仏教のお話

Rの会:無量義経 / 26

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ダルマ太郎 2024/03/26 (火) 20:49:26 修正

水の譬え

善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、若しは井、若しは池、若しは江、若しは河、渓・渠・大海、皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う。善男子、水の性は是れ一なれども江・河・井・池・渓・渠・大海、各各別異なり。其の法性も亦復是の如し、塵労を洗除すること等しくして差別なけれども、三法・四果・二道不一なり。善男子、水は倶に洗うと雖も而も井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ず。如来世雄の法に於て自在なるが如く、所説の諸法も亦復是の如し、初・中・後の説、皆能く衆生の煩悩を洗除すれども、而も初は中に非ず、而も中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖も而も義各異なり。

善男子よ、例えば水には井戸や池、大きな川や谷川、用水路や海など様々な水があります。それぞれは違う水です。しかし違う水ではあっても、どの水も『汚れを洗い落とす』という意味では『同じ水』ですが、井戸と池は違います。また谷川や用水路、海も違います。これと同じで如来は自由自在に教えを説きますが、説く教えの現われ方はさまざまです。つまり仏の教えは、人々の苦しみを取り除くという点では『同じ』であり『違い』はありませんが、私が説いた初期の教え、中期の教え、そして後期の教えは、『同じ』ようのようでも、『違い』があるのです。すべての教えが同一だとは言えません。『内容の深さ』において違いがあるのです。

善男子よ。教えは、たとえば水がよく垢や汚れを洗うように、井戸にせよ、池にしろ、小さな川にせよ、大きな川にせよ、大海にせよ、よく物の汚れを落とします。教えも同じように、よく人々の様々な煩悩の垢を洗います。善男子よ。水の性は一つだけれど、江・河・井・池・渓・渠・大海、それぞれに差があります。その水の量によって、洗える物の大きさ・量は異なります。法の性もまた同じです。塵労を洗い除く働きは等しくて差別はありませんが、結果としての果報は同じではありません。善男子よ。すべての水は洗うという働きは同じでも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ずです。如来は法において自在であり、所説の教えも自在です。初・中・後の説、すべてよく衆生の煩悩を洗除しますが、しかも初は中に非ず、しかも中は後に非ずです。初・中・後の説は、言葉としては同じでも、義は異なります。
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諸法は本より来空寂なり

善男子、我樹王を起って波羅奈・鹿野園の中に詣って、阿若拘隣等の五人の為に四諦の法輪を転ぜし時も、亦諸法は本より来空寂なり。代謝して住せず念念に生滅すと説き、中間此及び処処に於て、諸の比丘竝に衆の菩薩の為に、十二因縁・六波羅蜜を弁演し宣説し、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説き、今復此に於て、大乗無量義経を演説するに、亦諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説く。善男子、是の故に初説・中説・後説、文辞是れ一なれども而も義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。

善男子よ、鹿野苑で私が初めて法を説いた時、私は五比丘のために『四諦』を説きました。この時もこの世の実相は『空寂』であると説きました。また中期以降、比丘や菩薩に『十二因縁』、『六波羅蜜』を説きましたが、その時、同じくこの世の実相は『空寂』であると説きました。そして今、ここで『無量義経』を説くにあたっても、同様にこの世の実相は『空寂』であると説いています。しかし善男子よ。初期、中期、そして後期である今においても、私が説く『言葉は同じ』ではありますが、その内容には大きな『開き』があります。内容に『開き』があるため、それを受け止める人々の『受け取り方』にも違いが生じます。ですから、教えを聞いて得た『悟り』にも、当然『違い』が生まれてくるのです。

善男子よ。最初、鹿野園において、五比丘に対し四諦の法輪を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。中間、霊鷲山などにおいて、諸々の比丘や菩薩に対し十二因縁・六波羅蜜を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。今、またここにおいて、大乗無量義経を説いた時、諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅すると説きました。善男子よ。このことによって、初説・中説・後説、言葉は同じではありますが、義は異なります。義が異なるので、衆生の理解は異なり、理解が異なるために、結果としての果報は同じではありません。

