仏教のお話

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2
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 00:58:50 修正 >> 1

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答 2)
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大智度論の最初の讃仏偈
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経)
智度大道佛從來 智度大海佛窮盡
智度相義佛無礙 稽首智度無等佛
有無二見滅無餘 諸法實相佛所説
常住不壞淨煩惱 稽首佛所尊重法
聖衆大海行福田 學無學人以莊嚴
後有愛種永已盡 我所既滅根亦除
已捨世間諸事業 種種功徳所住處
一切衆中最爲上 稽首眞淨大徳僧
一心恭敬三寶已 及諸救世彌勒等
智慧第一舍利弗 無諍空行須菩提
我今如力欲演説 大智彼岸實相義
願諸大徳聖智人 一心善順聽我説

:
訳)
般若波羅蜜多の大道は 仏だけが よく来られました
般若波羅蜜多の大海は 仏だけが 極めつくされました
般若波羅蜜多の特徴は 仏だけが とらわれがありません
般若波羅蜜多を成就された 比類なき仏に 敬意を表します
有無の二つの思想を滅して余すことがなく
諸法実相は 仏の所説です

・・・略・・・
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これは、龍樹が大智度論を論じるに先だって、釈尊を讃嘆している偈です。この中に、「有無二見滅無餘」という文がありますので、これに注目したいと思います。見とは思想のことです。仏は、有無という二つの思想を滅し尽くした、といいますから、仏教において、有無を否定することは、基本的な立場だということが分かります。
:
有見とは、「すべてのものには実体が有ると考え、実体に執着する思想」です。無見とは、「一切は無であると考え、そのことに執着する思想」です。仏教では、縁起を説いて、有無二見を否定しました。「すべてのものは因縁によって仮に有るので実体は無い」ということから、仮に有るので無を否定し、実体が無いので有を否定しました。非有非無の中道であり、これを空ともいいます。
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有見は常見とも呼ばれ、ものの実在に固執する見解です。無見は断見とも呼ばれ、虚無にこだわる見方です。インドの宗教の多くは、アートマン(自我)は実在し、常住すると考えています。死んでもアートマンは常にあると観るので、常見といいます。業報輪廻は、この常見が土台にあります。アートマンが有ることを前提にしています。アートマンが業報を積み、アートマンが輪廻し、アートマンが解脱をすると考えます。よって、アートマンを否定して、無我を説いた仏教は、常見を否定していることが分かります。
:
一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。釈尊は、因果の法を説き、因縁にはそれに相応しく果報があると説いたのですから、今世の因縁は、来世に果報として受け取ると教えています。これを相続といいます。特徴を受け継いでいくから相続です。アートマンが有るから輪廻するのではなく、特徴を受け継いで輪廻するのです。このことから、釈尊や龍樹の説く輪廻は、世間一般的に言われている輪廻とは異なることが分かります。アートマンが輪廻するとはいわないのです。
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龍樹は、中論の最初でも、帰敬序という讃仏偈を読んでいます。
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経)
不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一

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「不常亦不斷」とありますので、常見と断見を滅した仏を讃えていることが分かります。このように、非有非無の中道、非常非断の中道は、釈尊と龍樹の思想の根底にあることが分かります。
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1
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 00:20:49 修正

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答)
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ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:56

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こんばんは。
龍樹の『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』を読んでみました。Sさんが引用されているところは、質問者の質問に対し、龍樹が答えているところです。質問は、『摩訶般若波羅蜜経』の往生品第四の経文に関してです。その経文を参考のために引用します。

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経)
舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩。與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩。從一佛國至一佛國。常値諸佛終不離諸佛。舍利弗。有菩薩摩訶薩不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身値遇諸佛。是菩薩諸根不利。舍利弗。有菩薩摩訶薩入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虚空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行佛十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提。
:
訳)
舎利弗よ。あなたが問うたのは、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜と相応すれば、この間を終われば、どこに生まれるのか、ということですね。舎利弗よ。この菩薩摩訶薩は、一仏国から、一仏国に至り、常に諸仏に会い、ついに仏から離れることはありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、方便によらずに、初禅に入り、ないし第四禅に入り、または六波羅蜜を行じれば、この菩薩摩訶薩は、禅を得ることによって、長寿の天に生まれます。彼の寿命が終われば、この間に生まれ、人身を得て、諸仏に出会います。しかし、この菩薩の諸根は利ではありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、また般若波羅蜜を行じていても、方便によらなかったため、諸々の禅を捨て、欲界に生まれます。この菩薩の諸根もまた鈍いです。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、慈心に入り、ないし捨心に入り、虚空処に入り、ないし非有想非無想処に入り、四念処を修め、ないし八正道を修め、仏の十力、ないし大慈大悲を行うけれど、この菩薩が方便力を用いるがために、諸禅、無量心、四無色定に随って、生じることはなく、諸仏のところに生じて、常に般若波羅蜜の行から離れることがありません。この菩薩は、現在において、まさに無上の覚りを得るのです。

:
:
この経の内容について、対論者から質問があります。
:
経)
舎利弗は、今、前世と後世を問えるに、仏は何を以っての故にか、前世中の三種を答えて、後世中に広く分別したもう。
:
経典では、上記の内容の前に前世と現世のことが答えられていて、「他方の仏国」「兜率天」「人中」の三種について説いています。来世については詳しく広く説いているので、その違いを問うています。龍樹の答えの三番目が、質問者さんが訳しているところです。
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空を学び始めた者は、空を空と観ず、空の相をみて、空に執着します。「実体の欠如」の意味を深く理解しようとはせず、空を無だと誤解して、すべてを否定してしまいます。無来、無去、無出、無入という言葉によって、単純に輪廻を否定してしまいます。しかし、仏教では輪廻が無いとは断言していません。非有非無の中道を説いていますから、常見も断見も否定しています。無に執着している者には、生まれること、死ぬことを教えます。
:
:
> 初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない
:
初期仏教でも、大乗仏教でも、業報輪廻については説かれています。十二因縁・四諦・八正道は、輪廻から解脱することがテーマです。業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。それ以前から庶民には知られていたのでしょうが、このウパニシャッドでバラモンたちにも知られるようになりました。よって、輪廻説は、アーリヤ人の思想だったのではなく、インドの土着民族の思想だったのでしょう。
:
釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており、修行者たちは、輪廻からの解脱を目指しました。業報輪廻とは、善悪の行為によって善悪の業報を積み、その結果、死後、天上界・人間界・動物界・地獄界に趣くことです。悪業を繰り返せば、どんどん悪い世界に堕ちていきます。そして、長い間、苦の世界を輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積むしかありません。
:
インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。カースト制度とは、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という身分制度のことです。親の身分を子も引き継ぎ、身分は一生変わりません。奴隷の子は奴隷であり、死ぬまで奴隷です。努力精進しても、今世では身分は変わりません。しかも、今の自分の環境は、前世での自分の行為の結果なので、誰にも文句は言えません。業報輪廻は、自己責任の思想です。来世に期待し、今は我慢して善業をコツコツと積むしかありません。
:
釈尊は、人々の苦を抜き、楽を与えることを目的にして活動しました。その時、大きな課題として、業報輪廻とどのように取り組むかがありました。人々は、業報輪廻説を信じ切っており、苦の原因になっています。十二因縁に「生」が入るのは、この世界に生まれるということは、前世での善業が足りていなかったということが分かるからです。繰り返す輪廻から解脱できないことへの絶望は、苦そのものでしょう。仏教の根本義である十二因縁・四諦・八正道は、苦(輪廻)から解脱する道を説いています。
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しかし、釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。しかし、実際に苦しんでいる人々にとって、輪廻の有無は問題ではなく、必要なのは、治療のための薬です。悪業をつくらず、善業を積むことによって、心を浄化すれば、輪廻から解脱できることを教え、具体的には、八正道という修行方法を示しました。
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3
ダルマ太郎 2024/04/22 (月) 15:40:18

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方便品を先にします
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Rの法華三部経の解釈は、いよいよ法華経に入りました。法華経は、人々の固定概念を徹底的に崩していく痛快な内容です。私も色々と、目からうろこが落ちる体験をしました。衝撃的なことも書いてあります。
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序品を進めていたのですが、方便品を先に解釈したくなりました。序品も同時進行で書いていこうとは思っています。
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よろしくお願いします。
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方便品を先にします
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5
ダルマ太郎 2024/04/21 (日) 19:50:16 修正

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開三顕一(かいさんけんいち)
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声聞(しょうもん)とは
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太郎論:声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の意訳です。「声を聞く者」のことで、初期仏教では、釈尊の声を聞く者という意味であり、仏弟子という意味でした。つまり、出家と在家、男性と女性という区別はなく、仏弟子であれば、みんなが等しく声聞と呼ばれていました。大乗仏教になると、声聞とは、出家者のことをいうようになり、自分だけの解脱(げだつ)を求める者として大乗仏教徒から攻撃されました。
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辟支仏(びゃくしぶつ)とは
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辟支仏とは、プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha の音写です。「独りで覚った者」という意味で、独覚・縁覚などとも訳されます。縁覚とは、縁起を覚った者という意味です。日本では、縁覚という表現が好まれているようですので、私も縁覚と表すことにします。出家者は、家を捨て、家族を捨て、財産・土地・身分を捨てて、仏教教団に入り、僧伽(さんが)の中で修行します。ある程度修行が進むと僧伽からも離れて、山奥に入り、独りで修行する者がいました。それが縁覚です。仙人のようなイメージです。縁覚は、覚りを得ても他者に教えを布施しませんでしたので、声聞と同じく自分だけの解脱を求める者として、大乗仏教徒から攻撃されました。
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三乗
:
声聞・縁覚は、個人の救われしか求めないので、大乗仏教徒から「劣った乗り物」という意味で、ヒナヤーナ Hīnayāna と呼ばれました。中国では、「小乗」と訳しています。大乗仏教徒は、自分たちのことを菩薩と呼び、大乗だといいました。大乗とは、マハーヤーナ Mahāyāna の訳で、「大いなる乗り物」の意味です。
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声聞・縁覚を二乗ともいいます。釈尊は、誰もが仏に成れると説いていたのに、二乗の仏教徒たちは、自分たちが成仏できるはずがないとして、阿羅漢(あらかん)の位・辟支仏の位を目指しました。辟支仏は、覚ってはいても、最高の覚りを得たわけではありません。成仏という目的を捨てているので、大乗仏教徒は、二乗は成仏不可だといいました。大乗仏教徒は、自らを菩薩と呼び、成仏を目指す者だと宣言しています。仏道のプロが、新興仏教の大乗に馬鹿にされたため、二乗の仏教徒は、大乗を伝統のない、でっちあげの仏教だといって攻撃しています。こうして、声聞・縁覚と菩薩は対立していました。
:
法華経では、この声聞・縁覚・菩薩を三乗だと呼んでいます。そして、三乗とは方便であって、仏は一仏乗を説くのだとおっしゃっています。一仏乗の修行者のことも菩薩というのでややこしいのですが、三乗の菩薩が二乗を差別したのに対し、一仏乗は差別をしません。
:
:
開三顕一(かいさんけんいち)
:
方便品では、三乗は一仏乗に導くための方便だと説いています。聞解を好む者には声聞乗を説き、思惟を好む者には縁覚乗を説き、修習を好む者には菩薩乗を説いてきたけれど、それらの教えは、ただ一仏乗へと導くための方便だというのです。これを天台宗は、開三顕一といっています。開とは「開除」、顕とは「顕示」のことです。とらわれの心を開除し、真実を顕示するので開顕といいます。開三顕一とは、三乗への執着を開除し、一仏乗を顕示することです。
:
法華経では、その当時の修行者のタイプから声聞・縁覚・菩薩という区別をしていますが、これは、「無量の方便を説いて妙法に導く」ということの譬喩です。よって、現代においては、宗派や教団に当てはめるのがいいと思います。日蓮系・禅系・浄土系の宗派があるけれど、それは方便であって、すべての教えは仏道だということです。
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開三顕一
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:

