極論を考えると分かりやすいです。
多様性を認めることは、君たちのような「引きこもりニート」まで認めなければならない訳ではありません。
認める範囲があり、どこまで認めるかその範囲は各々違います。
テロ組織や犯罪組織まで認める必要はありません。
なので、その人が「多様性を認めない個性」が範囲に入ってないのなら矛盾していないでしょう。
~②の回答~
その人がどういう人なのかによって、どう反論するべきかは変わるでしょう。
君たちのような「引きこもりニート」に言われた、黙れニートで十分です。
なので、「多様性を認めない個性を認めろよw」と言われたら、
黙れ「多様性を認めない個性」で十分だと思います。
>認める範囲があり、どこまで認めるかその範囲は各々違います。
なんら理屈もなく範囲がある~だけで矛盾を解消しようだなんてただのバカですよ。ただの都合の良い言い訳。そんな人には何ら理由を提示する事なく否定するだけで事足りる。君、間違ってますよ。
>> 169
理屈は極論で言ってるでしょう。
多様性を認めることは、引きこもりニートまで認めなければならない訳はない。
そのことから、範囲があることが分かる。
極論を理屈としているだけで何ら理由はありませんね。ただ範囲がある~と言い張ってるだけ。「ならない訳はない」とする理由がない。ずいぶんと薄っぺらな神ですね。
後半のカギ括弧の使い方が気持ち悪いぞ神
範囲がある~なんて「違うったら違うンダー!」って言ってるのと一緒。どっから範囲が出てきたの。いみふ。
コンコンお邪魔しマース!
れれれが貧乏神か?あぁ私は仏だ。
お邪魔しました!
待て
>> 166
何気に>> 143でチラッと尻目に挟んではいたのだけれど、やはり「具現化」の話は見過ごせないわな。
ようやく核心に迫ってきた。
ここからは神の領域だ。
どけ、元喧嘩神。邪魔だ。消え失せろ。この問いに関する答えは簡単だ。
ほとんどの人間が到達点に達することができていないからだ。
さて。
「叩く」行為は「認めていないこと」に直結するのか?
という問題があるわな。
しかし、俺は喧嘩神を袋叩きにしながらも
実は実力を認めている、なんてことも言えちゃうわけだ。
喧嘩大会では
こんね「なかなかやりますね…」
ポーヤン「お前もな…!」
なんてお互いを認め合うかのような姿も確認されている。
これが「本音」と「建前」というやつだろう。
もちろん、大抵の場合、単に相手の存在を否定し、自分だけを肯定している盲目的な人が多いだろうし
それは無自覚な自己矛盾を孕んでいるかもしれない。
したがって、これは人による、としか言えない。
色即是空 空即是色…ッ!!
「差別はダメ」という考え方と、「それだけがすべてではない」という考え方、両立が可能です。
「二重の真理」と言えばわかりやすいかな。
これが仏教的なひとつの「到達点」。
俗に「中論」と呼ばれるものの考え方です。
形而上学的には完結しているお話。
ところが、無視できない問題がひとつ残る。
そう、「具現化」の話です。
いくら論理的な誤謬を免れたからと言って…
実際に包丁を持った元カノが俺のオートロック付き高層マンションの玄関で待ち伏せして
いきなり刺そうとしてきたら全力で腹筋を引き締めて筋肉の圧力により刃を折りにかかりますからね。
つまり、矛盾なく相手の「価値観」を容認することはできても、物理的な「行動」まで容認することはできない事象が存在する。
俺が思考停止しているのはこのポイントですが、みなさんはどのようにお考えですか?
ぜひ聞かせていただきたい。
「具現化された倫理は純粋な倫理と切り離すことが可能」(>> 175)ということで、このように切り離した「具現化」の話に加えて、もうひとつ話しておきたいことがある。
「純粋な倫理」において、もし「到達点」の思考が人類の共通認識になった場合の話だ。
ここでは、「ユートピア」と言えばいいのかな?
おそらく、戦争はなくなる。
差別もなくなる。
究極的には、好き好んで争うということをしなくなるだろう。
なぜか?
答えは出ているし、語るだけ不毛だからだ。
足し算の答えについて議論するような人がいないように、ここで行われている議論もそのレベルの自明として取り扱われる世がいつの日かくるやもしれん。
そのとき、画一的な社会が訪れ、「個性」や「芸術」は死んでしまうのだろうか?
これ、もしかして「ディストピア」じゃね?
ちなみに、俺が小学三年生のときに考えていたことだ。
よろしく頼む。
>> 175
>> 177
こんばんは。月が大きくてきれいですね。
用語に対して少し整理がしたいのですが、よろしいでしょうか。
お二方の発言の中で、「具現化」という言葉があります。
詠み人知らず 様
それに対して、具現化された倫理というのは例えば法律や宗教です。
KANAME 様
そう、「具現化」の話です。...実際に包丁を持った元カノが...