~「諸法は本来空寂であり、変化してとどまらず、刻々と生滅する」というのは、「あらゆる事物・現象は、もともと空であり、安楽の境地にある。一瞬たりともとどまらず、刻々と生滅する」ということです。真理としては、本来空寂ですが、凡夫がとらえる現象世界においては、変化してとどまらず、刻々と生滅するのです。そのことを伝えるために初説においては四諦を説き、中説においては十二因縁・六波羅蜜を説き、後説においては大乗無量義経を説きましたので、教義が異なります。教義が異なるために結果としての果報は同じではありません。
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果報

善男子。初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ろ処処に於て、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘・万億の人天・無量の衆生、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏因縁の法の中に住することを得。善男子、是の義を以ての故に、故に知んぬ説は同じけれども而も義は別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。

善男子よ。私は初期において声聞の境地を求める者に【四諦】を説き、中期において縁覚の境地を求める者に【十二因縁】を説いてきました。それでも多くの人が菩提心を起し、なかには煩悩の迷いを捨て切る声聞の境地に達した者もいました。そして様々な大乗の教えを説いて、『歴劫修行・りゃっこうしゅぎょう』(生まれ変わり死に変わりして修行を続けていくこと)の大切さを示しましたが、これによって多くの比丘たちや、万億の人間界・天界の人びとは、それぞれが『声聞』や『縁覚』の境地、または『縁起の法則』を身につけることができたのでした。

色付き文字善男子よ。初め、声聞の人々に四諦を説いた時、八億の諸天は菩提心を起こしました。中間、縁覚の人々に十二因縁を説いた時、無量の衆生は菩提心を起こし、次に大乗の教え、般若経、華厳経を説いて、菩薩が非常に長い年月をかけて修行をすることを説いた時、多くの比丘、万億の人天、無量の衆生は、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢果、辟支仏などの因縁の法の中に住することを得ました。善男子よ。このことから知ってください。説は同じでも義はことなり、義が異なるので衆生の理解は異なります。理解が異なるので結果としての果報は同じではありません。

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    ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 00:17:11 修正 >> 26

    四諦・十二因縁・六波羅蜜

    仏は、声聞の弟子たちには四諦を説き、縁覚の弟子たちには十二因縁を説き、菩薩の弟子たちには六波羅蜜を説いたといいます。
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    四諦・八正道

    声聞の弟子たちには、四諦の法門を説いて聖者の位へと導きました。声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の訳で、「教えを聞く者」という意味です。釈尊の時代は、仏教徒は誰もが釈尊の教えを聞いて学んでいましたから、誰もが声聞と呼ばれていましたが、部派仏教の時代になると出家修行者の中の聞解する弟子たちのことを指すようになりました。四諦とは、四つの真理のことで、「苦についての真理」「苦の原因についての真理」「苦を滅した境地についての真理」「苦を滅する道についての真理」のことをいいます。苦諦・集諦・滅諦・道諦です。

    人生は苦であるととらえることが苦諦です。それでは、苦の原因とは何でしょうか? それは、渇愛であり、執着であり、根本的には無知なことだといわれます。渇愛とは、喉が渇いて水を欲するような欲求のことです。必要なものを必要な時に必要なだけ受けるのであればいいのですが、度を越して必要以上のものを手に入れようとするから、それが手に入らず苦しみます。欲しいものに執着すると、平常心ではおれず、心が乱れ、盗んだり、相手を騙したり、傷つけることもあります。そういう状態は苦です。根本的な原因は無知です。真理を知らないから、無我なのに自我を認めて自己主義になり、自己中心なので迷惑な存在となって孤立し、苦を感じます。無常なのに変化することを受け入れられずに、決めつけ、こだわり、固定的な概念に執着し、頑固になり、まわりとの調和がとれずに苦になります。俗世界は、因縁によって生じ、滅しますので、個人の力ではコントロールできません。コントロールできないのに、思い通りにしようとするから、苦を感じます。苦の原因を知ったならば、それを滅すれば、苦を滅することができると分かります。そして、具体的に苦の原因を滅する修行が道諦です。

