仏教のお話

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ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 21:14:04 >> 19

疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる

大荘厳菩薩は、釈尊に、「世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや」と問いました。無上の正しい覚りを得る方法を問うたのですが、その時に、「疾く」という条件が入っています。「疾く」とは、速やかに・急いで、という意味ですから、速やかに無上の覚りを得るにはどのような修行をすべきかを質問しています。

これまでは、歴劫修行が説かれていました。菩薩が覚りを得るには、三阿僧祇劫の修行が必要だというのです。阿僧祇とは、「数えきれない」という意味ですので、非常に長い期間をかけないと成仏できないというのでしょう。それに対して無量義経では、「疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる」のですから、歴劫修行の逆です。即身成仏です。法華経にも、「我先仏の所に於て此の経を受持し読誦し、人の為に説きしが故に疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」という経文がありますから、歴劫修行は否定されています。
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12
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 19:53:06 >> 9

偈頌(げじゅ)
:
偈頌は、ガーター gāthā の訳です。偈ともいいます。意味は、「歌・詩」です。散文(長行)で説かれた内容を詩の形式で繰り返しています。偈を説く前には、「爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言」(爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく)というように告げます。サンスクリット語の偈は、次の通りです。これは、序品の偈です。
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:
kiṃ kāraṇaṃ mañjuśirī iyaṃ hi
raśmiḥ pramuktā naranāyakena|
prabhāsayantī bhramukāntarātu
ūrṇāya kośādiyamekaraśmiḥ||1||

:
māndāravāṇāṃ ca mahanta varṣaṃ
puṣpāṇi muñcanti surāḥ suhṛṣṭāḥ|
mañjūṣakāṃścandanacūrṇamiśrān
divyān sugandhāṃśca manoramāṃśca||2||

:
:
サンスクリット語の偈では、偈の番号がつけられています。一つの偈は、8音節からなる句を4つ並べた32音節から構成されています。この形式をシュローカといいます。韻を踏むことはなく、シュローカと音節の長短が重視されます。漢訳すると当然ながら偈のリズムは取れません。
:
文殊師利 導師何故 眉間白毫
大光普照 雨曼陀羅 曼殊沙華

:
というように、漢訳では4文字や5文字で構成しています。
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YouTubeで、法華経の偈を探してみましたが見つけることができませんでした。ゴータマ・ブッダを讃える詩がありましたので、参考のためリンクを貼っておきます。シュローカの雰囲気はつかめると思います。
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11
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:58:53 修正

此土の六瑞を問う 3
:
若し人苦に遭うて 老病死を厭うには
為に涅槃を説いて 諸苦の際を尽くさしめ
若し人福あって 曾て仏を供養し
勝法を志求するには 為に縁覚を説き
若し仏子有って 種々の行を修し
無上慧を求むるには 為に浄道を説きたもう
文殊師利 我此に住して
見聞すること斯の若く 千億の事に及べり
是の如く衆多なる 今当に略して説くべし

:
:
もし 人が苦にあって
老化・病気・死などの
苦悩から離れたいと願うならば
その人のために安らぎの境地を説いて
迷いの世界から
離れる修行を説き示しました
もし 人が善行を積んで 福を得て
これまでに 諸仏を供養したことによって
勝れた教えを求める人がいたならば
その人のために 
縁覚の修行を説き示しました
もし 菩薩がいて
様々な修行を実践し
無上の智慧を求める人がいたならば
その人のために
浄き道を説き示しました
マンジュシリー菩薩さま
私が ここに居ながらにして
見て聞いたことは
このように 多くありました
このような多くの出来事から
今は 略して語りましょう

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10
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:49:28 修正

此土の六瑞を問う 2
:
又諸仏 聖主師子
経典の 微妙第一なるを演説したもう
其の声清浄に 柔軟の音を出して
諸の菩薩を教えたもうこと 無数億万に
梵音深妙にして 人をして聞かんと楽わしめ
各世界に於て 正法を講説するに
種々の因縁をもってし 無量の喩を以て
仏法を照明し 衆生を開悟せしめたもうを覩る

:
:
また 他方の諸仏が
最上の教えを説かれている様子も
見ることができました
その仏さまのお声は
清浄で柔らかい音であり
多くの菩薩たちに対して
清らかで 深く 
きわめて優れた教えを
説き示されました
各世界において 
正しい教えを説くのに
様々な出来事を話し
多くのたとえ話をして
仏法を誰にでも分かるように説き明かし
人々を悟りへと導いているのを見ました

:
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9
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 16:09:04 >> 7

此土の六瑞を問う 1

文殊師利 導師何が故ぞ
眉間白毫の 大光普く照したもう
曼陀羅 曼殊沙華を雨らして
栴檀の香風 衆の心を悦可す
是の因縁を以て 地皆厳浄なり
而も此の 世界六種に震動す
時に四部の衆 咸く皆歓喜し
身意快然として 未曾有なることを得
眉間の光明 東方万八千の土を
照したもうに 皆金色の如し
阿鼻獄より 上有頂に至るまで
諸の世界の中の 六道の衆生
生死の所趣 善悪の業縁
受報の好醜 此に於て悉く見る

:
:
文殊菩薩よ
世尊の眉間から光を放たれて 不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ 栴檀(せんだん)の香風がそよいで 人々の心は喜びに満たされています そればかりか はるか『東方の世界』も照らし出されて すべてを目(ま)の当たりにすることができます こうした現象が起きているのは 一体どのような意味があるのでしょうか 私たちは 人間の住むあらゆる世界で 六道を輪廻する人が 生まれ変わりして善悪の行為を重ね そして その報いを受ける姿を 目の当たりにすることができました

:
:
マンジュシリー菩薩さま
導師はなぜ
眉間から大いなる光を放ち
世界を照らされているのでしょうか?
天上界から 珍しく美しい花々をふらし
センダンの香りを漂わせて
人々の心を悦ばせています
このことによって 大地も人々も
厳かで穢れがありません
しかも この世界が様々に震動しました
その時 人々は誰もが歓喜し
身も心も悦びを感じ
ありがたい現象を体験しました
眉間の光明は
東方の多くの世界を照らし出し
その世界を 黄金色に浮かび上がらせています
阿鼻地獄から 有頂天にいたるまで
様々な世界の中の迷える人々の
事物・現象が因縁によって起こっているということ
善悪の行為とその縁となるもの
報いによって 好い状態、醜い状態に
環境が変化することを
ここに居ながらにして ことごとく見ました

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8
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:45:36 >> 7

発問序

爾の時に弥勒菩薩自ら疑を決せんと欲し、又四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等の衆会の心を観じて、文殊師利に問うて言わく。何の因縁を以て此の瑞神通の相あり、大光明を放ち東方万八千の土を照したもうに、悉く彼の仏の国界の荘厳を見る。是に弥勒菩薩重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を以て問うて曰く。
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すると弥勒菩薩は、その者たちの心中をハッキリと分かりましたので、弥勒菩薩は自らの疑問を解決するだけでなく、この者たちの疑問を解かなければならないと思い、文殊菩薩に向かって尋ねたのでした。
「文殊菩薩よ。世尊の眉間から光を放たれて、不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ。栴檀(せんだん)の香風がそよいで、人々の心は喜びに満たされています。そればかりか、はるか『東方の世界』も照らし出されて、すべてを目(ま)の当たりにすることができます。こうした現象が起きているのは、一体どのような意味があるのでしょうか」

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その時にマイトレーヤ菩薩は、自分自身の疑問を晴らしたいと思い、また、多くの人々の心を察して、マンジュシリー菩薩に問いました。
「何の理由があって、世尊は、この珍しくも、ありがたい神通力を現わされているのでしょうか? 世尊は、大いなる光明を放って、東方の多くの国土を照らし、ことごとく他方の仏さまの世界の素晴らしさを見せて下さっています」

ここで、マイトレーヤ菩薩は、詩にして、もう一度、マンジュシリー菩薩に問いました。
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7
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:26:57 修正

疑念序

弥勒の疑念

爾の時に弥勒菩薩是の念を作さく、今者世尊、神変の相を現じたもう。何の因縁を以て此の瑞ある。今仏世尊は三昧に入りたまえり。是の不可思議に希有の事を現ぜるを、当に以て誰にか問うべき、誰か能く答えん者なる。復此の念を作さく、是の文殊師利法王の子は、已に曾て過去無量の諸仏に親近し供養せり。必ず此の希有の相を見るべし。我今当に問うべし。
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これらの奇瑞(瑞相)を見た弥勒菩薩の疑問

その有り様を見て、弥勒菩薩は考えました。
「世尊は今、不可思議な力をお示しになって、このような光景を現わされた。これは一体どのような意味があるのだろうか? 世尊にお伺いをしたいが、世尊は三昧に入っておられ、お尋ねすることができない・・・。一体、誰に聞けば、このことを正しく答えてくれるだろうか・・・?  そうだ。世尊のお心をよく知り、過去世において数えきれないほどの諸仏にお仕えしたことのある文殊菩薩ならば、きっとこの不可思議な光景を見たことがあるに違いない。よし、文殊菩薩に聞いてみよう」。弥勒菩薩はそう考えついたのでした。

:
:
その時に偉大なるマイトレーヤ菩薩は、このように考えました。
「今、世尊は、不思議な現象を現わされました。このことで何を教えて下さっているのでしょう? どういう理由があって不思議の力を表わされたのでしょう? 今、世尊は深い瞑想に入っていて、この理由を質問することができません。この不可思議な出来事が起ったことを一体誰に問えばいいのでしょう? 誰が分かりやすく答えて下さるでしょう?」。

また、このようにも考えました。
「ここにおられるマンジュシリー法王子さまは、これまでの過去世において、無量の諸仏に仕えて、供養をし、修行をされたと聞いています。おそらくは、この珍しい出来事についても、過去に体験されていることでしょう。私は、今、マンジュシリー法王子さまに質問してみましょう」

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大衆の疑念

爾の時に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等、咸く此の念を作さく。是の仏の光明神通の相を今当に誰にか問うべき。
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その時、出家・在家の修行者をはじめ、天人・竜神など、その座に連なる全ての者たちも弥勒菩薩と同じ疑問を持ち、この不可思議な現象の真相を、誰に聞けばよいのかと考えていました。
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その時、この集会に集う男女の出家修行者、男女の在家修行者、そして天上界の神々、ナーガ、鬼神など、多くの者たちがこのように考えました。
「この仏さまの光明による不思議な出来事を、今、誰に問えばいいのでしょう?」

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6
ダルマ太郎 2024/04/10 (水) 21:19:10

