仏教のお話

Rの会:無量義経 / 65

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ダルマ太郎 2024/04/05 (金) 00:17:11 修正 >> 26

四諦・十二因縁・六波羅蜜

仏は、声聞の弟子たちには四諦を説き、縁覚の弟子たちには十二因縁を説き、菩薩の弟子たちには六波羅蜜を説いたといいます。
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四諦・八正道

声聞の弟子たちには、四諦の法門を説いて聖者の位へと導きました。声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の訳で、「教えを聞く者」という意味です。釈尊の時代は、仏教徒は誰もが釈尊の教えを聞いて学んでいましたから、誰もが声聞と呼ばれていましたが、部派仏教の時代になると出家修行者の中の聞解する弟子たちのことを指すようになりました。四諦とは、四つの真理のことで、「苦についての真理」「苦の原因についての真理」「苦を滅した境地についての真理」「苦を滅する道についての真理」のことをいいます。苦諦・集諦・滅諦・道諦です。

人生は苦であるととらえることが苦諦です。それでは、苦の原因とは何でしょうか? それは、渇愛であり、執着であり、根本的には無知なことだといわれます。渇愛とは、喉が渇いて水を欲するような欲求のことです。必要なものを必要な時に必要なだけ受けるのであればいいのですが、度を越して必要以上のものを手に入れようとするから、それが手に入らず苦しみます。欲しいものに執着すると、平常心ではおれず、心が乱れ、盗んだり、相手を騙したり、傷つけることもあります。そういう状態は苦です。根本的な原因は無知です。真理を知らないから、無我なのに自我を認めて自己主義になり、自己中心なので迷惑な存在となって孤立し、苦を感じます。無常なのに変化することを受け入れられずに、決めつけ、こだわり、固定的な概念に執着し、頑固になり、まわりとの調和がとれずに苦になります。俗世界は、因縁によって生じ、滅しますので、個人の力ではコントロールできません。コントロールできないのに、思い通りにしようとするから、苦を感じます。苦の原因を知ったならば、それを滅すれば、苦を滅することができると分かります。そして、具体的に苦の原因を滅する修行が道諦です。

衆生は苦しみもがいていますので、人生は苦であると説き、苦の原因は真理を知らないからであると説き、真理を知れば苦を滅することが出来ると説き、真理を知りたければ八正道を修めなさいと説きました。ようするに四諦は、八正道に導く方便です。八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことで、最初の正見を得るための修行です。身口意の三業を正しく調え、正しく生活し、正しく続け、正しく気づき、正しい禅定を行うことによって、正しい見方を得ます。四諦・八正道は、声聞への教えです。つまり出家修行者への教えですから、一般人への教えではありません。よって、よく学び、実践しなければ、真理を得ることはできません。
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十二因縁

縁覚の弟子たちには、十二因縁の法門を説いて、辟支仏(びゃくしぶつ)へと導きました。縁覚とは、プラトイェカブッダ pratyekabuddha の訳であり、「師の指導を受けずに独自に覚りを開いた人」のことです。出家して声聞になった弟子は、ある程度師の教えを聞いて修行をし、修行を積んだ者は、僧伽(さんが)を離れて孤立し、人里離れた山奥に住んで、独りで覚りを求めました。独りで覚りを求めるので、「独覚」ともいいます。禅定に入り、思惟することによって覚りを目指しました。思惟した内容は、主に十二因縁でした。十二因縁については、以前にも説明しましたが、再び詳しく説明いたします。

十二因縁とは、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」という苦の原因のことです。通常は、老死の後に、「憂悲苦悩」という言葉が入ります。つまり、憂悲苦悩の原因は、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死のそれぞれであり、また連鎖縁起によるものという教えです。

苦の原因を思惟する時は、「憂悲苦悩の原因は老死にある」と観ます。老死は、自分の思い通りにはなりませんので、それに抵抗すれば苦になります。「老死の原因は生まれることにある」「生まれることの原因は生存にある」「生存の原因は渇愛と執着にある」「渇愛と執着の原因は感受にある」「感受の原因は自他の接触にある」「接触の原因は六つの感覚器官にある」「六つの感覚器官の原因は心と体にある」「心と体の原因は識別にある」「識別の原因は誤った意志にある」「誤った意志は真理を知らないことにある」というように、連鎖縁起を逆にたどっていきます。そうすることで、苦の根本原因が真理を知らないこと、すなわち無明であると覚ることができます。このことは、実際に禅定に入り、思惟しなければ分かりません。

妙法蓮華経化城喩品第七には、次のように説かれています。

広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死憂悲苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。

仏は、広く十二因縁の教えを説かれました。無知を原因として誤った意志があり、誤った意志を原因として分別があり、分別を原因として心と体という区別があり、心と体の区別を原因として六つの感覚器官の区別があり、六つの感覚器官の区別を原因として自他の接触があり、自他の接触を原因として感受があり、感受を原因として渇愛があり、渇愛を原因として執着があり、執着を原因として生存があり、生存を原因として生があり、生を原因として老死・憂悲苦悩があります。無知を滅すれば誤った意志は滅し、誤った意志を滅すれば分別は滅し、分別を滅すれば心と体という区別は滅し、心と体という区別を滅すれば六つの感覚器官の区別が滅し、六つの感覚器官の区別を滅すれば自他の接触が滅し、自他の接触を滅すれば感受が滅し、感受を滅すれば渇愛が滅し、渇愛を滅すれば執着が滅し、執着を滅すれば生存が滅し、生存を滅すれば生が滅し、生を滅すれば老死・憂悲苦悩が滅します。

「無明は行に縁たり」という場合の縁とは、因に対する縁、すなわち直接的原因に対する間接的原因という意味ではなく、単に「原因」という意味です。縁は、プラティヤヤ pratyaya の訳であり、この言葉には、「原因」という意味がありますから、「無明を原因として行がある」という意味になります。

無明とは、真理を知らないことです。真理については、言語道断なので説かれていませんが、俗諦でいうところの無我・無常・空・無相・無分別などの言葉によって導かれる内容であることは間違いありません。特に問題になるのが無分別です。この世界は本来一つですが、真理を知らなければ世界をバラバラに分け、一つ一つに名をつけ、実体があるかのようにとらえます。「これは何ですか?」と問われれば、「これはリンゴです」と名前を答えて、さもそのものの実体を答えた気に成ります。ものには、名前などありません。人類が便宜上そのように名付けているだけです。般若経には、「リンゴはリンゴではない。故にリンゴという」というような言葉が繰り返しでてきます。「菩薩は菩薩ではない。故に菩薩という」「仏は仏ではない。故に仏という」というように。初めてこの文章を読むと意味不明です。論理的ではないように思えます。これらは、「リンゴにはリンゴという名はない。固定した名がないので、仮にリンゴという名をつけることができる」という意味です。すべての名は、仮であることを知らなければなりません。

分別によって、自他を分け、個々を分けて、分けたものには名前をつけてきました。心と体、六つの感覚器官というように。このことで自我意識が強くなり、自分が他と接触して、心地よければ近づき、心地よくなければ避けるという差別を起こし、それが欲求となり、欲求に執着します。こうして、欲しいものを手に入れ、嫌なものを遠ざけて、自我はさらに強くなり、生存することに成ります。生存するものは、瞬瞬に生住異滅をくりかえします。つまり、生まれ、維持し、老い、死んでいきます。こうして苦を感じ続けることになります。

十二因縁は、此縁性が基本にあります。「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す」というものです。本来は、時間経過については問題にしていませんでしたが、部派仏教の時代になって、時間経過を重要視し、業報の思想と結びついて輪廻説を強く支持するようになりました。

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