    衆生は苦しみもがいていますので、人生は苦であると説き、苦の原因は真理を知らないからであると説き、真理を知れば苦を滅することが出来ると説き、真理を知りたければ八正道を修めなさいと説きました。ようするに四諦は、八正道に導く方便です。八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことで、最初の正見を得るための修行です。身口意の三業を正しく調え、正しく生活し、正しく続け、正しく気づき、正しい禅定を行うことによって、正しい見方を得ます。四諦・八正道は、声聞への教えです。つまり出家修行者への教えですから、一般人への教えではありません。よって、よく学び、実践しなければ、真理を得ることはできません。
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    十二因縁

    縁覚の弟子たちには、十二因縁の法門を説いて、辟支仏(びゃくしぶつ)へと導きました。縁覚とは、プラトイェカブッダ pratyekabuddha の訳であり、「師の指導を受けずに独自に覚りを開いた人」のことです。出家して声聞になった弟子は、ある程度師の教えを聞いて修行をし、修行を積んだ者は、僧伽(さんが)を離れて孤立し、人里離れた山奥に住んで、独りで覚りを求めました。独りで覚りを求めるので、「独覚」ともいいます。禅定に入り、思惟することによって覚りを目指しました。思惟した内容は、主に十二因縁でした。十二因縁については、以前にも説明しましたが、再び詳しく説明いたします。

    十二因縁とは、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」という苦の原因のことです。通常は、老死の後に、「憂悲苦悩」という言葉が入ります。つまり、憂悲苦悩の原因は、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死のそれぞれであり、また連鎖縁起によるものという教えです。

    苦の原因を思惟する時は、「憂悲苦悩の原因は老死にある」と観ます。老死は、自分の思い通りにはなりませんので、それに抵抗すれば苦になります。「老死の原因は生まれることにある」「生まれることの原因は生存にある」「生存の原因は渇愛と執着にある」「渇愛と執着の原因は感受にある」「感受の原因は自他の接触にある」「接触の原因は六つの感覚器官にある」「六つの感覚器官の原因は心と体にある」「心と体の原因は識別にある」「識別の原因は誤った意志にある」「誤った意志は真理を知らないことにある」というように、連鎖縁起を逆にたどっていきます。そうすることで、苦の根本原因が真理を知らないこと、すなわち無明であると覚ることができます。このことは、実際に禅定に入り、思惟しなければ分かりません。

    妙法蓮華経化城喩品第七には、次のように説かれています。

    広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死憂悲苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。

    仏は、広く十二因縁の教えを説かれました。無知を原因として誤った意志があり、誤った意志を原因として分別があり、分別を原因として心と体という区別があり、心と体の区別を原因として六つの感覚器官の区別があり、六つの感覚器官の区別を原因として自他の接触があり、自他の接触を原因として感受があり、感受を原因として渇愛があり、渇愛を原因として執着があり、執着を原因として生存があり、生存を原因として生があり、生を原因として老死・憂悲苦悩があります。無知を滅すれば誤った意志は滅し、誤った意志を滅すれば分別は滅し、分別を滅すれば心と体という区別は滅し、心と体という区別を滅すれば六つの感覚器官の区別が滅し、六つの感覚器官の区別を滅すれば自他の接触が滅し、自他の接触を滅すれば感受が滅し、感受を滅すれば渇愛が滅し、渇愛を滅すれば執着が滅し、執着を滅すれば生存が滅し、生存を滅すれば生が滅し、生を滅すれば老死・憂悲苦悩が滅します。

    「無明は行に縁たり」という場合の縁とは、因に対する縁、すなわち直接的原因に対する間接的原因という意味ではなく、単に「原因」という意味です。縁は、プラティヤヤ pratyaya の訳であり、この言葉には、「原因」という意味がありますから、「無明を原因として行がある」という意味になります。

    無明とは、真理を知らないことです。真理については、言語道断なので説かれていませんが、俗諦でいうところの無我・無常・空・無相・無分別などの言葉によって導かれる内容であることは間違いありません。特に問題になるのが無分別です。この世界は本来一つですが、真理を知らなければ世界をバラバラに分け、一つ一つに名をつけ、実体があるかのようにとらえます。「これは何ですか?」と問われれば、「これはリンゴです」と名前を答えて、さもそのものの実体を答えた気に成ります。ものには、名前などありません。人類が便宜上そのように名付けているだけです。般若経には、「リンゴはリンゴではない。故にリンゴという」というような言葉が繰り返しでてきます。「菩薩は菩薩ではない。故に菩薩という」「仏は仏ではない。故に仏という」というように。初めてこの文章を読むと意味不明です。論理的ではないように思えます。これらは、「リンゴにはリンゴという名はない。固定した名がないので、仮にリンゴという名をつけることができる」という意味です。すべての名は、仮であることを知らなければなりません。