仏教において、「空(くう)」は非常に重要な言葉です。大乗仏教では、この言葉を知らなければ経典は読めません。空には、形容詞のシューニャ śūnya と名詞のシューニャター śūnyatā があります。漢訳では、名詞の空を空性ということがありますが、ほとんどの場合は、どちらも空です。

仏教経典では、以前に言葉の意味を解説した場合は、再度その言葉が使われても解説は略されます。空については、般若経群で詳しく解説されていますので、それ以降の経典では解説はされていません。されても要点だけです。なので、般若経を読まず、仏教辞典も調べずに、法華経を読んでも理解しづらいでしょう。

シューニャは、「空虚な」という意味です。空席とは、坐る人がいないことであり、空箱とは、箱の中身がないことです。このようにあるべきものが欠如した状態が空です。大乗仏教では、あるべきものとは、自性のことだとしました。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。「物それ自体の独自の本性、本来の性質」のことで、実体と訳すことが多いです。

一切法空といって、すべての事象には実体が無いと説いています。なぜ、そのことが言えるのでしょう? それは、すべての事象が因縁和合によって生じているからです。決して、それ自体だけで生じるのではなく、因縁によって生じます。よって、集結しているそれぞれには、実体は欠如しています。朝顔の種は、一時的には種としてありますが、やがて発芽して、つるを伸ばし、成長します。成長した朝顔を種とは見ないでしょう。種という実体はありません。因縁によって仮にありますが、実体はないのです。つまり、空です。

空という言葉が使われるようになった背景は、上座部の説一切有部が、「人は無我だが、法は有我である」と論じたためです。釈尊は、人にも法にも実体はない、と説いていたため、説一切有部の論に反論する部派が現れました。それが大乗仏教の般若派です。般若派は、「人無我。法無我」「人無我。法空」を論じました。そして、説一切有部が有ると主張することを悉く、空という言葉によって否定しました。

般若派は、多くの般若経典を作って、空の理を世に広めようとしましたが、難しい内容だったために、ほとんどの人が理解できなかったようです。そこで立ち上がったのが龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna)です。龍樹は、二万五千頌般若経の解釈本として大智度論を著し、空の理を解釈するために中論を著しました。これによって、空の理は知られるようになりました。龍樹は、中論の中で、「衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義」と論じています。「因縁によって生じる現象を 私は即ち空だと説くのです また仮であると説き 中道だと説きます」です。「我説即是無」というように、空ではなく無という言葉を使っているのは、有と空の二辺否定に誤解されないように、わざと無と訳したのでしょう。サンスクリット原文では、空と書いています。

多くの因縁によって生じるので、その一つ一つには実体が有りません。なので龍樹はそれを空だと説きました。空もまた空なので、そのために仮に名をつけています。仮に有り、実体は無いので、有無の二辺を離れているため中道といいます。この論によって、釈尊が説かれた縁起と空とが結び付いたため、多くの仏教徒は空の理を理解しました。

Rの会では、空を「平等」だと解釈しています。しかし、空にはそういう意味はありません。超訳でしょうか。二次的解釈でしょうか。分かりやすく解釈するために、平等という言葉を選んだのかも知れませんが、重要な仏教用語については、サンスクリット語の意味を確認した方がいいと思います。そうしないと混乱するのは、学んだ人たちです。一度刷り込んだ内容はなかなか消えません。
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5
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 22:29:33 修正

他土六瑞

此の世界に於て尽く彼の土の六趣の衆生を見、又彼の土の現在の諸仏を見、及び諸仏の所説の経法を聞き、竝に彼の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見、復諸の菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相貎あって菩薩の道を行ずるを見、復諸仏の般涅槃したもう者を見、復諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る。
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そのため六道を輪廻して迷う凡夫の姿や、それらの人々を救う仏の姿、修行者たちや菩薩たちの姿、そして仏が涅槃に入り、仏滅後、仏を讃嘆し供養する人々の姿などが見えるのでした。
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この世界にいながらにして、他方の世界で迷い苦しんでいる人々を見、また、他方の世界で活躍されている諸仏を見、また、諸仏が様々な教えを説いているのを聞き、また、他方の世界の出家修行者たちや在家修行者たちが、様々な修行をし、道を得るのを見、また、菩薩摩訶薩たちが、様々な体験、様々な信心と理解、様々な様相を具え、菩薩の道を行じているのを見、また、諸仏が、完全な涅槃に入られるのを見、また、諸仏が完全なる涅槃に入られた後に、仏の遺骨を納めて七宝の塔を建てるのを見ました。
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他土の六瑞とは

~他土(東方萬八千世界・未来の世界)
➊六道輪廻する衆生が見えた
➋諸仏の姿が見えた
➌諸仏の説法の声が聞こえた
➍出家・在家修行者の修行の結果を見ることができた
➎菩薩が菩薩道を行ずる姿が見えた
➏諸仏が涅槃に入り、人々が塔を建て、仏を供養する姿が見えた
※ 東方の世界とは、「未来の世界」

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東方=未来?

Rの会では、東方を「未来」のことだと解釈しているようです。東とは、プゥールヴァ pūrva の訳であり、「東」「前方」「過去」などの意味がありますので、私は過去のことだと解釈しています。サンスクリットの辞典でも、東・過去と書いています。
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サンスクリット語

仏教の経典の多くは、サンスクリット語かパーリ語で書かれました。大乗仏教の経典は、サンスクリット語です。サンスクリット saṃskṛtam とは、「正しく構成された(言語、雅語)」という意味であり、その言葉自体が言語を表すために、サンスクリットという表記でもいいのですが、日本では、通常、サンスクリット語といいます。

紀元前十五世紀頃から編纂されるようになった「ヴェーダ」という聖典は、ヴェーダ語が用いられており、ヴェーダ語を基にして紀元前五世紀頃にサンスクリット語ができました。ヴェーダは、バラモン教の聖典です。カースト上位のバラモン(司祭)、クシャトリア(王族)しか唱えることはできません。もし、下位のシュードラ(奴隷)などが唱えれば、熱して溶かした金属を耳の中に流し込むなどの罰が与えられました。よって上級の言葉だとされました。雅言葉です。

サンスクリット語には文字はありません。あるのは音だけです。ヴェーダ聖典は、師から弟子へと口伝で伝えられました。仏教の経典も口伝です。釈尊は、一部の上位カーストの人にしか伝わらないサンスクリット語を使うことを禁じ、その地域の民衆の言葉で布教するように教えていましたが、釈尊の死後、数百年もするとサンスクリット語が使われるようになり、サンスクリット語で文字化されました。サンスクリット語は、発音がきちんとできるのであれば、表記する文字には制限はありません。ブラーフミー文字、デーヴァナーガリー文字、ラテン文字などを使っています。

サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族です。英語に近い言語なので、それを中国語にするのは大変な作業です。文法が違うし、単語に共通性がありません。インドの思想と中国の思想は大きく異なるので、訳しようがない単語がたくさんありました。無我や空などは、特に分かりにくかったようです。鳩摩羅什によって、教育がされるまでは、中国での仏教は混乱していました。日本でも混乱があり、その影響は今でも続いています。

インドから中国、中国から日本。異文化の教えがすんなりと分かるはずはありません。よって、経典を読む場合は、仏教辞典が必要です。無我を知るためには、我という言葉の意味を調べる必要があります。日常で使っている意味とは異なります。我とは、アートマン ātman の訳語だからです。中国には、アートマンという概念がなかったため、それを表す言葉もありませんでした。そこで、「我」という字を借りて使うようにしました。我とは、円状の武器のことですので、字の意味とは合いません。アートマンを知りませんから、それを否定する無我については、知りようがありません。何が無いのだろう? と思うばかりです。

アートマンは、インド思想の核となる思想ですので、バラモン教やヒンドゥー教だけでなく、仏教・ジャイナ教などでも根本の教義です。しかし、インドでは常識的な概念でも、インド以外の国では知られていません。想像で意味づけができない概念なのです。それなのに、仏教の解釈本の多くは、自分勝手な解釈をしています。これは、仏教の教えを歪める結果になるだけです。中には、自分の宗派や教団の思想や行動を正当化するために、仏教用語の意味を変えて本にするところもあるので要注意です。

素人は、その解釈が正しいのか誤りなのかの判断がつきにくいです。なので、仏教辞典を持っておいた方がいいです。辞典を引くくせを身につければ、誤った解釈を見破れます。理想としては、経典を読み、出てきた単語は片っ端に辞典を引いて調べ、用語にはサンスクリット原語が書かれていることが多いので、できればサンスクリット辞典で意味を調べるのがいいです。下記のサイトは、使いやすいのでお薦めです。

https://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi

現在は、サンスクリット語経典の現代語訳もでています。法華経の場合は、植木雅俊氏による、サンスクリット原文とその現代語訳、鳩摩羅什訳の訓読を見開きにした本が出ています。少なくとも解釈者は、学んでおいた方がいいと思います。
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ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 21:47:37

此土六瑞

爾の時に世尊、四衆に圍繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って身心動したまわず。是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に震動す。爾の時に会中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人及び諸の小王・転輪聖王、是の諸の大衆未曾有なることを得て、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつる。爾の時に仏眉間白毫相の光を放って、東方万八千の世界を照したもうに周遍せざることなし。下阿鼻地獄に至り、上阿迦尼吒天に至る。
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世尊は多くの菩薩たちに向けて、世を救い、人を救う教え、すなわち『無量義・教菩薩法・仏所護念』の教えを説かれたのでした。世尊はこの『無量義』の教えを説き終えると、諸法実相に全精神を集中する『無量義処三昧』という三昧に静かに入られました。すると天空から美しい花々が世尊のみ上に、そして、その座にいるすべての人たちにも等しく降りかかり、大地も感動して震え動きました。そのため、説法会にいるあらゆる人たち、修行者、バラモン教の神々、鬼神や国王、その家来たち、さらには動物をはじめ生きとし生けるものすべてが、かつてない深い感動を覚え、合掌して仏さまの尊いお顔を仰ぎ見るのでした。その時です。世尊の眉間から鮮やかな光がパッと放たれたのでした。その光は遥か東方の一万八千の国々、つまり、未来のすべての世界に及び、下は無限地獄(阿鼻地獄・あびじごく)、上は有頂天(阿迦尼吒天・あかにたてん)に至るまで、隅々に行きわたり、一斉に明るく照らし出されました。つまり、仏さまの智慧の光(眉間白毫相の光)によって、その人にとっての最低の状態(地獄)から最高の幸せの状態(有頂天)までを、つまびらかに明かされたのでした。
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その時に世尊は、人々に囲まれて、供養、恭敬、尊重、讃歎されて、多くの菩薩たちのために、大乗の「無量義」という教えを説かれました。この教えは、菩薩を教化する教えであり、諸仏が大切に護っている教えです。仏は、この教えを説き終えられると姿勢を調えて坐られ、無量義の教えを深く噛みしめる三昧に入られました。身も心も落ちつかれており、まったく動くことがありませんでした。この時に天上から、マンダーラヴァ、大マンダーラヴァ、マンジューシャカ、大マンジューシャカという珍しくも美しい花々が、仏と人々の上にふってきました。そして、大地は、揺れ、動き、震え、また広い範囲でも揺れ、動き、震えました。その時に、この集会では、男女の出家修行者、男女の在家修行者、天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガ、人、人でないもの、王族の者たち、これらの人々は、珍しくも不思議な体験をして、歓喜し、合掌して、一心に仏を仰ぎ見ました。その時に仏は、眉間の白い巻毛より光を放って、東方のあらゆる世界を隅々まで照らし出しました。下は阿鼻地獄にまで至り、上は有頂天に至りました。
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此土の六瑞

