ひとりでやっているのが前提の話だが、「リンクされていること」を強調したければ元コメントを編集してアンカーをつけてしまうという手もあるな。
>> 30は>> 29を踏まえて書いたわけだが、>> 30を>> 29のツリーにする必要はあったか?ということを考えてみる。
別にツリーでも問題はないので「ツリーにすべきではなかった」という話ではない。「ツリーにした方が嬉しいのか」ということをちょっと考える。
一時期GitHub Issuesを普段の生活に取り入れていたのも、コメントの積み重ねという形式が、「その時点のまとめ」を作りやすく感じていたことによる。 同じように、「この時点」を積み重ねるように考えていこう。
あんまり芋づる式に引っ張り出せることを前提としない方が良いな。それは他のツールでやればいいことだ。 それより、Markdownを使えるのだし上部に欄があるのだし、ちょくちょくまとめ直しをするのが大事かもしれない。
ツリー構造が2階層まで(コメント→反応→コメ主の返答、を想定?)と気づいた。 まあアウトライナーじゃないのだしあんまり複雑になってもよくないので深く出来ないのはおかしいことじゃない。
バックリンクって別にそんな「必須」のものじゃないのに、バックリンクがフォローされているという様子を「良い」と思いすぎて、無い時に「無いのか~」と過剰に嘆いてしまっている感じがある。
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。 接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
ゲームとか音楽とか、昔好きだったものを今でも好きだと信じたい気持ちがある。それで、同じタイプのものをやったり聞いたりした時に「それほどでもない」感じがすると、「いやそんなはずは」と思ってしまう。 熱量が失われた、という引き算のショックを感じるのだろう。 それと同じかそれ以上に何か新しいものが加わっていると思うのだが、そのことに自覚的でないと「どんどん色褪せていく」という喪失感に襲われる。 もっとも鮮やかなのが思春期で、そこから色が抜けていくばかりのような気になる。でも、別にそうではないと思う。「変わった」だけで、「減った」のではないのだろう。
いずれにしても「ツリーにする」という形にしないとリンクされていることはわからない。 まあ、そんなに気にしなくてもいいかもしれないけど…。
あとは埋め込むという手がある。 「外部コンテンツ埋め込み」を選択してコメントのURLを貼る。
内容欄にもアンカーを使えるようだ。トピック内ならURLや本文をペーストする必要もないということだし、情報の取り回しとしてかなり良い感じな気がする。
ツリー構造が便利な一方で、アンカーを使った言及の仕方はあまり有効じゃないという感じかな。 うーん、微妙に痒いところに手が届かないポイントかもしれない。
他のコメントにリンクするには、「+」マークからツリーを作るか、「>>1」という形でアンカーをつけるかの二通りがある。 zawazawaだとツリー表示は「+」マークでツリー構造を作ったときだけ反映される。 アンカーをつけるとそこがリンクになってクリックすればリンク先が表示されるが、リンクされた側にはリンクされていることを示す情報は加わらないっぽい。
>>1
なんか目が痛くてしんどい一日だった。 すごい痛いというわけじゃないけどストレスは小さくない感じ。
一人で使っているScrapboxに何か書く時、Wikiをイメージして「最新版の、いい感じの情報がまとまっている状態」を理想的だと思ってやっている。
で、「いい感じ」になる前の紆余曲折というのがしばしば発生するけど、それがごちゃごちゃ混ざっていると結局何がなんだかわからなくなるので、最終的に「ここを読め」的な場所を冒頭とかに作ることになる。
そして紆余曲折には「少しずつ路線が変わっていく」という場合もあれば、根底から考え直すということもある。アウトラインを仕切り直すというのがよく発生する。
そういう一連を全部書いていいのがScrapboxの良いところだと思う。混ぜたければ混ぜるし、分けたければ分けてもいい。ページを改めるのもありだ。
一方で、Wikiの「最新版+議論場(コメント欄)」という組み立ての「うまさ」も今実感している。 過去に見ていたWikiはどこも「これ追加しといて」「ここ違ってますよ」系のコメントが多かったのであれだが、多分Wikipediaなんかは普段目に入らないところで結構議論されているのだろうし、見える部分は常に結論の最新版が整えられた状態なわけである(そもそも議論が発生していないページももちろんあるけども)。
編集履歴が「版」として各段階できちんと残っているので、「削除」を躊躇わずに済む。自動で記録されるとタイミングがよくわからないし、各「版」に説明をつけられることも結構大事だと感じる。
