仏教のお話

Rの会:法華経序品第一 / 6

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ダルマ太郎 2024/04/10 (水) 21:19:10

仏教において、「空(くう)」は非常に重要な言葉です。大乗仏教では、この言葉を知らなければ経典は読めません。空には、形容詞のシューニャ śūnya と名詞のシューニャター śūnyatā があります。漢訳では、名詞の空を空性ということがありますが、ほとんどの場合は、どちらも空です。

仏教経典では、以前に言葉の意味を解説した場合は、再度その言葉が使われても解説は略されます。空については、般若経群で詳しく解説されていますので、それ以降の経典では解説はされていません。されても要点だけです。なので、般若経を読まず、仏教辞典も調べずに、法華経を読んでも理解しづらいでしょう。

シューニャは、「空虚な」という意味です。空席とは、坐る人がいないことであり、空箱とは、箱の中身がないことです。このようにあるべきものが欠如した状態が空です。大乗仏教では、あるべきものとは、自性のことだとしました。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。「物それ自体の独自の本性、本来の性質」のことで、実体と訳すことが多いです。

一切法空といって、すべての事象には実体が無いと説いています。なぜ、そのことが言えるのでしょう? それは、すべての事象が因縁和合によって生じているからです。決して、それ自体だけで生じるのではなく、因縁によって生じます。よって、集結しているそれぞれには、実体は欠如しています。朝顔の種は、一時的には種としてありますが、やがて発芽して、つるを伸ばし、成長します。成長した朝顔を種とは見ないでしょう。種という実体はありません。因縁によって仮にありますが、実体はないのです。つまり、空です。

空という言葉が使われるようになった背景は、上座部の説一切有部が、「人は無我だが、法は有我である」と論じたためです。釈尊は、人にも法にも実体はない、と説いていたため、説一切有部の論に反論する部派が現れました。それが大乗仏教の般若派です。般若派は、「人無我。法無我」「人無我。法空」を論じました。そして、説一切有部が有ると主張することを悉く、空という言葉によって否定しました。

般若派は、多くの般若経典を作って、空の理を世に広めようとしましたが、難しい内容だったために、ほとんどの人が理解できなかったようです。そこで立ち上がったのが龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna)です。龍樹は、二万五千頌般若経の解釈本として大智度論を著し、空の理を解釈するために中論を著しました。これによって、空の理は知られるようになりました。龍樹は、中論の中で、「衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義」と論じています。「因縁によって生じる現象を 私は即ち空だと説くのです また仮であると説き 中道だと説きます」です。「我説即是無」というように、空ではなく無という言葉を使っているのは、有と空の二辺否定に誤解されないように、わざと無と訳したのでしょう。サンスクリット原文では、空と書いています。

多くの因縁によって生じるので、その一つ一つには実体が有りません。なので龍樹はそれを空だと説きました。空もまた空なので、そのために仮に名をつけています。仮に有り、実体は無いので、有無の二辺を離れているため中道といいます。この論によって、釈尊が説かれた縁起と空とが結び付いたため、多くの仏教徒は空の理を理解しました。

Rの会では、空を「平等」だと解釈しています。しかし、空にはそういう意味はありません。超訳でしょうか。二次的解釈でしょうか。分かりやすく解釈するために、平等という言葉を選んだのかも知れませんが、重要な仏教用語については、サンスクリット語の意味を確認した方がいいと思います。そうしないと混乱するのは、学んだ人たちです。一度刷り込んだ内容はなかなか消えません。
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