~➊『無量義経』が説かれる  ➋『無量義処三昧』に入る  ➌摩訶曼殊沙華が天空から降り注ぐ  ➍普仏世界六種震動  ➎大衆が未曽有の歓喜  ➏『仏眉間白毫相』の光を放つ
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供養、恭敬、尊重、讃歎

~供養とは、プージャー pūjā の訳です。利供養・敬供養・行供養などがありますが、ここでの供養は、恭敬、尊重、讃歎です。恭敬とは、つつしんで敬うこと。尊重とは、相手を尊い者として認めて大切にすること。讃歎とは、徳をほめたたえることです。この言葉は、法華経の経文中によく出てきます。人と交流する際に、供養・恭敬・尊重・讃歎が必要だということでしょう。釈尊は、説法の時に相手の名を呼ぶことが多いのですが、これはインドの習慣で、相手を敬う行為だそうです。弟子たちも、釈尊を敬って、「世尊よ」などと呼びかけをします。
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大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念

~釈尊は、菩薩たちのために、無量義・教菩薩法・仏所護念という名の大乗経をお説きになられました。この無量義を「無量義経」だとする解釈が多いようです。それだから、無量義経は法華経の開経だというわけです。しかし、それを否定する見解もあります。無量義というのは、「無量の教え」のことであり、法華経以前の大乗の教えのことだと言うのです。教菩薩法とは、「菩薩のための教え」のことで、仏所護念は、「仏が護り念じている教え」のことです。法華経以前に説かれた「般若波羅蜜経」は、声聞を菩薩に育てる教えですので教菩薩法とは言い難いのですが、そう呼ぶに相応しい教えがあるのかもしれません。
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東方

東をサンスクリット語では、プゥールヴァ pūrva といいます。東以外にも「以前の」「昔の」などの意味もあります。よって、東方というのは、「過去」のことを表しているのでしょう。太陽は東から出るので東を過去とし、西に沈むので西を未来だとしたようです。西のことをプラチヤチ pratyac といい、未来の意味もあります。阿弥陀如来は西方の仏だといわれますから、未来仏なのでしょう。
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3
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 20:14:17

雑類衆

欲界衆・色界衆

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。復名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王あり。其の眷属万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子、其の眷属三万の天子と倶なり。娑婆世界の主梵天王・尸棄大梵・光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり。
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また、バラモン教の神々もいます。釈提桓因(しゃくだいかんにん・帝釈天たいしゃくてん のこと)や天上界の神々、四天王や娑婆世界を司る梵天(ぼんてん)の神々がいます。それらの神は、それぞれが何万人という多くの家来たちを引き連れています。
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天上界の神々たち

そこには、シャクラ神が、その眷属の二万人の天上界の神々の子と共に参列していました。また、チャンドラ天子、サマンタ・ガンダ天子、ラトナ・プラバ天子と四大天王も多くの眷属と共にいました。イーシュヴァラ天子、マハーシュヴァラ天子も多くの眷属と共にいました。娑婆世界の大神であるブラフマー神、シキン大梵、ジョーティシュ・プラバ大梵等もその眷属一万二千人の天子と共にいました。
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龍王衆

八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。各若干百千の眷属と倶なり。
:
:
八人のナーガ王も参列していました。ナンダ・ナーガ王。ウパナンダ・ナーガ王。サーガラ・ナーガ王。ヴァースキ・ナーガ王。タクシャカ・ナーガ王。アナヴァタプタ・ナーガ王。マナスビン・ナーガ王。ウトパラカ・ナーガ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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緊那羅王衆

四緊那羅王あり、法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のキンナラ王も参列していました。ダルマ・キンナラ王。スダルマ・キンナラ王。マハーダルマ・キンナラ王。ダルマダラ・キンナラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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乾闥婆王衆

四乾闥婆王あり、楽乾闥婆王・楽音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガンダルヴァ王も参列していました。マノージュニャ・ガンダルヴァ王。マノージュニャ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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阿修羅王衆

四阿修羅王あり、婆稚阿修羅王・佉羅騫陀阿修羅王・毘摩質多羅阿修羅王・羅睺阿修羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のアスラ王も参列していました。バリン・アスラ王。カラスカンダ・アスラ王。ヴェーマチトリン・アスラ王。ラーフ・アスラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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迦楼羅王衆

四迦楼羅王あり。大威徳迦楼羅王・大身迦楼羅王・大満迦楼羅王・如意迦楼羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガルダ王も参列していました。マハー・テージャス・ガルダ王。マハー・カーヤ・ガルダ王。マハー・プールナ・ガルダ王。マハルッディ・プラープタ・ガルダ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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人王衆

韋提希の子阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各仏足を礼し退いて一面に坐しぬ。

ヴァイデーヒーの子、アジャータシャトルも多くの眷属と共に参列していました。各々が仏の前に進み、ひざまついて、その足に頭をつけ、退いて座に戻りました。
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2
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 14:21:50

菩薩衆

菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提に於て退転せず。皆陀羅尼を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於て衆の徳本を植え、常に諸仏に称歎せらるることを為、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り名称普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
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代表的な菩薩の名を紹介。そしてそれら菩薩の徳分を讃歎

そして八万人にも達する菩薩たちも、座に連なっています。この菩薩たちはみな最高無上の悟りを目指す志を持ち、もはや善が悪に負けるような心身ではなく、人を正しく導く強い指導力(楽説弁才・ぎょうせつべんざい)を具えています。まるで車輪が回転し続けてどこまでも進んで行くように、仏の教えをあまねく説き弘めて行く努力を続けます。そして、自分の精進が後戻りするようなことなど決してありません。これらの菩薩たちは、これまでに数えきれないほど多くの仏を供養し、仏の悟りを得るための様々な善行を積み重ねています。ですから、仏から常に褒め讃えられている菩薩たちです。この菩薩たちは、まず人の幸せを願う「慈」の心を基本としており、全てのものの差別相(智)と平等相(慧)を見通す力を具えています。すでに迷いの世界を離れ、悟りの境地に達しています。ですからその素晴らしさと名声は、世界中にあまねく知れ渡たり、無数の衆生を救っている菩薩たちです。名前をあげますと、文殊(もんじゅ)菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩、勇施(ゆうぜ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩など、数多くの菩薩たちが列座しています。
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八万人の菩薩摩訶薩たちが共にいました。皆、最高の覚りを目指しており、その目的に向かって努力を続け、後戻りすることがありません。皆、ダーラニーを得ており、説法が巧みで、人々が修行から離れず、後退することのない教えを説いています。非常に多くの諸仏を敬い、諸仏に従って様々な善行を行い、常に諸仏に讃えられ、慈の心によって行動し、大いなる智慧に通達し、覚りに至り、その名は広く世間に知られ、多くの人々を救いました。この菩薩たちの名をあげましょう。文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩といいます。
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菩薩衆

文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)マンジュシリー
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)アヴァローキテーシュヴァラ
得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)マハー・スターマプラープタ
常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)ニティヨーディユクタ
不休息菩薩(ふくそくぼさつ)アニクシプタドゥラ
宝掌菩薩(ほうしょうぼさつ)ラトナ・パーニ
薬王菩薩(やくおうぼさつ)バイシャジャ・ラージャ
勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)プラダーナシューラ
宝月菩薩(ほうがつぼさつ)ラトナ・チャンドラ
月光菩薩(がっこうぼさつ)チャンドラ・プラバ
満月菩薩(まんがつぼさつ)プールナ・チャンドラ
大力菩薩(だいりきぼさつ)マハー・ヴィクラーミン
無量力菩薩(むりょうりきぼさつ)アナンタ・ヴィクラーミン
越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)トライローキア・ヴィクラーミン
跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)バドラパーラ
弥勒菩薩(みろくぼさつ)マイトレーヤ
宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)
導師菩薩(どうしぼさつ)

 

1
ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 23:10:24

声聞

是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に尽くして復煩悩なく、己利を逮得し諸の有結を尽くして、心自在を得たり。其の名を阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅という。是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。復学無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅睺羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。
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霊鷲山の釈尊のもとへ八万人の菩薩、バラモン教や古代の神々らが集う

私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の霊鷲山(りょうじゅせん)にいらっしゃった時のことです。釈尊のまわりには教えを聞くために、1万2千人にも及ぶ大勢の出家修行者たちが集まっていました。この人たちはみな、迷いを除き尽くした尊い境地に達している人たちです。煩悩を断ち切っており、自行を尽くした結果、人格の完成を果たしています。そして様々な現象にとらわれる心がなく、物事から超越しており、自由自在な心境を得ている人たちです。その人たちの名前をあげると、憍陳如(きょうじんにょ)、摩訶迦葉(まかかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もっけんれん・目連もくれん)、富楼那(ふるな)、阿難(あなん)、羅睺羅(らごら)などの大阿羅漢(だい あらかん)たちです。また、すでに学び尽して、もはや学ぶことがない人や、まだ学びの最中にあるお弟子たちが2千人もいます。そしてその中には、釈尊の養母である摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだい びくに)が6千人の同信者を引き連れており、羅睺羅(らごら)の母親である耶輸陀羅比丘尼(やしゅだら びくに)も、同信者たちを引き連れて列座しています。
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このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハのグリドラクータ山に住み、高位の男性出家修行者が一万二千人集っていました。この人々は、皆、聖者の悟りの位である阿羅漢たちです。様々な欲望をすでに滅し尽くしており、煩悩はなく、自分の利益を得て、現象にとらわれることがなく、心は自在を得ています。この阿羅漢たちの名をあげましょう。阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅といいます。多くの人々に、善き影響を与えている大いなる阿羅漢たちです。また、学習中の弟子や学習を終えた弟子たちが二千人います。釈尊の育ての母であるマハー・プラジャーパティーが眷属六千人と共におり、釈尊の元妻であり、ラーフラの母であるヤショーダラーも多くの眷属と共にいます。
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声聞衆