4
ダルマ太郎 2024/04/21 (日) 16:08:30 修正

:
三昧
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太郎論:法華経の説法は、方便品から始まります。序品では無量義処三昧に入っているために言葉は発していません。三昧とは、サマーディ samādhi の音写であり、「まとめる」、「心を整える」、「意図的な熟考」、「完全な吸収」などの意味があります。瞑想によって深い精神集中に入った状態のことです。無量義処三昧というのは、無量義の教えについて熟考することです。法華経には、たくさんの三昧が出てきますが、ほとんどは、そのことを熟考する意味です。
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無問自説(むもんじせつ)
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太郎論:通常、仏教の経典では、誰かの質問に応じて釈尊が答えるという形式をとります。しかし、方便品では、誰からの質問もないのに、釈尊が舎利弗(しゃりほつ)に対して説法を始めました。これを無問自説といいます。質問に答えるのであれば、質問者の機根に合わせて説法をする必要がありますが、無問自説ならば、対機説法にする必要がありませんので、少々レベルの高い教えも説くことができます。
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舎利弗(しゃりほつ)への説法
:
太郎論:釈尊は、説法の相手に舎利弗を選ばれました。舎利弗は、仏教教団では「智慧第一(ちえだいいち)」だと言われています。その天才舎利弗に対して教えを説かれるのですから、これから説かれる教えは、かなりレベルの高い智的なものだと予想できます。舎利弗とは、シャーリプトラ Śāriputra の音写です。舎利弗の母親は、美しい眼を持っていたことから「シャーリ」と呼ばれていました。シャーリとは、鳥のサギのことです。サギの眼はギョロっとしているイメージですが、インドでは、美しいという感じなのでしょう。または、あだ名ではなく、本名だともいわれています。プトラは、「子」です。つまり、舎利弗とは、「シャーリの子」という意味です。玄奘(げんしょう)は、「舎利子(しゃりし)」と訳しています。
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仏の智慧(ちえ)
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太郎論:智慧とは、プラジュニャー prajñā の訳です。般若(はんにゃ)とも音写されます。真理(法)を観察する能力のことです。最高の真理(妙法)を得ることで、智慧を完成することができます。いわゆる般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)です。仏は、智慧を完成されて、妙法に目覚められていますので、仏の智慧とは、般若波羅蜜です。般若波羅蜜を得たことによって、無上の覚りである阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就されています。つまり、成仏されています。法華経以前に説かれた般若波羅蜜経では、智慧の完成がテーマでしたが、法華経では、般若波羅蜜の対象である妙法がテーマになります。
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太郎論:釈尊が、菩提樹の下で何を覚られたのかは分かりません。仮説としては、最高の真理である妙法と人々を妙法に導く方便の二つだといわれています。妙法は、言葉では表せません。なので、覚りを開かれた釈尊は、教化することを躊躇(ちゅうちょ)します。しかし、深く思惟(しゆい)し、方便力によって教化することを決められました。この方便とは何なのかが方便品のテーマであり、法華経全体のテーマでもあります。真理と方便、智慧と慈悲というキーワードが、法華経を学ぶときに重要です。
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太郎論:諸仏の智慧は甚深無量であり、その智慧の門は難解難入だと、釈尊はいわれます。覚りの境地は、非常に奥が深く、量ることができません。覚りの入口でさえも、それに入ることは難解であり、難入だと説かれます。その甚深無量・難解難入の智慧について、またその対象の妙法について、妙法へと導く方便について、これから法華経では説法が為されるわけです。
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三昧
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76
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 22:32:36 修正 >> 4

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法華三部経
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無量義経
:
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R論:釈尊は、いままでの四十余年間、こういう目的で、このように法を説いてきた、じつはまだ真実をすっかりうち明けていないのだ。しかし、今まで説いてきた教えもすべて真実であり、すべて大切なものである、なぜなら、すべての教えはただ一つの真理から出ているからである。
:
太郎論:日本の法華経信者の多くは、無量義経の「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉を切り取って、無量義経以前の教えでは、真実は説かれていないと主張し、法華経の方便品第二の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん) 但説無上道(たんぜつむじょうどう)」(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)を切り取って、法華経においては方便を捨てて無上の道を説くのだ、と主張します。
:
太郎論:「真実」は仏教用語では、「絶対の真理」「仮ではないこと」「究極のもの」「真如」を意味します。古代インドでは、真理は言葉では表せないといわれました。それは客体ではありませんから、客観的表現では表せません。言葉は人が作ったものなので、究極的な真理を言葉で表すことはできません。そのことを知っていれば、仏教経典にある教えはすべて真理ではなく、真理へと導く方便なのだと分かります。もちろん、法華経も言葉によって説かれていますから、方便です。
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序分・正宗分・流通分
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R論:序分(じゅぶん)〉とは、そのお経は、いつ、どこで、どんな人びとを相手として、なぜお説きになったのかという大要などが書かれてある部分。正宗分の糸口。

正宗分(しょうしゅうぶん)〉とは、そのお経の本論。中心となる意味をもった部分。

流通分(るずうぶん)〉とは、正宗分に説いてあることをよく理解し、信じ、身に行えば、どんな功徳があるかということを説き、だからこれを大切にして、あまねく世に広めよ、そういう努力をする者にはこんな加護があるのだよ、ということを説かれた部分。
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法華経 迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
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R論:迹門の教えは迹仏の教え。迹仏とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊のことです。ですから、迹門の教えは一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬ、ということを教えられたものです。いいかえれば、智慧の教えです。
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R論:本門では、「本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉である」ということを明らかにされます。したがって本門の教えは、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ、というもので、智慧を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
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太郎論:法華経には、「真理と現象」のことが説かれています。真理によって現象は起こり、住し、異変し、滅します。現象は真理によって起こります。また、真理は目に見えませんから、真理を覚るには現象を観察する必要があります。現象は真理によって起こりますから、現象を通して真理を観ることができる、という理屈です。ただし、そのことを理解するのは難しいので、法華経前半では、「言葉によって真理を知る」、ということが説かれています。真理へと導くものを方便といいますので、前半では、言葉を方便だとして説いています。後半では、「現象を通して真理を知る」、ということが説かれています。
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仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうぎょう)
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R論:わたしどもが法華経の精神を身に行うための具体的な方法として、(釈尊は)懺悔(さんげ)するということを教えられてあるのです。
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R論:修行次第で自分も仏になれるのだとわかっても、日常生活では悩みや苦しみ、いろいろな欲や悪念が次から次へと湧いてきます。それで、せっかく自分も仏になれるという勇気もくじけがちになります。つい迷いの黒雲に押し流されそうになるのです。その黒雲を払いのけるのが懺悔であり、その懺悔の方法を教えられたのが《観普賢経》なのであります。
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:
懴悔(さんげ)とは
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R論:第一に、「誤りを自覚する」
第二に、「それを改めることを心に誓う」
第三に、「正しい道に向かう努力をする」

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法華三部経
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3
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 20:29:26 修正

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略して開三顕一(かいさんけんいち)を顕す
:
言に寄せて権実二智を讃嘆する
:
諸仏の二智を讃嘆する
:
:
経:()の時に世尊、三昧(さんまい)より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧(ちえ)は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞(しょうもん)辟支仏(びゃくしぶつ)の知ること(あた)わざる所なり。所以(ゆえ)は何ん、仏(かつ)て百千万億無数の諸仏に親近(しんごん)し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)して、名称(みょうしょう)普く聞えたまえり。甚深未曾有(じんじんみぞう)の法を成就(じょうじゅ)して、(よろ)しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
:
R訳:その時、無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)という三昧(さんまい)に入っておられた釈尊は、三昧を終え、静かに目を開かれました。そして厳かに立ち上がられ、誰からの質問も待たずに自ら口をお開きになり、舎利弗(しゃりほつ)に向かって語り始められたのでした。仏の『智慧(ちえ)』は大変奥深く、『真理』はあまりにも深淵であるために、ふつうの人々には真理の内容を理解するのは困難です。しかも、声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)の境地にいる全ての者も、真理の意味を正しく理解することができません。仏はこれまでに無数の仏から教えを受け、数々の修行と努力を尽くしてきました。しかも様々な困難や、()き起る全ての煩悩にも打ち勝ち、ひたすら仏の境地に向かって精進(しょうじん)してきました。そしてついに、深淵な『真理』を悟ることができ、あらゆる人々から(あお)ぎ見られる身となったのです。
:
太郎訳:その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入れません。一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。人々が得ることの難しい智慧を、諸仏が得ることができたのは、仏は、過去に無数の諸仏を敬い、無数の諸仏の元で修行に修行を重ね、努力精進をしたからです。その結果、多くの人々に知られるようになり、尊敬されるようになりました。非常に深く得ることの難しい真理を覚って成仏した諸仏は、人々の機根に応じて教えを説かれましたが、その教えの内容の奥の奥の真意は人々には、なかなか理解できないものでした。
:
:
権実二智とは
:
太郎論:権実二智とは、権智と実智、方便と智慧のことです。法華経では、諸仏の二智を讃嘆し、どのようにして人々を覚りへと導くのか、その智慧と方便の具体的な実践を明かしています。
:
:
諸仏の二智を讃嘆する
:
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2
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 20:22:15 修正

:
迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
:
:
R論:〈迹門の教え〉は〈迹仏〉の教え。〈迹仏〉とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)のことです。ですから〈迹門の教え〉は一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬということを教えられたものです。いいかえれば、〈智慧(ちえ)〉の教えです。
:
R論:〈本門〉では、本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉であるということを明らかにされます。したがって〈本門の教え〉は、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ。というもので、〈智慧〉を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
:
:
太郎論:迹仏としての釈尊は、「宇宙の万物万象はこのようになっている」「人間とはこのようなものだ」ということを説いているのでしょうか? おそらくは、縁起のこと、菩薩道のことなのでしょうが、そのことは法華経以前から説かれていますから、法華経で初めて説かれたわけではありません。智慧とは、真理を観察する能力のことなので、現象を通して妙法を覚るためにあります。現象を把握する能力とは違うと思います。
:
太郎論:本仏とは、真理を体とする法身仏のことでしょう。真理によって現象が起こりますので、Rの会では、「あらゆるものを生かしている」と表現しているのでしょうね。しかし、大生命という言い方は、何だか神のように思えます。真理を法身仏だと譬えているのに、それをさらに大生命だと譬える必要があるのかが分かりません。実体を観るようになりそうに思えます。
:
:
迹門と本門 迹仏と本仏
:
:

1
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 16:32:47 修正

:
方便品の要点
:
:
R論:この《方便品第二》は、《如来寿量品第十六》とともに、《法華経》の中心と言われています。なぜでしょうか。
:
【第一の要点】は、釈尊は「人間は誰でも仏になれるのだ」という大宣言をなさったことです。すなわち〈一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている〉ということを教えられたのです。そして〈仏の目的は、すべての人びとに、自分自身がそなえている仏性を自覚させることにほかならない〉ことをはじめて明かされたのです。
:
【第二の要点】は、これまで様々な方法で人々を導いてきた教えは、すべて真実だったのです。教えを聞く人びとの機根の程度にふさわしい教えを説いて~ その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを〈方便〉というのですが~ 方便のようにみえても、それは真実の道なのです。「方便が方便だった」と明らかにされたとき、はじめてそれがとりもなおさず「真実の道」だということがハッキリしてくるわけです。その〈方便すなわち真実〉ということを言葉を尽くしてお説きになります。
:
:
太郎論:「人間は誰でも仏になれるのだ」という説は、理解できますが、「一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている」という説は違和感があります。仏性というものを私たちが持っているという意味に取られるかも知れません。そうなると、まるで仏性という実体が有るという感じになり、仏性に執着する結果になってしまうでしょう。実際にRの会の人と話すと、私たちは、仏性という仏と同じ心を持っている、と言います。釈尊は、無我を説き、無常を説いて、一切の執着から離れさせようとしたのですから、仏性を実体として観ることは仏教に反します。仏性とは、「成仏の可能性」という意味でとらえたほうがいいのではないでしょうか。「人間は誰でも仏になれるのだ」という説の方が執着をつくりません。
:
「その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを方便というのです」というのは、方便の意味が違うように思えます。方便とは、真理へと導く方法です。最高の真理(妙法)は言葉では表せませんが、言葉でしか導くことができないので、方便を用いたのです。
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方便品の要点
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75
ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 15:20:58 修正 >> 63

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正問
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経:爾の時に大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)、復仏に白して言さく、世尊、世尊の説法不可思議なり。衆生の根性亦不可思議なり。法門解脱亦不可思議なり。我等、仏の所説の諸法に於て復疑難なけれども、而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて世尊に()いたてまつる。如来の得道より已来(このかた)四十余年、常に衆生の為に諸法の四相の義・苦の義・空の義・無常・無我・無大・無小・無生・無滅・一相・無相・法性・法相・本来空寂・不来・不去・不出・不没を演説したもう。若し聞くことある者は、或は煖法(なんぽう)頂法(ちょうほう)世第一法(せだいいっぽう)須陀洹果(しゅだおんか)斯陀含果(しだごんか)阿那含果(あなごんか)阿羅漢果(あらかんが)辟支仏道(びゃくしぶつどう)を得、菩提心(ぼだいしん)を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至りき。往日(むかし)説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、何等の異ることあれば、而も甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言う、是の事云何。唯願わくば世尊、一切を慈哀して広く衆生の為に而も之を分別(ふんべつ)し、普く現在及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ。
:
R訳:すると大荘厳菩薩は、再び釈尊に向かって申し上げました。「世尊よ。世尊の教えは大変奥深いものです。しかし衆生にとっては、その奥深い教えを正しく理解することは容易ではありません。私ども菩薩はこの教えに疑問や難しさを感じませんが、しかし衆生にとっては、疑問、難しさ、迷いを覚えることもあるでしょう。どうかそういう人たちのために、重ねてお尋ねいたします」
:
大荘厳菩薩は質問を続けます。
「世尊は成道されてから40数年経ちました。そして『生・住・異・滅』の教えや、全てのものごとは『空』であるということ、また常に変化するという『無常』の教え、孤立して存在するものはないという『無我』の教え、そして、すべての存在の本質は、大きいとか小さいなどの差別や区別はなく、本来、『平等で調和』しているということをお教えくださいました。その結果、教えを伺った者たちは、『心暖まる境地』から、『仏法がこの世の教えの中で第一であると認識する境地』、『煩悩にとらわれなくなる境地』、『菩提心を起す境地』、『大雲(だいうん)が大空をおおうように、この世あらゆる人々を平等におおい、救う境地』等々、その人の信仰の境地も高まってまいりました」

