仏教のお話

Rの会:無量義経 / 64

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ダルマ太郎 2024/04/04 (木) 01:37:04 修正 >> 24

秘密

仏教用語の「秘密」は、サンスクリットのラハシャ rahasya の中国語訳です。秘密・神秘・難解などの意味があります。日本語の秘密とは違い、深い洞察がなければ、あるいは特別な指導や伝授がなければ、すぐには理解できない教えのことです。よって教える人の智力・方便力と教わる人の智力・高い機根がなければ教えの内容はうまく伝わりません。インドの真理は、言語道断・不可思議だといわれます。言語では表すことができないし、思惟することもできないのです。よって真理を覚ろうとする修行者は、ヨーガによって、苦行によって、目的を得ようとしました。
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真理

インドにおける真理とは、梵我一如のことをいいます。宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個の原理であるアートマン(我)は、離れてはおらず一体だと覚ることが重視されました。ブラフマンを観ることは非常に困難ですが、アートマンであれば自身にもありますから、修行者はアートマンを観る瞑想を実践しました。しかし、アートマンを観ることも困難でした。なぜなら、アートマンは、個の原理であり、個の主体であり、個の実体だからです。究極的な主体であるアートマンは客体にはなりませんので、見られたり、認識される側にはなりません。アートマンを探して見つけたと思った瞬間、それは主体へと転じますから、凡夫には永遠に観察は難しいでしょう。客体にはならないので、言葉では表せないし、思惟の対象にもなりません。アートマンとは、仮の名称なので、アートマンという名だけでは何も分かりません。

釈尊は、菩提樹の下で真理を観て、最高の覚りを得ました。アートマンの正体を見極めた釈尊は、「無我」を説きました。無我は、アナートマン anātman の中国語訳で、「アートマンの否定」という意味です。接頭辞の「アン an- 」は、後に続く語を否定します。中国では、無・非・不などと訳されます。よって、無我・非我・不我は同じ意味です。当時の修行は、アートマン探求が目的だったので、釈尊の無我説は衝撃的であり、あまり受け入れられなかったようです。無我が、アートマンの全否定なのか、アートマンへの執着の否定なのか、それはアートマンではない、という意味なのかは分かりません。
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方便

真理は、言葉では伝えることができませんが、言葉によって真理へと近づけることができると、釈尊は覚りました。釈尊にとっての第一の覚りが真理であり、第二の覚りが方便です。方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。意味は、「近づける」であり、仏教では、「真理に近づける方法」の意味で使われます。法華経の方便品第二には、次のように説かれています。

諸仏の随宜の説法は意趣解し難し。所以は何ん、我無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみましまして、乃し能く之を知しめせり。

諸仏の相手に応じて説く教えは、その内容が理解し難いのです。なぜなら、私は、無数の方便、種種の因縁(関係)、譬喩(たとえ)、言辞(語源)によって諸法を演説しています。この法は、思惟・分析によって理解できるものではありません。ただ諸仏だけが、よくこれを知っているのです。

ここでの法は真理のことです。諸仏は、真理へと導くために方便を用いました。それは、因縁・譬喩・言辞によるものです。因縁とは、関係のことです。仏と弟子、弟子同士などの関係を語ることによって、その体験から真理へと導きます。譬喩とは、比喩のことです。物事の説明を印象強くするために、他の類似した物事を借りて表現することです。妙法蓮華経の蓮華とは、白蓮華のことですが、白蓮華は、清浄で美しく尊いもののシンボルなので、妙法(最高の真理)の譬喩として用いられています。言辞とは、語源のことです。言葉の持つ意味は、その語源に込められていますので、語源を伝えることによって真理へと導きます。しかし、漢訳された経典だと語源を探ることは難しいです。サンスクリットの場合は、読めばそれが語源だと分かりますが、漢訳だと分かりません。やはり翻訳だと限界があります。

釈尊が、真理に導くために巧みな方便によって説法をしても、衆生の機根が低く、真理を求める心が足りなければ、衆生は真理を知ることはできません。最高のご馳走でも、口を開けて食べようとしなければ食べられないのと同じです。衆生は、煩悩が強いので智慧を覆い隠してしまい、教えを秘密にしてしまいます。衆生の機根が高まり、真理探究の心が強まれば、繰り返し聞いてきた説法の意味が分かり、閃きが起こって真理への扉が開くのでしょうが、そうなるまで仏は衆生を育てる必要があるのでしょう。
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二諦 俗諦と真諦

釈尊は、覚りをひらいた後、「無我」を説かれました。無我というのは方便です。無我という言葉によって、機根の高い者を真理へと導かれようとされたのでしょう。真理には二種があります。一つは俗諦であり、一つは真諦です。俗諦とは、世俗の真理のことで、世間の言葉によって表現される真理です。真諦とは、言葉を超えた真理であり、言語道断・不可思議の真理です。真諦は、最高の真理であり、妙法蓮華経でいう「妙法」のことです。勝義諦・第一義諦などともいいます。法華経や無量義経は、妙法についての経典なので、非常にレベルが高いです。決して分かりやすい教えではありません。

仏が説きたいのは真諦ですが、真諦は俗世の言葉では説くことができませんから、俗諦を説いて衆生を真諦へと導いていました。たとえば、無我という俗世の言葉を使って、人々を妙法へと導きました。よって修行者は、無我を月をさす指だととらえて、その指がさす月を見ればいいのです。ところが、凡夫は指に執着してしまって月を見ようとはしません。自分で目を覆い、月を秘密にしてしまいます。釈尊は、四十余年の間、方便によって説法を続けてこられましたが、未だに真理を得た者はいません。それは、釈尊に咎があるわけではなく、衆生の機根が育っていなかったからです。

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