他人もまた環境である、しかし特殊な環境であるというのが生態心理学の主張です。どういう意味で特殊なのかも掴むべきところです。コミュニケーションの話に触れられているので、いくらかわかってもらえたのかと思います。 4点差し上げます。
脳で物事を動かしているという話は私が最も嫌いな学説ですので、そういう話をする場合は、それがどういう意味で間違っているのかとか、なぜそういう間違った方向で考えてしまうのか、ということを話していると思います。 3点差し上げます。
そういう話をしたかどうか、記憶が定かではありません。いろいろ考えてみることは大切ですが、一応授業の主旨は把握していただきたいと思います。まあ、わかりにくい授業ですけれど。 3点差し上げます。
情報処理の考えがどう位置づけられているかをとらえることが、今回の授業において肝要です。個々の学説だけをみるのでなく、全体を俯瞰してみることが大切です。大変なんですけれどね。 3点差し上げます。
ヒト-ヒトのかかわりが、ヒト-モノとどう違うのかを押さえていただくのが、今回の授業の目的の一つでした。なお、ヒト-ヒト関係において、完全な意図の共有というのはあり得ません。これも授業で述べたことの一つです。コミュニケーションの中で互いの発話の意味がどう変わっていくかについて話しましたね。 3点差し上げます。
身体性認知の話は今回詳しくしていませんね。身体によって環境に関わるという点を押さえて欲しかったのが、今回の授業の狙いでした。 3点差し上げます。
考えの組み合わせが新しいものを生み出すと言ったような話をしたかどうか、記憶が定かではありません。モノというのは物理的な法則によって動きますが、ヒトは情報によって動きます。モノとモノの関わりは物理法則に依拠しますが、ヒトとモノ、ヒトとヒトのま関わりは情報によって制御されます。ワトソン流の行動主義は、全部物理法則でいけると思っていたのかもしれません。ただしパブロフの条件づけの解釈をどうするかによりますが。 5点差し上げます。
身体と環境がやりとりしていることの理由を探ると、どうして身体と物の違いに行き着くのですか。ヒト-モノ関係とヒト-ヒト関係の差異に触れた内容であるというのはわかります。 3点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
今回の講義では、これまでの講義を振り返るような内容であった。また、今回の講義で認知心理学について振り返りつつも、新たに深掘りしていく形となった。今回の講義を受けて個人的に気になったのは、身体と認知の関係性についてだ。人は身体で感じることと、目で見るという行為が認知に影響するというものである。手に暖かい珈琲を持っている時と、冷たい珈琲を持っている時では向き合っている人への印象評価が変わったり、柔らかいソファーに座っているときに、一緒に座っている人が優しそうに見えたりなどである。身体が受け取る情報は、人の認知と深く結びついており、それがもたらす結果は人によって良いものであったり悪いものであったりする。このような身体と認知の関係によって起きる情報の処理の仕方について理解して、他者に説明できるようになれば、特定のシュチュエーションにおいて、その原因や理由をしっかりと言語化することが可能になる。さすれば、日常的に私自身は特定の他者へ抱く数多の印象についても、しっかりとした理由付けを行うことができれば、あまり好印象でない人に対して、新しい視点でその人を受け止めることができ、関係性の改善にも繋がるのではないかと思えた。
今回の講義を受けて、身体と環境の関係についてが一番気になった。少し調べてみると、創造的な思考における環境と身体の相互作用を取り扱う、古くから創造性の研究では、どのような心的メカニズムから創造性やひらめきが発露するのかという問題に取り組んできた。しかし、それら先行研究では、創造性や洞察の源を人間の知能や脳に求めるものが多く、環境へ目を向けたものはそれらに比べて少なかった。しかし、昨今の身体性認知科学の立場では、人間の知的な振る舞いを心的処理だけでなく、環境にもガイドされたものとして説明する研究が見られる。このことは知覚心理学や推論研究などでも実験的検討が行われており、洞察や創造的なアイデアの発見といった一見卓越した知能によって生み出されるように見える現象も,身体性認知科学の立場から説明できる可能性がある。本研究では創造的なアイデア生成課題のパフォーマンスが、環境と身体によって左右されることを心理学実験によって示した。と言う論文を見つけた。この研究では被験者の身体と与えられたオブジェクトとの関係によって異なることを示していた。授業で学んだことにプラスしてさらに深い部分まで知ることができた。