:
「しかし、世尊は何故、以前に説いた教えと、今、説く教えに違いがあり、『無量義の教えさえ実践すれば、必ず、直ぐに無上の悟りが得られる』とおっしゃるのでしょうか?(昔の教えではダメなのでしょうか?) どうか私どもを可哀相だとお考えくださり、現世のみならず未来の人々のために、疑問が少しでも残ることがないようにその真意をお教えください」
:
太郎訳:その時に大荘厳菩薩は、また仏に言いました。「世尊。世尊の説法は不可思議です。思いはかることができず、言語でも表現できません。人々の根性もまた不可思議です。迷いから離れることもまた不可思議です。私たちは、仏さまの説かれた様々な教えにおいて疑問はありませんが、諸々の衆生が迷惑の心を起こすかもしれませんので、重ねて世尊に質問いたします。如来の得道より四十余年、常に人々のために諸法の四相(生住異滅)についての教え・苦についての教え・空についての教え・無常についての教え・無我についての教え・無大と無小という無分別の教え・無生無滅についての教え・一相無相についての教え・法性法相についての教え・本来空寂についての教え・不来不去不出不没についての教えを説かれました。これらの教えを聞いた者は、さまざまな声聞の果報を受け、縁覚の果報を受け、菩提心を起こし、菩薩の第十地に至ります。これまでに説かれた教えと今説かれた教えと、どこがどのように違うのでしょうか? どこが異なるから、甚深無上大乗無量義経だけが、菩薩が修行すれば必ず速やかに無上菩提を成ずることを得ると説かれるのでしょうか? このことが分かりません。ただ願わくば世尊、一切を慈しみ、哀れと思われて、広く人々のためにこのことを分かりやすく、普く現在と未来の世において教えを聞くであろう人々の余の疑網を除いてください」
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正問
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74
ダルマ太郎 2024/04/19 (金) 00:28:51 修正 >> 49

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呉音(ごおん)
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太郎論:漢訳の仏教経典は、多くの場合、呉音で読みます。呉音は漢音以前から中国で使われており、日本にも呉音が最初に入ってきました。江戸時代までは、呉音の方が普及していたのですが、明治になって漢音が多く使われるようになりました。結果的に日本人が使う漢字は、音読み(漢音・呉音)、訓読みというように複雑化しています。
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経典を読むとき、普段とは違う読み方をしますので違和感があります。フリガナがついていないと読めません。たとえば、品は、漢音では「ひん」と読みますが、呉音では「ほん」です。日は、「じつ」「にち」、礼は、「れい」「らい」、力は、「りょく」「りき」というような感じです。
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ネットに上がっている漢訳経典には、フリガナがついていないことが多いので読めません。経典の読みに慣れるためには、フリガナ付の経典を購入することをお薦めします。
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呉音
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73
ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 22:49:03 修正 >> 49

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菩薩とは
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太郎論:菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の修行中の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。
:
大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。
:
無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?
:
法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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72
ダルマ太郎 2024/04/18 (木) 20:49:08 修正 >> 10

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菩薩の敎化方法
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経:微渧(みたい)先ず堕ちて以て欲塵を(ひた)し、涅槃(ねはん)の門を開き解脱(げだつ)の風を扇いで世の悩熱を除き法の清涼(しょうりょう)を致す。次に甚深(じんじん)十二因縁(じゅうにいんねん)を降らして、用て無明(むみょう)・老・病・死等の猛盛熾然(みょうじょうしねん)なる苦聚(くじゅ)の日光に(そそ)ぎ、(しこう)して乃ち(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬(にんし)し、善の種子を布いて功徳(くどく)(でん)に遍じ、(あまね)く一切をして菩提の萌を発さしむ。智慧の日月方便の時節、大乗の事業を扶蔬増長(ふそぞうちょう)して、衆をして()阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽(けらく)微妙真実(みみょうしんじつ)に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。
:
:
R訳:あたかも乾いた土に一滴の「しずく」が落ちると、そこには砂ぼこりが立たなくなるように、まず些細な教えから入って行き、数多い欲の中でわずか塵ほどのものを鎮めていきます。そして、悟りへ門を開き、解脱へと誘って行きます。それはまるで涼しい風をそよがせて熱を取り除いて冷めさせるように、人々を苦悩の熱から救って行くのでした。次に深遠な「十二因縁」の教えを説いて無明の状態から解き放ちます。それはまるで照りつける灼熱の太陽に苦しむ人が、雨を得て蘇生の喜び得るようであり、そのうえで無上の教えである「大乗の教え」を説いて、人が本来具える「善の根」に潤いを与えます。さらに善行を呼び起こす「善の種」を蒔いて、ついにはあらゆる人びとに仏の悟りの「芽生え」を起させるのであります。菩薩たちの智慧は、太陽や月のようにすべてを明らかに照らし出し、しかも人々を導く手立ては、手段も時節も的確です。大乗の救いを進めて、その成果をどんどん上げて行き、すべての人を仏の悟りへと真っ直ぐに導きます。菩薩はいつも智慧を具えていますので、限りない大悲の心を注ぐことができ、それによって苦しみ悩む無数の衆生を救っていくのです。
:
:
自利
:
経:是れ諸の衆生の真善知識(しんぜんちしき)、是れ諸の衆生の大良福田(だいろうふくでん)、是れ諸の衆生の(しょう)せざるの師、是れ諸の衆生の安穏(あんのん)楽処(らくしょ)救処(くしょ)護処(ごしょ)大依止処(だいえししょ)なり。処処に衆生の為に大良導師・大導師と作る。能く衆生の(めし)いたるが為には而も眼目を作し、(りょう)()()の者には()()(ぜつ)を作し、諸根毀欠(しょこんきけつ)せるをば()具足(ぐそく)せしめ、顛狂荒乱(てんのうこうらん)なるには大正念(だいしょうねん)を作さしむ。船師・大船師なり、群生(ぐんじょう)運載(うんさい)し、生死(しょうじ)の河を渡して涅槃の岸に置く。医王・大医王なり、病相を分別(ふんべつ)薬性(やくしょう)暁了(ぎょうりょう)して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。調御(じょうご)・大調御なり、諸の放逸(ほういつ)の行なし。(なお)象馬師(ぞうめし)の能く調うるに調わざることなく、師子の勇猛(ゆうみょう)なる、()衆獣(しゅじゅう)を伏して沮壊(そえ)すべきこと(かた)きがごとし。菩薩の諸波羅蜜(しょはらみつ)遊戯(ゆけ)し、如来の地に於て堅固にして動ぜず、願力(がんりき)に安住して広く仏国を浄め、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得べし。是の諸の菩薩摩訶薩皆(かく)の如き不思議の徳あり。
:
:
R訳:菩薩は、まさに人々にとって「善き友」であり、幸せを育てる「良い田畑」であり、招かないでもわざわざやって来てくれる「有難い先生」であります。私たちにとっては「心の安らぎ」を与えてくれる存在、人生の「大きな支え」となる存在、私を「守ってくれる」存在、「依り所」となる存在です。菩薩は私たちを正しく導く師であり、目、耳、言葉の不自由な人にとっての目、耳、口となる方です。心が乱れ、荒み切っている時は、心を安定させ、正気を取り戻させてくれます。まるで優秀な船長ようで、人生途上で襲いかかる様々な「変化・異変」の荒波を乗り越えさせてくれ、安穏な境地へと誘ってくれます。病に応じて的確に薬を与える名医だとも言え、どんな猛獣をも従わせる優れた調教師のようです。菩薩は、仏の悟りに至るためのあらゆる修行・菩薩行を自由自在に行なえ、一切衆生救済を願う仏の力を信じていますので、「大安心」の心境で法を説くことができます。これらの菩薩は近い将来、仏の悟りに達する方々であり、以上のような大徳を具えています。
:
:
菩薩の敎化方法
:
:

71
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 22:20:02 修正 >> 3

:
宗教の本義とは
:
:
英語のリリジョン religion の訳語として、宗教という言葉が当てられました。宗教とは、もともと仏教用語で、「重要な教え」という意味です。華厳経(けごんぎょう)などに出てくる言葉です。キリスト教と仏教とでは、思想が違うし、儀礼・儀式、習慣が違いますから、宗教という言葉でくくることはできないのですが、キリスト教的な宗教の概念が広く伝わってしまい、仏教に大きな影響を与えています。
:
広辞苑によれば、「宗教とは、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」だと定義されています。この定義は、キリスト教的であって、仏教には当てはまりません。少なくとも、釈尊の仏教とは異なります。インドでは、思想を三つのタイプに分けてとらえました。信仰タイプ・儀礼儀式タイプ・覚りを目指すタイプです。信仰タイプはヒンドゥー教、儀礼儀式タイプはバラモン教、覚りを目指すタイプは仏教です。仏教は、神への信仰はせず、儀礼儀式をしません。覚りを目指して道を進みます。キリスト教は、神への信仰のタイプでしょうから、仏教とはタイプが違います。
:
現在の日本の仏教をみると、如来・菩薩・明王・神への信仰をするし、葬式などの儀式を中心にしているので、本来の仏教とは大きく異なります。しかも、覚りを目指すという大事な目的を失っていますので、果たして仏教と呼べるのかも疑問です。仏教の道は、(かい)(じょう)()という三学、八正道、六波羅蜜などが有名ですが、その最も基本となる持戒を日本仏教は捨てています。在家であれば、五戒を持ちますが、五戒とは何かを記憶している人は少ないでしょう。殺生(せっしょう)や窃盗はしなくても、邪淫(じゃいん)・嘘・飲酒は平気でしているように思えます。新興宗教であっても、仏教系ならば、五戒は守る必要がありますが、忘年会などの宴会でお酒を楽しみ、会員同士で不倫をしている人もいます。戒律の無い宗教ってどうなのでしょう?
:
宗教の本義を明らかにしたいのなら、まずは戒を守ることから始めるのがいいと思います。持戒によって心を浄めれば禅定(ぜんじょう)に入りやすくなるし、禅定に入ることで智慧(ちえ)を求めやすくなり、智慧を得れば成仏に近づきます。仏教の本義は、智慧を完成させ、成仏することなのですから、まずは、持戒からでしょう。
:
大乗仏教の修行者である菩薩は、菩薩戒を受持します。それは、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)と呼ばれるもので、止悪・修善・利他という三つの戒です。つまり、悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすというものです。止悪とは、すべての戒を守ることですから、菩薩戒を受持する者が五戒を破ることはありえません。
:
:
宗教の本義とは
:
:

70
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 16:44:06 修正 >> 6

:
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
:
:
○ 「ああ、ありがたい妙法蓮華経! わたくしはこのお経の真実の教えに全生命をお任せします!」
○ 尊いのは、あくまでも法華経の教えなのです。そして、その教えを実践することなのです。
○ 〈南無妙法蓮華経〉と唱えるのは、その受持と実践との信念をいよいよ心に固く植え付けるためにするのです。

:
:
妙法蓮華経とは、鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳した法華経のタイトルですから、南無妙法蓮華経というのは、法華経という経典への帰依だと受け取る方が多いようです。そのような解釈が間違いだとは言いませんが、帰依の対象は経典ではなく、「真理と現象」であることを知らなければなりません。妙法とは、「正しい真理」。蓮華とは、「蓮の花」のことです。蓮の花は現象であり、妙法は真理です。よって、妙法蓮華とは、「真理と現象」「現象を通して真理を観る」ということです。南無妙法蓮華経とは、「真理と現象に依る教え」に帰依するのです。このことは、法華経前半では書かれていませんが、如来寿量品第十六にて明らかになります。
:
:
南無妙法蓮華経は、日蓮が使い始めたのではなく、天台宗ですでに唱えられていました。「朝題目。夕念仏」というように、朝には、「南無妙法蓮華経」を唱え、夕には、「南無阿弥陀仏」を唱えていたのでしょう。インドでも題目は唱えられていたようです。もちろん、サンスクリット語でです。
:
ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ
Namas Saddharma-puṇḍarīka-sūtra

:
:

:
もともとインドで唱えられていたのかは不明です。日本の題目をサンスクリット語にして唱えているだけなのかも知れません。
:
:
南無妙法蓮華経
:
:

69
ダルマ太郎 2024/04/17 (水) 01:43:07 >> 3

「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
:
教えを日常生活にいかに実践すべきかを主眼に置いた
法華三部経の真精神を学ぶため
…義に依って語に依らざれ

:
宗教の本義を明らかにしたい
あらゆる宗教に含まれているはずの共通の真理
人類すべてが進めるような「融和と協調」の場をつくらなければならない
〈宗教の本義〉をきわめ、その実践を最大の目的としてまとめた

