仏教のお話

仏教随感 / 4

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ダルマ太郎 2024/04/15 (月) 21:11:25

龍樹の中論について
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空は、龍樹によって論じられ、そのおかげで多くの仏教者が空の理を知ることになりました。『中論』という論書によって、空は広く知られるようになりました。現在でも、大乗仏教者にとっては、入門の書として親しまれています。私も何度も読み、色んな解釈本を手掛かりにしましたが、中論もかなり難しいです。中論には、最初に次のような偈があります。
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帰敬序
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不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一

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不生亦た不滅 不常亦た不断
不一亦た不異 不来亦た不出
能く是の因縁を説き 善く諸の戯論を滅す
我れは稽首して仏を礼す 諸説中の第一なりと

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生ぜず 滅せず 
常でなく 断たれることなく
同一でなく 異なることなく 
来ることなく 出ることのない
様々な言語的思想の消滅という
めでたい「縁起の理法」を
お説きになられた仏を
あらゆる説法者の中で最も
優れた方として敬意を表し
礼をいたします

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中論の解釈をした青目(ピンガラ)は、この偈について次のように解釈しています。
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所謂一切法の不生、不滅、不一、不異等の畢竟じて空、無所有なるを説きたまえり。般若波羅蜜中に説くが如し、仏は須菩提に告げたまわく、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と。仏の滅度の後、後の五百歳の像法中に、人根転た鈍たり、深く諸法に著して、十二因縁、五陰、十二入、十八界等に決定相を求め、仏意を知らずして、但だ文字のみに著す。大乗法中に畢竟空を説くを聞きても、何の因縁の故に空なるかを知らず、即ち疑見を生ずらく、「若し都て畢竟じて空ならば、云何が罪福の報応等有るを分別せん」と。是の如きには則ち世諦と、第一義諦と無く、是の空相を取りて而も貪著を起し、畢竟空の中に種種の過を生ず。龍樹菩薩は、是れ等の為の故に、此の中論を造る。
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生じる・滅じないと観るのは、そのような観念が私たちにあるからです。空においては、不生・不滅です。生じることなく、滅することはありません。仏は、「菩薩は道場に坐する時、十二因縁を観ずるに、虚空の如くして尽くすべからず」と説いたと言います。ともすれば、私たちは、十二因縁の一つ一つの言葉にとらわれてしまいがちですが、「言葉には執着せず、そのことが導く真理を観なさい」ということでしょう。言葉は所詮人が作ったものですから、そこには真理はありません。真理を感得したいのなら、瞑想をし、教えを思惟し、智慧によるしかありません。仏が亡くなって五百年もすれば、修行者は、義を見ずに言葉を見るようになりました。十二因縁、五陰、十二入、十八界等の言葉の定義を決めることに一生懸命になり、仏意を知ろうとせず、ただ文字のみに執着しています。文字・言葉に意味はないので、そのことを「空」という言葉で説いても、なぜ空を説くのかを考えもせず、疑って、「もし、すべてが空ならば、罪や福の業報を分けて説くのだ?」と。これらの人々は、世諦(俗諦)と第一義諦(真諦)を知らず、空の特徴をみて、執着を起し、空の義を誤ってしまいます。龍樹菩薩は、これらの為に中論を造ったのです。
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このように、空を知るためには、言葉への信頼を捨てる必要があります。言葉に頼れば、名のあるものは実体が有るとみるようになりますから、空の理を知るためには、「言葉への不信」は重要です。日本では、言霊を信じる傾向が強いのですが、インドの思想である空を学ぶためには、言葉は人が作った道具なのだと認識するほうがいいです。
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龍樹の中論について
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