今回の講義で、人間と人間との関わりと人間と人間以外のものとの関わりは異なるという話に興味を持ちました。この話を聞いて、言葉が通じる通じないの差だと思ったが、異国の人とコミュニケーションをとるときに人間同士でも言語が通じないことがある。しかし、言語が通じない人間と言語が通じない犬だったら対応が大きく変化すると考えると理解することができました。また、頑張れば言語同士で意思疎通ができる人間と、最初からどう頑張ろうと言語同士では意思疎通ができない動物などの生き物を、人間は人間以下の生物と考えているのではないかと考えました。
今回の講義を通して、皮肉と本気について興味が沸いた。深く調べてみると「本気でやっている過激な主張」と「ネタでやってるトンデモ」の区別が難しいことを示す。ということがわかった。ユーモアの明白な表出が無い限り、誰かが本気だと誤解しない形の過激主義または原理主義のパロディを作るのは不可能である。ということだと理解することができた。また能動性について、自ら動くことに加えて、自分以外の外部へという考え方であり「自ら外部の環境に働きかける力」と言える。このことから能動的な人はいつもと違うことをしてみる実験や試行錯誤を楽しむ人であり、その場の何かを自分から変えてみようとする人である。 能動的な人は行動をし、行動によって機会を得て、その機会によって自らを変える人だとわかった。これから習慣、行動を意識して自分から積極的に行動して、新しい発見を探していきたいと感じた。
今回の講義を受けて、身体は環境に存在することを学びました。人が机を動かしたり、飲み物を飲むためにペットボトルなどの容器を持ちあげるなどの人の動作により環境に働きかけることや、環境中の出来事や物を知覚、認識することで、身体が環境にさらに変化をもたらす。これに加えて、人が人に力を加えても、物のように確定した動きはせず、勝手に動いて次にどのような行動をするのかが確定しない。だが、言語を使ってコミュニケーションをとれば、次にどのような行動をとるのか予測がつくが確定はできない。これについて私は、人と動物ならどうなるか気になって調べてみた。動物は人が発する言語がわからないが、ある程度長いこと人とコミュニケーションをとれば、言語がわからなくてもジェスチャーや言葉の発音などで、動物の行動にも予測がつくがこれも確実な情報にはならない。このようなことを知って、人は物のほかにも、言語やジェスチャーを使って人や動物を動かして環境に働きかけていることを学びました。
これまでの授業で習得した情報の処理や保存方法、覚え持てる期間などに関する講義を振り返り、特に興味を持ったのは、人間が脳によって物事を操作し、体が暖かいと感じると脳が暖かいと感じ、体が冷たいと判断すると脳も冷たくなるということを知ったことです。言葉によって「頭を冷やす」という表現が、実際に脳を冷静にするために行われていることを理解しました。
精神や心をどう扱うか?というトピックの中で、ある人にとって別の人の身体は環境そのものであると学び、確かにその通りだと思いました。不変で直接的に人間に与えられる自然環境もありますが、人間の活動によって形成される社会環境では、人間に限らず、あらゆる生物は自然環境の中で相互に関係しあい、全体としてのバランスのとれた生態系の中で生きています。良い影響を受けるのか悪い影響を受けるのか、自分を取り巻く環境(人間)次第で人生は大きく変わります。物ではなく人を動かす時(物理的ではなく精神的に)、必ずこうすればこうなる、という事はなく人が人を動かすのは言葉の力によるものであり、だからこそ面白いと思いました。発せられる「言葉」にはその人の個性が色濃く表れ、ひとつの内容でもその人が選んで発する言葉から、人間性や傾向など多くの事を読み取ることができます。例えば「嬉しいです」の一言でも本心からなのか皮肉なのか分からず、お互いが推測しながら動き、会話が上手くいっているのか意識しているというお話を聞いて、無意識に腹の探り合いをしていることに気づきました。人によって言葉の受け止め方は違うためトラブルになることもありますが、人間同士だからこそできる話し合いの重要性を改めて感じました。