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。 情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
アクティブなファイルが変わった時 vscode.window.onDidChangeActiveTextEditor(handler)
vscode.window.onDidChangeActiveTextEditor(handler)
アクティブなファイルの内容が変わった時(でいいのか?) vscode.window.onDidChangeTextEditorVisibleRanges(handler)
vscode.window.onDidChangeTextEditorVisibleRanges(handler)
少し前から諸事情によりしばらくの間マウスを使いにくい環境になってしまって、作業効率が著しく落ちている。 文章はそんなに影響ないんだけどプログラミングがやりにくい…。 あまり「全てキーボードで完結!」みたいなことやっていないからマウスの有無の影響が大きい。
このラッパーを使ってファイルピッカー?を作る
function showFilePicker(root: string, defaultValue: string, query: string) { const selectHandler = (quickPick: vscode.QuickPick<vscode.QuickPickItem>) => { const selected = quickPick.selectedItems[0].label; const path = vscode.Uri.parse(root + encodeURI(selected)); vscode.workspace.openTextDocument(path) .then(doc => vscode.window.showTextDocument(doc)); quickPick.hide(); }; vscode.workspace.findFiles(query) .then(urls => { return urls.map(url => decodeURI(url.toString().replace(root, ''))); }) .then(map => { const items = map.map(url => { return { label: url }; }); const quickPick = createQuickPick(items, selectHandler, defaultValue); quickPick.show(); }); }
簡単なラッパーを作ってみる
function createQuickPick(items: vscode.QuickPickItem[], selectHandler: (quickPick: vscode.QuickPick<vscode.QuickPickItem>) => void, defaultValue: string) { const quickPick = vscode.window.createQuickPick(); quickPick.items = items; quickPick.value = defaultValue; quickPick.onDidAccept(() => selectHandler(quickPick)); return quickPick; }
QuickPickには色々メソッドやプロパティがあるのでこれでは不十分だが、とりあえず練習として。
Quick Picks | Visual Studio Code Extension API VS Code API | Visual Studio Code Extension API QuickPickの項
普通のInformationメッセージにa,b,cの三択をくっつける
vscode.window.showInformationMessage('Hello World!', 'a', 'b', 'c') .then((select) => { if(select) vscode.window.showInformationMessage(select); });
Web記事感想
断片ごとにコメント分けたら良さそうと思ってそうしたけど、それより1記事1コメントにして内容の塊ごとに折りたたみで書いた方がいいかな…。 1コメントの文字数に制限がなければその方が…?
うーん、でも後から書き加えたい時に微妙か…。 断片ごとにコメントは分けて、各コメント内に折りたたみを使ったら良いか?