:
これは、庭野開祖の主眼なのでしょう。法華三部経の真精神を学び、教えを日常生活にいかに実践するかを重視されたようです。また、宗教の本義を明らかにし、世界の宗教の共通の真理を明らかにして、「融和と協調」の場をつくることを目的にされたようです。宗教者として、立派な考えだと思います。しかし、法華経がはたして日常生活で実践可能な行なのかが疑問だし、宗教協力に法華経が役立つのかも疑問です。その辺のところをこの勉強会を通して学んでいきたいと思っています。
:
:
義に依って語に依らざれ
:
この経文は、「法四依」といい、涅槃経にあります。「仏の所説の如き、是の諸の比丘、当に四法に依るべし。何等かを四となす。法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。
:
法に依って人に依らざれ(依法不依人)
…真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
:
義に依って語に依らざれ(依義不依語)
…意味に依拠して、言葉に依拠しない
:
智に依って識に依らざれ(依智不依識)
…智慧に依拠して、知識に依拠しない
:
了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義經不依不了義經)
…仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない
:
どれも重要なことですが、逆の人が多いのも事実です。真理を無視して人の解釈に依る人、意味を知ろうとせず言葉に依る人、智慧を求めず知識に依る人、真実が完全に説かれた教えを学ぼうとせず不完全な経典に依る人など。仏教を学ぶ人は、法四依を念頭に置いておく必要があります。特に市販の解釈本に依り、経典を読まないのは誤った理解に通じますので注意が必要です。
:
:
「新釈法華三部経」発刊に向けての願い、主眼
:
:

43
ダルマ太郎 2024/04/16 (火) 20:19:21 >> 11

十二因縁 3
:
(じゅ)

ヴェーダナー vedanā 
感受
外部との接触によって起こる感情のこと。快・不快・中立の三つがあります。

:
:
(あい)
:
トリシュナー tṛṣṇā 
渇愛 渇望 欲望
トリシュナーとは、渇き・欲望・願いのことです。感受することで、快・不快・中立という感情を起し、快であれば近づいて手に入れようとし、不快であれば離れようとし、中立であれば無視します。近づくのも、離れるのも、欲望に変わりありません。キリスト教の愛とは意味が違います。もともと仏教用語だった愛を聖書を訳すときに使ったため、混乱が起こりました。

:
:
(しゅ)
:
ウパーダーナ upādāna 
執着 しがみつく
ウパーダーナの原意は「燃料」です。火に燃料を与えれば燃え続けるように、欲望に執着すると欲求は高まっていきます。欲しいものが手に入らないのなら、あきらめるのがいいのですが、何とかしようと執着することがあります。ストーカーになったり、盗んだり、騙したり、暴力を振るったり、悪行に走ることになってしまいます。嫌なことから離れたいのに、離れられない時も同じです。そのことに執着すると、ろくなことにはなりません。生物は、食物を見つけて、それを手に入れることによって生きています。よって、欲求・執着は必要なことです。しかし、必要以上に欲しがり、執着すれば、悪い結果を招くことになります。

:
:
()
:
バーヴァ bhava 
生存 存在
バーヴァとは、生存のことです。欲望・執着を繰り返すことで、我執を強めていき、迷いの存在に成ります。

:
:
(しょう)
:
ジャーティ jāti 
生まれること 出自
ジャーティとは、誕生のことです。生きることだと解釈する人もいますが、ジャーティにはそのような意味はありません。生まれなければ、苦しむこともなくなります。特にインドには、カースト制度があり、出自によって一生の苦楽が決定するようなものですから、生まれること自体を苦だととらえる傾向があります。カースト制度を知らない私たちには、分からない世界です。

:
:
老死(ろうし)
:
ジャーラーマラーナ jarā-maraṇa 
老いと死
ジャーラーが老化、マラーナが死の意味です。⑪の生と合わせて「生老病死」を意味します。なぜか病については触れていません。

:
:
十二因縁 3
:
:

41
ダルマ太郎 2024/04/16 (火) 19:57:55 >> 11

十二因縁 2
:
無明(むみょう)
:
アヴィドャー avidyā 
無知 真理を知らないこと
ヴィドャー vidyā-は、知識、学問、学術、教義、呪力です。否定を意味するa-という接頭辞がつきますので、avidyāとは、知識が無い・学問が無い・学術が無い・教義が無い・呪力が無いということになります。仏教では、「真理を知らないこと」という解釈がされます。

:
:
(ぎょう)
:
サンスカーラ saṃskāra 
意志 行為
サンスカーラは、「一緒になったもの」「纏めるもの」という意味です。これには、二つの意味があります。一つは、「因縁によって作られたもの」で、有為法(ういほう)のことです。諸行無常の場合は、この意味です。もう一つは、「行為」です。行為には、身口意がありますが、ここでの行は、「意志」のことをいいます。五蘊(ごうん)の行は、この意味です。無我や無常などの真理を知らない意志は、誤った方向に趣いてしまうことでしょう。

:
:
(しき)

ビジュニャーナ vijñāna 
識別作用 分別(ふんべつ)
ビジュニャーナとは、分けて認識することです。私たち人類は、世界をバラバラに分け、その一つ一つに名前をつけ、意味づけをしています。このような認識方法を分別といいます。日常使う分別(ぶんべつ)という言葉は、世事に関して、常識的な慎重な考慮・判断をすることの意味で使われており、善い印象ですが、仏教では、本来一つのものを分けるので、真理を探究する認識とはされていません。分別を否定する無分別が勧められます。無我という真理を知らなければ、自分という存在が有るというように意志を持ちます。それが高じれば我執となり、自他を分け、自分を可愛がります。まるで、自分の皮膚が境界線であるかのように、皮膚の外側は他だと認識し、比較し、区別し、差別し、対立を起します。

:
:
名色(みょうしき)
:
ナーマルーパ nāma-rūpa 
名称と姿 心と体
ナーマは「名称」、ルーパは「物質的現象」です。しかし、仏教では、心と体の意味で使っています。五蘊(ごうん)と同義です。自他を分別し、次に心と体を分別します。

:
:
六入(ろくにゅう)
:
シャダーヤタナ ṣaḍāyatana 
六つの感覚器官
眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官のことです。自他を分別し、心と体を分別し、次に感覚器官を分別します。このことで、外界と内界との区別は明確になります。

:
:
(そく)
:
スパルシャ sparśa 
接触
外界の対象、感覚器官、識別作用によって、接触が起こります。

:
:
十二因縁 2
:
:

2
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 22:14:44

新設

去年の年末頃から、色々あってブログはお休み状態でした。四月に入ってからは、体調も少しよくなってきましたので再開しました。YouTubeを見ていて、ある教団の法華経の解釈に違和感を感じ、私が学んできた法華経との相違について書いてみたくなり、現在はそれに取り組んでいます。「Rの会:~」というタイトルです。最初は、相違点だけをピックアップする予定でしたが、法華経の現代語訳や解説もしたくなったので、内容が増えています。

また、「仏教随感」と題して、私が仏教について感じること、想うことを書いています。
:
:

5
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:13:03

世俗諦と第一義諦
:
龍樹は、世諦(俗諦)と第一義諦(真諦)について、次のように論じています。
:
諸佛依二諦 爲衆生説法
一以世俗諦 二第一義諦
若人不能知 分別於二諦
則於深佛法 不知眞實義
若不依俗諦 不得第一義
不得第一義 則不得涅槃

:
諸仏は二諦に依って 衆生の為に法を説きたもう
一には世俗諦を以って 二には第一義諦なり
若し人は二諦を知りて 分別すること能わざれば
則ち深き仏法に於いて 真実義を知らず
若し俗諦に依らざれば 第一義を得ず
第一義を得ずんば 則ち涅槃を得ざらん

:
:
世俗諦とは、世間においての真理のことです。世俗の言葉によって説かれる真理ですから、真実の真理とは異なります。仮の真理です。第一義諦とは、最高の真理のことです。絶対の真理なので、言葉によっては明かすことはできません。二諦について知らなければ、説かれた言葉に執着し、その奥にある真実の真理には気づかないでしょう。
:
第一義は、すべて仮の言説によります。言説とは世俗です。このことから、世俗の言葉に依らなければ、第一義は説くことができません。第一義を得ることができなければ、どうやって涅槃に至ることを得られるでしょう。このことから、二諦が必要です。
:
:
空の理を学ぶためには、言葉についてよく知る必要があります。般若経には、言葉遊びみたいな文章がたくさん出てきます。それらは、読む人の言葉についての固定観念が試されています。意味が分からない人は、言葉への信頼が強く、言葉に実体を持っている人でしょう。
:
:
世俗諦と第一義諦
:

4
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:11:25

龍樹の中論について
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空は、龍樹によって論じられ、そのおかげで多くの仏教者が空の理を知ることになりました。『中論』という論書によって、空は広く知られるようになりました。現在でも、大乗仏教者にとっては、入門の書として親しまれています。私も何度も読み、色んな解釈本を手掛かりにしましたが、中論もかなり難しいです。中論には、最初に次のような偈があります。
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帰敬序
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不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一

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不生亦た不滅 不常亦た不断
不一亦た不異 不来亦た不出
能く是の因縁を説き 善く諸の戯論を滅す
我れは稽首して仏を礼す 諸説中の第一なりと

:
生ぜず 滅せず 
常でなく 断たれることなく
同一でなく 異なることなく 
来ることなく 出ることのない
様々な言語的思想の消滅という
めでたい「縁起の理法」を
お説きになられた仏を
あらゆる説法者の中で最も
優れた方として敬意を表し
礼をいたします

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中論の解釈をした青目(ピンガラ)は、この偈について次のように解釈しています。
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所謂一切法の不生、不滅、不一、不異等の畢竟じて空、無所有なるを説きたまえり。般若波羅蜜中に説くが如し、仏は須菩提に告げたまわく、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と。仏の滅度の後、後の五百歳の像法中に、人根転た鈍たり、深く諸法に著して、十二因縁、五陰、十二入、十八界等に決定相を求め、仏意を知らずして、但だ文字のみに著す。大乗法中に畢竟空を説くを聞きても、何の因縁の故に空なるかを知らず、即ち疑見を生ずらく、「若し都て畢竟じて空ならば、云何が罪福の報応等有るを分別せん」と。是の如きには則ち世諦と、第一義諦と無く、是の空相を取りて而も貪著を起し、畢竟空の中に種種の過を生ず。龍樹菩薩は、是れ等の為の故に、此の中論を造る。
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生じる・滅じないと観るのは、そのような観念が私たちにあるからです。空においては、不生・不滅です。生じることなく、滅することはありません。仏は、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と説いたと言います。ともすれば、私たちは、十二因縁の一つ一つの言葉にとらわれてしまいがちですが、「言葉には執着せず、そのことが導く真理を観なさい」ということでしょう。言葉は所詮人が作ったものですから、そこには真理はありません。真理を感得したいのなら、瞑想をし、教えを思惟し、智慧によるしかありません。仏が亡くなって五百年もすれば、修行者は、義を見ずに言葉を見るようになりました。十二因縁、五陰、十二入、十八界等の言葉の定義を決めることに一生懸命になり、仏意を知ろうとせず、ただ文字のみに執着しています。文字・言葉に意味はないので、そのことを「空」という言葉で説いても、なぜ空を説くのかを考えもせず、疑って、「もし、すべてが空ならば、罪や福の業報を分けて説くのだ?」と。これらの人々は、世諦(俗諦)と第一義諦(真諦)を知らず、空の特徴をみて、執着を起し、空の義を誤ってしまいます。龍樹菩薩は、これらの為に中論を造ったのです。
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このように、空を知るためには、言葉への信頼を捨てる必要があります。言葉に頼れば、名のあるものは実体が有るとみるようになりますから、空の理を知るためには、「言葉への不信」は重要です。日本では、言霊を信じる傾向が強いのですが、インドの思想である空を学ぶためには、言葉は人が作った道具なのだと認識するほうがいいです。
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龍樹の中論について
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3
ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:03:09 修正

空について
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(くう)とは、サンスクリット語のシューニャ śūnya、または、シューニャター śūnyatā の中国語訳です。シューニャが形容詞で、シューニャターが名詞です。サンスクリット語の場合は、形容詞と名詞の違いが分かりやすいのですが、漢訳では分かりにくいです。名詞形のときに、「空性」ということもありますが、ほとんどの場合は、「空」と書かれています。
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空とは、無自性(むじしょう)と同じ意味です。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳であり、「それ自身で存在する本体」のことです。西洋哲学の「実体」と同じ意味なので、現代は自性のことを実体と言い、無自性のことを「実体の欠如」と言っています。このブログでも実体という言葉を使うことにします。
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空とは、もともと「欠如」の意味でしたが、大乗仏教で「実体の欠如」という意味で使われるようになりました。これは、上座部の説一切有部(せついっさいうぶ)が、「人無我。法有我」を称えたため、それを否定するために使われた言葉です。人は無我だし、法には実体がないので、「人無我。法無我」と言い、後に一切法空といいました。説一切有部は、その名の通り、「法有」を説くので、大乗仏教とは対立しています。
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般若心経
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大乗仏教徒は、空の理を弘めるために、多くの般若経を編纂(へんさん)し、世に出しました。しかし、その内容は難しく、意味不明の文章が続くため、あまり理解はされていなかったようです。たとえば、日本でも有名な般若心経の内容は深淵であり、一般人には理解不能です。なぜなら、般若心経は、二万五千頌般若経の抜粋だからです。ただでさえ難解な経典の抜粋を読んでも、ほとんどの人は理解できないでしょう。僧侶や教団の教育担当者でさえも、分かっていないので、中にはとんでもない解釈をする人もいます。
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「色即是空。空即是色」という言葉は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。でも、意味を知っている人はわずかです。二万五千頌般若経を読みもせずに解釈している人が多いために、自分勝手な解釈をしています。空を霊界だと解釈したり、エネルギーだと解釈したり。実体が無い、という意味から離れてしまっています。霊界にせよ、エネルギーにせよ、そのような名で呼ばれているのであれば、それは空の事ではありません。空は、絶対的に認識の対象にはなりませんから、名前を付けることはできません。「空」というのも仮であり、空もまた空です。サンスクリット原文では、「色即是空。空即是色」は次のように表されます。
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yad rūpaṃ sā śūnyatā
ya śūnyatā tad rūpaṃ