今回の講義を受けて学んだことは、今までの授業で学んできた情報の処理や保存の仕方、覚えていられる時間などの講義を思い返した。特に興味が湧いたのは人間は脳みそで物事を動かしているため、体が暖かいと判断すると脳では暖かい気持ちになり身体が冷たいと脳は冷めていくということを知り、頭を冷やしてくるというような言葉は実際に頭を冷やすことで脳みそを冷静にするといった事柄から行われているため、この言葉の本当の意味を知りました。別の話でいえば闘牛が赤に対して突進するように人間にも色による感情の表れが出るということを知りました。ブルーな気持ちになるが寂しいことを表していたり、ピンクは恋愛を想起させる色であることにも説明が着くようになりました。
今回の講義を受け、認知科学について前回の講義で「理解した」と思い込んでいましたがそれは間違いでした。認知科学は宗教に関係するものを除き、人間の本能的な行動、無意識的な行動に理由や根拠を示す学間であり、国籍や言語に関係しないということを今回の講義で学びました。例えば、ヒトとイヌ、ヒトとネコのように言葉を交わせないペットと主人という関係とヒトとヒトの関係では全くと言って良いほど関係が違う。ヒトと動物ではコミュニケーションを取る事ができず、主従関係を結ぶ他ありませんが、ヒトとヒトでは言葉を介して意思疎通を行うことができる点で決定的に違ってきます。この話を聞いている中で私の脳裏に「奴隷」という2文字が浮かびました。やはり高校の歴史の授業で学んだことは回り回って自分の糧になると改めて学びました。
今回の講義で、人間の情報処理の仕組みについて考えることが初期の認知心理学につながっていると学んだ。人間は体でなく脳で行動しているのであって、体などのほかの部分は考え方にとってはただの外部装置に過ぎないという考えを学んだ。物事の知覚については猫の実験において、能動的に動くことのできた猫は自分から物事を知覚することができたが、その猫に受動的についていくことしかできなかった猫は、物事を知覚できずに成長してしまったことに興味を持ちました。
今回の講義で人間のコミュニケーションの話が興味深く感じた。コミュニケーション同じ言葉を使っても、受け手の背景や感情、文脈によって解釈が変わることがあり、意図的な嘘や無意識的なすれ違いも加わることで、結果が大きく異なることもある。だからこそ、昔の人は言葉を使わずとも身振りなどの視覚的表現や、儀式を行って感情などを共有しているのかなと思った。自分たちは相手の意図や感情を理解しようとする姿勢が必要だと改めて感じた。
今回の講義は今まで振り返りの授業で、今までやってきた授業を改めて学び直しより一層知識を深めることができた。その中でも特に身体性認知について興味を持った。身体性認知についてネットで調べてみると、手に温かいコーヒーをもっているときと、冷たいコーヒーを持っているときでは向き合っている人への印象評価が変わる。ホットコーヒーを持つと「この人は温かい人だ」と認識するそうだ。他にも、「赤いユニフォームを着ると攻撃的になる」「黒いユニフォームを着ると競技中のペナルティが多い(=暴力的になる)」など視覚や触覚は心理に密接に関係していると知って納得する部分もあったが一方で納得できない部分もあった。この前サッカーの試合を見に行った時、赤いユニフォームを着ているチームを2チーム見た。1つの赤いユニフォームを着ているチームはすごく攻撃的でずっと攻め続けていたが、もう1つの赤いチームは守備が堅く、攻めよりも守りというチームだった。見ている側の視点として赤いユニフォームを着ているチームが強く見えることはあるが、着ている色が赤だと自分が攻撃的になるというのは感じたことがない。どのような根拠なのだろうか。
