仏教のお話

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ダルマ太郎 2024/05/23 (木) 21:55:51

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勉強会
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もう、ずいぶん前のことです。私の友人に、ある仏教系の新興宗教教団の青年部幹部がいて、その人に誘われ、私もよくその会の勉強会に参加しました。勧誘をしないという条件です。参加者は、平均して10名ほどで、半年ほど通いました。男女半々でした。その勉強会の中で、縁起・無我・無常・苦・涅槃・四諦・八正道・六波羅蜜などの教義を学びました。講師は、教務員という役目の人でした。

最初の勉強会のテーマは縁起でした。その会では、「縁起とは因縁果報」だと教えていました。すごい違和感を感じましたが、何にひっかかっているのかは、当時の私には分かりませんでした。「因は直接的原因。縁は間接的原因。因縁が和合して結果となり、そのことが他に影響を与える、それを報という」と説いていました。そういう解釈は聞いたことが無かったので、違和感を感じたのでしょう。

今だと分かるのですが、縁起とは、「縁って起こる」という意味です。なので、「因縁が和合して結果が生じる」というのは合っていますが報は入りません。報が入ると業報の思想になりますので、基本的な縁起とは異なります。報が入っているために、その会の会員は縁起の教えが分からなかったようです。これは問題ですよね。

その後の無我や無常なども、仏教用語辞典の内容とは違っていました。なぜ、違う解釈をするのでしょう? 不思議です。この会では、独自の解釈をするのが良いことだと思っているのでしょうか? 最も基本的な無我・無常・縁起の教義が異なれば、全体的な教義にも影響します。初期仏教を基本編、大乗仏教を応用編だとみれば、初期仏教の教義を独自の解釈で教えれば、大乗仏教の教義は理解できないと思います。理解できても、それは本来の意味とは違いますから、他の教団と話しても通じないでしょう。

仏教教団を名乗っているのなら、仏教用語については独自の解釈をせず、伝統的な意味で解釈したほうがいいです。独自の解釈の方が正しいと思っているのでしょうが、伝統的な意味の方が正しいと思います。人々の幸せを望むのであれば、勝手な解釈はつつしむべきでしょう。
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勉強会
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ダルマ太郎 2024/05/22 (水) 21:07:21

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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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「また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです」。

ここは、釈尊が須菩提に説法をしています。「色は空である」という認識だと、色は空ではありません。「色即是空。空即是色」だと認識することが重要です。「即」という言葉が入ることで、色と空は、コインの裏表のように、離れていないことを表しています。一致しています。「色は空である」という見方だと、色と空を離して認識しているために、色に実体を見て、空に実体を見るという過ちを起してしまいます。色にも、空にも実体を見ないのなら、「色即是空。空即是色」と見る必要があります。

「眼は空である」「感受は空である」「四念処は空である」「十八不共法は空である」という認識よりも、「眼即是空。空即是眼」「受即是空。空即是受」「四念処即是空。空即是四念処」「十八不共法即是空。空即是十八不共法」と見ます。
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「須菩提よ。このように菩薩は智慧の完成の行を行じので、驚かず、畏れず、怖いと思いません」。

一切の事物・現象は、即空なので、個々の事象に実体を見ません。実体を見ないので、特徴を見ることが無く、よって驚くことは無く、畏れることは無く、怖いと思うことはありません。周りの変化に惑わされず不動です。
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一の解釈
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ダルマ太郎 2024/05/22 (水) 20:28:07 修正

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色即是空-5
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摩訶般若波羅蜜経幻学品第十一より
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経:復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因縁生受。不以空受。故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故。四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故。十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不驚不畏不怖。
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太郎訳:また次に須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じ、このように思惟します。物質的現象は空であるという見方によれば、物質的現象は空ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。眼は空であるという見方によれば、眼は空ではありません。眼、それは即ち空であり、空、それは即ち眼だからです。ないし、意の接触という因縁で感受が生じると見るとき、感受は空であるという見方によれば、感受は空ではありません。感受、それは即ち空であり、空、それは即ち感受だからです。四念処は空であるという見方によれば、四念処は空ではありません。四念処、それは即ち空であり、空、それは即ち四念処だからです。ないし、十八不共法は空であるという見方によれば、十八不共法は空ではありません。十八不共法、それは即ち空であり、空、それは即ち十八不共法だからです。このように須菩提よ。菩薩は智慧の完成の行を行じるので、驚かず、畏れず、怖いと思いません。
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色即是空-5
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ダルマ太郎 2024/05/21 (火) 22:30:52

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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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舎利弗が須菩提に、「菩薩が智慧の完成の行を行じる時、どのように方便を用いるのですか?」と質問し、それに須菩提が答えます。須菩提は、解空第一と呼ばれるほどに、空を理解している弟子です。多くの般若経で、釈尊と問答をしています。

須菩提は答えました。それは、あらゆることを定義しないことだといいます。五蘊(物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用)を定義しないし、五蘊の特徴を定義しません。また、五蘊が常だと定義しないし、無常だと定義しません。五蘊が楽だと定義しないし、苦だと定義しません。五蘊が我だと定義しないし、無我だと定義しません。五蘊が空・無相・無作だと定義しません。五蘊が離れていると定義しないし、寂滅(涅槃)だと定義しません。

なぜ定義しないのかというと五蘊が空だからです。実体が無いので定義はできません。しかし、説法の時、定義するのは方便です。よって、定義すること、定義しないことを受けません。
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十の解釈
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ダルマ太郎 2024/05/21 (火) 20:56:56 修正

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色即是空・空即是色-4
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摩訶般若波羅蜜経相行品第十
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経:舍利弗問須菩提。云何當知菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。須菩提語舍利弗。若菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜時。不行色不行受想行識。不行色相不行受想行識相。不行色受想行識常。不行色受想行識無常。不行色受想行識樂。不行色受想行識苦。不行色受想行識我。不行色受想行識無我。不行色受想行識空。不行色受想行識無相。不行色受想行識無作。不行色受想行識離。不行色受想行識寂滅。何以故。舍利弗。是色空爲非色。離空無色離色無空。色即是空空即是色。受想行識空爲非識。離空無識離識無空。空即是識識即是空。乃至十八不共法空。爲非十八不共法。離空無十八不共法。離十八不共法無空。空即是十八不共法。十八不共法即是空。如是舍利弗。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜有方便。是菩薩摩訶薩如是行。般若波羅蜜。能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。行亦不受不行亦不受。行不行亦不受。非行非不行亦不受。不受亦不受。
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太郎訳:舎利弗は、須菩提に問いました。菩薩が智慧の完成の行を行じる時、どのように方便を用いるのですか? 須菩提は舎利弗に語りました。もし菩薩が、智慧の完成の行を欲するのなら、物質的現象を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を定義しません。物質的現象の特徴を定義しません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴を定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が常住だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が無常だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が楽だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が苦だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が我だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が無我だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が空だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が無相だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が無作だと定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が離れていると定義しません。物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が寂滅だと定義しません。

なぜならば、舎利弗よ。これは、物質的現象が空なので、物質的現象ではないからです。空から離れて物質的現象は無く、物質的現象を離れて空はありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用が空なので、認識作用ではありません。空から離れて認識作用はなく、認識作用を離れて空はありません。空は、即ち認識作用であり、認識作用は、即ち空です。ないし、十八不共法は空なので、十八不共法ではありません。空から離れて十八不共法はありません。十八不共法から離れて空はありません。空は、即ち十八不共法です。十八不共法は、即ち空です。このように舎利弗よ。よく知っておいてください。この菩薩が、智慧の完成の修行をするとき、方便を用います。この菩薩が、このように行じれば、智慧は完成し、よく無上の覚りを得ることができます。この菩薩が、智慧の完成の行を行じる時、定義を受けるのではなく、定義をしないことを受けるのではありません。定義をすること、定義をしないことを受けません。定義を否定すること、定義をしないことを否定することを受けません。受けないことを受けません。
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色即是空・空即是色-4
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13
ダルマ太郎 2024/05/21 (火) 19:14:03 修正

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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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この章では、須菩提が釈尊に自分の領解を発表しています。須菩提は、十大弟子の一人で解空第一・無諍第一などと呼ばれます。空をよく理解しているので解空第一といわれ、言い争うことがないので無諍第一と呼ばれました。
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「また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません」。

須菩提は、菩薩が智慧の完成の修行を求めるならば、物質的現象に執着してはいけないと言います。物質的現象は空なので、執着の対象ではありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同じです。このように五蘊は空だから、執着するなと言っています。
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「眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません」。

十二処・十八界なども空ですから、執着の対象ではありません。そういうものに執着しても、得るものは有りません。
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「なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です」。

物質的現象に執着してはいけない理由は、それが空だからです。空なるものに、執着することはできません。夢や幻に執着するようなものですから、利益がありません。私たちは、物質的現象の一つ一つに名称をつけていますが、物質的現象には名称がありません。すべての名称は人が便宜上付けただけですから仮です。名称が無いものが物質的現象なのです。空から離れて、物質的現象は有りません。物質的現象は、即ち空です。実体は有りません。空は、即ち物質的現象です。実体が無いから、因縁和合し、物質的現象が生じます。
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「感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です」。