(坂本)だけど音楽とか映画とか、そういうメディアは時間がもう向こうから押しつけられちゃうのでむずかしいですよね。でも、音楽にも譜面というものがあります。それで譜面はやっぱり本とおなじで、自分の意思で読む速度を変えられるんですよ。楽譜の速読ができるんです。その音楽の持つ本来のスピードの、4、5倍のはやさでいける。
本以上に苦手なのが映画なんだけどまさにこのことによって苦手に感じている。時間の流れを乗っ取られたくないという気持ちがある。 実際に見始めれば事前に感じていた程の不快感は見ている間にはないのだけど(ゼロにはならない)、事前の拒否感がありすぎて「見始める」までのハードルが高い。 音楽も「ただ聴く」ってできなくて、常にBGMにしている。音楽に対して集中することはなく、BGMとして繰り返し聞く中で全体像を把握していっている感じがする。
逆に、本を読んでいる時に時間の流れを乗っ取らせなさすぎて、多動性的なものが発動して読むのをやめてしまう。 でも本に関しては折り合いをつける余地があると思う。そもそも本の流れにそのまま沿わなくていいのだから、もっと横暴に読んでしまえばいいのだと思う。内容を蔑ろにするというのではなく、自分の時間の流れに合わせて自分仕様の読み方をした結果、最終的に内容を取り込んだ状態になるようにする、という話。つまり自分の音楽の聞き方と同じようにすればいいのかも。
もしや、立って読めばいいのでは? 物理的に「立ち読み」にする。 座ってはならぬ、くらいの気持ちで立ったまま読む。「座らせてくれ!」という気持ちになったら座って読む。そのくらいの気持ちになったらそのまま読み続けられるだろう。
坂本:ええ。どこを読んでもいいんです。だから本ってメディアとしてはひじょうにすばらしい。 ――人の身体に負担のすくないメディアですよね。 坂本:そうなんです。どこにアクセスしてもいいし、飛ばしてもいいし、ほんとうによくできているなと思います。どう読むか、こっちの時間で主体的に決められるわけですから。
坂本:ええ。どこを読んでもいいんです。だから本ってメディアとしてはひじょうにすばらしい。
――人の身体に負担のすくないメディアですよね。
坂本:そうなんです。どこにアクセスしてもいいし、飛ばしてもいいし、ほんとうによくできているなと思います。どう読むか、こっちの時間で主体的に決められるわけですから。
「人の身体に負担のすくないメディア」という表現が良い。 うーん、多分私は、折角「負担のすくないメディア」であるところの本をわざわざ負担に感じるように読もうとしているのだなと思う。律儀に読もうとしてしまうというか。未だに「本というものは最初から読まなきゃいけない」と思っているわけではないのだが、その認識を捨てたからと言って「(自分に良いように)雑に読む」ということができるわけではない。 全ての本を「立ち読みのように読む」という気でいた方がいいのかも。別にそれは「読み捨てている」ということにはならないのだし、繰り返し立ち読みすればいい。
坂本:ええ。80歳じゃなくて、最近90歳に設定しなおしました。90歳まではとにかく生きて、読みたいものは読むというのがいちおう人生の目標なんです。だから仕事なんかしている暇はないんです、ほんとうは。
悲しい。 「後悔」はないとしても、あと二十年欲しかっただろうな。
坂本:もともとアメリカ人の気質としては、国というのはちいさくていい、みんなばらばら、州単位でいい、という感じなんです。ふだんは「お国のために」なんて考えない。ましてや遠いヨーロッパ大陸とか、世界のほかの国のことなんか知ったこっちゃない、というのがアメリカ人なんですが、ときどきぐっと団結するんですよ。それが米西戦争、ベトナム戦争、そして9.11。そのうちふたつはアメリカ政府の自作自演ではじまっている。 だからといって9.11も自作自演だとはいえませんけれど、一晩にして、ニューヨークというアメリカのなかで一、二を争うリベラルな街の人たちがぐっと愛国主義に傾いた。こわかったです。
坂本:ナチスも1939年のポーランド侵攻をきっかけに戦争をはじめるわけですけど、その名目はポーランドにいる自国民を救うため、ということだったんですよ。「自分たちの仲間があぶない目に遭っているからそれを救いだしにいくんだ」といって攻めいった。 大義名分というのはかならずそうなんです。なにか犠牲があって、わっと集まる。このあいだのボストンマラソンのテロ(2013年4月16日)もほんとうに不可解で目的もよくわかりませんが、結果的にあれのせいでアメリカ人の4割が「公民権が多少制限されてでもテロ対策をしてもらったほうがいい」と答えているんです。あの個人主義のアメリカ人が、ですよ。だからほんとうにきくんですよね、ああいうのって。統治する側からいえば、ああいうできごとがちょっとあると。