阿若喬陳如(あにゃきょうぢんにょ)アージュニャータ・カウンディヌヤ
摩訶迦葉(まかかしょう)マハー・カーシャパ
優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)ウルヴィルヴァー・カーシャパ
伽耶迦葉(がやかしょう)ガヤー・カーシャパ
那提迦葉(なだいかしょう)ナディー・カーシャパ
舎利弗(しゃりほつ)シャーリプトラ
大目健連(だいもつけんれん)マハー・マゥドガリヤーヤナ
摩訶迦旃延(まかかせんねん)マハー・カートゥヤーヤナ
阿㝹樓馱(あぬるだ)アニルッダ
劫賓那(こうひんな)カッピナ
喬梵波提(きょうぼんはだい)ガヴァーン・パティ
離婆多(りはた)レーヴァタ
畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)ピリンダ・ヴァトサ
薄拘羅(はくら)バックラ
摩訶拘チ羅(まかくちら)マハー・カウシュティラ
難陀(なんだ)マハー・ナンダ
孫陀羅難陀(そんだらなんだ)スンダラ・ナンダ
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)プールナ・マイトラーヤニープトラ
須菩提(しゅぼだい)スブーティ
阿難(あなん)アーナンダ
羅侯羅(らごら)ラーフラ

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67
ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 12:24:43 >> 30

無量義の教えを讃嘆する

爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、復仏に白して言さく。世尊、世尊是の微妙甚深無上大乗無量義経を説きたもう。真実甚深甚深甚深なり。

『無量義の教え』を聞いて心から感動した大荘厳菩薩は、仏さまに感激と御礼を申し上げます。「世尊。よくぞこの奥深い大乗の教えである『無量義経』をお説きくださいました。この教えは誠に絶対真実の教えであり、この上もなく尊く、深遠な教えであります。
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所利益の人を挙げて、能利益の経を讃嘆する

所以は何ん、此の衆の中に於て、諸の菩薩摩訶薩及び諸の四衆・天・龍・鬼神・国王・臣民・諸有の衆生、是の甚深無上大乗無量義経を聞いて、陀羅尼門・三法・四果・菩提の心を獲得せざることなし。当に知るべし、此の法は文理真正なり、尊にして過上なし。三世諸仏の守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなし。一切の邪見生死に壊敗せられず。所以は何ん、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に。

なぜならば、この法を聴聞した出家・在家の修行者をはじめ鬼神、国王やその家来、一般の人々、そして菩薩に至る全ての者たちは、極めて高い信仰の境地を得ることができました。そして、無上の悟りを求める心を起こさない者は一人としていませんでした。この教えは真実であって正しく、これ以上尊いものは他にはありません。そして、過去・現在・未来の三世の諸仏がお守りくださるものであります。そしてどんな妨害や間違った考え、その他の様々な教えも、この教えを侵すことはできません。この教えは一切の誤った考えや、人生途上におけるどんな『出来事』、この世の一切の『変化』にも動揺し、打ち負かされることはありません。なぜなら、この教えをひとたび聞けば、この世のすべての出来事・ありようが完璧に分かり、どんな場合にも正しく対応することがでるようになるからです。
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得分の益を挙げて、未聞の失を示す

若し衆生あって是の経を聞くことを得るは、則ち為れ大利なり。所以は何ん、若し能く修行すれば必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。其れ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失えるなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に。

この教えを聞けば、即座に大きな功徳を得ることができ、教え通り修行すれば、真っすぐに仏の悟りを得ること出来るようになります。反対にこの教えを聞くことが出来ないと、大きな利益を失うことになります。その人は無限の時間をかけても、ついに仏の悟りを得ることは出来ません。そればかりか、人生の大きなまわり道をすることになり、険しい苦難の道をさまようことになります。
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菩薩の発問

世尊、是の経典は不可思議なり。唯願わくは世尊、広く大衆の為に慈哀して是の経の甚深不思議の事を敷演したまえ。世尊、是の経典は何れの所よりか来たり、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住する。乃ち是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしめたもうや。

ですから世尊よ、どうか私たちを憐れとお考えくださり、この奥深い教えが広く人々のなかに留まるよう、この教えの『実践』の面から具体的にお教え下さい。世尊。お伺いしたいことがあります。この教えは一体『どこから来たもの』であり、そして『どこへ向かうための教え』、『何を目的とした教え』でしょうか? また、この教えは『どこに留まるもの』であり、『どのような者が教え理解できるのか』。この三つのことをお教えください。このことを理解できれば、この教えの功徳がどれほど優れているのかが分かりますので、人々は真っ直ぐに最高の悟りを得ることができることでしょう。
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66
ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 23:54:34 >> 26

六波羅蜜

菩薩の弟子たちには、六波羅蜜を説いて、智慧の完成へと導きました。智慧を完成させれば成仏できますので、仏は菩薩を成仏へと導いたわけです。菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳で、「覚り+人」という意味です。「覚ることが決定している人」「覚りを目指す人」「覚りへと導く人」などの意味があります。法華経には、二種類の菩薩が登場します。三乗の菩薩と一乗の菩薩です。三乗の菩薩とは、菩薩ではあるけれど慈悲と智慧が足りないために、声聞衆と争う者たちです。声聞たちは、自分たちの成長のことしか考えていないので劣った修行者だと攻撃しました。一乗の菩薩は、声聞・縁覚・菩薩という区別をせず、また争いをしません。無分別であり、無諍です。

菩薩には、六波羅蜜の修行を勧めました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という修行です。布施とは、与えること・分かち合うことです。持戒とは、戒を守ることです。忍辱とは、感情をコントロールすることです。精進とは、布施・持戒・忍辱の行を繰り返し続けることです。禅定とは、精神を統一し集中して、布施・持戒・忍辱・精進している日々を振り返ることです。智慧とは、禅定によって妄想から離れ、深く思惟し、観察して、気づき・察し・閃き・覚ることです。波羅蜜とは、「完成」のことです。布施を行い、そのことを思惟・観察することによって智慧を得ることによって、布施は完成します。これを布施波羅蜜といいます。最終的には、智慧を完成させ、智慧波羅蜜を得ることが六波羅蜜の目標です。智慧波羅蜜とは、般若波羅蜜のことですから、般若経の大きなテーマになっています。

声聞の修行とされる八正道との大きな違いは、六波羅蜜には布施があることです。自他を分別せずに、無分別の境地に入るには、慈悲の心が必要であり、慈悲を行動に表すのが布施だからです。持戒は、初期仏教の時代から重視される行です。在家であっても、五戒を守る必要があります。五戒とは、生き物を殺さないこと・盗まないこと・邪な性行為をしないこと・嘘をつかないこと・お酒を飲まないことです。仏教教団においては、入団する時に三帰五戒を誓います。仏法僧に帰依し、五戒を守ることを長老たちの前で誓い、その誓いが認められた者が仏弟子になります。ところが、日本の仏教界ではこの入団の誓いをしていないところが多いため、五戒を守ろうという意識が欠けています。特に禁酒に関しては、無視されています。僧侶でもお酒を飲み、美味しい肉を食べ、異性と共にする人が多いのではないでしょうか。忍辱とは、感情のコントロールのことです。怒り・悲しみ・憎しみ・嫉妬・悦びなどの感情に心が支配されることなく、平常心を保ちます。

仏の教えとは、「諸々の悪いことをせず、諸々の善いことをし、心を浄めること」だといいます。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」です。布施は、「諸々の善いことをし」であり、持戒は、「諸々の悪いことをせず」であり、忍辱は、「心を浄めること」に当たります。よって、この三つの行は重要なので、禅定や智慧が分からなくても続ける方がいいです。

65
ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 00:17:11 修正 >> 26

四諦・十二因縁・六波羅蜜

仏は、声聞の弟子たちには四諦を説き、縁覚の弟子たちには十二因縁を説き、菩薩の弟子たちには六波羅蜜を説いたといいます。
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四諦・八正道

声聞の弟子たちには、四諦の法門を説いて聖者の位へと導きました。声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の訳で、「教えを聞く者」という意味です。釈尊の時代は、仏教徒は誰もが釈尊の教えを聞いて学んでいましたから、誰もが声聞と呼ばれていましたが、部派仏教の時代になると出家修行者の中の聞解する弟子たちのことを指すようになりました。四諦とは、四つの真理のことで、「苦についての真理」「苦の原因についての真理」「苦を滅した境地についての真理」「苦を滅する道についての真理」のことをいいます。苦諦・集諦・滅諦・道諦です。

人生は苦であるととらえることが苦諦です。それでは、苦の原因とは何でしょうか? それは、渇愛であり、執着であり、根本的には無知なことだといわれます。渇愛とは、喉が渇いて水を欲するような欲求のことです。必要なものを必要な時に必要なだけ受けるのであればいいのですが、度を越して必要以上のものを手に入れようとするから、それが手に入らず苦しみます。欲しいものに執着すると、平常心ではおれず、心が乱れ、盗んだり、相手を騙したり、傷つけることもあります。そういう状態は苦です。根本的な原因は無知です。真理を知らないから、無我なのに自我を認めて自己主義になり、自己中心なので迷惑な存在となって孤立し、苦を感じます。無常なのに変化することを受け入れられずに、決めつけ、こだわり、固定的な概念に執着し、頑固になり、まわりとの調和がとれずに苦になります。俗世界は、因縁によって生じ、滅しますので、個人の力ではコントロールできません。コントロールできないのに、思い通りにしようとするから、苦を感じます。苦の原因を知ったならば、それを滅すれば、苦を滅することができると分かります。そして、具体的に苦の原因を滅する修行が道諦です。

衆生は苦しみもがいていますので、人生は苦であると説き、苦の原因は真理を知らないからであると説き、真理を知れば苦を滅することが出来ると説き、真理を知りたければ八正道を修めなさいと説きました。ようするに四諦は、八正道に導く方便です。八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことで、最初の正見を得るための修行です。身口意の三業を正しく調え、正しく生活し、正しく続け、正しく気づき、正しい禅定を行うことによって、正しい見方を得ます。四諦・八正道は、声聞への教えです。つまり出家修行者への教えですから、一般人への教えではありません。よって、よく学び、実践しなければ、真理を得ることはできません。
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十二因縁