私もKANAME様と同じように倫理の具現化とは倫理を持つはずの「個人の行動」という風に想定しておりましたが、詠み人知らず様の意見では法律や宗教、つまり「集団の中での決まり事や信義」のように解釈できます。
提案なのですが、ここでは「個人的な倫理の具現化」と「組織的な倫理の具現化」という風に分類させてもらってもよろしいでしょうか?
そしてKANAME様の
つまり、矛盾なく相手の「価値観」を容認することはできても、物理的な「行動」まで容認することはできない事象が存在する。
俺が思考停止しているのはこのポイントですが、みなさんはどのようにお考えですか?
上記の意見について、つまり「個人が持つ倫理」と「個人的な倫理の具現化」に関する事象に関してお話を進めさせていただきたく思うのですが、いかがでしょう?
勝手に用語の設定や、要望を出してしまって申し訳ありません。
自分の意見も述べたいのですが、まずはお二人のご意向をお伺いしたく。
ご査収、よろしくお願いいたします。
>> 179
ほう?
この問いに返せる見込みがあると…?w
スバラシイ。
詠み人の見解は知らんが、俺は一向に構わんぞ。
>> 180
お付き合い頂き、ありがとうございます。
よろしくお願いします。
回答になっているかはわかりませんが、以下のように思っております。
妄想は自由です。人々は、妄想の中で人間の多様性を受入れることに成功します。
それは殺人でも、どんな凶悪犯でも、あるいはその被害者の気持ちでもそうです。
妄想の中では誰のどんな価値観も、等しく平等に「現実の自分」を脅かすことがないからです。どんな凶悪犯とでも、手に手を取り合って、親友だと笑みを交わすこともできるはずです。
私は多様性を「多様性」というワードを頼りに、それを正義だというのは、妄想狂に他ならないという認識です。「多様性なんて認められなくて当たり前」だと考えています。
KANAME様の例えは扱いづらいですが、元カノのそういった殺してやりたいという価値観を認めることはできても、たとえ「妄想」の中では刺してきた元カノを優しく抱きしめることはできたとしても、実際に殺しに来た犯罪者の行動を受入れることは難しいように思います。
このトピックに則して意見を述べさせていただけるなら、
多様性を認める心とは、倫理とは、妄想ではないでしょうか?
現実と今までの経験に則してこそ、「倫理」と呼べるのではないでしょうか?
もし実際に殺しに来た元カノの包丁を腹に刺されて、なお、ほほ笑みを浮かべてこそ、「犯罪者の価値観を認める倫理観」と呼べるのでは?
そんな倫理観は唾棄すべきであり、受け入れられる多様性は取捨選択されてしかるべきだという立場です。
>> 181
すいません、最後のところは言い過ぎました。現実で起こったら、腹に刺されるまでに、警察を呼んだり、腹筋でもいいんですけど、回避策を考えて欲しいという意味です。誤解なきよう汗
>> 181
これは、まるで『ものぐさ精神分析』…!!
俺たちの妄想は…
自由ダ!!!
我々の本能は言語を会得した段階ですでにぶっ壊れておりとりとめのない欲望という原則にしたがって価値観や論理を創造できるという立場において等しく平等でありそして何より神は死んだいや神殺しのそして神に成り代わる神による神のための神の権利を持った超人=神であることこそが到達点であり本来人間が享受すべき享楽なのです!!!!!!
ただ残念なことに、我々はこの真理を知らされておらず、2019年の今なお醜悪な争いを繰り返し続けている。
これは世界のお偉いさんがそれを望んでいるからに他ならない!!(拳を固く結び前方に差し出す)
フリーメイソン?イルミナティ?
はたまたロスチャイルド家か?????