日本でもテロが「本当に起こること」になりつつあるが、先日の岸田首相を襲った件に対する反応を見ても本当に危ういと感じる。 秘密にするのは簡単だが、クリアにするのは難しい。「ちょうどよい秘密さ」なんてものはなく、秘密にしていいとなったら果てしなく秘密にされる。 統治者という存在の恐ろしさを日本はよく知っているはずなのに、一件二件のショッキングな出来事でワーッとなってしまうのは、戦争のことをもうほとんど忘れてしまったということかなと思う。
坂本:そう。まだ子どもがちいさかったころ、たとえば「勉強用のプレイリストをつくってよ」とか頼まれるわけ。 ――勉強がはかどる曲、みたいなテーマで選ぶんですか。 坂本:うん。それからだんだん、「クラシックをもう少し知りたいから、なに聴けばいいかちょっと選んで」とか、「ベースをはじめたから、マストで聴いておいたほうがいい古今東西のベースのいい曲を集めてよ」とか。そのときどきで「はい、はい」って僕が曲を選んでプレイリストをつくるわけです(笑)。
坂本:そう。まだ子どもがちいさかったころ、たとえば「勉強用のプレイリストをつくってよ」とか頼まれるわけ。
――勉強がはかどる曲、みたいなテーマで選ぶんですか。
坂本:うん。それからだんだん、「クラシックをもう少し知りたいから、なに聴けばいいかちょっと選んで」とか、「ベースをはじめたから、マストで聴いておいたほうがいい古今東西のベースのいい曲を集めてよ」とか。そのときどきで「はい、はい」って僕が曲を選んでプレイリストをつくるわけです(笑)。
親が坂本龍一という環境、強い。 なんだか最近、「プレイリストを作る」ということをしなくなったなあ。というか、そもそも音楽を聞かなくなっている。十代の頃は「聞いてちゃ駄目な時間以外何かしら聞いている」というくらい聞いていたのに、今は聞こうと思った時以外聞いていない。新しい音楽を知ろうという気持ちもかなり薄まっている。 聴覚が塞がっているとまずいという生活がちょっと続いていたこともあって、「聞く」というのが縁遠くなってしまった。 シチュエーションに合わせて音楽を構成する、というのは多分すごく「豊か」なことで、取り戻した方が良い習慣だなと思う。
坂本:この言葉、ほんとうに嫌いなんですけど、(バッハの曲を聴くと)まさに「音楽に救われる」という感じがするんですよ。癒される、慰められる思いがします。子どものころ、ケガをして痛かったときに、母がこうやって手をあててくれた(話しながら自身の左手を右腕にあてる)、そんな感覚と似ています。
坂本:僕にとって音楽による慰めっていうのは、そういう感じのものなんです。「お母さんの手」のようなもの。なにも音楽のすべてがそうだというわけじゃなくて、なかでも特別な曲がある。バッハの「無伴奏チェロ組曲」とか。そういう意味では、「癒し」という言葉は嫌いだけれど、僕もやっぱり音楽に慰められているんですよね。
音楽の中でも、言葉を乗せて直に精神に触れてくるような歌と言葉のない曲とあるけども、歌もいいけどインストゥルメンタルの寄り添い方はより深い慰めを感じる。 個人的には、歌と一緒に沈めるところまで沈んで、インストゥルメンタルと一緒にゆっくり浮き上がってくる、という慰め方をそれぞれに感じる。その意味で、応援歌よりは悲劇をそのまま歌った歌の方が「効く」。 言葉があるとその言葉に関する自分の心情を整理することを積極的に求められている感じがどうしてもしてしまうけど、言葉のない音楽は自分自身がゆっくりながらも能動的に心情を整理することを支えてくれるという感じがする。
2023.04.07 特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂 聞き手:もんじゅ君 インタビューは2013年のもの。
TwitterをTogetterとかmin.tにまとめるということをする時、Twitterからツイートを拾ってこなきゃいけないし、そこで拾わなかったツイートはそのまとめからは確認できない。 でもここは、テーマに関するコメントが全部下に連なっている状態で「まとめ」となるものを作ることができる。
コメント欄はTwitter同様にどんどん流れていくけど、しっかり編集できる内容欄があることで(一応Wikiなので)、トピックページを「育てる」ことができる。 手間をどれだけかけられるかはまあわからないけど、「流れっぱなしにせずに済む方法がある」と思って使えるのはかなりありがたいことだ。
色々な考え・感想が各トピックで生じるわけだけど、そのまとめとして上部の内容欄を使ってもいいし、何番で何を話していたかをインデックスにするというのもアリだ。
