もし仮に翻訳ミスではなく本当に「借りがある」と感じていたとしたら何に対してだろう?とちょっと考えてみました。
完全に私の妄想で、何言ってんだこいつ ってなると思います。すみません。
雷電影が放浪者に、明らかに将軍が与えたとわかる身分証のような羽(聖遺物のストーリー参照)や高貴な服装を与えたことや、影向山の大社とはいえ、一般人の桂木が簡単に侵入できてしまうような場所、あるいはそのような場所になっても修繕しなかったことに違和感を抱きました(あくまでも私はですが)。羽を与えたのは憐憫を感じたからと端的に記されていましたが、それでも示す相手がいないのに身分証を与えるのは意味のない行為ではないでしょうか。なんだか、雷電影が「放浪者が外に出る可能性」を残しているかのように感じました。ほかの旅人さんがおっしゃているとおり、脱走されても放置していますし。不運が重なりすぎてしまっただけで、通常、稲妻国内であれば、将軍の庇護下にある人間を邪険にはできないし不幸な生活にはならなかったはずですしね。もちろんそのような態度には か弱い存在を生み出してしまったが、だからといってどうすることもできない ことに対する負い目もあるでしょうが。それだけでは「借り」にならないですよね?多くの友人を失い、裏切られ、双子の姉も亡くしてしまって、一心浄土に閉じこもり稲妻に恒常楽土を与えることだけに専心するよりほかに道はないが、自分の似せ型(八重神子は全然似てないって言ってましたが)である人形にはここから先にたくさんの選択肢があり、自分とは違った道を歩める。ならば自分の代わりに(もしくはもう一人の自分として)幸せになってほしい。そのような可能性を残したい。と、考えたんじゃないでしょうか・・・。それなら、自分の願いを託しているわけですし、借りといっても過言ではないような気がします。一心浄土に閉じこもった後はなにがあっても稲妻を永遠に導くとの心づもりであったようですので、国の情勢で生活が崩れることはない上に、摩耗のない人形である放浪者は影と違って本当に永遠に幸せになれたのかもしれません。(影の定義では)
思ってたよりも長文になってしまいました。すみません。ただの妄想です・・・。