縁覚の弟子たちには、十二因縁の法門を説いて、辟支仏(びゃくしぶつ)へと導きました。縁覚とは、プラトイェカブッダ pratyekabuddha の訳であり、「師の指導を受けずに独自に覚りを開いた人」のことです。出家して声聞になった弟子は、ある程度師の教えを聞いて修行をし、修行を積んだ者は、僧伽(さんが)を離れて孤立し、人里離れた山奥に住んで、独りで覚りを求めました。独りで覚りを求めるので、「独覚」ともいいます。禅定に入り、思惟することによって覚りを目指しました。思惟した内容は、主に十二因縁でした。十二因縁については、以前にも説明しましたが、再び詳しく説明いたします。

十二因縁とは、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」という苦の原因のことです。通常は、老死の後に、「憂悲苦悩」という言葉が入ります。つまり、憂悲苦悩の原因は、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死のそれぞれであり、また連鎖縁起によるものという教えです。

苦の原因を思惟する時は、「憂悲苦悩の原因は老死にある」と観ます。老死は、自分の思い通りにはなりませんので、それに抵抗すれば苦になります。「老死の原因は生まれることにある」「生まれることの原因は生存にある」「生存の原因は渇愛と執着にある」「渇愛と執着の原因は感受にある」「感受の原因は自他の接触にある」「接触の原因は六つの感覚器官にある」「六つの感覚器官の原因は心と体にある」「心と体の原因は識別にある」「識別の原因は誤った意志にある」「誤った意志は真理を知らないことにある」というように、連鎖縁起を逆にたどっていきます。そうすることで、苦の根本原因が真理を知らないこと、すなわち無明であると覚ることができます。このことは、実際に禅定に入り、思惟しなければ分かりません。

妙法蓮華経化城喩品第七には、次のように説かれています。

広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死憂悲苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。

仏は、広く十二因縁の教えを説かれました。無知を原因として誤った意志があり、誤った意志を原因として分別があり、分別を原因として心と体という区別があり、心と体の区別を原因として六つの感覚器官の区別があり、六つの感覚器官の区別を原因として自他の接触があり、自他の接触を原因として感受があり、感受を原因として渇愛があり、渇愛を原因として執着があり、執着を原因として生存があり、生存を原因として生があり、生を原因として老死・憂悲苦悩があります。無知を滅すれば誤った意志は滅し、誤った意志を滅すれば分別は滅し、分別を滅すれば心と体という区別は滅し、心と体という区別を滅すれば六つの感覚器官の区別が滅し、六つの感覚器官の区別を滅すれば自他の接触が滅し、自他の接触を滅すれば感受が滅し、感受を滅すれば渇愛が滅し、渇愛を滅すれば執着が滅し、執着を滅すれば生存が滅し、生存を滅すれば生が滅し、生を滅すれば老死・憂悲苦悩が滅します。

「無明は行に縁たり」という場合の縁とは、因に対する縁、すなわち直接的原因に対する間接的原因という意味ではなく、単に「原因」という意味です。縁は、プラティヤヤ pratyaya の訳であり、この言葉には、「原因」という意味がありますから、「無明を原因として行がある」という意味になります。

無明とは、真理を知らないことです。真理については、言語道断なので説かれていませんが、俗諦でいうところの無我・無常・空・無相・無分別などの言葉によって導かれる内容であることは間違いありません。特に問題になるのが無分別です。この世界は本来一つですが、真理を知らなければ世界をバラバラに分け、一つ一つに名をつけ、実体があるかのようにとらえます。「これは何ですか?」と問われれば、「これはリンゴです」と名前を答えて、さもそのものの実体を答えた気に成ります。ものには、名前などありません。人類が便宜上そのように名付けているだけです。般若経には、「リンゴはリンゴではない。故にリンゴという」というような言葉が繰り返しでてきます。「菩薩は菩薩ではない。故に菩薩という」「仏は仏ではない。故に仏という」というように。初めてこの文章を読むと意味不明です。論理的ではないように思えます。これらは、「リンゴにはリンゴという名はない。固定した名がないので、仮にリンゴという名をつけることができる」という意味です。すべての名は、仮であることを知らなければなりません。

分別によって、自他を分け、個々を分けて、分けたものには名前をつけてきました。心と体、六つの感覚器官というように。このことで自我意識が強くなり、自分が他と接触して、心地よければ近づき、心地よくなければ避けるという差別を起こし、それが欲求となり、欲求に執着します。こうして、欲しいものを手に入れ、嫌なものを遠ざけて、自我はさらに強くなり、生存することに成ります。生存するものは、瞬瞬に生住異滅をくりかえします。つまり、生まれ、維持し、老い、死んでいきます。こうして苦を感じ続けることになります。

十二因縁は、此縁性が基本にあります。「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す」というものです。本来は、時間経過については問題にしていませんでしたが、部派仏教の時代になって、時間経過を重要視し、業報の思想と結びついて輪廻説を強く支持するようになりました。

64
ダルマ太郎 2024/04/04 (木) 01:37:04 修正 >> 24

秘密

仏教用語の「秘密」は、サンスクリットのラハシャ rahasya の中国語訳です。秘密・神秘・難解などの意味があります。日本語の秘密とは違い、深い洞察がなければ、あるいは特別な指導や伝授がなければ、すぐには理解できない教えのことです。よって教える人の智力・方便力と教わる人の智力・高い機根がなければ教えの内容はうまく伝わりません。インドの真理は、言語道断・不可思議だといわれます。言語では表すことができないし、思惟することもできないのです。よって真理を覚ろうとする修行者は、ヨーガによって、苦行によって、目的を得ようとしました。
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真理

インドにおける真理とは、梵我一如のことをいいます。宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個の原理であるアートマン(我)は、離れてはおらず一体だと覚ることが重視されました。ブラフマンを観ることは非常に困難ですが、アートマンであれば自身にもありますから、修行者はアートマンを観る瞑想を実践しました。しかし、アートマンを観ることも困難でした。なぜなら、アートマンは、個の原理であり、個の主体であり、個の実体だからです。究極的な主体であるアートマンは客体にはなりませんので、見られたり、認識される側にはなりません。アートマンを探して見つけたと思った瞬間、それは主体へと転じますから、凡夫には永遠に観察は難しいでしょう。客体にはならないので、言葉では表せないし、思惟の対象にもなりません。アートマンとは、仮の名称なので、アートマンという名だけでは何も分かりません。

釈尊は、菩提樹の下で真理を観て、最高の覚りを得ました。アートマンの正体を見極めた釈尊は、「無我」を説きました。無我は、アナートマン anātman の中国語訳で、「アートマンの否定」という意味です。接頭辞の「アン an- 」は、後に続く語を否定します。中国では、無・非・不などと訳されます。よって、無我・非我・不我は同じ意味です。当時の修行は、アートマン探求が目的だったので、釈尊の無我説は衝撃的であり、あまり受け入れられなかったようです。無我が、アートマンの全否定なのか、アートマンへの執着の否定なのか、それはアートマンではない、という意味なのかは分かりません。
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方便

真理は、言葉では伝えることができませんが、言葉によって真理へと近づけることができると、釈尊は覚りました。釈尊にとっての第一の覚りが真理であり、第二の覚りが方便です。方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。意味は、「近づける」であり、仏教では、「真理に近づける方法」の意味で使われます。法華経の方便品第二には、次のように説かれています。

諸仏の随宜の説法は意趣解し難し。所以は何ん、我無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみましまして、乃し能く之を知しめせり。

諸仏の相手に応じて説く教えは、その内容が理解し難いのです。なぜなら、私は、無数の方便、種種の因縁(関係)、譬喩(たとえ)、言辞(語源)によって諸法を演説しています。この法は、思惟・分析によって理解できるものではありません。ただ諸仏だけが、よくこれを知っているのです。

ここでの法は真理のことです。諸仏は、真理へと導くために方便を用いました。それは、因縁・譬喩・言辞によるものです。因縁とは、関係のことです。仏と弟子、弟子同士などの関係を語ることによって、その体験から真理へと導きます。譬喩とは、比喩のことです。物事の説明を印象強くするために、他の類似した物事を借りて表現することです。妙法蓮華経の蓮華とは、白蓮華のことですが、白蓮華は、清浄で美しく尊いもののシンボルなので、妙法(最高の真理)の譬喩として用いられています。言辞とは、語源のことです。言葉の持つ意味は、その語源に込められていますので、語源を伝えることによって真理へと導きます。しかし、漢訳された経典だと語源を探ることは難しいです。サンスクリットの場合は、読めばそれが語源だと分かりますが、漢訳だと分かりません。やはり翻訳だと限界があります。

釈尊が、真理に導くために巧みな方便によって説法をしても、衆生の機根が低く、真理を求める心が足りなければ、衆生は真理を知ることはできません。最高のご馳走でも、口を開けて食べようとしなければ食べられないのと同じです。衆生は、煩悩が強いので智慧を覆い隠してしまい、教えを秘密にしてしまいます。衆生の機根が高まり、真理探究の心が強まれば、繰り返し聞いてきた説法の意味が分かり、閃きが起こって真理への扉が開くのでしょうが、そうなるまで仏は衆生を育てる必要があるのでしょう。
:
:
二諦 俗諦と真諦

釈尊は、覚りをひらいた後、「無我」を説かれました。無我というのは方便です。無我という言葉によって、機根の高い者を真理へと導かれようとされたのでしょう。真理には二種があります。一つは俗諦であり、一つは真諦です。俗諦とは、世俗の真理のことで、世間の言葉によって表現される真理です。真諦とは、言葉を超えた真理であり、言語道断・不可思議の真理です。真諦は、最高の真理であり、妙法蓮華経でいう「妙法」のことです。勝義諦・第一義諦などともいいます。法華経や無量義経は、妙法についての経典なので、非常にレベルが高いです。決して分かりやすい教えではありません。

仏が説きたいのは真諦ですが、真諦は俗世の言葉では説くことができませんから、俗諦を説いて衆生を真諦へと導いていました。たとえば、無我という俗世の言葉を使って、人々を妙法へと導きました。よって修行者は、無我を月をさす指だととらえて、その指がさす月を見ればいいのです。ところが、凡夫は指に執着してしまって月を見ようとはしません。自分で目を覆い、月を秘密にしてしまいます。釈尊は、四十余年の間、方便によって説法を続けてこられましたが、未だに真理を得た者はいません。それは、釈尊に咎があるわけではなく、衆生の機根が育っていなかったからです。