今回の講義ではこれまでの講義の内容を振り返るような形で認知科学がどのような変遷を辿ったかを見直すことができた。学問の歴史における変化とは突然どこからともなく出てくるわけではなく、従来の考え方や当時の状況に影響を受けて「考え方Aと考え方Bを組み合わせるとこんなことも説明できるのではないか」「近年発展してきた技術Cを組み込めば今までできなかったことができるのではないか」「考え方Dはこう変えれば現実に即したものになるのではないか」というように広がっていくのだろうということの再確認の機会にもなった。 講義中に出てきた話では特に人間同士の関わりが人間と人間以外のものとの関わりと異なるという話が面白いと感じた。確かに、コミュニケーションというものは同じ状況だからといって必ずしも同じ結果になるとは限らないし、物理的な作用と違って嘘やすれ違いという可能性が出てくる。ここまでで出てきたそれぞれの考え方では、嘘(考えていることと異なる行動をする)はどのように扱うのか気になった。おそらく行動主義などでは想定していないのではないかというところまでは自力で考えてみたが、これ以上はどのように調べるべきか思いつかなかった。
今回の講義では、人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。なぜ身体は環境とやり取りしているかという疑問に対して、身体と物との違う点を挙げていくとすると、身体は物と違う点として、ものはどう動くかは決まっているが、人を動かすにはどうするべきかは決まっていない。人を動かすには、言葉、言語が必要であるということがわかった。同時に言葉があるから、認知が存在するという前回の講義で学んだ、ビゴツキーの考えと結びつくことができた。ビゴツキーはギブソンができなかった言語の問題を解決した人であり、思考は言語、言語は認知の基盤であると表現しました。ですが、物と身体の違いとして、難しいのはコミュニケーションであります。教授が実際に講義で喋っていた、「今日はこんなに沢山の人が来てくれて嬉しい 」というのに対し、生徒は「 先生の授業はおもしろいからですね」と言われて、皮肉で行っているのか、本当に言っているのか、可能性として4パタンあり、人はどれが正解なのか明確にわからない。コミュニケーションは、お互いを推測して、うまく行っているかを実感しないといけない。このようなことは、今まで考えたことのない視点でした。この話を聞いて、今日学んだ社会構成主義のように、我々人間は言語に左右されているということが実感することができました。同時に人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。
なぜか多くの人がレスポンデント行動とオペラント行動について学んだと言っています。学ぶのはいいのですが、現在歴史的に思考しているわけなので、歴史的に考察してほしいんですよね。この方の投稿にはそれが少し垣間見えてよいと思いました。 6点差し上げます。
学べてよかったです。 3点差し上げます。
なぜみんな「脳」だけ取り出すのだろう。基本的にこの授業では否定している考えなのに。ある時代に支配的なひとつの考えとしては提示しましたけれども。 4点差し上げます。
学びが増えてよかったです。行動主義の文脈では「記憶」とか「考える」とか言ってはいけないです。だから「行動」主義と言います。 3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。 3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。 4点差し上げます。
学びが増えてよかったです。 2点差し上げます。
学びが増えてよかったです。この二つしか行動はないという考え方に対しても興味を持ってみてください。 3点差し上げます。
「頭と体があって」とは言っていないと思います。「身体と環境があって」なら、言ったと言われても問題なし。あくまで「身体」という単位で人間は見ないといけません。 6点差し上げます。
脳が考えるという発想がまずいというメッセージを送ったつもりです。人間の脳の理解が難しいのではなく、脳の活動として認知を理解しようとする発想に問題があります。そういう問題ある発想に依拠しているのが、1950年代から起こった認知科学だという話でした。 4点差し上げます。
学べたことが多くてよかったです。 3点差し上げます。
学べたことが多くてよかったです。 4点差し上げます。
他の方の投稿から触発されたことを嬉しく思います。 おっしゃる通りで、認知できないから(区別する必要がないから)表現がないという考えもできるわけです。 5点差し上げます。