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物質、それは空である
空、それは物質である

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物質は、因縁によって仮に有りますので、実体は有りません。空です。空とは、実体のないことなので、固定化することはありません。よって、さまざまな物質として生起することができます。「リンゴはリンゴではありません。よってリンゴといいます」という文章は変です。これは、「リンゴにはリンゴという実体は無い。よってリンゴという名も無い。人が便宜上、仮にリンゴという名をつけ、共有し、使っているに過ぎない。リンゴには、固定した名が無いから、仮の名をつけることができる」。よって、物質に実体が有れば、それは固定して存在し続けるので、変化することはありません。種はずっと種だし、実はずっと実のままです。物質が固定化せず、変化し続けるのは、物質が空だからです。
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無我や空は、日本人の概念にはありませんから、新しい思想だとして受け入れるしかありません。自分の考えだけで定義できるような内容ではありません。「色即是空。空即是色」という言葉だけを切り取って考えれば迷走します。ちゃんと全文を読んでから吟味しましょう。般若心経には、「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。」というように、五蘊(ごうん)の色以外の受想行識についても空であると説いています。また空であるから、受想行識が生起するとも書いています。五蘊とは、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。身体と心のことです。色即是空。空即是色だけでなく、それらについても考える必要があります。
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空について
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14
ダルマ太郎 2024/04/14 (日) 23:15:53 >> 13

廻向(えこう)
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初期仏教・部派仏教では、業報輪廻を説き、自業自得であることを教えました。自分がしたことは、自分が受け取るということです。これは、徹底した自己責任であり、他者のせいにはできないシステムです。過去の業報も現在の果報になるというのなら、今の環境を変えるために、何をすればいいのかが分かりません。善行を積み、来世に期待するしかないのでしょうか。病気・障害・貧困などがあれば、前世の結果だと後ろ指をさす人もいます。本当に前世の業によってハンディを持つのでしょうか? もしそうならば、この世界は弱者にとっては苦に満ちた世界です。
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業報を否定したのが、廻向です。廻向(回向)とは、パリナーマナー pariṇāmanā の中国語訳です。変換・変化・転回などの意味です。自分が為した善行の功徳を自身の覚りにふり向けたり、他者の救済・覚りにふり向けることをいいます。自業によって、他者を救いへと導くのですから、自業自得を説く業報輪廻とは思想が異なります。初期仏教にも似たような思想があったようですが、この考え方が顕著になったのは大乗仏教においてです。自分の功徳を他者に振り向けることで、他者を救うという大乗思想が成立しています。善行は廻向できますが、悪業はできません。自分が悪いことをして、それを他者に振り向けるということはありません。
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空においては、業も業報も輪廻もすべては無自性です。実体は有りませんから、執着する対象がありません。廻向もまた実体は有りません。実体が無いので、自業自得と言うように固定して観ません。善・悪・楽・苦というものもありません。すべては、仮に名前が付けられているだけであって、実体の無いものです。そういう概念に執着せず、真理に従って行動することが求められます。しかし、真理が何なのかが凡夫には分からないので、八正道・六波羅蜜を実践するわけです。
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廻向が概念だとしても、業報輪廻を信じるよりはましです。業報輪廻は、救いようのない思想ですが、廻向を信じれば、菩薩道を歩むことができます。
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13
ダルマ太郎 2024/04/14 (日) 18:02:27

他土の六瑞を問う 1
:
布施
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我彼の土の 恒沙の菩薩
種々の因縁をもって 仏道を求むるを見る
或は施を行ずるに 金 銀 珊瑚
真珠 摩尼 硨磲 碼碯
金剛 諸珍 奴婢 車乗
宝飾の輦輿を 歓喜して布施し
仏道に回向して 是の乗の
三界第一にして 
諸仏の歎めたもう所なるを得んと願うあり
或は菩薩の 駟馬の宝車
欄楯華蓋 軒飾を布施するあり
復菩薩の 身肉手足
及び妻子を施して 無上道を求むるを見る
又菩薩の 頭目身体を
欣楽施与して 仏の智慧を求むるを見る

:
:
私は 他方世界の多くの菩薩たちが
様々な因縁によって
仏道を求めているのを見ました
あるいは 布施を実践するのに
金・銀・サンゴ・真珠・珠玉・シャコ・メノウ
ダイヤモンドなどの珍しい宝
召使・車・宝で飾った輿(こし)などを
喜んで布施し
その布施の功徳を
仏道を得ることにふり向けて
この世界で最高の 
諸仏が讃嘆する教えを
会得したいと願うのを見ました
または 菩薩たちが
4頭立ての美しく飾った馬車を
施すのを見ました
または 菩薩たちが
自分の肉体や手足 妻や子供を施して
無上の教えを求めるのを見ました

:
:

2
ダルマ太郎 2024/04/13 (土) 15:03:44 修正

輪廻について
:
:
「輪廻はあるのか?」という質問は、今でも知恵袋でよく見かけます。「ある」という人と「ない」という人とで、議論が繰り返されています。輪廻肯定派は、仏教経典に書かれていることを根拠にし、輪廻否定派は、無我を説く仏教においては、何が輪廻しているのかが不明だといいます。そもそも死後の世界については、客観的な証拠がありませんから、輪廻の有無を論じること自体がナンセンスだと思うのですが、私見を述べさせていただきます。
:
結論から言えば、「輪廻は仮に有り、実体は無い」のだと思います。輪廻が有るという人は、そのことを信じているので、脳に「輪廻は有る」と記憶されているでしょう。しかし、それは概念であって実体はありません。事実ではないのです。実体はありませんが、概念としては有りますので、「無い」とは断言できません。つまり、非有非無の中道です。有るのはなく、無いのではありません。
:
輪廻とは、サンスクリット語のサンサーラ saṃsāra の訳です。世俗的な人生、放浪、繰り返す人生などの意味があります。中国では、輪廻というよりも、「生死」と訳すことが多いようです。鳩摩羅什も妙法蓮華経を訳すとき、サンサーラを生死と訳しています。輪廻は、インドの思想であり、中国や日本にはありませんでした。仏教が入ってきて知られるようになりました。死んだらおしまい、というのが本来の日本人の思想です。
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近年、若い人たちも輪廻を信じるようになってきました。テレビで怪しいスピリチャルの人が、「あなたの前世はローマのお姫様です」などといって、生まれ変わりの思想を広めました。また、漫画やアニメを中心に転生ものが人気なので、それに影響を受けた人も多いのでしょう。因果応報などといって、現在不幸なのは、前世での悪業が原因だ、などという説も飛び交っています。今、私が重病なのは過去世の私に原因がある、大怪我をして障害を持ったのは私の業報なのだろう、貧乏なのも、異性にもてないのも、醜い容姿も、頭が悪いのも、すべて私の因果なのだ・・・。反省するのはいいけれど、何の証拠もない過去世のことで自分を責めるのは意味がありません。因果応報を他者に当てはめ、相手の心身環境の苦を前世の結果だといって、蔑む人もいます。

因縁・因果は、あらゆるものと関りを持っていますから、人が考えるほど単純ではありません。ほんの少しタイミングがずれただけで、物事は大きく変わってしまいます。何が因で、何が縁で、何が果で、何が果報なのかは分かりません。自然界の一部を切り取った場合は、因果は理解できます。旗が揺れるのは風が吹いているからだし、煙が立つのは火があるからです。そういう分かりやすい実例を挙げて、釈尊は縁起を説明しました。しかし、すべてのものは、すべてのものと関係がありますから、現実は複雑です。ましてや「報」が入るとお手上げです。報とは業報のことで、行為に依る報いのことです。私たちは、心の行為・口の行為・身体の行為をしています。心の行為とは意志のこと、口の行為とはしゃべること、身体の行為とは動作のことです。

因果応報という言葉は仏教経典にはでてきません。戒律の書で一度だけ使われていますが、一度だけですので、重視されていた言葉だとは思えません。同じような意味の業報はよく使われます。カルマ・パラ karma-phala、カルマ・ヴィパーカ karma-vipākaの訳語です。善悪の行為は、楽苦として、行為者が受け取ることに成ります。

因果応報というと、「バカと言ったらバカと言われた」「人を殴ったら、別の人に殴られた」「騙したら騙された」と言った感じが多いと思います。業報の場合は、そういうピンポイントではありません。「善因善果・善因楽果。悪因悪果・悪因苦果」というものです。「善い心がけは、善い言動となり、善い言動を積めば安楽の境地に入る。悪い心がけは、悪い言動となり、悪い言動を積めば苦の境地に入る」というように、広い意味で考えられます。凡人や子供には、「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」と言って脅しました。この脅しは効果があったようで、インドでは、法律よりも業報論で倫理道徳をしつけたようです。

インドには、カースト制度があり、バラモン教に属している限りは、この制度に縛られていました。バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という階級制度です。この階級は、親の身分を引き継ぎます。バラモンの子はバラモンであり、シュードラの子はシュードラです。どんなに努力精進しようとも、この階級は一生決まっています。他の国であれば、虐げられるシュードラは反乱を起こしそうですが、インドの民衆は業報を信じ切っているために、自分の今の身分は過去の悪業にある、と割り切って静かに暮らしているようです。このように業報は、人生と大きく関わっているため、業報を否定する者はいませんでした。
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釈尊の時代は、輪廻思想が浸透していましたから、釈尊もそれを受け入れて説法に取り入れていたようです。しかし、釈尊が輪廻を肯定していたのかは謎だし、輪廻を否定していたのかも謎です。経典に書いていることをそのまま読めば、輪廻はあるというように思えますが、それは人々を真理に導くための方便である可能性が高いです。
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真理は無相だといわれます。相とは「特徴」のことですから、無相とは、「特徴の否定」です。特徴とは、「他と比べて特に目立ったり、他との区別に役立ったりする点」のことですので、それ自体だけでは特徴はありません。他と比べた時に特徴を表すことができます。この世界のすべてが白色であれば、白色という特徴はありません。赤や黒という他の色があることで、白という特徴を識別できます。人は、それの特徴を観て定義をします。しかし、それには実際は特徴はありませんから、すべての定義は仮であることが分かります。定義がないので、それのことを言葉では表せません。
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仏教では、二つの真理があると説かれます。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗が使う言葉によって表すことができる真理のことです。よって、縁起・無我・無常・空・無相などは言葉で表していますので、これは俗諦です。真諦とは、絶対の真理のことです。言葉では表せず、思惟する対象でもありません。仏が覚っている真理とは真諦です。これを正法・妙法ともいいます。輪廻とは、言葉で表していますから俗諦です。真諦ではありません。よって、俗諦としては輪廻は説かれるけれど、真諦としては、非有非無の中道なのでしょう。
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輪廻肯定派は、経典に輪廻のことが書いてあるのだから、「輪廻は有る」と主張します。経典に書かれていることが本当のことならば、釈尊が生まれてすぐに立ち上がり、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言ったことも本当だというのでしょうか? マーヤ夫人の脇の下から生まれたり、神々や悪魔や龍や妖怪なども実在するというのでしょうか? 経典には、比喩表現・象徴表現が多いので、すべてを本当のことだと受け取ると真意が分からなくなると思います。譬喩は譬喩として読んだほうがいいです。
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輪廻肯定派の多くは、初期仏教の信者でしょう。業・輪廻・解脱というヴェーダの教えを引き継ぎ、根本的な教義にしています。善悪の業によって、楽果という果報を受け、それによって輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積まなければならないという教えです。大乗仏教では、空の理によって輪廻は有るのではなく、無いのではないと説かれるようになっています。初期仏教は俗諦であり、大乗仏教は真諦なのでしょう。
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1
ダルマ太郎 2024/04/12 (金) 23:29:19