63
ダルマ太郎 2024/04/03 (水) 16:50:43 修正 >> 23

:
所詮(しょせん)(たん)
:
:
経:善男子、菩薩()()く是の如く一切の法門無量義を修せん者、必ず()阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得ん。
:
R訳:菩薩よ。いま説いた教えをしっかりと把握して、一人ひとりの機根・性質・欲望に応じて法を説き分けるならば、それだけであなたは必ず最高無上の悟りに達することができましょう。
:
太郎訳:善男子よ。菩薩がもしこの無量義を修めたならば、必ずや速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することでしょう。
:
:
能詮(のうせん)
:
経:善男子、是の如き甚深(じんじん)無上大乗無量義経は、文理真正(もんりしんしょう)に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道(しゅまぐんどう)、得入することあることなく、一切の邪見生死(じゃけんしょうじ)壊敗(えはい)せられず。
:
R訳:この奥深い『無量義の教え』は最高の教えであり、これよりも正しい、尊い教えは他にはありません。ですからこの教えを受持(じゅじ)する者は、過去・現在・未来においてすべての諸仏が必ず守護してくださるのです。菩薩よ。この教えを実践している限り、その人の精進(しょうじん)に対して妨害・邪魔・邪見が入り込む隙はありません。またその人が、どんな『変化』に遭遇しても、くじけて敗れることなどありません。
:
太郎訳:善男子よ。この奥深く無上の大乗無量義経は、説かれた言葉と表現された内容が真実であり、尊く、過去・現在・未来の諸仏が共に守護しています。いかなる邪魔者も他の教えも入り込むことがなく、一切の邪な見方、変化に敗れることがありません。
:
:
勧学(かんがく)
:
経:是の故に善男子、菩薩摩訶薩若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、応当に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学(しゅがく)すべし。
:
R訳:ですから、菩薩の皆さんが『悟り』を得ようと思うならば、必ずこの『無量義の教え』を修めなければなりません。
:
R訳:このことから善男子よ。菩薩がもし速やかに無上の覚りを完成させようとするのなら、この奥深く無上の大乗無量義経を修学してください。
:
:
所詮を歎ず
:
:

62
ダルマ太郎 2024/04/02 (火) 15:10:29 >> 21

輪廻は有るのか?

釈尊が、死後の世界をどのように説かれていたのかは分かりません。経典を読めば、悪業を重ねていると死後に地獄・餓鬼・畜生の世界に趣くと説かれていますが、それは事実を説いているのか、方便なのかが分からないのです。死後の世界は未知ですから、誰も知る者はいません。釈尊でさえも、死後の世界についての事実は分からないでしょう。謎の世界です。仏は、神通力を持っており、凡夫が知り得ない死後の世界のことも把握しているという方もいますが、本当に神通力を使えたのかは不明です。

仏は、相手に応じて教えを説きます。当時のインドの人々は、業報による輪廻を信じていましたから、仏はそれを否定せずに受け入れて輪廻を説いていたのかも知れません。悪いことをすれば地獄に堕ちるという話をすれば、人々は道徳・倫理を護って人の道を行くでしょうから。しかし、仏教徒として修行を続けている人たちには、輪廻を否定しているようです。何にせよ、存在を肯定すれば執着につながりますから、そうならないように輪廻はない、と説いています。たとえば、サンスクリットの法華経の如来寿量品には、「輪廻はない」(アサンサーラasaṃsāra) と説かれています。なぜか鳩摩羅什訳の妙法蓮華経にはこの経文はありません。

さらに修行を積んだ人には、「輪廻は想いの中にあるけれど、事実としては存在しない」と教えます。仮には有るけれど実体としては無いのです。そして、最終的には、「非有非無の中道」を説きます。「有ることの否定、無いことの否定という中道」です。輪廻が有るということを否定し、輪廻が無いことを否定して、有無両辺への執着から離れさせるのです。無執着へと導く仏教においては、死後の世界・輪廻は、思惟の対象にはならないということでしょう。

輪廻肯定派は、断固として輪廻が有ると主張します。輪廻が無いと都合が悪いのでしょうか? 執着すれば、無分別の境地には入れませんから、修行の妨げになると思うのですが。輪廻するのなら、何が輪廻するのでしょうか? 仏教では、無我を説いていて、個の主体・本体・実体は否定されています。我が無いのに何が輪廻するというのでしょうか? Rの会では、魂が輪廻すると教えているようですが、それだとヒンドゥー教的な思想ですから、仏教とは言い難いです。

61
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 11:01:51 >> 17

果徳

是の故に今自在の力を得て
法に於て自在に法王と為りたまえり
我復咸く共倶に稽首して
能く諸の勤め難きを勤めたまえるに
帰依したてまつる

この様な理由から
今、自在の力を得て
教えにおいて自在にして
法の王となられました
私たちは また ことごとく
皆ともに頭を深く下げ
よく諸々の勤め難くを勤められた
そのご努力に心から帰依いたします

60
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 11:00:43 >> 17

別して六波羅蜜を歎ず

能く一切の諸の捨て難き
財宝妻子及び国城を捨てて
法の内外に於て悋む所なく
頭目髄脳悉く人に施せり
諸仏の清浄の禁を奉持して
乃至命を失えども毀傷したまわず
若し人刀杖をもって来って害を加え
悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず
劫を歴て身を挫けども惓惰したまわず
昼夜に心を摂めて常に禅にあり
遍く一切の衆の道法を学して
智慧深く衆生の根に入りたまえり

とても捨てがたい様々な
財宝 妻子 国城を捨てて
それらの物質的な物
外面的なものだけではなく
内面的な執着も
惜しむことなく捨て去りました
その頭脳によって悟られたこと
目で正しくとらえられた世界は
すべて他者に施され
諸仏によって唱えられました
清浄なる戒律を大切に保たれて
命にかけても破られる事はありませんでした
もし 人が刀や杖を持って現われて
振りまわし危害を加えようとしても
悪口を言い 激しく罵っても
一度たりとも
お怒りになることはありませんでした
非常に長い年月
修行を続けられても怠けることはなく
昼も夜も心を穏やかにして乱れる事がなく
この世の一切の修行の道
教えを学んでおり
智慧が深く
人々の機根を見通されています

 

59
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 10:57:59 >> 17

仏徳歎

総じて因行を歎ず

世尊往昔の無量劫に
勤苦に衆の徳行を修習して
我人天龍神王の為にし
普く一切の諸の衆生に及ぼしたまえり

世尊は はるかなる昔より
非常に苦労をされ
数々の徳行を修められました
ご自分のためだけではなく
人や天の神々のために
様々な魔神たちのためにされ
その功徳は 広く人々に及ぼしました

58
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:41:38 >> 17

所説の法輪 2

仏さまのみ教えを聞くことによって
声聞の弟子たちは
まずは 思想の迷いを捨てて
須陀洹の位に入り
次には 貪 瞋 癡の
三毒を捨てて 斯陀含の位に進み
次には 色欲 貪欲 財欲などの
欲を捨てて 阿那含の位になり
最後には 煩悩を捨てて
阿羅漢の果を得ることができます
または 煩悩なく 執着のない
縁覚の境地に入り
または 無分別の菩薩の果を
得ることができます
あるいは 多くの善をすすめ悪をとどめる言葉や
障害を乗り越えて 自由自在に
すすんで説法をする大いなる説得力を得て
非常に奥深く 極めて優れた詩を説き
修行を自由自在に行って
法の清らかな水路で洗い清め
または 身を躍らせて
空を飛びまわる様な神の足を現じ
水中 火中に出入りしても
自由な身体を持てるようになります
如来の教えは 以上の様に清浄無辺にして
人々の考えの域をはるかに超えています
私たちは また共に深く頭を下げ
時に応じて説法をされる
その教えに帰依いたします
深く頭を下げ
清きお声に帰依いたします
深く頭を下げ
十二因縁 四諦の法門 六波羅蜜の
教えに帰依いたします

57
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:40:01 >> 17

所説の法輪

心から礼をなし
素晴らしいお姿に帰依いたします
心から礼をなし
非常に深いお智慧に帰依いたします
仏さまのお声は 雷が鳴り響くように
多くの人々に広まります
そのお声による教えは
誰もが好きになれる声であり
柔らかく 違和感がなく 智慧があり
納得ができ 正しく 奥深く 尽きることがなく
他と比べることのない程に優れ
清浄で 非常に奥深い趣があります
四諦 六波羅蜜 十二因縁など
人々の心と行いに応じて
教えを説かれます
もし この教えを聞くことができれば
心から執着が除かれ
多くの変化へのとらわれから
離れることができます

56
ダルマ太郎 2024/03/31 (日) 01:21:15 >> 17

所説の法輪

稽首して妙種相に帰依したてまつる
稽首して難思議に帰依したてまつる
梵音雷震のごとく響八種あり
微妙清浄にして甚だ深遠なり
四諦・六度・十二縁
衆生の心業に随順して転じたもう
若し聞くことあるは意開けて
無量生死の衆結断せざることなし
聞くことあるは或は須陀洹
斯陀・阿那・阿羅漢
無漏無為の縁覚処
無生無滅の菩薩地を得
或は無量の陀羅尼
無碍の楽説大弁才を得て
甚深微妙の偈を演説し
遊戯して法の清渠に澡浴し
或は躍り飛騰して神足を現じ
水火に出没して身自由なり
如来の法輪相是の如し
清浄無辺にして思議し難し
我等咸く復共に稽首して
法輪転じたもうに時を以てするに帰命したてまつる
稽首して梵音声に帰依したてまつる
稽首して縁・諦・度に帰依したてまつる

55
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 12:50:19 >> 17

有相の諸相好をのこって諸相好を示現する

而も実には相非相の色なし
一切の有相眼の対絶せり
無相の相にして有相の身なり
衆生身相の相も亦然なり

このように特徴のある姿をされていますが
実際には 相があるとかないということを
超越された方であり
すべての相は 見たままではありません
真実としては 相はありませんが
人々のために 相を持って現れられました
人々の相も またその通りです

相の用

能く衆生をして歓喜し礼して
心を投じ敬を表して慇懃なることを成ぜしむ
是れ自高我慢の除こるに因って
是の如き妙色の躯を成就したまえり

人々は そのような仏さまの相をみて
喜び 礼拝をなして
心から帰依をし 敬意を表して
真心を込めるようになります
仏は 驕り高ぶりを捨てることによって
このような素晴らしい相を得られました

能敬所敬の無著

今我等八万の衆
倶に皆稽首して咸く
善く思相心意識を滅したまえる
象馬調御無著の聖に帰命したてまつる

今 私たち八万の衆は
ともに皆 深く敬意を表しています
あらゆる思想や執着心 意識を滅せられ
象や馬をうまく調教するように
人々の心を善に導かれる
執着のない聖なるお方に帰依いたします