五蘊のすべては空であり、名称が無いから認識作用です。空から離れて、認識作用はありません。認識作用、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち認識作用です。実体が無いから、因縁和合して、認識作用が生じます。
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「ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です」。

老死も空ですから、実体は有りません。名称が無いので老死であり、空から離れれば老死ではありません。老死、それは即ち空です。実体は有りません。空は、即ち老死です。実体が無いから、因縁和合して、老死が生じます。
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:
「世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません」。

一切は空なのですから、一切への執着を捨てる必要があります。一切は空であり、空が一切を作っています。よって、あらゆるものに執着してはいけません。私たちが世界だと思っているのは、実は脳内で仮設した世界です。仮設された世界は、水に映った月のようなものですから実体は有りません。実体の無い仮設された世界に執着しても、得られるものは有りません。
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九の解釈
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42
ダルマ太郎 2024/05/21 (火) 13:22:48

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総じて利鈍を結す
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経)
 夜叉・餓鬼 諸の悪鳥獣
 飢急にして四に向い 窓をうかがい看る

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太郎訳)
 このような夜叉・餓鬼 様々な悪い鳥・獣たちは
 食べ物を探し求めながら 屋敷内をさ迷い
 窓から外を観察していました

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:
火起の由
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経)
 是の如き諸難 恐畏無量なり
 この朽ち故りたる宅は 一人に属せり
 その人近く出でて 未だ久しからざるの間

:
太郎訳)
 このように様々な難儀があり 無量の恐怖に満ちていました
 この古くて壊れそうな邸宅は ある一人の所有でした
 その人が近くに出かけてすぐに

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:
火起の勢
:
経)
 後に宅舎に 忽然に火起る
 四面一時に その焔 倶に(さか)んなり
 棟梁椽柱(でんちゅう) 爆声震裂(ばくしょうしんれつ)
 摧折堕落(さいせつだらく)し 墻壁(しょうびゃく)崩れ倒る

:
:
太郎訳)
 邸宅に突然 火事が起こりました
 四方に火は燃え移り燃え盛り
 棟・梁・たるき・柱が
 音をたててくだけ
 垣や壁はくずれ落ちました

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:
総じて利鈍を結す
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11
ダルマ太郎 2024/05/20 (月) 19:41:46 修正

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勧誘
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伝統的な宗教は勧誘をしませんが、新興宗教では勧誘をします。会員を集めなければ、お金を集めることができないし、無料の労働力も確保できませんから、勧誘を積極的に行うのでしょう。すべての新興宗教ではありませんが、あくどい方法で勧誘をするところがあります。しつこく、つきまとって強引に勧誘するところ、美しい女性やイケメンを使って、色仕掛けで勧誘するところ、集団で一人を囲み、圧力で勧誘をするところなど、人の弱いところにつけこんで勧誘します。

仏教には、摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)という勧誘方法があります。摂受とは、相手を肯定して勧誘する方法で、折伏は、相手を否定して勧誘する方法です。常識的には、摂受の方が仏教的なのですが、教団によっては、折伏を主に仕掛けるところもあります。相手の入っている宗教を貶し、相手の考え方を徹底的に否定して攻撃します。そういう方法がうまくいくとは思えないのですが、それを続けている教団がありますので、勧誘はできているのでしょうね。
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勧誘
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12
ダルマ太郎 2024/05/20 (月) 13:03:08

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色即是空・空即是色-3
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摩訶般若波羅蜜経集散品第九
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経:復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因縁生受。乃至意觸因縁生受中不應住。地種。水火風種空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。世尊。色空不名爲色。離空亦無色。色即是空。空即是色。受想行識。識空不名爲識。離空亦無識。識即是空。空即是識。乃至老死老死相空。世尊。老死空不名老死。離空亦無老死。老死即是空。空即是老死。世尊。以是因縁故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中不應住。
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太郎訳:また次に世尊。菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲するならば、物質的現象の中に留まってはいけません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の中に留まってはいけません。眼耳鼻舌身意の中に留まってはいけません。色声香味触法の中に留まってはいけません。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の中に留まってはいけません。視覚的接触、ないし意の接触の中に留まってはいけません。視覚的接触の因縁によって生じる感受、ないし意の接触の因縁によって生じる感受の中に留まってはいけません。地の要素、水・火・風の要素、空間・意識の要素の中に留まってはいけません。無明ないし老死の中に留まってはいけません。

なぜならば、世尊。物質的現象の特徴は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用の特徴は空だからです。世尊よ。物質的現象は、名称が無いので物質的現象です。空から離れれば、物質的現象ではありません。物質的現象、それは即ち空であり、空、それは即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた空であり、名称が無いので認識作用です。空から離れれば、認識作用ではありません。認識作用、それは即ち空であり、空、それは即ち認識作用です。ないし老死の特徴は空です。世尊。老死は空であり、名称が無いので老死です。空から離れれば、老死ではありません。老死、それは即ち空であり、空、それは即ち老死です。世尊。この因縁によって、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を欲する時は、物質的現象の中に留まってはいけないし、ないし老死の中に留まってはいけません。
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色即是空・空即是色-3
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ダルマ太郎 2024/05/19 (日) 16:28:20 修正

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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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摩訶般若波羅蜜経で、「色即是空。空即是色」という言葉は、五回出てきます。一回目は、奉鉢品第二で、二回目は、習応品第三です。今回は、習応品第三の解釈をします。
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「舎利弗よ。空においては、物質的現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません」。

空という思想を土台にして観れば、物質的現象は否定されます。実体が無いのですから、それをそれとして観ることができません。つまり、物質的現象は無いということになります。空なる世界とは、仮設世界のことです。私たちが感受しているのは、実際の世界ではなく、脳内に仮設された世界です。仮設された世界には、実体は有りません。よって空なる世界です。言い方を変えれば、それは概念の世界です。言葉だけがあり、実体の無い世界です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても、空においては実体が有りません。
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「舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません」。

仮設された世界において、物質的現象には実体が無いために、実際に人を傷つけることはありません。何かの役に立ったり、邪魔をすることはありません。そういう働きは、脳内で作り出しています。感受作用は感受しないし、想起作用は想起せず、意志作用は意志はなく、認識作用は認識しません。空においては、色受想行識はありません。
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「なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です」。

物質的現象は、仮設世界と異ならないし、仮設世界は、物質的現象と異なりません。物質的現象は、即ち仮設世界だし、私たちにとっては仮設世界は、即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同じです。
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「舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません」。

私たちにとっての世界は仮設世界です。なので、そこは空であり、無相です。無相とは、特徴が無いことです。概念の世界には、実体は無いし、特徴はありません。よって、生滅・垢浄・増減ということはありません。そのような認識があるだけです。
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「この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます」。

時間もまた概念です。過去は、過ぎ去っていますから実在しないし、未来は、未だ来ていませんから実在しません。現在は、現に在ると書きますが、今という瞬間をとらえることはできません。とらえたと思っても、思った瞬間に過去になるからです。空間もまた概念です。時空には実体は有りません。
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「このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません」。

五蘊・十二処・十八界とは、部派仏教の説一切有部における一切法のことです。つまり、説一切有部の教義です。人は、名称があると実体視しますが、それが教義だと、さらにその傾向は強くなります。説一切有部は、法有を説いていますので、法を実体視することを否定していません。大乗経典の般若経典では、これを否定しています。実体視すれば、執着につながりますから否定するのです。

この文は、般若心経にも出てきます。これを読んで、大乗は説一切有部を否定している、という方がいます。確かにその通りですが、単にそれだけではなく、言葉による実体視を指摘しています。
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「また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません」。

ここでは、十二因縁と四諦の法門を否定しています。初期仏教の重要な教義ですが、空においては、それらも言葉だけが有るのであって実体は無いといいます。智慧も無いし、智慧を得ることもありません。
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:
「また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません」。

須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢とは、声聞における覚りの階位のことです。辟支仏・仏陀というのは、覚者の位です。空においては、そのような位もありません。
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「舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます」。

習応とは、繰り返し学び、応答することです。菩薩は、一切法は空なので、名称にとらわれず、言葉・概念にとらわれません。このことが、智慧の完成と心が一致します。
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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10
ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 23:02:56 修正

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色即是空・空即是色-2
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摩訶般若波羅蜜經習應品第三より
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経:舍利弗。色空中無有色。受想行識空中無有識。舍利弗。色空故無惱壞相。受空故無受相。想空故無知相。行空故無作相。識空故無覺相。何以故。舍利弗。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舍利弗。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法非過去非未來非現在。是故空中無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。亦無無明亦無無明盡。乃至亦無老死亦無老死盡。無苦集滅道。亦無智亦無得。亦無須陀洹。無須陀洹果。無斯陀含。無斯陀含果。無阿那含。無阿那含果。無阿羅漢。無阿羅漢果。無辟支佛無辟支佛道。無佛亦無佛道。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應。
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太郎訳:舎利弗よ。空においては、物質現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません。舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は、空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません。なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です。

舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません。この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます。このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼耳鼻舌身意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません。また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません。また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません。舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます。
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色即是空・空即是色-2
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9
ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 22:16:42 修正

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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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舎利弗が釈尊に、「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」と質問をします。菩薩とは、菩提(覚り)を求める人のこと、摩訶薩は、大いなる人ということです。大乗の菩薩のことです。

その質問に対し、釈尊が答えました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです」

このように、釈尊は、菩薩が智慧の完成の修行をするのなら、菩薩を見ず、菩薩という字を見ず、智慧の完成を見ず、智慧の完成のための修行をしていると見ず、智慧の完成のための修行をしていないと、見てはいけないといいます。なぜなら、それらは、すべて空だからです。すべては空なのですが、人々は名があると、それには実体が有ると思ってしまいます。リンゴという名があれば、リンゴというものが有ると思ってしまいます。しかし、リンゴというのは、人がそのように名付けただけですから、それにはリンゴという名はありません。名が有ることで、実体が有ると思い込むことを釈尊は指摘しているわけです。言葉への不信は、仏教での大きなテーマの一つです。

「空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません」。普通の人は、空を通してものを見ませんが、ここでは、空を通して観察した場合を説いています。空を通して観れば、物質現象はありません。因縁によって仮に有る世界は、鏡に映った像のようなものですから、実体を見ることはできません。脳に仮設された世界は、テレビに映った世界のようなものですから、実体は無いのです。カメラが追う世界は実像ですが、それを私たちは感受できません。私たちは、鏡に映った世界、テレビに映った世界を見ていますので、そこに事物現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。また、事物現象を観察することで空を知ることができますから、事物現象と空は離れていません。現象は空によって有り、空は現象によって有ります。
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「事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです」。

事物現象だと思って見ているものは、実は自分の脳で仮設された世界ですので空です。実体は有りません。実体がないものが、私たちにとっての事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。実体の無いものが認識作用です。なぜなら、実体が無くても、名称と字が有るから、菩提というのであり、菩薩というのであり、空と言います。
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「そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです」。

事物現象の真実の本性は、生じず、滅せず、垢が無く、浄くはありません。あらゆる特徴はありません。特徴とは、他との比較によってあるのですから、そのものだけでは、特徴は無いのです。特徴が無いので、菩薩は、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。名称と字は、因縁和合によって作られるのですから、実体は有りません。実体が無いものが、生滅することはありえません。
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「ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」。

人が名称を付ける時、まわりとそれを分けます。ここに幾つかの果物が有る場合、それぞれの形や大きさ、色や香りで分類し、同じ種類のものに、リンゴ・バナナ・ミカンというように名をつけます。そして、まわりの人たちとの合意によって、広く使うことになります。このように名称は仮なのですから、菩薩が智慧の完成の修行をする時は、一切の名称と字を見ず、見ないことによって執着しないようにします。
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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8
ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 17:38:19

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色即是空・空即是色について
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色とは、ルーパ rūpa の訳です。「物質・形・色」の意味です。初期仏教では、肉体の意味で使われていましたが、部派仏教時代に物質的現象の意味で使われるようになりました。大乗仏教でも、物質的現象の意味で用いられます。

空とは、シューニャター śūnyatā の訳です。「欠如」という意味です。空瓶といえば、中身の入っていない瓶のこと、空席とは、誰も坐っていない席というように、あるべきものが欠如している状態を空といいます。大乗仏教になると、欠如しているのは、自性だとされました。自性とは、個の原理であり、主体であり、実体のことです。

色即是空は、「物質的現象、それは空である」と訳されます。つまり、すべての物質的現象には実体が無いという意味です。空をエネルギーのこと、霊界のこと、眼に見えないこと、などと解釈する人がいますが、いずれも空の意味から外れています。知恵袋などのネットでは、確信を持ってそのように説く人がいますが、それは空の意味ではありません。

物質的現象は、因縁和合によって生じます。決して、それだけの力で生じるのではなく、他の力だけで生じるのではありません。多くの因縁が和合することによって有るのですから、個々の物事には実体は無く、因縁の結果として生じている物事にも実体は有りません。もし、個々に実体が有るのなら、木は木のままですので、それを加工することはできません。実体が無いので、椅子や机や台などに加工できますが、ずっと木のままなら、それを加工できません。実体が有るのなら、種は種のままですから、発芽しないし、花が咲くこともありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままです。実体が有れば、自然現象は、何の変化もなくなってしまいます。

色とは、五蘊の一つです。五蘊とは、世界を構成する五つの要素のことです。それは、色受想行識であり、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。たとえば、そこにリンゴが有り、それを見て、リンゴだと想起し、食べたいと思えば、それをリンゴだと認識します。色が認識の対象であり、受想行識は心の働きです。世界を構成する五つのうち、四つが心だというのは仏教らしいですね。これは、仏教では、世界というのは、認識されてはじめて存在すると見るからです。たとえ、リンゴがそこに有っても、見なければ認識されませんので、無いのと同じです。

五蘊が縁起することで、私たちは世界を認識します。物質的現象を感受し、想起し、意志を持つことで認識作用が起こります。五蘊が縁起しなければ認識できません。因縁によるもの、それは空であり、仮であり、中だと龍樹は論じました。五蘊は縁起ですので、それぞれの要素は空です。よって、物質的現象は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は空です。このことからも、色即是空だといえます。また、受想行識即是空だといえます。

ところで、私たちは、はたして外部のものをあるがままに感受しているのでしょうか? 答えは否です。あるがままに感受できる機能を持っていないので、外部をあるがままに感受することはできません。眼は、光を感受し、それを信号にして脳に送り、脳で仮設しています。そして、その仮設した世界を私たちは事実だと思い、それを感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。つまり、私たちが認識しているのは、仮の世界であって事実ではありません。よって、色即是仮だといえます。また、受想行識即是仮だといえます。このように、五蘊のすべては、心によって構成されています。

仏教では、あるがままの世界を真実だと言います。五感によっては真実を見ることはできません。真実を見ることができるのは、智慧のはたらきによります。智慧は、煩悩によって塞がっているために、まずは、煩悩を滅することが必要です。そのために八正道や六波羅蜜という行が重視されます。大乗仏教では、六波羅蜜の行が特に勧められます。六波羅蜜の六番目にある智慧を完成させること、つまり般若波羅蜜によって真実を観察できるからです。

色即是空を理解するためには、智慧が必要です。世界が仮であり、空であると知るには、一般的な知識や思考では無理です。瞑想に入り、深く思惟しなければ分かりません。一般人がいきなり瞑想をしても、雑念ばかりが沸き起こり、精神統一ができません。よって、瞑想に入る準備として、善行を為し(布施)、悪行を為さず(持戒)、心を浄化させます(忍辱)。つまり、六波羅蜜の実践が大事です。

色即是空は、比較的分かりやすいけれど、空即是色は難解です。意味は、「空、それは物質的現象である」と言われてもピンときません。どういう意味なのでしょう? このことは、般若心経だけを読んでも分かりません。二万五千頌般若経などの般若経を勉強する必要があります。八千頌般若経・金剛般若経でもいいです。

般若経には、「菩薩は菩薩ではない。よって菩薩という」というような意味不明な文がよく出てきます。これは、「菩薩には菩薩という固定した名は無い。よって、菩薩という名を仮につけることができる」ということです。名称のすべては、人類が仮に名付けたのですから、もともと事象には名称はありません。しかし、人は名があるために、そこに実体を見てしまい、執着します。すべては空なのですから、名は無く、字は無いので、執着の対象はありません。

空即是色というのは、一切が空だから、因縁和合が可能であって、仮に物質的現象をつくることが可能だということです。つまり、空即是色は、空の作用について述べています。
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色即是空・空即是色について
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ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 01:23:19 修正

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色即是空・空即是色-1
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二より
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経:舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩不見菩薩字。不見般若波羅蜜亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂爲菩提。但有名字故謂爲菩薩。但有名字故謂爲空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因縁和合作法。但分別憶想假名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著
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太郎訳:舎利弗は釈尊に言いました。
「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」
釈尊は、舎利弗に告げました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです。空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません。事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです。そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです。ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」

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色即是空・空即是色-1
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ダルマ太郎 2024/05/17 (金) 18:12:34

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二万五千頌般若経の抜粋
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般若心経は、二万五千頌般若経(摩訶般若波羅蜜経)の抜粋です。二十七巻という比較的長い経典をわずか260文字にまとめています。よって、要点だけを抜粋しているため、初心者には難解な内容です。ある程度、仏教を学んでいる人でも、般若心経だけを読んで理解できる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経を読んだ者にしか理解できません。本屋に並んでいる般若心経の解釈本のほとんどは、二万五千頌般若経を読まずに解釈しているため、的を射たものは少ないです。ましてや、ネット上で公開されている解釈本は、とんちんかんなものがほとんどです。そういうものを読むことは、あまりおすすできません。