天台大師智顗の教相判釈
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教相判釈(きょうそうはんじゃく)とは、仏教経典を分類・体系化し、相互の関係や価値を判定して仏の究極の教えがどこにあるのかを解釈することです。インドでは、釈尊が教えを説き、その教えが阿含経としてまとめられ、紀元前後に大乗仏教が起こってからは、時代に応じた経典が多く編纂されました。般若経・維摩経・法華経・浄土三部経・華厳経・涅槃経・解深密経・大日経などがあります。約千年の歴史の中で、順々に経典は作られましたので、インドでは、たくさんの経典の中で究極の教えがどの経典にあるのかを解釈することはありませんでした。それまでの経典に加上して、新しい経典が作られるのですから、後に出来た経典の方が勝れているとみなされていました。
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中国では、大量の経典が一挙に入ってきましたので、どの経典を学ぶべきかの判断が難しかったようです。多くの仏教者は、華厳経や涅槃経を勧めていますが、一致はしていません。
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中国の天台大師智顗の解釈では、最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったので、次に平易な『阿含経』を説いたとしました。次に、『方等経』、『般若経』を説き、最後の八年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとしました。よって、最後に説いた『法華経』が釈尊のもっとも重要な教えであると主張しています。これにより、天台宗は、法華経を第一とし、所依の経典としました。学ぶべきは、法華経であると宣言したのです。このことで、法華経は注目され、日本でも法華経はよく読まれました。
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智顗:華厳経→阿含経→方等経→般若経→法華経(涅槃経)
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事実:阿含経→般若経→法華経→華厳経→大日経
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智顗は、経典に書いてある内容から判断して、経典成立の順を表しました。しかし、これは事実に反しています。最初に説かれたのは阿含経であり、法華経は初期大乗仏教時代です。よって、法華経を最高の経典だとする根拠を失います。現代では、智顗の教相判釈を参考にする仏教者は少なくなりましたが、天台系・日蓮系では、今でも信じられています。
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弘法大師空海の秘蔵宝鑰
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秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)は、空海が830年ごろに著した平安前期の仏教書です。淳和天皇の勅により撰述されたとされ、空海の代表作とされています。その中で、人の心を十段階で説明しています。十住心といいます。無宗教の煩悩に満ちた人・道徳を学ぶ人・声聞・縁覚・菩薩の道を進む人といった分類です。空海は密教なので、最高位は、真言密教になっています。この内容は、空海の教相判釈です。
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第一異生羝羊心 - 煩悩に満ちた人
第二愚童持斎心 - 儒教
第三嬰童無畏心 - 老荘思想
第四唯蘊無我心 - 声聞
第五抜業因種心 - 縁覚
第六他縁大乗心 - 大乗仏教…唯識
第七覚心不生心 - 大乗仏教…中観
第八一道無為心 - 大乗仏教…天台宗…法華経
第九極無自性心 - 大乗仏教…華厳宗…華厳経
第十秘密荘厳心 - 真言密教

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法華経は、智慧の門の入り口であり、華厳経は智慧の門に入った教えであり、真言密教は智慧に住した教えだとしています。法華経は、智慧に導くことから、非常に重要な教えだと思うのですが、法華経信者は、三番目ということが気に入らないようです。密教だけでなく、華厳経にも負けていることに合点がいかないのでしょう。空海は法華経を謗法していると批判する人もいます。おそらくは、秘蔵宝鑰をよく読まずに批判しているのでしょう。読めば納得のいく内容だと思うのですが・・・。
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68
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 21:14:04 >> 19

疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる

大荘厳菩薩は、釈尊に、「世尊、菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや」と問いました。無上の正しい覚りを得る方法を問うたのですが、その時に、「疾く」という条件が入っています。「疾く」とは、速やかに・急いで、という意味ですから、速やかに無上の覚りを得るにはどのような修行をすべきかを質問しています。

これまでは、歴劫修行が説かれていました。菩薩が覚りを得るには、三阿僧祇劫の修行が必要だというのです。阿僧祇とは、「数えきれない」という意味ですので、非常に長い期間をかけないと成仏できないというのでしょう。それに対して無量義経では、「疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずる」のですから、歴劫修行の逆です。即身成仏です。法華経にも、「我先仏の所に於て此の経を受持し読誦し、人の為に説きしが故に疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」という経文がありますから、歴劫修行は否定されています。
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12
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 19:53:06 >> 9

偈頌(げじゅ)
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偈頌は、ガーター gāthā の訳です。偈ともいいます。意味は、「歌・詩」です。散文(長行)で説かれた内容を詩の形式で繰り返しています。偈を説く前には、「爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言」(爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく)というように告げます。サンスクリット語の偈は、次の通りです。これは、序品の偈です。
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kiṃ kāraṇaṃ mañjuśirī iyaṃ hi
raśmiḥ pramuktā naranāyakena|
prabhāsayantī bhramukāntarātu
ūrṇāya kośādiyamekaraśmiḥ||1||

:
māndāravāṇāṃ ca mahanta varṣaṃ
puṣpāṇi muñcanti surāḥ suhṛṣṭāḥ|
mañjūṣakāṃścandanacūrṇamiśrān
divyān sugandhāṃśca manoramāṃśca||2||

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:
サンスクリット語の偈では、偈の番号がつけられています。一つの偈は、8音節からなる句を4つ並べた32音節から構成されています。この形式をシュローカといいます。韻を踏むことはなく、シュローカと音節の長短が重視されます。漢訳すると当然ながら偈のリズムは取れません。
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文殊師利 導師何故 眉間白毫
大光普照 雨曼陀羅 曼殊沙華

:
というように、漢訳では4文字や5文字で構成しています。
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YouTubeで、法華経の偈を探してみましたが見つけることができませんでした。ゴータマ・ブッダを讃える詩がありましたので、参考のためリンクを貼っておきます。シュローカの雰囲気はつかめると思います。
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11
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:58:53 修正

此土の六瑞を問う 3
:
若し人苦に遭うて 老病死を厭うには
為に涅槃を説いて 諸苦の際を尽くさしめ
若し人福あって 曾て仏を供養し
勝法を志求するには 為に縁覚を説き
若し仏子有って 種々の行を修し
無上慧を求むるには 為に浄道を説きたもう
文殊師利 我此に住して
見聞すること斯の若く 千億の事に及べり
是の如く衆多なる 今当に略して説くべし

:
:
もし 人が苦にあって
老化・病気・死などの
苦悩から離れたいと願うならば
その人のために安らぎの境地を説いて
迷いの世界から
離れる修行を説き示しました
もし 人が善行を積んで 福を得て
これまでに 諸仏を供養したことによって
勝れた教えを求める人がいたならば
その人のために 
縁覚の修行を説き示しました
もし 菩薩がいて
様々な修行を実践し
無上の智慧を求める人がいたならば
その人のために
浄き道を説き示しました
マンジュシリー菩薩さま
私が ここに居ながらにして
見て聞いたことは
このように 多くありました
このような多くの出来事から
今は 略して語りましょう

:
:

10
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:49:28 修正

此土の六瑞を問う 2
:
又諸仏 聖主師子
経典の 微妙第一なるを演説したもう
其の声清浄に 柔軟の音を出して
諸の菩薩を教えたもうこと 無数億万に
梵音深妙にして 人をして聞かんと楽わしめ
各世界に於て 正法を講説するに
種々の因縁をもってし 無量の喩を以て
仏法を照明し 衆生を開悟せしめたもうを覩る

:
:
また 他方の諸仏が
最上の教えを説かれている様子も
見ることができました
その仏さまのお声は
清浄で柔らかい音であり
多くの菩薩たちに対して
清らかで 深く 
きわめて優れた教えを
説き示されました
各世界において 
正しい教えを説くのに
様々な出来事を話し
多くのたとえ話をして
仏法を誰にでも分かるように説き明かし
人々を悟りへと導いているのを見ました

:
:

9
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 16:09:04 >> 7

此土の六瑞を問う 1

文殊師利 導師何が故ぞ
眉間白毫の 大光普く照したもう
曼陀羅 曼殊沙華を雨らして
栴檀の香風 衆の心を悦可す
是の因縁を以て 地皆厳浄なり
而も此の 世界六種に震動す
時に四部の衆 咸く皆歓喜し
身意快然として 未曾有なることを得
眉間の光明 東方万八千の土を
照したもうに 皆金色の如し
阿鼻獄より 上有頂に至るまで
諸の世界の中の 六道の衆生
生死の所趣 善悪の業縁
受報の好醜 此に於て悉く見る

:
:
文殊菩薩よ
世尊の眉間から光を放たれて 不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ 栴檀(せんだん)の香風がそよいで 人々の心は喜びに満たされています そればかりか はるか『東方の世界』も照らし出されて すべてを目(ま)の当たりにすることができます こうした現象が起きているのは 一体どのような意味があるのでしょうか 私たちは 人間の住むあらゆる世界で 六道を輪廻する人が 生まれ変わりして善悪の行為を重ね そして その報いを受ける姿を 目の当たりにすることができました

:
:
マンジュシリー菩薩さま
導師はなぜ
眉間から大いなる光を放ち
世界を照らされているのでしょうか?
天上界から 珍しく美しい花々をふらし
センダンの香りを漂わせて
人々の心を悦ばせています
このことによって 大地も人々も
厳かで穢れがありません
しかも この世界が様々に震動しました
その時 人々は誰もが歓喜し
身も心も悦びを感じ
ありがたい現象を体験しました
眉間の光明は
東方の多くの世界を照らし出し
その世界を 黄金色に浮かび上がらせています
阿鼻地獄から 有頂天にいたるまで
様々な世界の中の迷える人々の
事物・現象が因縁によって起こっているということ
善悪の行為とその縁となるもの
報いによって 好い状態、醜い状態に
環境が変化することを
ここに居ながらにして ことごとく見ました

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8
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:45:36 >> 7

発問序

爾の時に弥勒菩薩自ら疑を決せんと欲し、又四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等の衆会の心を観じて、文殊師利に問うて言わく。何の因縁を以て此の瑞神通の相あり、大光明を放ち東方万八千の土を照したもうに、悉く彼の仏の国界の荘厳を見る。是に弥勒菩薩重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を以て問うて曰く。
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すると弥勒菩薩は、その者たちの心中をハッキリと分かりましたので、弥勒菩薩は自らの疑問を解決するだけでなく、この者たちの疑問を解かなければならないと思い、文殊菩薩に向かって尋ねたのでした。
「文殊菩薩よ。世尊の眉間から光を放たれて、不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ。栴檀(せんだん)の香風がそよいで、人々の心は喜びに満たされています。そればかりか、はるか『東方の世界』も照らし出されて、すべてを目(ま)の当たりにすることができます。こうした現象が起きているのは、一体どのような意味があるのでしょうか」

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その時にマイトレーヤ菩薩は、自分自身の疑問を晴らしたいと思い、また、多くの人々の心を察して、マンジュシリー菩薩に問いました。
「何の理由があって、世尊は、この珍しくも、ありがたい神通力を現わされているのでしょうか? 世尊は、大いなる光明を放って、東方の多くの国土を照らし、ことごとく他方の仏さまの世界の素晴らしさを見せて下さっています」

ここで、マイトレーヤ菩薩は、詩にして、もう一度、マンジュシリー菩薩に問いました。
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7
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:26:57 修正

疑念序

弥勒の疑念

爾の時に弥勒菩薩是の念を作さく、今者世尊、神変の相を現じたもう。何の因縁を以て此の瑞ある。今仏世尊は三昧に入りたまえり。是の不可思議に希有の事を現ぜるを、当に以て誰にか問うべき、誰か能く答えん者なる。復此の念を作さく、是の文殊師利法王の子は、已に曾て過去無量の諸仏に親近し供養せり。必ず此の希有の相を見るべし。我今当に問うべし。
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これらの奇瑞(瑞相)を見た弥勒菩薩の疑問

その有り様を見て、弥勒菩薩は考えました。
「世尊は今、不可思議な力をお示しになって、このような光景を現わされた。これは一体どのような意味があるのだろうか? 世尊にお伺いをしたいが、世尊は三昧に入っておられ、お尋ねすることができない・・・。一体、誰に聞けば、このことを正しく答えてくれるだろうか・・・?  そうだ。世尊のお心をよく知り、過去世において数えきれないほどの諸仏にお仕えしたことのある文殊菩薩ならば、きっとこの不可思議な光景を見たことがあるに違いない。よし、文殊菩薩に聞いてみよう」。弥勒菩薩はそう考えついたのでした。

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その時に偉大なるマイトレーヤ菩薩は、このように考えました。
「今、世尊は、不思議な現象を現わされました。このことで何を教えて下さっているのでしょう? どういう理由があって不思議の力を表わされたのでしょう? 今、世尊は深い瞑想に入っていて、この理由を質問することができません。この不可思議な出来事が起ったことを一体誰に問えばいいのでしょう? 誰が分かりやすく答えて下さるでしょう?」。

また、このようにも考えました。
「ここにおられるマンジュシリー法王子さまは、これまでの過去世において、無量の諸仏に仕えて、供養をし、修行をされたと聞いています。おそらくは、この珍しい出来事についても、過去に体験されていることでしょう。私は、今、マンジュシリー法王子さまに質問してみましょう」

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大衆の疑念

爾の時に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等、咸く此の念を作さく。是の仏の光明神通の相を今当に誰にか問うべき。
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その時、出家・在家の修行者をはじめ、天人・竜神など、その座に連なる全ての者たちも弥勒菩薩と同じ疑問を持ち、この不可思議な現象の真相を、誰に聞けばよいのかと考えていました。
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その時、この集会に集う男女の出家修行者、男女の在家修行者、そして天上界の神々、ナーガ、鬼神など、多くの者たちがこのように考えました。
「この仏さまの光明による不思議な出来事を、今、誰に問えばいいのでしょう?」