能説の教生

稽首して法色身
戒・定・慧・解・知見聚に帰依したてまつる

心から礼をなし
法身としても 色身としても
戒律・禅定・智慧・解脱
解脱知見を成しとげられたことに
帰依いたします

54
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 12:24:57 >> 17

三十二相に約して内証身を歎ず

示して丈六紫金の暉を為し
方整照曜として甚だ明徹なり
毫相月のごとく旋り項に日の光あり
旋髪紺青にして頂に肉髻あり
浄眼明鏡のごとく上下に眴ぎ
眉 紺舒に方しき口頬なり
唇舌赤好にして丹華の若く
白歯の四十なる猶お珂雪のごとし
額広く鼻修く面門開け
胸に万字を表して師子の臆なり
手足柔軟にして千輻を具え
腋掌合縵あって内外に握れり
臂修肘長に指直く繊し
皮膚細軟にして毛右に旋れり
踝膝露現し陰馬蔵にして
細筋鎖骨鹿膊脹なり
表裏映徹し浄くして垢なし
濁水も染むるなく塵を受けず
是の如き等の相三十二あり
八十種好見るべきに似たり

身の丈は一丈六尺、体全体から紫金の輝きを放つなど三十二の徳相を具えています。前から、後ろから拝しても透き通るお姿で、泥水に染まることなく、たとえ塵が降りかかってもそれで身を汚すことはありません。仏はこうした三十二の徳相と共に、八十の優れた相(八十種好)を具えています。

53
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 08:35:29 修正 >> 17

修徳の三身

戒・定・慧・解・知見より生じ
三昧・六通・道品より発し
慈悲・十力・無畏より起り
衆生善業の因縁より出でたり

持戒・禅定・智慧・解脱・解脱知見より生じ
精神集中・六つの超自然的な力・三十七の修行法より発し
慈悲・仏が持つ十種の智力・畏れない態度から起こり
衆生の善業の 因縁より出ます

三学・五分法身

戒・禅定・智慧を修めることを「三学」といいます。仏道修行者が修めるべき基本的な修行項目のことです。また、三学に解脱・解脱知見を合わせて「五分法身」といいます。五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のことです。

戒(かい)
シーラ śīla
自分自身をコントロールする内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒といいます。

禅定(ぜんじょう)
ディヤーナ dhyāna
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させることです。

智慧(ちえ)
プラジュニャー prajñā
諸法実相を観察することによって、体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智といいます。

解脱(げだつ)
ヴィモークシャ vimokṣa
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱することです。

解脱知見(げだつちけん)
ヴィムクティ・ジュニャーナ・ダルシャナ vimukti-jñāna-darśana
解脱していることを自分自身で認識していること。

51
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 01:40:39 修正 >> 15

内証身(内密の身)…法身仏

其の身は有に非ず亦無に非ず
因に非ず縁に非ず自他に非ず
方に非ず円に非ず短長に非ず
出に非ず没に非ず生滅に非ず
造に非ず起に非ず為作に非ず
坐に非ず臥に非ず行住に非ず
動に非ず転に非ず閑静に非ず
進に非ず退に非ず安危に非ず
是に非ず非に非ず得失に非ず
彼に非ず此に非ず去来に非ず
青に非ず黄に非ず赤白に非ず
紅に非ず紫種々の色に非ず

その身体は
有ではなく 無ではなく
因ではなく 縁ではなく
自でも 他でもなく
四角ではなく 円ではなく
短くも 長くもなく
出ではなく 没ではなく
生まれるのでも
滅するのでもありません
造られたのではなく
起こったのではなく
為すのでもなく
作るのでもありません
坐っているのではなく
寝ているのではなく
行くのでも
止まるのでもありません
動くのではなく 転がるのではなく
動きが止まっているのではなく
進むのではなく 退くのではなく
安全でも 危険でもありません
肯定ではなく 否定ではなく
得でも 損でもありません
あちら側はなく こちら側はなく
去るのではなく 来るのでもなく
青ではなく 黄ではなく
赤でもなく 白でもなく
紅ではなく 紫やその他の色でもありません

仏の存在は、有るとか無いとか世間的な考え方で推し量ることはできず、形や色を以って示すことができません。まさに、法身・報身・応身の三身一体となった常住不変の存在です。

徳行品では、仏を讃嘆するとき、まず法身仏としての仏を讃えています。法身仏とは、真理(法)を体とする仏のことです。法華経の時代は、法身仏と応身仏という二身仏が説かれていました。真理と現象のことです。現象は真理によってあり、真理は現象によってありますから、その二つはコインの裏表のように一体です。真理が事象として現れたものが応身です。または化身ともいいます。よって、肉体を持って生まれた釈尊は応身仏です。法華経では、法身仏と応身仏のことが説かれており、無量義経においても法身仏と応身仏のことが説かれていますので、法身仏について学ぶことは必要です。避けて通れば法華経・無量義経から離れてしまいます。非常に難しい内容なので省略したのでしょうが、妙法を学ぶためには、法身仏は把握しておく必要があります。

法華経の後、唯識の時代に、仏の三身が説かれるようになりました。法身仏と応身仏に報身仏が加えられたのです。報身仏とは、修行の果報として成仏した仏のことです。法華経には、報身仏のことは説かれていませんが、日本では法華経を三身仏として読む傾向が強いようです。

さて、経文にある「其の身は有に非ず亦無に非ず~」とはどういう意味なのでしょうか?  

50
ダルマ太郎 2024/03/30 (土) 01:28:44 >> 16

大荘厳
だいしょうごん
荘厳という言葉は、一般的には、威厳があって気高いことを言いますが、仏教では美しく飾ることをいいます。この世界を菩薩道によって清浄化することを華や宝石で飾り付けることに喩えています。なので、大荘厳菩薩とは、大いなる菩薩道を実践している菩薩だという意味です。それほどの大菩薩ですから、智慧の眼が開かれていて、仏陀の本体である最高の真理を観察できるということでしょう。

菩薩摩訶薩
ぼさつ・まかさつ
菩薩は、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳です。菩提(覚り)+人の合成語で、「覚りを求める人」「覚りに導く人」のことです。摩訶薩は、マハー・サットヴァ mahā-sattva の訳です。「大いなる人」のことです。大乗の菩薩のことを菩薩摩訶薩と呼んで、それまでの菩薩とは区別しています。

49
ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 23:12:22 修正 >> 10

:
徳行品が説かれる理由
:
:
R論:お経のはじめに、なぜこうしてもろもろの菩薩(ぼさつ)の徳を、ことばを極めてほめたたえてあるのかといいますと、いちばん大切な理由は、その徳の尊さ・美しさを、心に強く焼きつけるためです。それだけでもすでに心はある程度清められ、温められているわけで、閉ざされていた胸が開け、教えを受け入れる態勢ができるのです。いわば、教えの本番にはいる準備運動というわけです。これがたいへん大切なことです。
:
太郎論:仏教を学ぶ者は、随喜(ずいき)することが重要だとされます。「従って喜ぶこと」です。サンスクリットのアヌモダナー anumodanā の中国語訳であり、「共感的喜び」のことです。つまり、他者の言動を受け入れ、承認し、喜ぶことをいいます。共感がなければ随喜とはいえません。徳行を讃えることによって、それを聞いた者は随喜を感じることでしょう。よって、讃嘆は教えに入る前に重要なことです。
:
:
菩薩(ぼさつ) - 菩提薩埵(ぼだいさった)
:
R論:菩薩というのは、梵語(ぼんご)のボーディサットヴァ、パーリ語のボーディサッタの中国語訳(菩提薩埵)の略です。菩提とは、仏の智慧(ちえ)もしくは仏の悟りと言う意味、薩埵(さった)というのは人ということですから、つまり〈仏の智慧・仏の悟りを得ようとして修行している人〉を指すのですが、大切なことは、自分が修行しているばかりでなく、他の人びとを救うことにも努力している人でなければ菩薩とはいいません。ここが比丘(びく)とちがうところです。
:
太郎論:菩提薩埵(ぼだいさった)という言葉は、三蔵法師玄奘が使い始めたという説があります。つまり新訳です。大般若経にて多く使われています。旧訳(くやく)である鳩摩羅什(くまらじゅう)訳では、菩薩と訳されています。菩薩は、ボーディサットヴァ bodhisattva の訳です。ボーディが覚り、サットヴァが人なので、「覚りを求める人」のことです。法華経の場合は、「覚りに導く人」という意味合いが強いようです。
:
:
智慧(ちえ)
:
R論:〈智〉⇨ 多くのものごとの間にある差異を見分ける力です。〈差別相〉を知る力。〈分析〉をする力
〈慧〉⇨ すべてのものごとに共通のものを見出す力。〈平等相〉を知る力。〈総合〉を知る力

:
太郎論:智慧(ちえ)は、プラジュニャー prajñā の中国語訳です。般若(はんにゃ)とも訳されます。意味は、一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用のことです。つまり、真理を観る能力のことをいいます。智慧という言葉を智と慧に分けた場合、慧はプラジュニャーの訳語として使われます。智は、ジュニャーナ jñāna の訳語です。ものごとを分けてとらえること(分別(ふんべつ))を智といい、分けずにとらえること(無分別(むふんべつ))を慧といいます。釈尊の覚りは、慧だといわれます。
:
分別とは、認識するものと認識されるものを分けてみることです。主客が分かれているとみます。無分別は、認識するものと認識されるものを分けてみないことです。主客が分かれているとはみません。
:
:
徳行品が説かれる理由
:
:

48
ダルマ太郎 2024/03/29 (金) 22:05:43 修正 >> 6

:
日本で〈事〉が完成
:
:
法華経は日本文明の基礎
:
聖徳太子は法華経の精神を基にして、有名な《十七条憲法》をつくられ、はじめて日本に〈国の法〉と〈人間のふみ行なうべき法〉を打ち立てられました。わが日本の文明の夜明けが、ほかならぬ法華経の精神によってなしとげられたという大事実を、われわれは忘れてはならないのです。
:
聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、仏教を篤く信仰しており、『法華義疏(ほっけぎしょ)』『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』という三経の解釈本を著しています。
:
:
伝教大師最澄
:
平安朝時代の堕落
:
念仏の教え
:
禅宗が起こる
:
日蓮聖人の出世
:
:
法華経は実践の教え
:
○ 真の救いは法華経の教えの〈実践〉にあるということです。
○ 理解から信仰へ、信仰から実践へ、ということです。
○ 天台大師の解き明かされた〈理(理論)〉を徹底して実践。

:
:
法華経は救い第一の教え
:
○ 法華経は〈人間尊重〉の教えであり、〈人間完成〉の教えであり、その上に立つ〈人類平和〉の教えです。
○《法華経》はその内容が尊いのです。その精神が尊いのです。そして、その教えを実践することが尊いのです。