他人もまた環境である、しかし特殊な環境であるというのが生態心理学の主張です。どういう意味で特殊なのかも掴むべきところです。コミュニケーションの話に触れられているので、いくらかわかってもらえたのかと思います。
4点差し上げます。
脳で物事を動かしているという話は私が最も嫌いな学説ですので、そういう話をする場合は、それがどういう意味で間違っているのかとか、なぜそういう間違った方向で考えてしまうのか、ということを話していると思います。
3点差し上げます。
そういう話をしたかどうか、記憶が定かではありません。いろいろ考えてみることは大切ですが、一応授業の主旨は把握していただきたいと思います。まあ、わかりにくい授業ですけれど。
3点差し上げます。
情報処理の考えがどう位置づけられているかをとらえることが、今回の授業において肝要です。個々の学説だけをみるのでなく、全体を俯瞰してみることが大切です。大変なんですけれどね。
3点差し上げます。
ヒト-ヒトのかかわりが、ヒト-モノとどう違うのかを押さえていただくのが、今回の授業の目的の一つでした。なお、ヒト-ヒト関係において、完全な意図の共有というのはあり得ません。これも授業で述べたことの一つです。コミュニケーションの中で互いの発話の意味がどう変わっていくかについて話しましたね。
3点差し上げます。
身体性認知の話は今回詳しくしていませんね。身体によって環境に関わるという点を押さえて欲しかったのが、今回の授業の狙いでした。
3点差し上げます。
考えの組み合わせが新しいものを生み出すと言ったような話をしたかどうか、記憶が定かではありません。モノというのは物理的な法則によって動きますが、ヒトは情報によって動きます。モノとモノの関わりは物理法則に依拠しますが、ヒトとモノ、ヒトとヒトのま関わりは情報によって制御されます。ワトソン流の行動主義は、全部物理法則でいけると思っていたのかもしれません。ただしパブロフの条件づけの解釈をどうするかによりますが。
5点差し上げます。
身体と環境がやりとりしていることの理由を探ると、どうして身体と物の違いに行き着くのですか。ヒト-モノ関係とヒト-ヒト関係の差異に触れた内容であるというのはわかります。
3点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
今回の講義では、これまでの講義を振り返るような内容であった。また、今回の講義で認知心理学について振り返りつつも、新たに深掘りしていく形となった。今回の講義を受けて個人的に気になったのは、身体と認知の関係性についてだ。人は身体で感じることと、目で見るという行為が認知に影響するというものである。手に暖かい珈琲を持っている時と、冷たい珈琲を持っている時では向き合っている人への印象評価が変わったり、柔らかいソファーに座っているときに、一緒に座っている人が優しそうに見えたりなどである。身体が受け取る情報は、人の認知と深く結びついており、それがもたらす結果は人によって良いものであったり悪いものであったりする。このような身体と認知の関係によって起きる情報の処理の仕方について理解して、他者に説明できるようになれば、特定のシュチュエーションにおいて、その原因や理由をしっかりと言語化することが可能になる。さすれば、日常的に私自身は特定の他者へ抱く数多の印象についても、しっかりとした理由付けを行うことができれば、あまり好印象でない人に対して、新しい視点でその人を受け止めることができ、関係性の改善にも繋がるのではないかと思えた。
今回の講義を受けて、身体と環境の関係についてが一番気になった。少し調べてみると、創造的な思考における環境と身体の相互作用を取り扱う、古くから創造性の研究では、どのような心的メカニズムから創造性やひらめきが発露するのかという問題に取り組んできた。しかし、それら先行研究では、創造性や洞察の源を人間の知能や脳に求めるものが多く、環境へ目を向けたものはそれらに比べて少なかった。しかし、昨今の身体性認知科学の立場では、人間の知的な振る舞いを心的処理だけでなく、環境にもガイドされたものとして説明する研究が見られる。このことは知覚心理学や推論研究などでも実験的検討が行われており、洞察や創造的なアイデアの発見といった一見卓越した知能によって生み出されるように見える現象も,身体性認知科学の立場から説明できる可能性がある。本研究では創造的なアイデア生成課題のパフォーマンスが、環境と身体によって左右されることを心理学実験によって示した。と言う論文を見つけた。この研究では被験者の身体と与えられたオブジェクトとの関係によって異なることを示していた。授業で学んだことにプラスしてさらに深い部分まで知ることができた。