一方で、やっぱり私たちはもう一度RSSなる文化に回帰することも検討したいところです。自分がチェックしている情報を自動的に収集してくれる夢のようなツール。自分が好ましく感じる情報源だけを集めた領域。それは永田希さんが『積読こそが完全な読書術である』の中で提示された自分なりのビオトープ作りとも関わってくるでしょう。そういう情報源を構築しておくことは、効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます(それくらいに荒れた場所になりつつあるのが近年のSNSです)。
「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。 視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。
現状プラットフォームが提供するタイムラインは、基本的にそのプラットフォームのためのものであって、わざわざフィードを吐いてくれる仕様にはしないでしょう。何かしらのハックでそれが可能になっても、いつプラットフォーム側がその窓を閉じるのかはわかりません。不安定きわまりない状態です。
こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。 統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。
お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。 単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。 「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。 でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
タイムラインとフィード | R-style
Metaslip これを書いてて、こういうのはScrapbox(Noratetsu Lab Dict.)の方が良いようなと思ったけど、ツール紹介とは関係ない話を書きたいこともあるのでここにトピックを作るのを控える必要はないなと思った。 というか、Noratetsu Lab Dict.はどちらかというと人のため、ここはどちらかというと自分のため、という感じで考えれば良いな。
ひとりでやっているのが前提の話だが、「リンクされていること」を強調したければ元コメントを編集してアンカーをつけてしまうという手もあるな。
>> 30は>> 29を踏まえて書いたわけだが、>> 30を>> 29のツリーにする必要はあったか?ということを考えてみる。
別にツリーでも問題はないので「ツリーにすべきではなかった」という話ではない。「ツリーにした方が嬉しいのか」ということをちょっと考える。
一時期GitHub Issuesを普段の生活に取り入れていたのも、コメントの積み重ねという形式が、「その時点のまとめ」を作りやすく感じていたことによる。
同じように、「この時点」を積み重ねるように考えていこう。
あんまり芋づる式に引っ張り出せることを前提としない方が良いな。それは他のツールでやればいいことだ。
それより、Markdownを使えるのだし上部に欄があるのだし、ちょくちょくまとめ直しをするのが大事かもしれない。
ツリー構造が2階層まで(コメント→反応→コメ主の返答、を想定?)と気づいた。
まあアウトライナーじゃないのだしあんまり複雑になってもよくないので深く出来ないのはおかしいことじゃない。
バックリンクって別にそんな「必須」のものじゃないのに、バックリンクがフォローされているという様子を「良い」と思いすぎて、無い時に「無いのか~」と過剰に嘆いてしまっている感じがある。
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。
接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
ゲームとか音楽とか、昔好きだったものを今でも好きだと信じたい気持ちがある。それで、同じタイプのものをやったり聞いたりした時に「それほどでもない」感じがすると、「いやそんなはずは」と思ってしまう。
熱量が失われた、という引き算のショックを感じるのだろう。
それと同じかそれ以上に何か新しいものが加わっていると思うのだが、そのことに自覚的でないと「どんどん色褪せていく」という喪失感に襲われる。
もっとも鮮やかなのが思春期で、そこから色が抜けていくばかりのような気になる。でも、別にそうではないと思う。「変わった」だけで、「減った」のではないのだろう。
