何気に>> 143でチラッと尻目に挟んではいたのだけれど、やはり「具現化」の話は見過ごせないわな。
ようやく核心に迫ってきた。
ここからは神の領域だ。
どけ、元喧嘩神。
邪魔だ。消え失せろ。
上記の意見が到達点であると人々が認めるところであるならば、なぜ差別は許されないのでしょうか。
この問いに関する答えは簡単だ。
ほとんどの人間が到達点に達することができていないからだ。
1人が誰かを差別したことに対して、その個性(価値観)をポリコレ棒を使って大勢で叩く。大勢は非差別の仮面を被り、しかしながら、別の場では「上記のような意見には賛成だ」と言う。
さて。
「叩く」行為は「認めていないこと」に直結するのか?
という問題があるわな。
しかし、俺は喧嘩神を袋叩きにしながらも
実は実力を認めている、なんてことも言えちゃうわけだ。
喧嘩大会では
こんね「なかなかやりますね…」
ポーヤン「お前もな…!」
なんてお互いを認め合うかのような姿も確認されている。
これが「本音」と「建前」というやつだろう。
もちろん、大抵の場合、単に相手の存在を否定し、自分だけを肯定している盲目的な人が多いだろうし
それは無自覚な自己矛盾を孕んでいるかもしれない。
人々は自分が受け入れることができる価値観のみのことを上の「太字の個性」として意味を自分の都合のいいように捉えているのではないかということなのです。
したがって、これは人による、としか言えない。
- 差別はダメだけど、差別している人がいたとして、自分がその人のことを差別する・しないにせよそれだけがすべてではないのだ
色即是空 空即是色…ッ!!
「差別はダメ」という考え方と、「それだけがすべてではない」という考え方、両立が可能です。
「二重の真理」と言えばわかりやすいかな。
これが仏教的なひとつの「到達点」。
俗に「中論」と呼ばれるものの考え方です。
形而上学的には完結しているお話。
ところが、無視できない問題がひとつ残る。
そう、「具現化」の話です。
いくら論理的な誤謬を免れたからと言って…
実際に包丁を持った元カノが俺のオートロック付き高層マンションの玄関で待ち伏せして
いきなり刺そうとしてきたら全力で腹筋を引き締めて筋肉の圧力により刃を折りにかかりますからね。
つまり、矛盾なく相手の「価値観」を容認することはできても、物理的な「行動」まで容認することはできない事象が存在する。
俺が思考停止しているのはこのポイントですが、みなさんはどのようにお考えですか?
ぜひ聞かせていただきたい。