具現化された倫理は純粋な倫理と切り離すことが可能だよ。
倫理とは、人と人のつながりが作る輪の中に自然発生する内発的な習慣・・・とでも捉えればオーケー。
人間が2人以上いる限り、その輪の中には必ず倫理が自然発生する。これは避けようのない現象だ。
「差別は絶対ダメだ!」と思ってる人もいれば「基本的にダメだけど仕方ない場合もある」と思ってる人もいる。
それに対して、具現化された倫理というのは例えば法律や宗教です。「元は倫理だったモノ」と言えば分かりやすいかな。
おむすびマンの発言:>> 146にもあるように、これらは具現化する過程で画一化されたものです。なので性質としては習慣と呼ぶには相応しくない。本音と建前という側面もあるけど、どちらかと言えば「許すという行為の主体は何なのか?」って話ですね。
倫理の具現化を継続し、ポリコレを追求し続けた先に辿り着くのはユートピアです。人と人のつながりが作る輪の中において「〇〇はダメなことだよね」などの認識を人々が相互的に確認しあう社会です。
逆に、ポリコレとか具現化とかを全部取っ払った後に残る「純然たる多様性」ってのはめちゃくちゃ無機質だよ。
「多様性を認めない個性を認めろ」みたいな感じで、純然たる多様性をひたすら追求し続けた先に辿り着くのは究極の個人主義なわけだけど、ろくなもんじゃないと言い切れる。
例えば「人を殺しちゃダメだよ、法律で決まってるから」なんて理屈は通用しなくなる。
『人を殺すかどうか、法を守るかどうかは、その人の個性』
『法を犯したら処罰されるが、罰を受け入れるか逃げ延びるかは、その人の個性』
こんなことになる。
- ポリコレを支持する
- 多様性を受け入れる
この2つは似ているようで違う。
問題提起に則った結論を出すなら『ポリコレは支持するが、お前の個性を認める筋合いはねぇよ』って感じ。