今回の講義で、人間と人間との関わりと人間と人間以外のものとの関わりは異なるという話に興味を持ちました。この話を聞いて、言葉が通じる通じないの差だと思ったが、異国の人とコミュニケーションをとるときに人間同士でも言語が通じないことがある。しかし、言語が通じない人間と言語が通じない犬だったら対応が大きく変化すると考えると理解することができました。また、頑張れば言語同士で意思疎通ができる人間と、最初からどう頑張ろうと言語同士では意思疎通ができない動物などの生き物を、人間は人間以下の生物と考えているのではないかと考えました。
今回の講義を通して、皮肉と本気について興味が沸いた。深く調べてみると「本気でやっている過激な主張」と「ネタでやってるトンデモ」の区別が難しいことを示す。ということがわかった。ユーモアの明白な表出が無い限り、誰かが本気だと誤解しない形の過激主義または原理主義のパロディを作るのは不可能である。ということだと理解することができた。また能動性について、自ら動くことに加えて、自分以外の外部へという考え方であり「自ら外部の環境に働きかける力」と言える。このことから能動的な人はいつもと違うことをしてみる実験や試行錯誤を楽しむ人であり、その場の何かを自分から変えてみようとする人である。 能動的な人は行動をし、行動によって機会を得て、その機会によって自らを変える人だとわかった。これから習慣、行動を意識して自分から積極的に行動して、新しい発見を探していきたいと感じた。
今回の講義を受けて、身体は環境に存在することを学びました。人が机を動かしたり、飲み物を飲むためにペットボトルなどの容器を持ちあげるなどの人の動作により環境に働きかけることや、環境中の出来事や物を知覚、認識することで、身体が環境にさらに変化をもたらす。これに加えて、人が人に力を加えても、物のように確定した動きはせず、勝手に動いて次にどのような行動をするのかが確定しない。だが、言語を使ってコミュニケーションをとれば、次にどのような行動をとるのか予測がつくが確定はできない。これについて私は、人と動物ならどうなるか気になって調べてみた。動物は人が発する言語がわからないが、ある程度長いこと人とコミュニケーションをとれば、言語がわからなくてもジェスチャーや言葉の発音などで、動物の行動にも予測がつくがこれも確実な情報にはならない。このようなことを知って、人は物のほかにも、言語やジェスチャーを使って人や動物を動かして環境に働きかけていることを学びました。
これまでの授業で習得した情報の処理や保存方法、覚え持てる期間などに関する講義を振り返り、特に興味を持ったのは、人間が脳によって物事を操作し、体が暖かいと感じると脳が暖かいと感じ、体が冷たいと判断すると脳も冷たくなるということを知ったことです。言葉によって「頭を冷やす」という表現が、実際に脳を冷静にするために行われていることを理解しました。
精神や心をどう扱うか?というトピックの中で、ある人にとって別の人の身体は環境そのものであると学び、確かにその通りだと思いました。不変で直接的に人間に与えられる自然環境もありますが、人間の活動によって形成される社会環境では、人間に限らず、あらゆる生物は自然環境の中で相互に関係しあい、全体としてのバランスのとれた生態系の中で生きています。良い影響を受けるのか悪い影響を受けるのか、自分を取り巻く環境(人間)次第で人生は大きく変わります。物ではなく人を動かす時(物理的ではなく精神的に)、必ずこうすればこうなる、という事はなく人が人を動かすのは言葉の力によるものであり、だからこそ面白いと思いました。発せられる「言葉」にはその人の個性が色濃く表れ、ひとつの内容でもその人が選んで発する言葉から、人間性や傾向など多くの事を読み取ることができます。例えば「嬉しいです」の一言でも本心からなのか皮肉なのか分からず、お互いが推測しながら動き、会話が上手くいっているのか意識しているというお話を聞いて、無意識に腹の探り合いをしていることに気づきました。人によって言葉の受け止め方は違うためトラブルになることもありますが、人間同士だからこそできる話し合いの重要性を改めて感じました。