二万五千頌般若経を龍樹が解釈したのが大智度論です。大智度論は、100巻もある大作ですから、一般人で読んでいる人は少ないでしょう。二万五千頌般若経にしろ、大智度論にしろ、入手が困難なので、図書館などで読むしかありません。私は、国訳大蔵経全31巻を持っていますから、二万五千頌般若経・大智度論ともに、読むことができます。しかし、長すぎるので、全部を読むのには時間がかかります。

般若心経の最初の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」と、最後の「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」という呪文は、二万五千頌般若経にはありません。それ以外は、あります。有名な「色即是空。空即是色」という言葉は、5回も出てきます。二万五千頌般若経だと、詳しく「色即是空。空即是色」のことが説かれていますが、般若心経は、「色即是空。空即是色」とだけ書かれていますので意味が分かりにくいです。

「色即是空。空即是色」は、般若心経の核となる教義ですから、じっくりとお伝えしていきます。
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二万五千頌般若経の抜粋
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ダルマ太郎 2024/05/17 (金) 15:44:44 修正

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初期仏教~大乗仏教
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仏教は、釈尊が覚りを開いて、鹿野園で五比丘に対し説法を説いた時に始まりました。それから、釈尊が亡くなって約100程年ほどして、仏教教団が保守派の上座部と革新派の大衆部とに根本分裂するまでを初期仏教といいます。

初期仏教は、アンチ・ヴェーダの教えだと言われます。なぜなら、ヴェーダ聖典の根本思想であるアートマンを否定したからです。アートマンは、個の原理・主体・実体です。これを否定してアナートマン、つまり無我を説きました。アートマン思想が広まっていたインドでは、無我の考え方は受け入れがたかったようです。紀元前3世紀頃にアショーカ大王が、インドを統一し、仏教を国教にして、仏教を保護し、仏教は大いに盛り上がりました。仏教が栄えたことによって、バラモン教は衰退しました。根本分裂の後、教団は次々と分かれましたので、この頃の仏教を部派仏教といいます。部派仏教の時代は、国からの保護を受けていたので、仏教はどんどん拡散しました。その結果、部派が増えたのです。

部派仏教の時代に最も勢力があったのは、説一切有部です。説一切有部は、人については無我だと説きましたが、法は有ると説きました。法とは、水を水として成り立たせるもの、火を火として成り立たせるもの、物を物として成り立たせるもののことです。「人無我。法有我」という説を土台にしたのです。

また、業報輪廻を積極的に説き、業報輪廻を十二因縁によって説明しました。無明・行を過去の因だとし、識・名色・六処・触・受を現世での果だとしました。愛・取・有を現世での因だとし、生・老死を来世の果だとしました。これを三世両重の因果といいます。これは、説一切有部の説であって、釈尊が説いた内容ではありません。

また、説一切有部は、食事が国から提供されるため、在家との関係を断っています。つまり、托鉢をやめてしまい、在家への説法もやめてしまいました。地方を巡って説法をする遊行もやめています。説一切有部は、それよりも経典の解釈をすることに熱中しました。いわゆるアビダルマ(論書)をつくることに懸命になったのです。大乗仏教では、説一切有部の説いた法有、業報輪廻、在家との関係を否定しました。一切法空・廻向・大乗を説いたのです。

このようにバラモン教を否定して初期仏教が説かれ、初期仏教を否定してアビダルマが論じられ、アビダルマを否定して大乗が説かれました。以前の教義を否定することによって、仏教は、より高度な教えへと発展しました。このことは、初期仏教の信者は納得しないのでしょうが、経典を読めば一目瞭然です。仏教の最終形態は、密教ですので、密教が最も高度で深い教えが説かれているのでしょう。しかし、密教は師から弟子へと伝えられる教えですから、一般人には知らされていません。よって、我々は、初期仏教経典・大乗仏教経典と中観派の論書・唯識派の論書を学ぶ必要があります。輪廻についても、初期仏教の経典だけで判断するのではなく、大乗仏教の経典も学んでから判断するべきでしょう。
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初期仏教~大乗仏教
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5
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 17:25:01

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輪廻は恐怖
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仏教における業報輪廻思想は、業報によって死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わり、その後もずっと業報によって六道を輪廻するというものです。罪が深ければ、地獄に堕ちます。地獄が最も苦に満ちた場所であり、餓鬼・畜生がそれに続きます。餓鬼とは、常に飢餓の状態にあって、欲求不満によって苦しむ境界であり、その境界の生物も餓鬼と言います。畜生は、動物界のことで、その境界に住むのは動物です。これらの地獄・餓鬼・畜生を三悪道といいます。修羅とは、阿修羅のことで、もとは神でしたが、帝釈天と争って負け、海に突き落とされました。争いを好み、常に戦っています。人間とは、私たちのことです。まわりの変化に振り回され、疑惑と不安と恐怖の中で暮らしています。天とは、天上界のことで、そこに住んでいるのは神々です。六道の中では、安楽の境地ですが、寿命がありますので、死ぬ前は苦しみます。六道は、迷いの世界、苦の世界です。

インドでは、人間に生まれたことを悲しむようです。なぜなら、人間として生まれたということは、前世での行いが悪く、輪廻から解脱できなかったということだからです。バラモン教では、解脱すれば天界に生まれ変わると言いますので、人間に生まれた時点でアウトです。これから何度も輪廻を繰り返すことになります。人間ならまだいいのですが、地獄に堕ちれば、非常に長い間苦しむことになりますので、そのことを思えば苦しみます。よって、輪廻は恐怖の思想です。
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輪廻は恐怖
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4
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 14:34:52 修正

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輪廻は概念
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インドの有名な論師に龍樹がいます。龍樹とは、インド名のナーガールジュナ Nāgārjuna の中国語訳です。ナーガは龍の意で、アルジュナは、インドの叙事詩『マハーバーラタ』の主人公の一人の名前です。それを樹と音写しています。龍樹は、空の理を論じて、多くの仏教徒に影響を与えました。そのことから、大乗仏教の祖と呼ばれています。

龍樹の有名な論書に『中論』があります。詩の形式で、空の理を論じています。その中で、「縁起の法を空と説き、これを仮名となし、またこれを中道の義とする」と論じています。
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論書)
衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義

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訓読)
衆因縁生の法を 我れは即ち是れ無なりと説き
亦た是れ仮名なりと為す 亦た是れ中道の義なり

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サンスクリット)
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||

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太郎訳)
多くの因縁によって生起する事象を空だと説きます
また これは名称によってのみ仮に有り
また これを中道の義だといいます

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漢訳をしたのは鳩摩羅什です。鳩摩羅什は本来「空」と訳すべきśūnyatā(シュニャター)を「無」だと訳しています。これを誤訳だという人がいますが、おそらくは、わざとそのように訳したのでしょう。なぜなら、空と訳すと「有・空の中道」だという誤解が生じるおそれがあるからです。龍樹の示す中道は、「有・無の中道」です。しかし、中国では、「有・空の中道」だと解釈しましたので、龍樹の論じていることとは異なります。

因縁によって生じるものには自性(実体)がありません。これを空といいます。空にも実体は有りませんが、人々を導くために、あえて空という言葉を用います。つまり、空というのは仮です。仮に有るので「有」であり、実体が無いので「無」です。これを非有非無の中道といいます。

ここに出てくる「仮名」とは、プラジュニャプティ prajñapti の訳です。「仮の設定」という意味です。仮設・仮説・仮名などと訳されますが、現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けらた名称によって存在するものです。事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。すなわち、有無両辺のどちらにも偏らない見方です。

縁起によるものは、すべて概念です。言葉によって表すことはできますが、実体はありません。輪廻もまた概念です。事実として有るのではなく、概念として有ります。輪廻を信じている人の頭には輪廻が有り、信じていない人には輪廻は有りません。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という境界、業・解脱なども、信念がつくっている幻です。
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輪廻は概念
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3
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 12:12:29

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輪廻は方便
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私は、輪廻は方便だと思っています。このことを言うと輪廻肯定派の中には、激しく反論してくる人がいます。「輪廻は事実であって、方便ではない」と主張します。そういう人は、方便の意味を知らないのだと思います。方便とは、ウパーヤ upāya の訳であり、「近づく」というのが原意です。仏教では、「真理に近づける方法」のことを言います。

真理には二種があります。一つが俗諦で、もう一つが真諦です。俗諦とは、世俗の真理のことで、世俗の言葉によって表される真理です。真諦とは、言葉では表現できない真理です。第一義諦、勝義諦、真の真理、真実、正法、妙法などと言われます。言語道断・不可思議ですから、たとえ仏であっても、真諦を言葉では顕せません。しかし、釈尊は、人々に真諦を覚らせようと方便を使いました。それが俗諦です。人々が理解できることを説くことによって、そのことで真諦へと近づけたのです。言葉によって説かれたことは真諦ではなく、俗諦です。よって、言葉による説法は、すべて方便です。輪廻だけが例外ではありません。輪廻も方便です。

多くの人たちは、方便を誤解しているようです。「嘘も方便」という言葉があるために、方便を嘘のことだと思っています。嘘だと思っていない人も、軽く見ている傾向があります。方便のことをしっかり理解できれば、輪廻は方便だと納得できることでしょう。
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輪廻は方便
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2
ダルマ太郎 2024/05/16 (木) 11:33:28