いずれにしても「ツリーにする」という形にしないとリンクされていることはわからない。
まあ、そんなに気にしなくてもいいかもしれないけど…。
あとは埋め込むという手がある。
「外部コンテンツ埋め込み」を選択してコメントのURLを貼る。
内容欄にもアンカーを使えるようだ。トピック内ならURLや本文をペーストする必要もないということだし、情報の取り回しとしてかなり良い感じな気がする。
場所を取らないように本文が短いコメントを選んだが、長文になっても全文表示できる。
他のトピックのコメントを貼るのもやりやすい。
ツリー構造が便利な一方で、アンカーを使った言及の仕方はあまり有効じゃないという感じかな。
うーん、微妙に痒いところに手が届かないポイントかもしれない。
他のコメントにリンクするには、「+」マークからツリーを作るか、「
>>1
」という形でアンカーをつけるかの二通りがある。zawazawaだとツリー表示は「+」マークでツリー構造を作ったときだけ反映される。
アンカーをつけるとそこがリンクになってクリックすればリンク先が表示されるが、リンクされた側にはリンクされていることを示す情報は加わらないっぽい。
なんか目が痛くてしんどい一日だった。
すごい痛いというわけじゃないけどストレスは小さくない感じ。
一人で使っているScrapboxに何か書く時、Wikiをイメージして「最新版の、いい感じの情報がまとまっている状態」を理想的だと思ってやっている。
で、「いい感じ」になる前の紆余曲折というのがしばしば発生するけど、それがごちゃごちゃ混ざっていると結局何がなんだかわからなくなるので、最終的に「ここを読め」的な場所を冒頭とかに作ることになる。
そして紆余曲折には「少しずつ路線が変わっていく」という場合もあれば、根底から考え直すということもある。アウトラインを仕切り直すというのがよく発生する。
そういう一連を全部書いていいのがScrapboxの良いところだと思う。混ぜたければ混ぜるし、分けたければ分けてもいい。ページを改めるのもありだ。
一方で、Wikiの「最新版+議論場(コメント欄)」という組み立ての「うまさ」も今実感している。
過去に見ていたWikiはどこも「これ追加しといて」「ここ違ってますよ」系のコメントが多かったのであれだが、多分Wikipediaなんかは普段目に入らないところで結構議論されているのだろうし、見える部分は常に結論の最新版が整えられた状態なわけである(そもそも議論が発生していないページももちろんあるけども)。
編集履歴が「版」として各段階できちんと残っているので、「削除」を躊躇わずに済む。自動で記録されるとタイミングがよくわからないし、各「版」に説明をつけられることも結構大事だと感じる。
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。
情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
アクティブファイルの変更時に実行
アクティブなファイルが変わった時
vscode.window.onDidChangeActiveTextEditor(handler)
アクティブなファイルの内容が変わった時(でいいのか?)
vscode.window.onDidChangeTextEditorVisibleRanges(handler)
少し前から諸事情によりしばらくの間マウスを使いにくい環境になってしまって、作業効率が著しく落ちている。
文章はそんなに影響ないんだけどプログラミングがやりにくい…。
あまり「全てキーボードで完結!」みたいなことやっていないからマウスの有無の影響が大きい。
このラッパーを使ってファイルピッカー?を作る
簡単なラッパーを作ってみる
QuickPickには色々メソッドやプロパティがあるのでこれでは不十分だが、とりあえず練習として。
QuickPick
Quick Picks | Visual Studio Code Extension API
VS Code API | Visual Studio Code Extension API QuickPickの項
選択肢を出すには
普通のInformationメッセージにa,b,cの三択をくっつける
Web記事感想
断片ごとにコメント分けたら良さそうと思ってそうしたけど、それより1記事1コメントにして内容の塊ごとに折りたたみで書いた方がいいかな…。
1コメントの文字数に制限がなければその方が…?
うーん、でも後から書き加えたい時に微妙か…。
断片ごとにコメントは分けて、各コメント内に折りたたみを使ったら良いか?