今回の講義を受けて学んだことは、今までの授業で学んできた情報の処理や保存の仕方、覚えていられる時間などの講義を思い返した。特に興味が湧いたのは人間は脳みそで物事を動かしているため、体が暖かいと判断すると脳では暖かい気持ちになり身体が冷たいと脳は冷めていくということを知り、頭を冷やしてくるというような言葉は実際に頭を冷やすことで脳みそを冷静にするといった事柄から行われているため、この言葉の本当の意味を知りました。別の話でいえば闘牛が赤に対して突進するように人間にも色による感情の表れが出るということを知りました。ブルーな気持ちになるが寂しいことを表していたり、ピンクは恋愛を想起させる色であることにも説明が着くようになりました。
今回の講義を受け、認知科学について前回の講義で「理解した」と思い込んでいましたがそれは間違いでした。認知科学は宗教に関係するものを除き、人間の本能的な行動、無意識的な行動に理由や根拠を示す学間であり、国籍や言語に関係しないということを今回の講義で学びました。例えば、ヒトとイヌ、ヒトとネコのように言葉を交わせないペットと主人という関係とヒトとヒトの関係では全くと言って良いほど関係が違う。ヒトと動物ではコミュニケーションを取る事ができず、主従関係を結ぶ他ありませんが、ヒトとヒトでは言葉を介して意思疎通を行うことができる点で決定的に違ってきます。この話を聞いている中で私の脳裏に「奴隷」という2文字が浮かびました。やはり高校の歴史の授業で学んだことは回り回って自分の糧になると改めて学びました。
今回の講義で、人間の情報処理の仕組みについて考えることが初期の認知心理学につながっていると学んだ。人間は体でなく脳で行動しているのであって、体などのほかの部分は考え方にとってはただの外部装置に過ぎないという考えを学んだ。物事の知覚については猫の実験において、能動的に動くことのできた猫は自分から物事を知覚することができたが、その猫に受動的についていくことしかできなかった猫は、物事を知覚できずに成長してしまったことに興味を持ちました。
今回の講義で人間のコミュニケーションの話が興味深く感じた。コミュニケーション同じ言葉を使っても、受け手の背景や感情、文脈によって解釈が変わることがあり、意図的な嘘や無意識的なすれ違いも加わることで、結果が大きく異なることもある。だからこそ、昔の人は言葉を使わずとも身振りなどの視覚的表現や、儀式を行って感情などを共有しているのかなと思った。自分たちは相手の意図や感情を理解しようとする姿勢が必要だと改めて感じた。
今回の講義は今まで振り返りの授業で、今までやってきた授業を改めて学び直しより一層知識を深めることができた。その中でも特に身体性認知について興味を持った。身体性認知についてネットで調べてみると、手に温かいコーヒーをもっているときと、冷たいコーヒーを持っているときでは向き合っている人への印象評価が変わる。ホットコーヒーを持つと「この人は温かい人だ」と認識するそうだ。他にも、「赤いユニフォームを着ると攻撃的になる」「黒いユニフォームを着ると競技中のペナルティが多い(=暴力的になる)」など視覚や触覚は心理に密接に関係していると知って納得する部分もあったが一方で納得できない部分もあった。この前サッカーの試合を見に行った時、赤いユニフォームを着ているチームを2チーム見た。1つの赤いユニフォームを着ているチームはすごく攻撃的でずっと攻め続けていたが、もう1つの赤いチームは守備が堅く、攻めよりも守りというチームだった。見ている側の視点として赤いユニフォームを着ているチームが強く見えることはあるが、着ている色が赤だと自分が攻撃的になるというのは感じたことがない。どのような根拠なのだろうか。
今回の講義ではこれまでの講義の内容を振り返るような形で認知科学がどのような変遷を辿ったかを見直すことができた。学問の歴史における変化とは突然どこからともなく出てくるわけではなく、従来の考え方や当時の状況に影響を受けて「考え方Aと考え方Bを組み合わせるとこんなことも説明できるのではないか」「近年発展してきた技術Cを組み込めば今までできなかったことができるのではないか」「考え方Dはこう変えれば現実に即したものになるのではないか」というように広がっていくのだろうということの再確認の機会にもなった。