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輪廻の有無
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輪廻は有るのか? 無いのか? 有るといえば有見だし、無いといえば無見になります。有見にしろ、無見にしろ、仏教においては邪見なので、そのような見解は否定されます。有無の両辺に偏らないことが答えです。それは、非有非無の中道でしょう。

輪廻が有ることも、輪廻が無いことも、実証ができません。どちらにせよ、根拠がないので有無を断言することはできません。輪廻が有ると主張する人は、経典に輪廻のことが書いているから事実として有るのだ、といいます。確かに経典には、輪廻のことが書いてあるけれど、それが事実なのかどうかは分かりません。経典は教本であって、釈尊の説法の記録ではありませんから、相手を救済・教化するのが経典の目的です。よって、相手に応じて説法をします。相手が輪廻を信じているのなら、それを否定せずに受け入れて、輪廻の話をすることもあります。初期仏教の経典では、このパターンが多いようです。

輪廻が有るという人の根拠は、経典にあるということだけではないでしょうか。他は、有ると信じているから有るという根拠のない思い込みです。漫画やアニメ、本、占いなどの影響で、有ると信じているのでしょう。信じることによって、何のメリットがあるのかは分かりませんが、信じている人は多いですね。

廻が無いという人は、輪廻が有ることの証明ができないからのようです。どちらにせよ、信じるか信じないかは、その人次第なのですから、個々によって考え方は異なります。
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輪廻の有無
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1
ダルマ太郎 2024/05/15 (水) 20:44:09 修正

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輪廻とは
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まず、輪廻とは何なのかを定義しておきます。デジタル大辞泉によれば、《〈梵〉saṃsāra(サンサーラ)の訳。流れる意》仏語。生ある者が迷妄に満ちた生死を絶え間なく繰り返すこと。三界・六道に生まれ変わり、死に変わりすること。インドにおいて業の思想と一体になって発達した考え。流転。転生。輪転。「六道に輪廻する」。日本国語大辞典によれば、「仏語。回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと」とあります。このように、死に変わり、生まれ変わることをいいます。

輪廻は、サンサーラ saṃsāra の中国語訳です。サンサーラの本来の意味は、「共に流れる」です。これは、すべての生き物は、生と死を繰り返すという古代インドの考えの表現です。回り続ける車輪のように、衆生は輪轉(りんてん)を繰り返し、際限なく死んでいきます。仏教では、人は三界(欲界・色界・無色界)と地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻するといわれています。

輪廻は、仏教の思想だというイメージが強いのですが、もともとはバラモン教の教えでした。ヴェーダ聖典の中のウパニシャッド(奥義)に出てきた思想です。業報によって苦の世界を輪廻し、そこから解脱するために修行者は修行をしていました。業・輪廻・解脱という思想です。業の主体・輪廻の主体・解脱の主体は、アートマン(我)だといわれています。アートマンとは、個の原理であり、個の主体であり、個の実体です。

仏教では、輪廻するところを三界(欲界・色界・無色界)と地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道だといいます。これらの世界は、迷いの世界であり、苦の世界です。天界は、六道の中では安楽な境地ですが、死があるため、完全なる安楽ではありません。人は、生死を繰り返して、苦の世界を輪廻しています。輪廻から抜け出さない限りは、ずっと苦の世界にいるわけです。仏教では、輪廻から解脱する方法として八正道が説かれました。正しい道を実践することによって、成仏し、涅槃に入れるというのです。
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輪廻とは
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41
ダルマ太郎 2024/05/15 (水) 18:29:34 修正

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五利使鬼神-2
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経)
 鳩槃荼鬼(くはんだき) 土埵(どだ)蹲踞(そんこ)せり
 或時は地を離るること 一尺二尺 往返遊行し 
 縦逸(じゅういつ)嬉戯(きげ)す (いぬ)の両足を捉って 
 撲って声を失わしめ 脚を以て(くび)に加えて 
 狗を怖して自ら楽む また諸鬼あり 
 その身長大に 裸形黒痩(らぎょうこくしゅ)にして 
 常にその中に住せり 大悪声を発して 
 叫び呼んで食を求む
 また諸鬼あり その咽 針の如し
 また諸鬼あり 首牛頭の如し
 或は人の肉を食い 或は復狗を食らう
 頭髪蓬乱(ぶらん)し 残害兇険(ざんがいくけん)なり
 飢渇(けかつ)にせまられて 叫喚馳走(けんかんちそう)

:
:
太郎訳)
 鳩槃荼鬼という小さな怪物が
 土間にうずくまっています
 ぴょんぴょんと屋敷中を跳びまわり
 自由に遊んでいます
 犬をみれば 犬の両足を捉えて押さえつけ
 殴って半殺しにし首を足で踏みつけ
 犬を怖がらせ それを楽しんでいます
 また 他にもさまざまな鬼がいます
 背は高く大きく 裸の身体は
 黒ずみ痩せこけています
 常に長者の朽ちた屋敷にいて
 大きな気持ちの悪い声で叫び呼んで
 いつも食べ物を求めています
 また 他にも鬼たちがいました
 その鬼たちの喉は細く針のようでした
 また 他にも鬼たちがいました
 それらの首は牛のようでした
 人の肉を喰らい
 または犬を食べています
 髪の毛をヨモギのようにぼさぼさに乱し
 その性質は残虐で
 荒々しく険しい態度でした
 飢えと渇きにせまられて
 喚き騒ぎながら
 走り回っていました

:
:
五利使鬼神-2
:
:

40
ダルマ太郎 2024/05/15 (水) 16:35:22

:
五利使鬼神(ごりしきじん)
:
経)
 その舎の恐怖 
 変ずる(かたち)是の如し
 処処に皆 
 ()()魍魎(もうりょう)有り
 夜叉・悪鬼あり 
 人肉を毒虫の属を食敢す 
 諸の悪禽獣
 孚乳産生(ふにゅうさんじょう)して 
 各自(おのおのみずから)
 (かく)し護る
 夜叉競い来り 争い取って之を食す
 之を食してすでに飽きぬれば 
 悪心(うた)(さか)んにして
 闘諍(とうじょう)の声 
 甚だ怖畏すべし

:
:
太郎訳)
 長者の屋敷の恐怖
 老朽化の様子はこのようでした
 また あちらこちらに
 化物・妖怪・怪物が潜んでいます
 夜叉や凶悪な鬼たちがいて
 人の死体や毒虫の類を食べました
 様々な獰猛な鳥たちや獣たちが
 卵を産み子を生み
 それぞれが隠して育てています
 しかし夜叉たちは それらを競って探し
 奪い合って食べてしまいます
 満腹となった夜叉たちの悪の心は増長し
 盛んになって さらに激しく争います
 闘い争う声は 非常に恐ろしいものです

:
:
五利使鬼神
:
:

39
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 20:03:14 修正

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欲界に火が起こる
:
焼かれる所の類
:
五鈍使禽獣(ごどんしきんじゅう)
:
経)
 ()(きょう)(じゅ) ()(しゃく)()鴿(ごう)
 蚖蛇(がんじゃ)(ふく)(かつ) 蜈蚣(ごく)蚰蜒(ゆえん)
 守宮(しゅぐう)百足(ひゃくそく) ()()(けい)()
 諸の悪虫の輩 交横馳走す
 屎尿の臭き処 不浄流れ溢ち
 蜣蜋(こうろう)諸虫(しょちゅう) しかもその上に集まり
 ()(ろう)野干(やかん) 咀嚼践踏(そしゃくせんどう)
 死屍を斉齧(ざいけつ)して 骨肉狼藉(こつにくろうじゃく)
 これに由って群狗(ぐんく) 競い来って搏撮(はくさつ)
 飢羸章惶(けるいしょうおう)して 処処に食を求め
 闘諍摣掣(とうじょうしゃせい)し 啀齔皐吠(がいざいごうばい)
 
:
:
太郎訳)
 トビ フクロウ クマタカ ハゲワシ
 カラス カササギ ハト イエバト
 毒ヘビ マムシ サソリ
 ムカデ ゲジゲジ
 ヤモリ オサムシ
 イタチ タヌキ ハツカネズミ ネズミ
 などの悪い虫どもが
 縦横無尽に走り回っています
 大小便の臭いがたちこめるところには
 不浄物が流れ込んで溜まっており
 糞虫の類がその上に集まっています
 オオカミが人の肉を喰い散らかし
 キツネやジャッカルは飢えて
 お互いを噛み争っています
 食べ残った肉片を求めて
 飢えた犬たちが群れて来て
 打ち合い掴みあいます
 飢えて痩せ衰えてガツガツし
 あちこちをうろついて食べ物をあさり
 食べ物があると争い闘って
 歯をむき出して吠えあっています

:
:
五鈍使禽獣
:
:

38
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 19:01:37

:
偈頌
:
経)
 仏重ねてこの義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく。

:
:
太郎訳)
 仏は、重ねて譬え話を偈頌にして説きました。

:
:
開譬
:
総譬
:
経)
 譬えば長者 一の大宅あらん 
 その宅久しく()りて また頓弊(とんぺい)
 堂舎高く危く 柱根(くだ)け朽ち
 梁棟(りょうとう)傾き(ゆが)み 基陛(きべい)(くず)(やぶ)
 墻壁(しょうびゃく)やぶれさけ 泥塗(でいづ)(あば)け落ち
 覆苫(ふせん)乱れ墜ち 椽梠(でんりょ)(たが)い脱け
 周障屈曲して 雑穢(ぞうえ)充遍せり
 五百人あって その中に止住す

:
:
太郎訳)
 たとえば ここに長者がいて
 大きな屋敷を持っていたとしましょう
 その屋敷は建ってから随分となりますので
 老朽化が進んでいます
 屋敷は高くそびえ立派に見えますが
 実際は非常に危険な状態でした
 柱の根は くだけて腐り
 梁や棟は 傾いて歪み
 階段はくずれ穴が開き
 垣根や壁は 壊れて破れ
 泥や漆喰は はげて落ち
 屋根のムシロも乱れ落ち
 垂木も垂木を支える横木も抜けかかり
 まわりの壁は曲がりくねって
 屋敷中にゴミやガラクタが
 充満していました
 その屋敷には
 五百人が住んでいました

:
:
総譬
:
:

37
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 18:45:02

:
長者無虚妄
:
経:舎利弗。彼の長者の初め三車を以て諸子を誘引し、しかして後にただ大車の宝物荘厳し安穏第一なることを与うるに、しかも彼の長者虚妄の咎なきが如く、如来もまたまた是の如し。虚妄あることなし。初め三乗を説いて衆生を引導し、しこうして後にただ大乗を以て之を度脱す。何を以ての故に。如来は無量の智慧・力・無所畏・諸法の蔵あって、よく一切衆生に大乗の法を与う。ただ尽くしてよく受けず。舎利弗、この因縁を以て当に知るべし、諸仏方便力の故に、一仏乗に於て分別して三と説きたもう。
:
:
太郎訳:シャーリプトラよ。譬え話の長者が、はじめは三車で子ども達を誘ったのに、結果として、平等に宝石で飾った安全な大車を与えたことを誰も長者の嘘だと責めないように、如来もまた同様です。嘘偽りはありません。はじめは三乗を説いて人々を導き、修行が進んだ後に、平等に大乗の教えを説いて人々を成仏へと導きます。なぜならば、如来は無量の智慧と力と怖れのないこと、様々な教えを持っているのですから、よく一切の人々に大乗の教えを与えることが出来るのです。ただし、多くの人々はこの教えを受けようとはしません。シャーリプトラよ。このような理由によって、諸仏は、すべての人々を成仏に導くために方便力により、人々に応じて三乗を説くのです。
:
:
長者無虚妄
:
:

36
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 18:10:10

:
等賜大車
:
経:舎利弗。彼の長者の、諸子等の安穏に火宅を出ずることを得て無畏の処に到るを見て、自ら財富無量なることを惟うて、等しく大車を以て諸子に賜えるが如く、如来もまたまた是の如し。これ一切衆生の父なり。もし無量億千の衆生の、仏教の門を以て三界の苦・怖畏の険道を出でて、涅槃の楽を得るを見ては、如来その時に便ちこの念を作さく。我、無量無辺の智慧・力・無畏等の諸仏の法蔵あり。この諸の衆生は皆これ我が子なり。等しく大乗を与うべし。人として独滅度を得ることあらしめじ。皆、如来の滅度を以て之を滅度せん。是の諸の衆生の三界を脱れたる者には、悉く諸仏の禅定・解脱等の娯楽の具を与う。皆これ一相一種にして、聖の称歎したもう所なり。よく浄妙第一の楽を生ず。
:
:
太郎訳:シャーリプトラよ。譬えの長者の子ども達が、火宅を無事に抜け出せて、安心できる場所に移動できたのを見て、長者がどの子にも等しく大車を与えたように、諸仏も人々に最高の教えを与えます。仏は一切衆生の父です。もし、多くの人々が、諸仏の説く通りに修行をし、この世界の苦しみや恐怖、不安の険しい道を出て、涅槃の境地に入ったのを見たならばその時に如来は、このように想うでしょう。私は、諸仏と同じように無量の智慧と力と怖れを取り除く力を持っています。この世界の衆生は、皆、私の子です。全員平等に成仏の道を与えましょう。人によって異なる目的を示すことはありません。皆、諸仏と同じ目的を衆生にも示します。この苦しみの世界を脱け出る者には、全員に諸仏の禅定・解脱・三昧などの聖なる最高の境地、素晴らしい玩具を与えます。これらは、すべて同じものであり、聖なる者たちの称歎する境地です。よく、浄く優れ第一の楽を起こします。
:
:
等賜大車
:
:

35
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 18:06:09

:
用車-2
:
経:舎利弗。もし衆生あり、内に智性あって、仏世尊に従いたてまつりて法を聞いて信受し、慇懃に精進して速かに三界を出でんと欲して自ら涅槃を求むる、これを声聞乗と名く。彼の諸子の羊車を求むるを以て火宅を出ずるが如し。もし衆生あり、仏世尊に従いたてまつりて法を聞いて信受し、慇懃に精進して自然慧を求め、独善寂を楽い深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名く。彼の諸子の鹿車を求むるを為て火宅を出ずるが如し。もし衆生あり、仏世尊に従いたてまつりて法を聞いて信受し、勤修精進して一切智・仏智・自然智・無師智・如来の知見・力・無所畏を求め、無量の衆生を愍念安楽し、天人を利益し一切を度脱する、これを大乗と名く。菩薩この乗を求むるが故に名けて摩訶薩とす。彼の諸子の牛車を求むるを為て火宅を出ずるが如し。
:
:
太郎訳:シャーリプトラよ。ある人々において、内面に智性があり、諸仏に従って教えを聞いて信じて受け、苦の世界から抜け出すためにきちんと精進し、自分から涅槃を求めたならば、これを声聞の修行といいます。譬えの中の子ども達が羊車を求めることによって火宅を脱出したことと同じです。ある人々において、諸仏に従って教えを聞いて信じて受け、覚りを求めて、きちんと精進し、独り静かに善行をして深く因縁を観察したならば、これを縁覚の修行といいます。譬えの中の子ども達が鹿車を求めることによって火宅を脱出したことと同じです。ある人々において、諸仏に従って教えを聞いて信じて受け、完全なる悟りを求めて、勤めて精進をし、多くの人々を憐れんで救いだし、天上界の神々と地上界の人々に功徳を回向し、大衆を成仏へと導いたならば、これを大乗といいます。成仏を求める者がこの修行をするとき、菩薩摩訶薩といいます。譬えの中の子ども達が牛車を求めることによって火宅を脱出したことと同じです。
:
:
用車-2
:
:

34
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 17:59:45

:
用車-1
:
経:ただ、智慧方便を以て三界の火宅より衆生を抜済せんとして、為に三乗の声聞・辟支仏・仏乗を説く。しかもこの言を作さく。汝等楽って三界の火宅に住することを得ること莫れ。麁弊(そへい)の色・声・香・味・触を貧ること勿れ。もし貧著して愛を生ぜば則ちこれ焼かれなん。汝等速かに三界を出でて、当に三乗の声聞・辟支仏・仏乗を得べし。我今汝が為にこの事を保任す、終に虚しからず。汝等ただ当に勤修精進すべし。如来この方便を以て衆生を誘進す。またこの言を作さく。汝等当に知るべし、この三乗の法は皆是れ聖の称歎したもう所なり。自在無繋(むけい)にして依求する所なし。この三乗に乗じて、無漏の根・力・覚・道・禅定・解脱・三昧等を以て自ら娯楽して、便ち無量の安穏快楽を得べし。
:
:
太郎訳:ただ、智慧と方便によって、世界のあらゆる苦しみから人々を救おうとして、そのために修行方法を声聞・縁覚・菩薩という三種に分けて説きました。そして、このように想うのです。みなさん、苦しみの世界の中で楽しみを求めてはいけません。眼、耳、鼻、舌、肌を楽しませるために、粗末なものを欲しがってはいけません。もし、色形、音声、香り、味、接触という外界のものに執着し、渇愛を起こせば、熱せられ、焼かれることになります。みなさんは、速やかにこの世界から抜け出して、声聞・縁覚・菩薩という三種の修行を得て下さい。私は、みなさんを相応しい道へと導きます。そのことを保証します。これは、誠であって偽りではありません。みなさんは、それぞれの道で修行に専念してください。如来は、この方便によって人々を導きます。そして、また、このように思うのです。みなさん、よく知っておいてください。この三乗の教えは、すべて聖なる者たちの称歎する内容です。縛られることのない自由自在の心で、依存や欲望がありません。この声聞・縁覚・菩薩の三種の修行をし、迷いのない五根、五力、七覚支、八正道、禅定、解脱、三昧などによって、自らが願って精進し、無量の安らかなる境地を得て下さい。
:
:
用車-1
:
:

33
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 17:52:10

:
捨几
:
経:舎利弗。如来またこの念を作さく。もし、我但神力及び智慧力を以て方便を捨てて、諸の衆生の為に如来の知見・力・無所畏を讃めば、衆生これを以て得度すること能わじ。所以は何ん。この諸の衆生未だ生・老・病・死・憂悲苦悩を免れずして、三界の火宅に焼かる。何に由ってかよく仏の智慧を解らん。舎利弗。彼の長者のまた身手に力ありといえども、しかも之を用いず。但慇懃(おんごん)の方便を以て諸子の火宅の難を勉済して、しこうして後に各珍宝の大車を与うるが如く、如来もまたまた是の如し。力・無所畏ありといえどもしかも之を用いず。
:
:
太郎訳:シャーリプトラよ。如来は、またこのようにも思うのです。もし、私が、ただ神通力と智慧力だけを用い、方便を捨てて、如来の智慧・力を示し、恐れを取り除いたとしても、人々は、この教えによって悟ることができません。なぜならば、この人々は、まだ、生老病死の苦、憂い、悲しみ、苦悩から離れられず、世間の現象に振り回され、あたかも火宅で炎に焼かれているかのようです。どのようにすれば、仏の智慧を得ることが出来るのでしょう? シャーリプトラよ。話の中の長者は、肉体が立派であり、力持ちですが、力によって子供たちを救おうとはしませんでした。真心を込めた方便によって、子供たちを火宅から救いだし、無事に救出した後に、珍しい最高の大車を与えました。如来もまた同じように、人々を救う智力や人々の恐れを取り除く力があっても、それを用いません。
:
:
捨几
:
:

32
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 17:45:46

:
別譬に合す
:
見火
:
経:諸の衆生を見るに生・老・病・死・憂悲苦悩に焼煮せられ、また五欲財利を以ての故に種々の苦を受く。また貧著し追求するを以ての故に、現には衆苦を受け、後には地獄・畜生・餓鬼の苦を受く。もし天上に生れ及び人間に在っては、貧窮困苦・愛別離苦・怨憎会苦、是の如き等の種々の諸苦あり。衆生其の中に没在して歓喜し遊戯して、覚えず知らず驚かず怖じず、亦厭うことを生さず解脱を求めず。この三界の火宅に於て東西に馳走して、大苦に遭うと雖も以て患いとせず。舎利弗。仏これを見おわって便ちこの念を作さく。我はこれ衆生の父なり。その苦難を抜き無量無辺の仏智慧の楽を与え、それをして遊戯せしむべし。
:
:
太郎訳:人々を見れば、生老病死の苦をはじめ、様々な辛さ、悲しさ、悩みに身を焼かれ、心を煮られています。また、見る楽しみ、聞く楽しみ、食べる楽しみ、嗅ぐ楽しみ、触れる楽しみを欲しがり、財産や物質などを手に入れようとするために様々な多くの苦を受けています。また、欲しいものに執着し、それを追い求めるために、現世では色んな苦しみを受け、来世でも、地獄・畜生・餓鬼の世界に墜ちて、大きな苦しみを受けることになります。もし、天上界に生まれ、神々となっても、または、人として地上界に生まれたとしても、貧困に窮する苦しみや、愛する者との別れ、怨みをもつ者との出会いなど様々な苦を受けることでしょう。人々は、このような苦の世界にいても、そのことに気づかず、気づいていても気にせず、快楽を求め、遊びに夢中で火宅を覚えず、知らず、驚かず、怖れていません。また、それを嫌だと思って逃げようともしません。この、恐ろしい火宅で、あちこちを走り回り、大きな苦に出会っても、立ち向かおうとしません。シャーリプトラよ。仏は、このような現実を見て思うのです。私は、人々の父です。皆さんの苦しみを抜き、無量の仏の智慧によって、最高の楽を与え、そのことで、本当の意味での自由自在の境地へと人々を導くことが願いなのです。
:
:
見火
:
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31
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 11:34:45

:
合譬
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総譬に合す
:
経:仏、舎利弗に告げたまわく。善哉善哉、汝が所言の如し。舎利弗、如来もまたまた是の如し。則ちこれ一切世間の父なり。諸の怖畏(ふい)衰悩(すいのう)憂患(うげん)・無明・暗蔽(あんぺい)に於て永く尽くして余なし。しかも悉く無量の知見・力・無所畏を成就し、大神力及び智慧力あって方便・智慧波羅蜜を具足す。大慈大悲常に懈倦(けげん)なく、恒に善事を求めて一切を利益す。しかも三界の朽ち故りたる火宅に生ずること、衆生の生・老・病・死・憂悲苦悩・愚痴暗蔽・三毒の火を度し、教化して、阿耨多羅三藐三菩提を得せしめんが為なり。
:
:
太郎訳:釈尊は、シャーリプトラに告げました。素晴らしい! あなたが、言った通りです。シャーリプトラよ、如来も長者と同じです。如来は、すべての者たちの父です。様々な、怖れ、衰え、悩み、苦しみ、病い、無智、煩悩などから、永く離れた者です。しかも、如来は、無量の智慧と人々を救う力と怖れずに教えを説く力を完成させており、大いなる超人的な能力と智慧の力を持っており、方便と智慧とを完全に具えています。大きな慈悲の心は変わることなく、常に人々の善き縁となるよう、すべてに利益を与えます。そのような仏が、古くて朽ちている火宅に現われるのは、人々の生老病死の苦、不安や悲しみ、苦悩、愚痴、煩悩、貪欲、無智、怒りなどの火を消して教化し、無上最高の悟りへと導くためです。
:
:
総譬に合す
:
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30
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 11:14:43

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長者虚妄せず
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経:舎利弗。汝が意に於て云何。この長者、等しく諸子に珍宝の大車を与うること寧ろ虚妄ありや不や。舎利弗の言さく。不なり。世尊。この長者、ただ諸子をして火難を免れその躯命を全うすることを得せしむとも、これ虚妄に非ず。何を以ての故に、もし身命を全うすれば便ちこれすでに玩好の具を得たるなり。況んやまた方便して彼の火宅よりしかも之を抜済せるをや。世尊。もしこの長者、乃至最小の一車を与えざるも、なお虚妄ならじ。何を以ての故に、この長者先にこの意を作さく。我方便を以て子をして出ずることを得せしめんと。この因縁を以て虚妄なし。何に況んや、長者自ら財富無量なりと知って、諸子を饒益せんと欲して等しく大車を与うるをや。
:
:
太郎訳:シャーリプトラよ。あなたはどのように思いますか? この長者が平等に子供たちに対して珍しい大車を与えたことは、嘘をついたことになるのでしょうか? 尊者シャーリプトラは答えました。いいえ。嘘をついたことにはなりません。世尊。この長者は、子供たちを火宅から救出し、その身体と命を助けたのですから、これを、嘘とは申せません。なぜならば、もし命が助かれば、欲しかったおもちゃも得たことになるからです。しかも、おもちゃを与えようと言ったのは、方便によって、子供たちを救おうとしたからです。世尊。もし、この長者が、たとえ小さな車を与えなくても、それでも、嘘をついたことにはなりません。なぜならば、この長者は、先にこのように考えました。方便によって子供たちを救うのだと。長者は、方便によって子供たちを実際に救ったのですから、このことからも、嘘をついたことにはなりません。ましてや、この長者は、自分に無量の財産があることを知っておリ、子供たちに慈悲をもって幸せに導くために、大車を与えたのですから、嘘をついたことにはなりません。
:
:
長者虚妄せず
:
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29
ダルマ太郎 2024/05/14 (火) 11:04:36

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等しく大車を賜う-2
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経:しかもこの念を作さく。我が財物極まりなし。下劣の小車を以て諸子等に与うべからず。今この幼童は皆これ吾が子なり。愛するに偏黨(へんとう)なし。我の是の如き七宝の大車あってその数無量なり。当に等心にして各各(かっかく)に之を与うべし。宜しく差別すべからず。所以は何ん、我がこの物を以て周く一国に(たも)うとも、なお(とぼ)しからじ。何に況んや諸子をや。この時に諸子、各大車に乗って未曾有なることを得るは、本の所望に非ざるがごとし。
:
:
太郎訳:しかも、長者はこのように思っていました。私の財物は無量だ。それなのに、子供たちにみすぼらしい車を与えるのはよくないことだ。この幼い子供たちは、みんな等しく私の子供だ。愛するのに偏ることはしない。私は、この立派な大車をたくさん持っている。みんなに等しく、それぞれにこれを与えよう。相手によって差別はしない。なぜならば、私は国中の人々に与えても、まだ、余る程にこの大車を持っているのだ。それなのに、なぜ自分の子供たちに与えないことがあるだろうか。この時に子供たちは、各々が大車に乗って遊び、非常に珍しい大車を得た喜びにひたっていますが、実は、もともと欲しい物を得たのではありません。
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等しく大車を賜う-2
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28
ダルマ太郎 2024/05/13 (月) 14:26:22