本以上に苦手なのが映画なんだけどまさにこのことによって苦手に感じている。時間の流れを乗っ取られたくないという気持ちがある。
実際に見始めれば事前に感じていた程の不快感は見ている間にはないのだけど(ゼロにはならない)、事前の拒否感がありすぎて「見始める」までのハードルが高い。
音楽も「ただ聴く」ってできなくて、常にBGMにしている。音楽に対して集中することはなく、BGMとして繰り返し聞く中で全体像を把握していっている感じがする。
逆に、本を読んでいる時に時間の流れを乗っ取らせなさすぎて、多動性的なものが発動して読むのをやめてしまう。
でも本に関しては折り合いをつける余地があると思う。そもそも本の流れにそのまま沿わなくていいのだから、もっと横暴に読んでしまえばいいのだと思う。内容を蔑ろにするというのではなく、自分の時間の流れに合わせて自分仕様の読み方をした結果、最終的に内容を取り込んだ状態になるようにする、という話。つまり自分の音楽の聞き方と同じようにすればいいのかも。
もしや、立って読めばいいのでは? 物理的に「立ち読み」にする。
座ってはならぬ、くらいの気持ちで立ったまま読む。「座らせてくれ!」という気持ちになったら座って読む。そのくらいの気持ちになったらそのまま読み続けられるだろう。
「人の身体に負担のすくないメディア」という表現が良い。
うーん、多分私は、折角「負担のすくないメディア」であるところの本をわざわざ負担に感じるように読もうとしているのだなと思う。律儀に読もうとしてしまうというか。未だに「本というものは最初から読まなきゃいけない」と思っているわけではないのだが、その認識を捨てたからと言って「(自分に良いように)雑に読む」ということができるわけではない。
全ての本を「立ち読みのように読む」という気でいた方がいいのかも。別にそれは「読み捨てている」ということにはならないのだし、繰り返し立ち読みすればいい。
悲しい。
「後悔」はないとしても、あと二十年欲しかっただろうな。
日本でもテロが「本当に起こること」になりつつあるが、先日の岸田首相を襲った件に対する反応を見ても本当に危ういと感じる。
秘密にするのは簡単だが、クリアにするのは難しい。「ちょうどよい秘密さ」なんてものはなく、秘密にしていいとなったら果てしなく秘密にされる。
統治者という存在の恐ろしさを日本はよく知っているはずなのに、一件二件のショッキングな出来事でワーッとなってしまうのは、戦争のことをもうほとんど忘れてしまったということかなと思う。
親が坂本龍一という環境、強い。
なんだか最近、「プレイリストを作る」ということをしなくなったなあ。というか、そもそも音楽を聞かなくなっている。十代の頃は「聞いてちゃ駄目な時間以外何かしら聞いている」というくらい聞いていたのに、今は聞こうと思った時以外聞いていない。新しい音楽を知ろうという気持ちもかなり薄まっている。
聴覚が塞がっているとまずいという生活がちょっと続いていたこともあって、「聞く」というのが縁遠くなってしまった。
シチュエーションに合わせて音楽を構成する、というのは多分すごく「豊か」なことで、取り戻した方が良い習慣だなと思う。
音楽の中でも、言葉を乗せて直に精神に触れてくるような歌と言葉のない曲とあるけども、歌もいいけどインストゥルメンタルの寄り添い方はより深い慰めを感じる。
個人的には、歌と一緒に沈めるところまで沈んで、インストゥルメンタルと一緒にゆっくり浮き上がってくる、という慰め方をそれぞれに感じる。その意味で、応援歌よりは悲劇をそのまま歌った歌の方が「効く」。
言葉があるとその言葉に関する自分の心情を整理することを積極的に求められている感じがどうしてもしてしまうけど、言葉のない音楽は自分自身がゆっくりながらも能動的に心情を整理することを支えてくれるという感じがする。
2023.04.07
特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂
聞き手:もんじゅ君
インタビューは2013年のもの。
内容欄にもアンカーを使えるようだ。トピック内ならURLや本文をペーストする必要もないということだし、情報の取り回しとしてかなり良い感じな気がする。
TwitterをTogetterとかmin.tにまとめるということをする時、Twitterからツイートを拾ってこなきゃいけないし、そこで拾わなかったツイートはそのまとめからは確認できない。
でもここは、テーマに関するコメントが全部下に連なっている状態で「まとめ」となるものを作ることができる。
コメント欄はTwitter同様にどんどん流れていくけど、しっかり編集できる内容欄があることで(一応Wikiなので)、トピックページを「育てる」ことができる。
手間をどれだけかけられるかはまあわからないけど、「流れっぱなしにせずに済む方法がある」と思って使えるのはかなりありがたいことだ。
色々な考え・感想が各トピックで生じるわけだけど、そのまとめとして上部の内容欄を使ってもいいし、何番で何を話していたかをインデックスにするというのもアリだ。
「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。
視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。
こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。
統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
タイムラインとフィード | R-style
Metaslip
これを書いてて、こういうのはScrapbox(Noratetsu Lab Dict.)の方が良いようなと思ったけど、ツール紹介とは関係ない話を書きたいこともあるのでここにトピックを作るのを控える必要はないなと思った。
というか、Noratetsu Lab Dict.はどちらかというと人のため、ここはどちらかというと自分のため、という感じで考えれば良いな。