    分別によって、自他を分け、個々を分けて、分けたものには名前をつけてきました。心と体、六つの感覚器官というように。このことで自我意識が強くなり、自分が他と接触して、心地よければ近づき、心地よくなければ避けるという差別を起こし、それが欲求となり、欲求に執着します。こうして、欲しいものを手に入れ、嫌なものを遠ざけて、自我はさらに強くなり、生存することに成ります。生存するものは、瞬瞬に生住異滅をくりかえします。つまり、生まれ、維持し、老い、死んでいきます。こうして苦を感じ続けることになります。

    十二因縁は、此縁性が基本にあります。「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す」というものです。本来は、時間経過については問題にしていませんでしたが、部派仏教の時代になって、時間経過を重要視し、業報の思想と結びついて輪廻説を強く支持するようになりました。

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    ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 23:54:34 >> 26

    六波羅蜜

    菩薩の弟子たちには、六波羅蜜を説いて、智慧の完成へと導きました。智慧を完成させれば成仏できますので、仏は菩薩を成仏へと導いたわけです。菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の訳で、「覚り+人」という意味です。「覚ることが決定している人」「覚りを目指す人」「覚りへと導く人」などの意味があります。法華経には、二種類の菩薩が登場します。三乗の菩薩と一乗の菩薩です。三乗の菩薩とは、菩薩ではあるけれど慈悲と智慧が足りないために、声聞衆と争う者たちです。声聞たちは、自分たちの成長のことしか考えていないので劣った修行者だと攻撃しました。一乗の菩薩は、声聞・縁覚・菩薩という区別をせず、また争いをしません。無分別であり、無諍です。

    菩薩には、六波羅蜜の修行を勧めました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という修行です。布施とは、与えること・分かち合うことです。持戒とは、戒を守ることです。忍辱とは、感情をコントロールすることです。精進とは、布施・持戒・忍辱の行を繰り返し続けることです。禅定とは、精神を統一し集中して、布施・持戒・忍辱・精進している日々を振り返ることです。智慧とは、禅定によって妄想から離れ、深く思惟し、観察して、気づき・察し・閃き・覚ることです。波羅蜜とは、「完成」のことです。布施を行い、そのことを思惟・観察することによって智慧を得ることによって、布施は完成します。これを布施波羅蜜といいます。最終的には、智慧を完成させ、智慧波羅蜜を得ることが六波羅蜜の目標です。智慧波羅蜜とは、般若波羅蜜のことですから、般若経の大きなテーマになっています。

    声聞の修行とされる八正道との大きな違いは、六波羅蜜には布施があることです。自他を分別せずに、無分別の境地に入るには、慈悲の心が必要であり、慈悲を行動に表すのが布施だからです。持戒は、初期仏教の時代から重視される行です。在家であっても、五戒を守る必要があります。五戒とは、生き物を殺さないこと・盗まないこと・邪な性行為をしないこと・嘘をつかないこと・お酒を飲まないことです。仏教教団においては、入団する時に三帰五戒を誓います。仏法僧に帰依し、五戒を守ることを長老たちの前で誓い、その誓いが認められた者が仏弟子になります。ところが、日本の仏教界ではこの入団の誓いをしていないところが多いため、五戒を守ろうという意識が欠けています。特に禁酒に関しては、無視されています。僧侶でもお酒を飲み、美味しい肉を食べ、異性と共にする人が多いのではないでしょうか。忍辱とは、感情のコントロールのことです。怒り・悲しみ・憎しみ・嫉妬・悦びなどの感情に心が支配されることなく、平常心を保ちます。

    仏の教えとは、「諸々の悪いことをせず、諸々の善いことをし、心を浄めること」だといいます。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」です。布施は、「諸々の善いことをし」であり、持戒は、「諸々の悪いことをせず」であり、忍辱は、「心を浄めること」に当たります。よって、この三つの行は重要なので、禅定や智慧が分からなくても続ける方がいいです。