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一法門の義を答える
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経:
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R訳:しかしその数々の教えは、もとを正せば、もともとは『ただ一つの真理(一法)』から生ずるものなのです。『真理・法』とは、特定の
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太郎訳:無量の教義は、一つの真理より生じます。その一つの真理とは、無相です。このような無相は、特徴がなく、特徴をつくりません。特徴をつくらず特徴がないことを実相と言います。菩薩よ、このような真実の相に安住した後に発する慈悲は、明らかに正しいのであって偽りはありません。人々の中で、真によく苦を抜きます。苦を抜き終わると、またその人のために教えを説いて、諸々の人々の快楽を受けさせます。
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太郎論:「無量義とは一法より生ず」という言葉は実に重要です。「無量の教義は、一つの真理より生じている」ということは、一つ一つの教義を深く観れば、大本の真理を知ることが出来るということです。ただし、真理は言葉によって表すことはできませんから、説かれた教義をヒントにして、自分で観察するしかありません。
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太郎論:「其の一法とは即ち無相也」。一つの真理とは、無相です。特徴(相)はありません。特徴がありませんから、表現ができません。言語道断です。特徴が無く、表すことができないので、これを名付けて「実相」といいます。実相とは、真実無相のことです。Rの会では、
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太郎論:決めつけず、こだわらず、とらわれず、固定観念を持たなければ、自由自在に相手と関わることができます。真理を覚った菩薩の慈悲は、明らかに真実であり、嘘偽りはありません。衆生の苦を抜き、衆生に安楽を与えます。
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R論:ただ一つの『真理』とは、無相(特定の相のないもの)であり、一切の「差別」がなく、「差別」をつくらないもの(不相)で、一切の差別をつくらないから、一切が「平等」であり、これを名付けて『実相』というのです。
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太郎論:相というのは、ラクシャナ lakṣaṇa の訳で、特徴・特性・属性・記号・すがた・状態などの意味があります。実相は、タットヴァシャ・ラクシャナン tattvasya-lakṣaṇam の訳です。「ありのままのすがた」の意味です。「真実無相」のことだともいわれます。
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無相・不相
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R論:《無相》の「相」というのは、「差別相」という意味。差別のある
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太郎論:「如是無相。無相不相。不相無相。名為実相」という文は難しいです。無相とは、アラクシャナ alakṣaṇa の訳で、「特徴が無い」ということです。不相のサンスクリットは不明ですが、「特徴をつくらない」「特徴を為さない」ということでしょう。よって、「無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがあるがままの世界です」ということです。無相とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいいます。特徴がないのですから、そのものを表す言葉はありません。言語道断であり、不可思議です。これまで、真理を言葉では表せないことを述べてきましたが、実は、事実・現象についても特徴はありませんから、そのものを表現する言葉はありません。すべてにおいて、言語表現から離れていることを実相と呼んでいます。真実は、言葉では表現できません。
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太郎論:事物・現象には、本来意味はありません。意味をつくっているのは個人です。一人一人が個々の意味をつくっています。そして、自分専用の辞書を頭に持ち、その辞書をもとにして、観念を持ちます。幼い頃は、辞書を作っても、何度も書き換えをしてきましたが、大人になると固定してしまいます。固定した辞書を持っているために、観念もまた固定し、こだわり・きめつけを強めます。機根・性質・欲求は、観念によって決定しますから、人の数ほどの異なる根性欲があり、根性欲が無量なので、説法は無量であり、説法が無量なので、教義は無量です。しかし、無量の教義は一つの真理から生じています。それが無相です。特徴はないので区別や差別はなくなり、そのことで一切の執着から離れ、
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一法門の義を答える
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所詮 を歎 ず若 し能 く是の如く一切の法門無量義を修せん者、必ず疾 く阿耨多羅三藐三菩提 を成ずることを得ん。
能詮 甚深 無上大乗無量義経は、文理真正 に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道 、得入することあることなく、一切の邪見生死 に壊敗 せられず。受持 する者は、過去・現在・未来においてすべての諸仏が必ず守護してくださるのです。菩薩よ。この教えを実践している限り、その人の精進 に対して妨害・邪魔・邪見が入り込む隙はありません。またその人が、どんな『変化』に遭遇しても、くじけて敗れることなどありません。
勧学 修学 すべし。
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経:善男子、菩薩
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R訳:菩薩よ。いま説いた教えをしっかりと把握して、一人ひとりの機根・性質・欲望に応じて法を説き分けるならば、それだけであなたは必ず最高無上の悟りに達することができましょう。
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太郎訳:善男子よ。菩薩がもしこの無量義を修めたならば、必ずや速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することでしょう。
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経:善男子、是の如き
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R訳:この奥深い『無量義の教え』は最高の教えであり、これよりも正しい、尊い教えは他にはありません。ですからこの教えを
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太郎訳:善男子よ。この奥深く無上の大乗無量義経は、説かれた言葉と表現された内容が真実であり、尊く、過去・現在・未来の諸仏が共に守護しています。いかなる邪魔者も他の教えも入り込むことがなく、一切の邪な見方、変化に敗れることがありません。
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経:是の故に善男子、菩薩摩訶薩若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、応当に是の如き甚深無上大乗無量義経を
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R訳:ですから、菩薩の皆さんが『悟り』を得ようと思うならば、必ずこの『無量義の教え』を修めなければなりません。
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R訳:このことから善男子よ。菩薩がもし速やかに無上の覚りを完成させようとするのなら、この奥深く無上の大乗無量義経を修学してください。
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所詮を歎ず
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:大荘厳菩薩 、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に諮 いたてまつる。如来の得道より已来 四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法 ・頂法 ・世第一法 ・須陀洹果 ・斯陀含果 ・阿那含果 ・阿羅漢果 ・辟支仏道 を得、菩提心 を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日 説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別 し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。大雲 が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」
正問
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経:爾の時に
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R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」
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大荘厳菩薩は質問を続けます。
「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『
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「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」
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太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」
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正問
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