バンドル
2019/11/14 (木) 19:48:14
c4f7a@bef8a
>> 144
わかりやすくしてもらってありがとうございます。
秋も深まりを見せ、木々の紅葉があちらこちらに見られますね。
「倫理の具現化」と「倫理そのもの」は違うのかもなと思いながら、読んでおりました。
>> 154
また途中の発言で「多様性」が正義という前提で話をするのは、おかしいという指摘はその通りだと思います。
しかし、倫理と倫理の具現化は切って離されるものなのでしょうか?
「わたしはあなたの個性を受け入れません、それがわたしの個性です。」
「しかし、他の誰かはあなたを認めるかもしれません、それがその人の個性です。」
上記の意見が到達点であると人々が認めるところであるならば、なぜ差別は許されないのでしょうか。1人が誰かを差別したことに対して、その個性(価値観)をポリコレ棒を使って大勢で叩く。大勢は非差別の仮面を被り、しかしながら、別の場では「上記のような意見には賛成だ」と言う。
それが欺瞞だと否定したい訳ではありません。このとき、人々は自分が受け入れることができる価値観のみのことを上の「太字の個性」として意味を自分の都合のいいように捉えているのではないかということなのです。
それともこの例における差別では、「差別した者に対しては大勢でポリコレ棒を使って叩いても良い」という個性が認められるべきなのでしょうか。
またこの倫理そのものと倫理の具現化を分けて考えるというのは、どうにも「本音と建て前をわきまえろ」というのに似ている気がします。
実は本音で差別していても、表では出すなというのが「多様性を認めあう社会」に必要なのでしょうか。
通報 ...
投稿するにはメンバーである必要があります。
具現化された倫理は純粋な倫理と切り離すことが可能だよ。
倫理とは、人と人のつながりが作る輪の中に自然発生する内発的な習慣・・・とでも捉えればオーケー。
人間が2人以上いる限り、その輪の中には必ず倫理が自然発生する。これは避けようのない現象だ。
「差別は絶対ダメだ!」と思ってる人もいれば「基本的にダメだけど仕方ない場合もある」と思ってる人もいる。
それに対して、具現化された倫理というのは例えば法律や宗教です。「元は倫理だったモノ」と言えば分かりやすいかな。
おむすびマンの発言:>> 146にもあるように、これらは具現化する過程で画一化されたものです。なので性質としては習慣と呼ぶには相応しくない。本音と建前という側面もあるけど、どちらかと言えば「許すという行為の主体は何なのか?」って話ですね。
倫理の具現化を継続し、ポリコレを追求し続けた先に辿り着くのはユートピアです。人と人のつながりが作る輪の中において「〇〇はダメなことだよね」などの認識を人々が相互的に確認しあう社会です。
逆に、ポリコレとか具現化とかを全部取っ払った後に残る「純然たる多様性」ってのはめちゃくちゃ無機質だよ。
「多様性を認めない個性を認めろ」みたいな感じで、純然たる多様性をひたすら追求し続けた先に辿り着くのは究極の個人主義なわけだけど、ろくなもんじゃないと言い切れる。
例えば「人を殺しちゃダメだよ、法律で決まってるから」なんて理屈は通用しなくなる。
『人を殺すかどうか、法を守るかどうかは、その人の個性』
『法を犯したら処罰されるが、罰を受け入れるか逃げ延びるかは、その人の個性』
こんなことになる。
この2つは似ているようで違う。
問題提起に則った結論を出すなら『ポリコレは支持するが、お前の個性を認める筋合いはねぇよ』って感じ。