講義中に出てきた話では特に人間同士の関わりが人間と人間以外のものとの関わりと異なるという話が面白いと感じた。確かに、コミュニケーションというものは同じ状況だからといって必ずしも同じ結果になるとは限らないし、物理的な作用と違って嘘やすれ違いという可能性が出てくる。ここまでで出てきたそれぞれの考え方では、嘘(考えていることと異なる行動をする)はどのように扱うのか気になった。おそらく行動主義などでは想定していないのではないかというところまでは自力で考えてみたが、これ以上はどのように調べるべきか思いつかなかった。
今回の講義では、人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。なぜ身体は環境とやり取りしているかという疑問に対して、身体と物との違う点を挙げていくとすると、身体は物と違う点として、ものはどう動くかは決まっているが、人を動かすにはどうするべきかは決まっていない。人を動かすには、言葉、言語が必要であるということがわかった。同時に言葉があるから、認知が存在するという前回の講義で学んだ、ビゴツキーの考えと結びつくことができた。ビゴツキーはギブソンができなかった言語の問題を解決した人であり、思考は言語、言語は認知の基盤であると表現しました。ですが、物と身体の違いとして、難しいのはコミュニケーションであります。教授が実際に講義で喋っていた、「今日はこんなに沢山の人が来てくれて嬉しい 」というのに対し、生徒は「 先生の授業はおもしろいからですね」と言われて、皮肉で行っているのか、本当に言っているのか、可能性として4パタンあり、人はどれが正解なのか明確にわからない。コミュニケーションは、お互いを推測して、うまく行っているかを実感しないといけない。このようなことは、今まで考えたことのない視点でした。この話を聞いて、今日学んだ社会構成主義のように、我々人間は言語に左右されているということが実感することができました。同時に人間は身体と環境とやり取りをしているという観点が理解することができました。
なぜか多くの人がレスポンデント行動とオペラント行動について学んだと言っています。学ぶのはいいのですが、現在歴史的に思考しているわけなので、歴史的に考察してほしいんですよね。この方の投稿にはそれが少し垣間見えてよいと思いました。
6点差し上げます。
学べてよかったです。
3点差し上げます。
学べてよかったです。
3点差し上げます。
なぜみんな「脳」だけ取り出すのだろう。基本的にこの授業では否定している考えなのに。ある時代に支配的なひとつの考えとしては提示しましたけれども。
4点差し上げます。
学びが増えてよかったです。行動主義の文脈では「記憶」とか「考える」とか言ってはいけないです。だから「行動」主義と言います。
3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
4点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
2点差し上げます。
学びが増えてよかったです。この二つしか行動はないという考え方に対しても興味を持ってみてください。
3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
3点差し上げます。
学びが増えてよかったです。
2点差し上げます。
「頭と体があって」とは言っていないと思います。「身体と環境があって」なら、言ったと言われても問題なし。あくまで「身体」という単位で人間は見ないといけません。
6点差し上げます。
脳が考えるという発想がまずいというメッセージを送ったつもりです。人間の脳の理解が難しいのではなく、脳の活動として認知を理解しようとする発想に問題があります。そういう問題ある発想に依拠しているのが、1950年代から起こった認知科学だという話でした。
4点差し上げます。
学べたことが多くてよかったです。
3点差し上げます。
学べたことが多くてよかったです。
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おっしゃる通りで、認知できないから(区別する必要がないから)表現がないという考えもできるわけです。
5点差し上げます。