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6
ダルマ太郎 2024/04/10 (水) 21:19:10

仏教において、「空(くう)」は非常に重要な言葉です。大乗仏教では、この言葉を知らなければ経典は読めません。空には、形容詞のシューニャ śūnya と名詞のシューニャター śūnyatā があります。漢訳では、名詞の空を空性ということがありますが、ほとんどの場合は、どちらも空です。

仏教経典では、以前に言葉の意味を解説した場合は、再度その言葉が使われても解説は略されます。空については、般若経群で詳しく解説されていますので、それ以降の経典では解説はされていません。されても要点だけです。なので、般若経を読まず、仏教辞典も調べずに、法華経を読んでも理解しづらいでしょう。

シューニャは、「空虚な」という意味です。空席とは、坐る人がいないことであり、空箱とは、箱の中身がないことです。このようにあるべきものが欠如した状態が空です。大乗仏教では、あるべきものとは、自性のことだとしました。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。「物それ自体の独自の本性、本来の性質」のことで、実体と訳すことが多いです。

一切法空といって、すべての事象には実体が無いと説いています。なぜ、そのことが言えるのでしょう? それは、すべての事象が因縁和合によって生じているからです。決して、それ自体だけで生じるのではなく、因縁によって生じます。よって、集結しているそれぞれには、実体は欠如しています。朝顔の種は、一時的には種としてありますが、やがて発芽して、つるを伸ばし、成長します。成長した朝顔を種とは見ないでしょう。種という実体はありません。因縁によって仮にありますが、実体はないのです。つまり、空です。

空という言葉が使われるようになった背景は、上座部の説一切有部が、「人は無我だが、法は有我である」と論じたためです。釈尊は、人にも法にも実体はない、と説いていたため、説一切有部の論に反論する部派が現れました。それが大乗仏教の般若派です。般若派は、「人無我。法無我」「人無我。法空」を論じました。そして、説一切有部が有ると主張することを悉く、空という言葉によって否定しました。

般若派は、多くの般若経典を作って、空の理を世に広めようとしましたが、難しい内容だったために、ほとんどの人が理解できなかったようです。そこで立ち上がったのが龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna)です。龍樹は、二万五千頌般若経の解釈本として大智度論を著し、空の理を解釈するために中論を著しました。これによって、空の理は知られるようになりました。龍樹は、中論の中で、「衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義」と論じています。「因縁によって生じる現象を 私は即ち空だと説くのです また仮であると説き 中道だと説きます」です。「我説即是無」というように、空ではなく無という言葉を使っているのは、有と空の二辺否定に誤解されないように、わざと無と訳したのでしょう。サンスクリット原文では、空と書いています。

多くの因縁によって生じるので、その一つ一つには実体が有りません。なので龍樹はそれを空だと説きました。空もまた空なので、そのために仮に名をつけています。仮に有り、実体は無いので、有無の二辺を離れているため中道といいます。この論によって、釈尊が説かれた縁起と空とが結び付いたため、多くの仏教徒は空の理を理解しました。

Rの会では、空を「平等」だと解釈しています。しかし、空にはそういう意味はありません。超訳でしょうか。二次的解釈でしょうか。分かりやすく解釈するために、平等という言葉を選んだのかも知れませんが、重要な仏教用語については、サンスクリット語の意味を確認した方がいいと思います。そうしないと混乱するのは、学んだ人たちです。一度刷り込んだ内容はなかなか消えません。
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5
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 22:29:33 修正

他土六瑞

此の世界に於て尽く彼の土の六趣の衆生を見、又彼の土の現在の諸仏を見、及び諸仏の所説の経法を聞き、竝に彼の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見、復諸の菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相貎あって菩薩の道を行ずるを見、復諸仏の般涅槃したもう者を見、復諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る。
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そのため六道を輪廻して迷う凡夫の姿や、それらの人々を救う仏の姿、修行者たちや菩薩たちの姿、そして仏が涅槃に入り、仏滅後、仏を讃嘆し供養する人々の姿などが見えるのでした。
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この世界にいながらにして、他方の世界で迷い苦しんでいる人々を見、また、他方の世界で活躍されている諸仏を見、また、諸仏が様々な教えを説いているのを聞き、また、他方の世界の出家修行者たちや在家修行者たちが、様々な修行をし、道を得るのを見、また、菩薩摩訶薩たちが、様々な体験、様々な信心と理解、様々な様相を具え、菩薩の道を行じているのを見、また、諸仏が、完全な涅槃に入られるのを見、また、諸仏が完全なる涅槃に入られた後に、仏の遺骨を納めて七宝の塔を建てるのを見ました。
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他土の六瑞とは

~他土(東方萬八千世界・未来の世界)
➊六道輪廻する衆生が見えた
➋諸仏の姿が見えた
➌諸仏の説法の声が聞こえた
➍出家・在家修行者の修行の結果を見ることができた
➎菩薩が菩薩道を行ずる姿が見えた
➏諸仏が涅槃に入り、人々が塔を建て、仏を供養する姿が見えた
※ 東方の世界とは、「未来の世界」

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東方=未来?

Rの会では、東方を「未来」のことだと解釈しているようです。東とは、プゥールヴァ pūrva の訳であり、「東」「前方」「過去」などの意味がありますので、私は過去のことだと解釈しています。サンスクリットの辞典でも、東・過去と書いています。
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サンスクリット語

仏教の経典の多くは、サンスクリット語かパーリ語で書かれました。大乗仏教の経典は、サンスクリット語です。サンスクリット saṃskṛtam とは、「正しく構成された(言語、雅語)」という意味であり、その言葉自体が言語を表すために、サンスクリットという表記でもいいのですが、日本では、通常、サンスクリット語といいます。

紀元前十五世紀頃から編纂されるようになった「ヴェーダ」という聖典は、ヴェーダ語が用いられており、ヴェーダ語を基にして紀元前五世紀頃にサンスクリット語ができました。ヴェーダは、バラモン教の聖典です。カースト上位のバラモン(司祭)、クシャトリア(王族)しか唱えることはできません。もし、下位のシュードラ(奴隷)などが唱えれば、熱して溶かした金属を耳の中に流し込むなどの罰が与えられました。よって上級の言葉だとされました。雅言葉です。

サンスクリット語には文字はありません。あるのは音だけです。ヴェーダ聖典は、師から弟子へと口伝で伝えられました。仏教の経典も口伝です。釈尊は、一部の上位カーストの人にしか伝わらないサンスクリット語を使うことを禁じ、その地域の民衆の言葉で布教するように教えていましたが、釈尊の死後、数百年もするとサンスクリット語が使われるようになり、サンスクリット語で文字化されました。サンスクリット語は、発音がきちんとできるのであれば、表記する文字には制限はありません。ブラーフミー文字、デーヴァナーガリー文字、ラテン文字などを使っています。

サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族です。英語に近い言語なので、それを中国語にするのは大変な作業です。文法が違うし、単語に共通性がありません。インドの思想と中国の思想は大きく異なるので、訳しようがない単語がたくさんありました。無我や空などは、特に分かりにくかったようです。鳩摩羅什によって、教育がされるまでは、中国での仏教は混乱していました。日本でも混乱があり、その影響は今でも続いています。

インドから中国、中国から日本。異文化の教えがすんなりと分かるはずはありません。よって、経典を読む場合は、仏教辞典が必要です。無我を知るためには、我という言葉の意味を調べる必要があります。日常で使っている意味とは異なります。我とは、アートマン ātman の訳語だからです。中国には、アートマンという概念がなかったため、それを表す言葉もありませんでした。そこで、「我」という字を借りて使うようにしました。我とは、円状の武器のことですので、字の意味とは合いません。アートマンを知りませんから、それを否定する無我については、知りようがありません。何が無いのだろう? と思うばかりです。

アートマンは、インド思想の核となる思想ですので、バラモン教やヒンドゥー教だけでなく、仏教・ジャイナ教などでも根本の教義です。しかし、インドでは常識的な概念でも、インド以外の国では知られていません。想像で意味づけができない概念なのです。それなのに、仏教の解釈本の多くは、自分勝手な解釈をしています。これは、仏教の教えを歪める結果になるだけです。中には、自分の宗派や教団の思想や行動を正当化するために、仏教用語の意味を変えて本にするところもあるので要注意です。

素人は、その解釈が正しいのか誤りなのかの判断がつきにくいです。なので、仏教辞典を持っておいた方がいいです。辞典を引くくせを身につければ、誤った解釈を見破れます。理想としては、経典を読み、出てきた単語は片っ端に辞典を引いて調べ、用語にはサンスクリット原語が書かれていることが多いので、できればサンスクリット辞典で意味を調べるのがいいです。下記のサイトは、使いやすいのでお薦めです。

https://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi

現在は、サンスクリット語経典の現代語訳もでています。法華経の場合は、植木雅俊氏による、サンスクリット原文とその現代語訳、鳩摩羅什訳の訓読を見開きにした本が出ています。少なくとも解釈者は、学んでおいた方がいいと思います。
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4
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 21:47:37

此土六瑞

爾の時に世尊、四衆に圍繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って身心動したまわず。是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に震動す。爾の時に会中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人及び諸の小王・転輪聖王、是の諸の大衆未曾有なることを得て、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつる。爾の時に仏眉間白毫相の光を放って、東方万八千の世界を照したもうに周遍せざることなし。下阿鼻地獄に至り、上阿迦尼吒天に至る。
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世尊は多くの菩薩たちに向けて、世を救い、人を救う教え、すなわち『無量義・教菩薩法・仏所護念』の教えを説かれたのでした。世尊はこの『無量義』の教えを説き終えると、諸法実相に全精神を集中する『無量義処三昧』という三昧に静かに入られました。すると天空から美しい花々が世尊のみ上に、そして、その座にいるすべての人たちにも等しく降りかかり、大地も感動して震え動きました。そのため、説法会にいるあらゆる人たち、修行者、バラモン教の神々、鬼神や国王、その家来たち、さらには動物をはじめ生きとし生けるものすべてが、かつてない深い感動を覚え、合掌して仏さまの尊いお顔を仰ぎ見るのでした。その時です。世尊の眉間から鮮やかな光がパッと放たれたのでした。その光は遥か東方の一万八千の国々、つまり、未来のすべての世界に及び、下は無限地獄(阿鼻地獄・あびじごく)、上は有頂天(阿迦尼吒天・あかにたてん)に至るまで、隅々に行きわたり、一斉に明るく照らし出されました。つまり、仏さまの智慧の光(眉間白毫相の光)によって、その人にとっての最低の状態(地獄)から最高の幸せの状態(有頂天)までを、つまびらかに明かされたのでした。
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その時に世尊は、人々に囲まれて、供養、恭敬、尊重、讃歎されて、多くの菩薩たちのために、大乗の「無量義」という教えを説かれました。この教えは、菩薩を教化する教えであり、諸仏が大切に護っている教えです。仏は、この教えを説き終えられると姿勢を調えて坐られ、無量義の教えを深く噛みしめる三昧に入られました。身も心も落ちつかれており、まったく動くことがありませんでした。この時に天上から、マンダーラヴァ、大マンダーラヴァ、マンジューシャカ、大マンジューシャカという珍しくも美しい花々が、仏と人々の上にふってきました。そして、大地は、揺れ、動き、震え、また広い範囲でも揺れ、動き、震えました。その時に、この集会では、男女の出家修行者、男女の在家修行者、天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガ、人、人でないもの、王族の者たち、これらの人々は、珍しくも不思議な体験をして、歓喜し、合掌して、一心に仏を仰ぎ見ました。その時に仏は、眉間の白い巻毛より光を放って、東方のあらゆる世界を隅々まで照らし出しました。下は阿鼻地獄にまで至り、上は有頂天に至りました。
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此土の六瑞

~➊『無量義経』が説かれる  ➋『無量義処三昧』に入る  ➌摩訶曼殊沙華が天空から降り注ぐ  ➍普仏世界六種震動  ➎大衆が未曽有の歓喜  ➏『仏眉間白毫相』の光を放つ
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供養、恭敬、尊重、讃歎

~供養とは、プージャー pūjā の訳です。利供養・敬供養・行供養などがありますが、ここでの供養は、恭敬、尊重、讃歎です。恭敬とは、つつしんで敬うこと。尊重とは、相手を尊い者として認めて大切にすること。讃歎とは、徳をほめたたえることです。この言葉は、法華経の経文中によく出てきます。人と交流する際に、供養・恭敬・尊重・讃歎が必要だということでしょう。釈尊は、説法の時に相手の名を呼ぶことが多いのですが、これはインドの習慣で、相手を敬う行為だそうです。弟子たちも、釈尊を敬って、「世尊よ」などと呼びかけをします。
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大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念

