仏教のお話

仏教随感 / 2

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ダルマ太郎 2024/04/13 (土) 15:03:44 修正

輪廻について
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「輪廻はあるのか?」という質問は、今でも知恵袋でよく見かけます。「ある」という人と「ない」という人とで、議論が繰り返されています。輪廻肯定派は、仏教経典に書かれていることを根拠にし、輪廻否定派は、無我を説く仏教においては、何が輪廻しているのかが不明だといいます。そもそも死後の世界については、客観的な証拠がありませんから、輪廻の有無を論じること自体がナンセンスだと思うのですが、私見を述べさせていただきます。
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結論から言えば、「輪廻は仮に有り、実体は無い」のだと思います。輪廻が有るという人は、そのことを信じているので、脳に「輪廻は有る」と記憶されているでしょう。しかし、それは概念であって実体はありません。事実ではないのです。実体はありませんが、概念としては有りますので、「無い」とは断言できません。つまり、非有非無の中道です。有るのはなく、無いのではありません。
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輪廻とは、サンスクリット語のサンサーラ saṃsāra の訳です。世俗的な人生、放浪、繰り返す人生などの意味があります。中国では、輪廻というよりも、「生死」と訳すことが多いようです。鳩摩羅什も妙法蓮華経を訳すとき、サンサーラを生死と訳しています。輪廻は、インドの思想であり、中国や日本にはありませんでした。仏教が入ってきて知られるようになりました。死んだらおしまい、というのが本来の日本人の思想です。
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近年、若い人たちも輪廻を信じるようになってきました。テレビで怪しいスピリチャルの人が、「あなたの前世はローマのお姫様です」などといって、生まれ変わりの思想を広めました。また、漫画やアニメを中心に転生ものが人気なので、それに影響を受けた人も多いのでしょう。因果応報などといって、現在不幸なのは、前世での悪業が原因だ、などという説も飛び交っています。今、私が重病なのは過去世の私に原因がある、大怪我をして障害を持ったのは私の業報なのだろう、貧乏なのも、異性にもてないのも、醜い容姿も、頭が悪いのも、すべて私の因果なのだ・・・。反省するのはいいけれど、何の証拠もない過去世のことで自分を責めるのは意味がありません。因果応報を他者に当てはめ、相手の心身環境の苦を前世の結果だといって、蔑む人もいます。

因縁・因果は、あらゆるものと関りを持っていますから、人が考えるほど単純ではありません。ほんの少しタイミングがずれただけで、物事は大きく変わってしまいます。何が因で、何が縁で、何が果で、何が果報なのかは分かりません。自然界の一部を切り取った場合は、因果は理解できます。旗が揺れるのは風が吹いているからだし、煙が立つのは火があるからです。そういう分かりやすい実例を挙げて、釈尊は縁起を説明しました。しかし、すべてのものは、すべてのものと関係がありますから、現実は複雑です。ましてや「報」が入るとお手上げです。報とは業報のことで、行為に依る報いのことです。私たちは、心の行為・口の行為・身体の行為をしています。心の行為とは意志のこと、口の行為とはしゃべること、身体の行為とは動作のことです。

因果応報という言葉は仏教経典にはでてきません。戒律の書で一度だけ使われていますが、一度だけですので、重視されていた言葉だとは思えません。同じような意味の業報はよく使われます。カルマ・パラ karma-phala、カルマ・ヴィパーカ karma-vipākaの訳語です。善悪の行為は、楽苦として、行為者が受け取ることに成ります。

因果応報というと、「バカと言ったらバカと言われた」「人を殴ったら、別の人に殴られた」「騙したら騙された」と言った感じが多いと思います。業報の場合は、そういうピンポイントではありません。「善因善果・善因楽果。悪因悪果・悪因苦果」というものです。「善い心がけは、善い言動となり、善い言動を積めば安楽の境地に入る。悪い心がけは、悪い言動となり、悪い言動を積めば苦の境地に入る」というように、広い意味で考えられます。凡人や子供には、「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」と言って脅しました。この脅しは効果があったようで、インドでは、法律よりも業報論で倫理道徳をしつけたようです。

インドには、カースト制度があり、バラモン教に属している限りは、この制度に縛られていました。バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という階級制度です。この階級は、親の身分を引き継ぎます。バラモンの子はバラモンであり、シュードラの子はシュードラです。どんなに努力精進しようとも、この階級は一生決まっています。他の国であれば、虐げられるシュードラは反乱を起こしそうですが、インドの民衆は業報を信じ切っているために、自分の今の身分は過去の悪業にある、と割り切って静かに暮らしているようです。このように業報は、人生と大きく関わっているため、業報を否定する者はいませんでした。
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釈尊の時代は、輪廻思想が浸透していましたから、釈尊もそれを受け入れて説法に取り入れていたようです。しかし、釈尊が輪廻を肯定していたのかは謎だし、輪廻を否定していたのかも謎です。経典に書いていることをそのまま読めば、輪廻はあるというように思えますが、それは人々を真理に導くための方便である可能性が高いです。
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真理は無相だといわれます。相とは「特徴」のことですから、無相とは、「特徴の否定」です。特徴とは、「他と比べて特に目立ったり、他との区別に役立ったりする点」のことですので、それ自体だけでは特徴はありません。他と比べた時に特徴を表すことができます。この世界のすべてが白色であれば、白色という特徴はありません。赤や黒という他の色があることで、白という特徴を識別できます。人は、それの特徴を観て定義をします。しかし、それには実際は特徴はありませんから、すべての定義は仮であることが分かります。定義がないので、それのことを言葉では表せません。
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仏教では、二つの真理があると説かれます。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗が使う言葉によって表すことができる真理のことです。よって、縁起・無我・無常・空・無相などは言葉で表していますので、これは俗諦です。真諦とは、絶対の真理のことです。言葉では表せず、思惟する対象でもありません。仏が覚っている真理とは真諦です。これを正法・妙法ともいいます。輪廻とは、言葉で表していますから俗諦です。真諦ではありません。よって、俗諦としては輪廻は説かれるけれど、真諦としては、非有非無の中道なのでしょう。
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輪廻肯定派は、経典に輪廻のことが書いてあるのだから、「輪廻は有る」と主張します。経典に書かれていることが本当のことならば、釈尊が生まれてすぐに立ち上がり、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言ったことも本当だというのでしょうか? マーヤ夫人の脇の下から生まれたり、神々や悪魔や龍や妖怪なども実在するというのでしょうか? 経典には、比喩表現・象徴表現が多いので、すべてを本当のことだと受け取ると真意が分からなくなると思います。譬喩は譬喩として読んだほうがいいです。
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輪廻肯定派の多くは、初期仏教の信者でしょう。業・輪廻・解脱というヴェーダの教えを引き継ぎ、根本的な教義にしています。善悪の業によって、楽果という果報を受け、それによって輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積まなければならないという教えです。大乗仏教では、空の理によって輪廻は有るのではなく、無いのではないと説かれるようになっています。初期仏教は俗諦であり、大乗仏教は真諦なのでしょう。
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