2023.04.07
特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂
聞き手:もんじゅ君
インタビューは2013年のもの。
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2023.04.07
特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」|じんぶん堂
聞き手:もんじゅ君
インタビューは2013年のもの。
音楽の中でも、言葉を乗せて直に精神に触れてくるような歌と言葉のない曲とあるけども、歌もいいけどインストゥルメンタルの寄り添い方はより深い慰めを感じる。
個人的には、歌と一緒に沈めるところまで沈んで、インストゥルメンタルと一緒にゆっくり浮き上がってくる、という慰め方をそれぞれに感じる。その意味で、応援歌よりは悲劇をそのまま歌った歌の方が「効く」。
言葉があるとその言葉に関する自分の心情を整理することを積極的に求められている感じがどうしてもしてしまうけど、言葉のない音楽は自分自身がゆっくりながらも能動的に心情を整理することを支えてくれるという感じがする。
親が坂本龍一という環境、強い。
なんだか最近、「プレイリストを作る」ということをしなくなったなあ。というか、そもそも音楽を聞かなくなっている。十代の頃は「聞いてちゃ駄目な時間以外何かしら聞いている」というくらい聞いていたのに、今は聞こうと思った時以外聞いていない。新しい音楽を知ろうという気持ちもかなり薄まっている。
聴覚が塞がっているとまずいという生活がちょっと続いていたこともあって、「聞く」というのが縁遠くなってしまった。
シチュエーションに合わせて音楽を構成する、というのは多分すごく「豊か」なことで、取り戻した方が良い習慣だなと思う。
日本でもテロが「本当に起こること」になりつつあるが、先日の岸田首相を襲った件に対する反応を見ても本当に危ういと感じる。
秘密にするのは簡単だが、クリアにするのは難しい。「ちょうどよい秘密さ」なんてものはなく、秘密にしていいとなったら果てしなく秘密にされる。
統治者という存在の恐ろしさを日本はよく知っているはずなのに、一件二件のショッキングな出来事でワーッとなってしまうのは、戦争のことをもうほとんど忘れてしまったということかなと思う。
悲しい。
「後悔」はないとしても、あと二十年欲しかっただろうな。
「人の身体に負担のすくないメディア」という表現が良い。
うーん、多分私は、折角「負担のすくないメディア」であるところの本をわざわざ負担に感じるように読もうとしているのだなと思う。律儀に読もうとしてしまうというか。未だに「本というものは最初から読まなきゃいけない」と思っているわけではないのだが、その認識を捨てたからと言って「(自分に良いように)雑に読む」ということができるわけではない。
全ての本を「立ち読みのように読む」という気でいた方がいいのかも。別にそれは「読み捨てている」ということにはならないのだし、繰り返し立ち読みすればいい。
もしや、立って読めばいいのでは? 物理的に「立ち読み」にする。
座ってはならぬ、くらいの気持ちで立ったまま読む。「座らせてくれ!」という気持ちになったら座って読む。そのくらいの気持ちになったらそのまま読み続けられるだろう。
本以上に苦手なのが映画なんだけどまさにこのことによって苦手に感じている。時間の流れを乗っ取られたくないという気持ちがある。
実際に見始めれば事前に感じていた程の不快感は見ている間にはないのだけど(ゼロにはならない)、事前の拒否感がありすぎて「見始める」までのハードルが高い。
音楽も「ただ聴く」ってできなくて、常にBGMにしている。音楽に対して集中することはなく、BGMとして繰り返し聞く中で全体像を把握していっている感じがする。
逆に、本を読んでいる時に時間の流れを乗っ取らせなさすぎて、多動性的なものが発動して読むのをやめてしまう。
でも本に関しては折り合いをつける余地があると思う。そもそも本の流れにそのまま沿わなくていいのだから、もっと横暴に読んでしまえばいいのだと思う。内容を蔑ろにするというのではなく、自分の時間の流れに合わせて自分仕様の読み方をした結果、最終的に内容を取り込んだ状態になるようにする、という話。つまり自分の音楽の聞き方と同じようにすればいいのかも。