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%%{fg:red}等しく大車を賜う%%
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経:この時に長者、諸子等の安穏に出ずることを得て、皆四衢道(くどう)の中の露地に於て坐してまた障碍無く、その心泰然として歓喜踊躍するを見る。時に諸子等各父に白して言さく。父先に許す所の玩好の具の羊車・鹿車・牛車、願わくは時に賜与したまえ。舎利弗。その時に長者各諸子に等一の大車を賜う。その車高広にして衆宝荘校(しゅうぼうしょうこう)し、周匝して欄楯(らんじゅん)あり。四面に鈴を懸け、また、その上に於て憲蓋を張り設け、また珍奇の雑宝を以て之を厳飾し、宝縄絞絡(ほうじょうきょうらく)して諸の華瓔(けよう)を垂れ、蜿筵(おんねん)を重ね敷き丹枕(たんちん)を安置せり。()するに白牛を以てす。膚色充潔(ふしきじゅうけつ)形体朱好(ぎょうたいしゅこう)にして大筋力あり。行歩平正にして、その疾きこと風の如し。また僕従多くして之を侍衛せり。所以は何ん、この大長者財富無量にして、種々の庫蔵(こぞう)悉く皆充溢(じゅういつ)せり。
:
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太郎訳:この時に長者は、子供たちが無事に出てきて、四つ角の露地に坐って障りなく、元気に歓喜踊躍しているのを見ました。その時に子供たちは、それぞれに父に言いました。お父さん。先ほど言っていた珍しい羊の車・鹿の車・牛の車を、どうぞ、僕たちに下さいな。シャーリプトラよ。その時に長者は、子供たちみんなに等しく同じように立派な大車を与えました。その車は、高く広く、宝で美しく飾られまわりには手すりがあります。四方に鈴がかけられていて、上部には布が張ってあって屋根となり、それにも珍しい宝が飾られています。美しい縄が屋根の張り出しから垂れていて、床には柔らかい座布団が敷かれており、赤色の枕が置かれています。この大車を引くのは白い牛です。皮膚は美しく清潔で、身体の形もよくて筋力があり、歩く姿は穏やかで整っており、走れば風のように早く進むことができます。大車のまわりには、多くの召使がいて、これを護衛しました。なぜ長者は、このような立派な大車を子供たちに与えたのでしょう? なぜならば、この長者は非常に金持ちであり、たくさんの倉庫には、それぞれに財産が充満していました。
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等しく大車を賜う
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10
ダルマ太郎 2024/05/13 (月) 11:00:37

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輪廻の否定
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太郎論:仏教徒は、輪廻が有ると信じるのが正常であり、輪廻を否定するのは異常だととらえる人が割と多くいるようです。輪廻を否定する人をバカだという人もいます。困ったものです。そういう人は、初期仏教の経典だけを学び、大乗経典を学んでいないのでしょう。

高校生くらいの頃は、私も輪廻を信じていました。手塚治虫先生の『火の鳥』の影響です。大人になって、色々と仏教を学んでいく内に、輪廻というのは方便であり、事実としての輪廻は否定されていることが分かりました。特に大乗仏教の経典では、「不生死」「無生死」「非生死」という言葉がよく出てきます。生死とは輪廻のことです。漢訳経典では、輪廻という言葉はあまり使われず、生死という言葉が使われます。不・無・非は、いずれも否定を意味しますので、「不生死」「無生死」「非生死」は、どれも輪廻の否定のことです。また、無生無死・無生法忍という言葉もよく出てきます。これらも輪廻を否定する言葉です。

初期仏教経典では、これらの言葉は使われておらず、大乗仏教の経典でよく使われています。よって、初期経典を読む人は輪廻を信じ、大乗経典を読む人は信じていないというように、意見が対立する結果になっています。

輪廻を否定するといっても、無見・断見ではありません。輪廻が有るという断定、輪廻が無いという断定を否定します。輪廻は概念としては有り、実体はありませんから、非有非無の中道です。輪廻は有るという人は、常見ではないでしょうか? 輪廻は経典に書いてあるから事実として有る、というのなら、輪廻を実体視していますから常見です。
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5
ダルマ太郎 2024/05/13 (月) 09:31:12

趣味のブログ始めました。

リンク

27
ダルマ太郎 2024/05/12 (日) 20:34:13

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車を用う
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経:その時に長者即ちこの念を作さく。この舎すでに大火に焼かる。我及び諸子もし時に出でずんば必ず焚かれん。我今当に方便を設けて、諸子等をして斯の害を免るることを得せしむべし。父諸子の先心に各好む所ある、種々の珍玩奇異の物には情必ず楽著せんと知って、之に告げて言わく。汝等が玩好するところは希有にして得難し。汝もし取らずんば後に必ず憂悔せん。此の如き種々の羊車・鹿車・牛車、今門外にあり、以て遊戯すべし。汝等この火宅より宜しく速かに出で来るべし。汝が所欲に随って皆当に汝に与うべし。その時に諸子、父の所説の珍玩の物を聞くに、その願に適えるが故に、心各勇鋭して互に相推排し、競うて共に馳走し争うて火宅を出ず。
:
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太郎訳:その時に長者は、このように考えました。この屋敷は、すでに大火に焼かれている。子供たちは外に出なければ焼かれてしまう。私は、今、方便によって子供たちを救い出すしかないだろう。父は、子供たちが以前から欲しがっていた様々な珍しいおもちゃや不思議なものであれば興味を持つであろうと想い、子供たちに向かって叫びました。子供たちよ。お前たちが欲しがっていた物がここにあるぞ! 非常に珍しくて手に入れることが珍しい物だ。もし、今、手に入れなければ、きっと後悔するだろう。羊の車・鹿の車・牛の車が、今、門の外にある。これで、遊ぶのがいいだろう。子供たちよ。この火宅から速やかに出てきなさい。お前たちの欲しい車を与えよう。その時に子供たちは、父が言う車に興味を持ちました。それは、以前から欲しかった物だったのです。子供たちは、勢いよく相手を押しのけるように急ぎ、競って走り、争って火宅を出ました。
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車を用う
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26
ダルマ太郎 2024/05/11 (土) 23:53:25

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几を捨てる
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経:舎利弗。この長者是の思惟を作さく。我身手(しんしゅ)に力あり。当に衣裓(えこく)を以てや、もしは几案(きあん)を以てや。(いえ)より之を出すべき。また更に思惟すらく。この舎は唯一門あり。しかもまた狭小なり。諸子幼稚にして未だ識る所あらず、戯処(けしょ)恋著(れんじゃく)せり。或は当に堕落して火に焼かるべし。我当に為に怖畏(ふい)の事を説くべし。この舎すでに焼く。宜しく時に疾く出でて火に焼害せられしむることなかるべし。この念を作しおわって、思惟する所の如く(つぶ)さに諸子に告ぐ。汝等速かに出でよ、と。父、憐愍(れんみん)して善言をもって誘諭(ゆゆ)すといえども、しかも諸子等嬉戯(きけ)楽著(ぎょうぢゃく)し肯て信受せず、驚かず畏れず、(つい)に出ずる心なし。またまた何者かこれ火、何者かこれ舎、云何なるをか失うとなすを知らず。ただ東西に走り戯れて父を視てやみぬ。
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太郎訳:シャーリプトラよ。この長者は、このように考えました。私は、力に自信がある。木の箱に入れるか、机の上にみんなを乗せて押して一気に助け出そうか? また、さらに考えました。この屋敷には門が一つしかない。しかも、狭くて小さい。子供たちは、幼稚でまだ火のことを知らない。遊びに夢中になっている。このままでは、火に焼かれてしまう。私は、子供たちに危険な状態だと説得するほうがいいのだろうか。この屋敷は火事だ。早く出て来なければ危険だ。火から逃げて、安全な所に出ることが必要だと教えることが先決だ。そう考えて、すぐに長者は、考えた通りのことを子供たちに言いました。子供たちよ! 速やかに出て来なさい! 父は、子供たちを哀れだと思い、一生懸命に声を掛けて誘い出そうとしますが、子供たちは、まだ遊びに夢中で知らんふりです。驚かず、怖れず、逃げようという心になりません。また、火とはどういうものかを知らず、屋敷がどういうものかを知らず、命を失うことがどういうことかも知りません。ただ、あちこちを走りまわり戯れて、たまに父を見ますが、気にもせず無視しています。
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几を捨てる
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ダルマ太郎 2024/05/11 (土) 19:22:03 修正

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別譬
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火を見る
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経:長者この大火の四面より起るを見て、即ち大に驚怖してこの念を作さく。我はよくこの所焼の門より安穏に出ずることを得たりといえども、しかも諸子等、火宅の内に於て嬉戯に楽著して、覚えず知らず、驚かず、怖じず。火来って身を逼め苦痛己を切むれども心厭患せず、出でんと求むる意なし。
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太郎訳:長者は、この大火が屋敷の四方から起こるのを見て、非常に驚き、恐怖を感じてこのように思いました。私は、火事の屋敷から、安全な場所に逃げ出すことが出来たけれど、私の子供たちは、まだ火宅の中にいて遊ぶことに夢中であり、火のことを知らず、驚かず、恐れていない。もう、そこまで火が迫って熱により熱くなっているのに、苦痛を感じず、遊びを止めることもなく、外に出ようともしない。
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別譬
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