~釈尊は、菩薩たちのために、無量義・教菩薩法・仏所護念という名の大乗経をお説きになられました。この無量義を「無量義経」だとする解釈が多いようです。それだから、無量義経は法華経の開経だというわけです。しかし、それを否定する見解もあります。無量義というのは、「無量の教え」のことであり、法華経以前の大乗の教えのことだと言うのです。教菩薩法とは、「菩薩のための教え」のことで、仏所護念は、「仏が護り念じている教え」のことです。法華経以前に説かれた「般若波羅蜜経」は、声聞を菩薩に育てる教えですので教菩薩法とは言い難いのですが、そう呼ぶに相応しい教えがあるのかもしれません。
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東方

東をサンスクリット語では、プゥールヴァ pūrva といいます。東以外にも「以前の」「昔の」などの意味もあります。よって、東方というのは、「過去」のことを表しているのでしょう。太陽は東から出るので東を過去とし、西に沈むので西を未来だとしたようです。西のことをプラチヤチ pratyac といい、未来の意味もあります。阿弥陀如来は西方の仏だといわれますから、未来仏なのでしょう。
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3
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 20:14:17

雑類衆

欲界衆・色界衆

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。復名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王あり。其の眷属万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子、其の眷属三万の天子と倶なり。娑婆世界の主梵天王・尸棄大梵・光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり。
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また、バラモン教の神々もいます。釈提桓因(しゃくだいかんにん・帝釈天たいしゃくてん のこと)や天上界の神々、四天王や娑婆世界を司る梵天(ぼんてん)の神々がいます。それらの神は、それぞれが何万人という多くの家来たちを引き連れています。
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天上界の神々たち

そこには、シャクラ神が、その眷属の二万人の天上界の神々の子と共に参列していました。また、チャンドラ天子、サマンタ・ガンダ天子、ラトナ・プラバ天子と四大天王も多くの眷属と共にいました。イーシュヴァラ天子、マハーシュヴァラ天子も多くの眷属と共にいました。娑婆世界の大神であるブラフマー神、シキン大梵、ジョーティシュ・プラバ大梵等もその眷属一万二千人の天子と共にいました。
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龍王衆

八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。各若干百千の眷属と倶なり。
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八人のナーガ王も参列していました。ナンダ・ナーガ王。ウパナンダ・ナーガ王。サーガラ・ナーガ王。ヴァースキ・ナーガ王。タクシャカ・ナーガ王。アナヴァタプタ・ナーガ王。マナスビン・ナーガ王。ウトパラカ・ナーガ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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緊那羅王衆

四緊那羅王あり、法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のキンナラ王も参列していました。ダルマ・キンナラ王。スダルマ・キンナラ王。マハーダルマ・キンナラ王。ダルマダラ・キンナラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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乾闥婆王衆

四乾闥婆王あり、楽乾闥婆王・楽音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガンダルヴァ王も参列していました。マノージュニャ・ガンダルヴァ王。マノージュニャ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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阿修羅王衆

四阿修羅王あり、婆稚阿修羅王・佉羅騫陀阿修羅王・毘摩質多羅阿修羅王・羅睺阿修羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のアスラ王も参列していました。バリン・アスラ王。カラスカンダ・アスラ王。ヴェーマチトリン・アスラ王。ラーフ・アスラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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迦楼羅王衆

四迦楼羅王あり。大威徳迦楼羅王・大身迦楼羅王・大満迦楼羅王・如意迦楼羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガルダ王も参列していました。マハー・テージャス・ガルダ王。マハー・カーヤ・ガルダ王。マハー・プールナ・ガルダ王。マハルッディ・プラープタ・ガルダ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
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人王衆

韋提希の子阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各仏足を礼し退いて一面に坐しぬ。

ヴァイデーヒーの子、アジャータシャトルも多くの眷属と共に参列していました。各々が仏の前に進み、ひざまついて、その足に頭をつけ、退いて座に戻りました。
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2
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 14:21:50

菩薩衆

菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提に於て退転せず。皆陀羅尼を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於て衆の徳本を植え、常に諸仏に称歎せらるることを為、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り名称普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
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代表的な菩薩の名を紹介。そしてそれら菩薩の徳分を讃歎

そして八万人にも達する菩薩たちも、座に連なっています。この菩薩たちはみな最高無上の悟りを目指す志を持ち、もはや善が悪に負けるような心身ではなく、人を正しく導く強い指導力(楽説弁才・ぎょうせつべんざい)を具えています。まるで車輪が回転し続けてどこまでも進んで行くように、仏の教えをあまねく説き弘めて行く努力を続けます。そして、自分の精進が後戻りするようなことなど決してありません。これらの菩薩たちは、これまでに数えきれないほど多くの仏を供養し、仏の悟りを得るための様々な善行を積み重ねています。ですから、仏から常に褒め讃えられている菩薩たちです。この菩薩たちは、まず人の幸せを願う「慈」の心を基本としており、全てのものの差別相(智)と平等相(慧)を見通す力を具えています。すでに迷いの世界を離れ、悟りの境地に達しています。ですからその素晴らしさと名声は、世界中にあまねく知れ渡たり、無数の衆生を救っている菩薩たちです。名前をあげますと、文殊(もんじゅ)菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩、勇施(ゆうぜ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩など、数多くの菩薩たちが列座しています。
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八万人の菩薩摩訶薩たちが共にいました。皆、最高の覚りを目指しており、その目的に向かって努力を続け、後戻りすることがありません。皆、ダーラニーを得ており、説法が巧みで、人々が修行から離れず、後退することのない教えを説いています。非常に多くの諸仏を敬い、諸仏に従って様々な善行を行い、常に諸仏に讃えられ、慈の心によって行動し、大いなる智慧に通達し、覚りに至り、その名は広く世間に知られ、多くの人々を救いました。この菩薩たちの名をあげましょう。文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩といいます。
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菩薩衆

文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)マンジュシリー
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)アヴァローキテーシュヴァラ
得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)マハー・スターマプラープタ
常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)ニティヨーディユクタ
不休息菩薩(ふくそくぼさつ)アニクシプタドゥラ
宝掌菩薩(ほうしょうぼさつ)ラトナ・パーニ
薬王菩薩(やくおうぼさつ)バイシャジャ・ラージャ
勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)プラダーナシューラ
宝月菩薩(ほうがつぼさつ)ラトナ・チャンドラ
月光菩薩(がっこうぼさつ)チャンドラ・プラバ
満月菩薩(まんがつぼさつ)プールナ・チャンドラ
大力菩薩(だいりきぼさつ)マハー・ヴィクラーミン
無量力菩薩(むりょうりきぼさつ)アナンタ・ヴィクラーミン
越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)トライローキア・ヴィクラーミン
跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)バドラパーラ
弥勒菩薩(みろくぼさつ)マイトレーヤ
宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)
導師菩薩(どうしぼさつ)

 

1
ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 23:10:24

声聞

是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に尽くして復煩悩なく、己利を逮得し諸の有結を尽くして、心自在を得たり。其の名を阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅という。是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。復学無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅睺羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。
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霊鷲山の釈尊のもとへ八万人の菩薩、バラモン教や古代の神々らが集う

私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の霊鷲山(りょうじゅせん)にいらっしゃった時のことです。釈尊のまわりには教えを聞くために、1万2千人にも及ぶ大勢の出家修行者たちが集まっていました。この人たちはみな、迷いを除き尽くした尊い境地に達している人たちです。煩悩を断ち切っており、自行を尽くした結果、人格の完成を果たしています。そして様々な現象にとらわれる心がなく、物事から超越しており、自由自在な心境を得ている人たちです。その人たちの名前をあげると、憍陳如(きょうじんにょ)、摩訶迦葉(まかかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もっけんれん・目連もくれん)、富楼那(ふるな)、阿難(あなん)、羅睺羅(らごら)などの大阿羅漢(だい あらかん)たちです。また、すでに学び尽して、もはや学ぶことがない人や、まだ学びの最中にあるお弟子たちが2千人もいます。そしてその中には、釈尊の養母である摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだい びくに)が6千人の同信者を引き連れており、羅睺羅(らごら)の母親である耶輸陀羅比丘尼(やしゅだら びくに)も、同信者たちを引き連れて列座しています。
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このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハのグリドラクータ山に住み、高位の男性出家修行者が一万二千人集っていました。この人々は、皆、聖者の悟りの位である阿羅漢たちです。様々な欲望をすでに滅し尽くしており、煩悩はなく、自分の利益を得て、現象にとらわれることがなく、心は自在を得ています。この阿羅漢たちの名をあげましょう。阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅といいます。多くの人々に、善き影響を与えている大いなる阿羅漢たちです。また、学習中の弟子や学習を終えた弟子たちが二千人います。釈尊の育ての母であるマハー・プラジャーパティーが眷属六千人と共におり、釈尊の元妻であり、ラーフラの母であるヤショーダラーも多くの眷属と共にいます。
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声聞衆

阿若喬陳如(あにゃきょうぢんにょ)アージュニャータ・カウンディヌヤ
摩訶迦葉(まかかしょう)マハー・カーシャパ
優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)ウルヴィルヴァー・カーシャパ
伽耶迦葉(がやかしょう)ガヤー・カーシャパ
那提迦葉(なだいかしょう)ナディー・カーシャパ
舎利弗(しゃりほつ)シャーリプトラ
大目健連(だいもつけんれん)マハー・マゥドガリヤーヤナ
摩訶迦旃延(まかかせんねん)マハー・カートゥヤーヤナ
阿㝹樓馱(あぬるだ)アニルッダ
劫賓那(こうひんな)カッピナ
喬梵波提(きょうぼんはだい)ガヴァーン・パティ
離婆多(りはた)レーヴァタ
畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)ピリンダ・ヴァトサ
薄拘羅(はくら)バックラ
摩訶拘チ羅(まかくちら)マハー・カウシュティラ
難陀(なんだ)マハー・ナンダ
孫陀羅難陀(そんだらなんだ)スンダラ・ナンダ
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)プールナ・マイトラーヤニープトラ
須菩提(しゅぼだい)スブーティ
阿難(あなん)アーナンダ
羅侯羅(らごら)ラーフラ

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ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 12:24:43 >> 30

無量義の教えを讃嘆する

爾の時に大荘厳菩薩摩訶薩、復仏に白して言さく。世尊、世尊是の微妙甚深無上大乗無量義経を説きたもう。真実甚深甚深甚深なり。

『無量義の教え』を聞いて心から感動した大荘厳菩薩は、仏さまに感激と御礼を申し上げます。「世尊。よくぞこの奥深い大乗の教えである『無量義経』をお説きくださいました。この教えは誠に絶対真実の教えであり、この上もなく尊く、深遠な教えであります。
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所利益の人を挙げて、能利益の経を讃嘆する

所以は何ん、此の衆の中に於て、諸の菩薩摩訶薩及び諸の四衆・天・龍・鬼神・国王・臣民・諸有の衆生、是の甚深無上大乗無量義経を聞いて、陀羅尼門・三法・四果・菩提の心を獲得せざることなし。当に知るべし、此の法は文理真正なり、尊にして過上なし。三世諸仏の守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなし。一切の邪見生死に壊敗せられず。所以は何ん、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に。

なぜならば、この法を聴聞した出家・在家の修行者をはじめ鬼神、国王やその家来、一般の人々、そして菩薩に至る全ての者たちは、極めて高い信仰の境地を得ることができました。そして、無上の悟りを求める心を起こさない者は一人としていませんでした。この教えは真実であって正しく、これ以上尊いものは他にはありません。そして、過去・現在・未来の三世の諸仏がお守りくださるものであります。そしてどんな妨害や間違った考え、その他の様々な教えも、この教えを侵すことはできません。この教えは一切の誤った考えや、人生途上におけるどんな『出来事』、この世の一切の『変化』にも動揺し、打ち負かされることはありません。なぜなら、この教えをひとたび聞けば、この世のすべての出来事・ありようが完璧に分かり、どんな場合にも正しく対応することがでるようになるからです。
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得分の益を挙げて、未聞の失を示す

若し衆生あって是の経を聞くことを得るは、則ち為れ大利なり。所以は何ん、若し能く修行すれば必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。其れ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失えるなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に。

この教えを聞けば、即座に大きな功徳を得ることができ、教え通り修行すれば、真っすぐに仏の悟りを得ること出来るようになります。反対にこの教えを聞くことが出来ないと、大きな利益を失うことになります。その人は無限の時間をかけても、ついに仏の悟りを得ることは出来ません。そればかりか、人生の大きなまわり道をすることになり、険しい苦難の道をさまようことになります。
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菩薩の発問

世尊、是の経典は不可思議なり。唯願わくは世尊、広く大衆の為に慈哀して是の経の甚深不思議の事を敷演したまえ。世尊、是の経典は何れの所よりか来たり、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住する。乃ち是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしめたもうや。

ですから世尊よ、どうか私たちを憐れとお考えくださり、この奥深い教えが広く人々のなかに留まるよう、この教えの『実践』の面から具体的にお教え下さい。世尊。お伺いしたいことがあります。この教えは一体『どこから来たもの』であり、そして『どこへ向かうための教え』、『何を目的とした教え』でしょうか? また、この教えは『どこに留まるもの』であり、『どのような者が教え理解できるのか』。この三つのことをお教えください。このことを理解できれば、この教えの功徳がどれほど優れているのかが分かりますので、人々は真っ直ぐに最高の悟りを得ることができることでしょう。
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