バンドル
2019/11/15 (金) 21:44:40
c4f7a@bf942
お付き合い頂き、ありがとうございます。
よろしくお願いします。
回答になっているかはわかりませんが、以下のように思っております。
妄想は自由です。人々は、妄想の中で人間の多様性を受入れることに成功します。
それは殺人でも、どんな凶悪犯でも、あるいはその被害者の気持ちでもそうです。
妄想の中では誰のどんな価値観も、等しく平等に「現実の自分」を脅かすことがないからです。どんな凶悪犯とでも、手に手を取り合って、親友だと笑みを交わすこともできるはずです。
私は多様性を「多様性」というワードを頼りに、それを正義だというのは、妄想狂に他ならないという認識です。「多様性なんて認められなくて当たり前」だと考えています。
KANAME様の例えは扱いづらいですが、元カノのそういった殺してやりたいという価値観を認めることはできても、たとえ「妄想」の中では刺してきた元カノを優しく抱きしめることはできたとしても、実際に殺しに来た犯罪者の行動を受入れることは難しいように思います。
このトピックに則して意見を述べさせていただけるなら、
多様性を認める心とは、倫理とは、妄想ではないでしょうか?
現実と今までの経験に則してこそ、「倫理」と呼べるのではないでしょうか?
もし実際に殺しに来た元カノの包丁を腹に刺されて、なお、ほほ笑みを浮かべてこそ、「犯罪者の価値観を認める倫理観」と呼べるのでは?
そんな倫理観は唾棄すべきであり、受け入れられる多様性は取捨選択されてしかるべきだという立場です。
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