喧嘩界の本当の敵は誰なのか…
よく考えるがいい。
お前が死ぬまでの残り時間は、あと◯◯だ。
>> 182で自粛しているようだが、何も言い過ぎではない…。
お前の言うとおり、実際に殺しに来た元カノの包丁を腹に刺されて、なお、ほほ笑みを浮かべてこそ、「犯罪者の価値観を認める倫理観」と呼べると言える。
それは真の倫理に背くということであり、「多様性の取捨選択」を行うことは倫理に反することを意味する。
俺たちはこの「罪」と倫理的に向き合わなければならないというのが俺の立場だ。
>> 168
>> 169
>> 170
>> 171
>> 172
説明を付け加えます
①矛盾しない
②黙れニート(黙れ多様性を認めない個性)
で回答は変わりません
多様性を認めるとは何か。
「認める」=「受け入れる」と思い込んでいる人が多いです。
ですが違います。
この世に引きこもりニートがいるのは認めています。
とは言っても嫌いだから受け入れる気はありません。
多様性を認めるっていうのは、「自分とちがう人もいる」って理解する事です。
「認めてはいても受け入れない」事は多様性を認めています。
「多様性を認めると言っておいて、相手の生き方や考え方を否定してるじゃん」となりますが、
自分とはちがう考えの人がいることを理解して、認めてます。でも嫌いだから否定したんです。
なので「多様性を認めない個性」を認めない(受け入れないの意味)事は矛盾してません。
しかし、本当の意味で「多様性を認めない個性」を認めない、つまりは理解しようとしない場合は矛盾しています。
②も同様なので説明はいらないでしょう。
嫌いなので黙れニートで十分です。
今回のテーマである「”多様性を認めない個性”は認めるべきかどうか」に対して説明します。
認めたほうが生産性はいいでしょう。
逆に認めようとしない(理解しようとしない)事に何の得にもならないでしょう。
>> 184
揚げ足の取り方は「喧嘩師的な回答」としては評価できる。
(「承認」や「肯定」の意味で「認める」という言葉を使うことはよくある)
ただ、多様性を受け入れるべきだという立場のとき、「多様性を受け入れない個性を受け入れろよw」
と言われた場合、「嫌いだから」という理由では自己矛盾が生じてしまう。
生産性だけを考えるなら「理解」すら不要、ブロックで終了だよ。
>> 185
「多様性を受け入れるべきだという立場のとき」この立場がどんな立場なのかが分かりません。
どんな多様性でも受け入れなければならない立場なのでしょうか。例題よろしく。
今テーマである「多様性を認める立場」の時は、多様性を理解した上で受け入れるか受け入れないか決めれば良いです。
理由ではなくて、反論するべきですよね。
そんなめんどい反論は適当でいいと思います。
なぜ受け入れられないのか、細かく理由を語る人はいないでしょう。なので黙れニートで十分です。
ん?これはどういう意味。
色んな多様性の意見を認めた方が、良いアイデアが生まれるでしょう。
そういう意味の生産性です。
多様性を認めない(理解しようとしない)ならば、良いアイデアは生まれないでしょう。
それがなぜ不要になるのやら。
>> 186
多様性を受け入れるべきだという立場だったとして
たとえばイスラム教徒が1日5回、礼拝を行うことを受け入れるとする。
にもかかわらず、「お前、キリスト教嫌いとか言ってあいつのことぶん殴ったよな」とかなってくるとどうだ。
結局好き嫌いで差別する行為が「具現化」しちまってるならそれはもはや自分の都合のいいように多様性を受け入れるかどうかを判断しているということに他ならない。
嫌いな人と関わらないという意味において理解する必要がないという話だよ。
大丈夫か?
>> 183
""俺たちはこの「罪」と倫理的に向き合わなければならないというのが俺の立場だ。""
上記の一言が倫理における到達点であると私は考えます。本当は多様性を認められるような人間になりたい、でも現実はそうはいかない。このことに無自覚に「多様性を受け入れている」と言う人はいます。どれだけの人がこの自己矛盾を自覚できているでしょう。
KANAME様は感覚を言語化することにおいて秀でているという印象でした。お付き合い頂き、ありがとうございました。おかげで「倫理」に対して、私自身が最初から完璧を求めすぎていたと自戒できました。
以下蛇足だと思ってお聞きください。
""そのとき、画一的な社会が訪れ、「個性」や「芸術」は死んでしまうのだろうか?""
シリアルキラーによる芸術の展覧会に多くの人々が訪れたように、シリアルキラーの持つ価値観を受入れていなくても、興味をもつ人はたくさんいるようです。芸術はテーマに則します。テーマはそのクリエイターの倫理観と切っても離せないものです。(たとえ、テーマが当人の倫理観に反していたとしても)
よって(最後っ屁だと思ってお聞きください)
「多様性を認めること」が理想的な倫理観とみんなが画一的に認識するのは平和的かもしれませんが、「とてもつまらない」と考えます。
>> 188
実はその上位互換が存在しているというのが俺の最終結論だ。
それは、「罪を犯さざるを得ない自分の行動を認める」、つまり、「矛盾を受け入れる」ということだよ。
人間も、論理も、ましてや言葉ですらも、完璧ではないというのがこの話で俺が伝えたかったことだ。
重要なのは、そのことを知っているかどうかだけだと思います。
俺が想定した考え方と同意見ということだね。
ありがとう。
>> 187
「多様性を受け入れるべきだという立場だったとして」この立場が分からない。
この話が今回のテーマとどう関係あるのか分からない。
今回のテーマ
多様性を認めるべきだという人間が「多様性を認めない個性」は認めないと言う。
これは矛盾かどうか。
私の言ってる多様性を認めるとは、多様性を受け入れるという意味ではない。
>> 184参照
多様性を認めるっていうのは、「自分とちがう人もいる」「違った考え方をする人もいる」って理解する事です。
そしてこれが本来の多様性を認めるという言葉の意味です。
違った意見や考え方を、すべて受け入れろという訳ではありません。
それを聞いて理解したうえで、どうするのか決める事をいいます。
この言葉が間違った解釈で伝わり続けて、「多様性を認めることは、多様性を受け入れる事」
と思ってる人が多いです。