:
庭野開祖は、人間尊重・人間完成・人類平和を願っていたのでしょう。そして、その答えが法華経にあるとして、法華経の解釈をしたのでしょう。法華経をそのように読めば、そのように解釈できますので、それはそれでいいのかも知れません。しかし、法華経が説かれた目的は、衆生の仏知見(ぶっちけん)を開かせ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめることです。このことは、方便品第二に書かれています。これを一大事因縁といいます。
:
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
:
仏知見とは、「仏のものの見方」です。諸仏世尊は、衆生に仏のものの見方を開き、示し、悟らせ、道に入れるために教化します。その点でいえば、人間尊重・人間完成という目的は合っているのでしょうが、人類平和につながるのかどうかは分かりません。一切衆生を成仏させれば平和になるのでしょうが、それを目標とするには、あまりに道のりは遠いように思えます。
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法華経は、この世に浄土(平和世界)を築く教えだといいます。凡夫にとっては、貧富の差があり、病があり、争いがあって、地獄・餓鬼・畜生・修羅の境地にあるように思えますが、仏の見方は、常に涅槃の状態であって浄土です。そのような見方を手に入れるのが法華経ではないでしょうか? 現象世界は無常ですから、自由自在に自分の思い通りにはコントロールできません。思い通りにしようとすれば、抵抗され、否定され、無視され、攻撃を受け、心身共に苦に堕ちます。夫婦・兄弟・親子でさえも、争いがあり対立するのが現実です。それなのに、世界平和を実現できるとは思えません。
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日本で〈事〉が完成
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47
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 18:08:26

流通を讃嘆する

爾の時に仏讃めて言わく、善哉善哉諸の善男子、汝等今者真に是れ仏子なり。弘き大慈大悲をもって深く能く苦を抜き厄を救う者なり。一切衆生の良福田なり。広く一切の為に大良導師と作れり。一切衆生の大依止処なり。一切衆生の大施主なり。常に法利を以て広く一切に施せと。

それをお聞きになった仏さまは心から喜ばれ、「よろしい。大変結構です。お前たちは今こそ、ほんとうに『仏の子』です。そなた達こそ、大きな『慈悲の心』をもって、人々の苦しみを救い、一切の人々の幸福を生み出す力となり、素晴らしい導師であり、心の支え、依り所となる人です。どうかこの教えの利益を、常に広く人々に与えてあげて下さい」

経を聞いて受持する

爾の時に大会皆大に歓喜して、仏の為に礼を作し、受持して去りにき。

この仏さまのお言葉を受けて、一同は『大歓喜』し、仏さまに礼拝をして、そして教えをしっかりと胸に刻んで受持し、法会の席を立って行きました。

46
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 18:02:01

滅後弘経の仏勅を敬い受く

是の時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と即ち座より起って仏所に来詣して、頭面に足を礼し遶ること百千匝して、即ち前んで胡跪し倶共に声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、我等快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我等が為に是の甚深微妙無上大乗無量義経を説きたもう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於て当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持し読誦し書写し供養せしむべし、唯願わくは憂慮を垂れたもうことなかれ。我等当に願力を以て、普く一切衆生をして此の経を見聞し読誦し書写し供養することを得、是の経の威神の福を得せしむべし。

すると大荘厳菩薩と八万の菩薩たちは一斉に立ち上がり、世尊の御前に進み出て、み足に額をつけて礼拝し、『帰依』の誠を捧げて申し上げました。
「世尊よ。私共に大きなお慈悲をおかけくださったことを、心から感謝申し上げます。私たちは、『法を弘めよ。それこそが大慈大悲』という仏さまのお言いつけを謹んでお受けし、仏さまがお亡くなられた後も、しっかりとこの教えを弘め、あまねく人々がこの教えを信じ、読誦・書写・供養できるように法を弘めます」
と決意を申し上げました。

45
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 17:55:55

菩薩たちに付属する

爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、汝等当に此の経に於て深く敬心を起し法の如く修行し、広く一切を化して勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして各法利を獲せしむべし。汝等真に是れ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して疑滞せしむることなかれ。汝、当時に於て必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして見聞し読誦し書写し供養することを得せしめよ。是れを以ての故に、亦疾く汝等をして速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。

その時、世尊は、大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちにお告げになりました。
「そなたたちは、この教えを深く信じ、敬い、心を尽くして一切の人々を教化しなければなりません。その行いこそが『真の大慈大悲』なのです。この教えを弘めることで、みなさんは『五種法師の行』をつとめられるようになり、真っ直ぐに仏の悟りを得ることができるようになるのです」

44
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 17:52:06

此土の供養

是の語を作し已りし、爾の時に三千大千世界六種に震動し、上空の中より復種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、又無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして、上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢せる、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎す。

以上、讃嘆と感謝の言葉を大荘厳菩薩たちが申し述べると、世界中が感動のあまり打ち震い、空からたくさんの美しい花びらが舞い降り、芳しい香りと様々な宝物が仏および教えを聴聞している菩薩をはじめとする多くの人々に降り注がれました。

他土東方の供養

又復六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動す。亦天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らし、天厨・天鉢器・天百味、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して彼の仏及び諸の菩薩・声聞・大衆を歌歎す。南西北方四維上下も亦復是の如し。

すると東方の世界のみならず、あらゆる十方世界・宇宙全体にある無数の仏の世界でも、同様の現象が起こり、仏と菩薩と大衆が供養されるのでありました。

43
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 16:00:56 修正

菩薩の領解

時に大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩、声を同じゅうして仏に白して言さく、世尊、仏の所説の如き甚深微妙無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。是の故に此の経は乃ち是の如き十の功徳不思議の力います。

その時、大荘厳菩薩及び八万の菩薩たちが、口をそろえて世尊に申し上げました。「世尊よ。世尊がお説きになった、深淵な教えである『無量義経』は、この上な尊く、真実そのものです。ですから、この教えの通り修行している限り、三世(過去・現在・未来)の諸仏が守護してくださり、どのような邪魔ものにも妨害されることはなく、間違った考えや、人生の様々な『変化』に遭遇しても動揺し、挫け、打ち負かされることはありません。この教えに十の不可思議な功徳があることも、よく解らせていただきました」。

重ねて時会の得益を讃える

大に無量の一切衆生を饒益し、一切の諸の菩薩摩訶薩をして各無量義三昧を得、或は百千陀羅尼門を得せしめ、或は菩薩の諸地・諸忍を得、或は縁覚・羅漢の四道果の証を得せしめたもう。世尊慈愍して快く我等が為に是の如き法を説いて、我をして大に法利を獲せしめたもう。甚だ為れ奇特に未曾有也。世尊の慈恩実に報ずべきこと難し。

「この教えはあらゆる人々に余すところなく利益を与え、素晴らしい境地に至らしめるものです。尊いみ教えをいただき、こんな有難い経験をしたことはこれまでにございません。尊く素晴らしい教えをお説きくださった世尊の深いお慈悲に、私どもはどのようにしてお報いしてよいかわからないくらい、深く感謝申し上げます。誠に世尊は、広大無辺な慈恩のお方であられます」

42
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:35:54

十功徳力を結す

善男子、是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。是の故に是の経を無量義と名く。能く一切衆生をして、凡夫地に於て、諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶蔬増長せしめたもう。是の故に此の経を不可思議の功徳力と号く。

「このように、この教えは極めて大きな力を持ち、この上なく尊い教えであります。そしてどんな人でも素晴らしい信仰の境地へ至らしめ、人生のあらゆる変化にも揺るがされず、何ごとにもとらわれない『自由自在』の心に導くものです。それゆえ『無量義』と名づけられたのです。そして全ての人が菩薩行を実践するように導くことができ、それによって功徳の樹木が生い茂るように伸び、広がって行きます。これがこの教えの不可思議な功徳力であります」

41
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:22:23

第十の功徳 登地不思議力

善男子、第十に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、若し是の経を得て大歓喜を発し、希有の心を生じ、既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、復能く広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。既に余人をして是の経を修行せしむる力の故に、得道・得果せんこと、皆是の善男子・善女人の慈心をもって勤ろに化する力に由るが故に、是の善男子・善女人は即ち是の身に於て便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時に能く無数阿僧祇の弘誓大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益せん。而して法の沢を演べて洪に枯涸に潤おし、能く法の薬を以て諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢普く潤し慈被すること外なく、苦の衆生を摂して道跡に入らしめん。是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第十の功徳不思議の力と名く。

【第十の功徳】凡夫の身であっても、菩薩の「最高の境地」に達する・・・

「『第十の功徳』は、自ら『五種法師の行』を行うばかりでなく、他の人々に『五種法師の行』を行わせるようになり、その功徳によって自らが仏の悟りを得るようになります。そしてまだ凡夫の身でありながら、一切の人々を救う誓いを立て、人々の苦を抜き去り、一切の利益を与えることができるようになります。それはあたかも、渇ききった人々の心を水で潤すように、また、薬によって人々の心の病を治すように、教えによって人々を救い出すようになります。つまりその人は、菩薩の最高の境地である一切の人々を救う『法雲地・ほううんぢ(「菩薩の十地」の第十地)』の境地に達することができるのです。この人は、全ての人々を慈しみの心で包み込み、人生苦に喘ぐ人々を、仏の足跡(仏の道)に導き、その功徳によって、さほど長い年月をかけずに仏の悟りを得ることができます」

40
ダルマ太郎 2024/03/27 (水) 15:14:40

第九の功徳 抜済不思議力

善男子、第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子・善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧・首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此の如きの力います。善男子、是れを是の経の第九の功徳不思議の力と名く。

【第九の功徳】「宿業余罪」を滅し、自分の分身が誕生して人々の苦を救う・・・

「『第九の功徳』は、この教えに触れて心が躍動し、大きな感動を覚えて『五種法師の行』を行うようになります。そして、人々に法を説き、教えの内容をかみくだいて解説してあげたならば、その人は、長い長い過去世から積み重ねて来た『悪業』(宿業)を、一瞬にして滅し (宿業余罪滅尽)、速やかに清らかな身となります。しかもどんな人に対しても仏の道に導くことの出来る教化力を身につけ、仏と菩薩だけが達することのできる『首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)』という境地を得ることができます。そして悪をとどめ、善を保つ力を具えます。そして常に精進して菩薩の境界に登り詰め、ここに居ながらにして、あらゆるところに自分の分身を派遣できるようになります。つまり、自分の精神を受け継ぐ人々を、さまざまなところに誕生させ、あらゆる人を教化し、すべての人の苦を救うようになります」